江戸にある大名や旗本、御家人の武家屋敷は、あくまで幕府から借りているという建前で、売ったり買ったりすることは、禁じられていました。
「拝領屋敷」と呼ばれ、将軍から預かっているということで所有権はなく、使用権を認められているにすぎません。
つまり、借地であり、借家なのです。
江戸の大名屋敷の分布図
丸の内界隈に上屋敷、赤い点が下屋敷の分布 日本橋を中心に町屋が左右、上下に伸び
茶色には寺社の広大な境内が広がっています。
ここでは、江戸における大名屋敷について述べます。
あの忠臣蔵の浅野家断絶となり、即日、上、中、下屋敷とも返さなくてはならなくなりました。
使用権も消滅し屋敷は返還したのですが、自費で調達した襖、障子から庭木、庭石に至るまで撤去しなくてはならなかったようです。
大名には、江戸幕府により、江戸城付近から郊外にかけて複数の屋敷用地が与えられた。
江戸城からの距離により、上屋敷、中屋敷、下屋敷などがあり、これを総称して江戸藩邸と言います。
全ての大名が上、中、下の屋敷を有していたわけではなく、中屋敷を持たない藩や複数の下屋敷を有する藩など様々です。
1865年ごろ、愛宕山から江戸の町を 江戸東京博物館にある福井藩上屋敷の模型
望む、大きな屋根が大名屋敷。
この江戸幕府から与えられた土地に建てられたのを拝領屋敷といいますが、一方大名が民間の所有する農地などの土地を購入し、建築した屋敷を”抱屋敷(かかえやしき)”と呼ばれます。
上屋敷は、大名とその家族が住み、政治的機構が置かれた屋敷で、中屋敷は、上屋敷の控えとして使用されました。
主に隠居した者や成人した跡継ぎが住んでいる場合が多いようです。
下屋敷は、別邸としての役割があり江戸城から離れた郊外に置かれました。
明治維新後は明治政府に接収され、跡地は、官庁や大学、軍関連施設に利用されましたが、抱屋敷は引き続き所有者(大名)に帰属されました。