民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

大貫恵美子著『日本人の病気観』を読む2

2020-05-19 15:25:28 | 読書

40年ほど以前の調査に基ずく著作であり、調査地が大都市に限られていることから、現代には適合しないような記述もあります。前回、日本人は、屋外・汚濁:清浄・屋内、という象徴的カテゴリーの下に、外部から帰ったら手を洗いうがいをして外部の汚れをおとすようにしつけられている、と述べている個所を紹介しました。しかし60年程以前の地方の農村、つまり自分の子ども時代を思い起こしてみますと、そんなに神経質に外部での汚れを落とそうとすることはなかったです。第一水道がなく、手を洗うにしても口をすすぐにしても、汲みためた水を使うしかなかったですから、水は基本的には料理に使ったり飲むものでした。トイレにしても、座敷に併設された雪隠に豊かな家なら石をくりぬいた鉢が縁側の外にあってその水で手を洗うくらいでした。外に設けられた普段つかいの便所には、水など備えてありません。外便所は大便所と小便所に分かれていて、桶か甕が埋めてありました。いっぱいになれば汲みだして、田畑の肥料にしたのです。大便所の入り口には戸がついていましたが、小便所には戸がありません。小便所は男性用なのですが、時としておばさんやおばあさんたちの女性が立ったまま小用をすることもありました。今では信じられないような話ですね。話が横にそれましたが、家の外から帰ったときに、汚れを気にして落とすという習慣は、過密空間の大都市で水道と排水が完備してから形成されたものだと思われるのです。とはいえ、そうした環境が整ったところで、内外をきちんと区別しようとする心性がないことには、こんなに普及する衛生習慣ではないともいえるかもしれません。

また、日本人の他人に対する態度がアメリカに比べてよそよそしいと、次のような記述がありますが、これも引っかかります。
「日本人の他人に対する態度は、無視、無関心としてあらわれることは、バスの中などにおいて、よく観察されるところである。他人同士はめったに微笑を交わすことも、短い挨拶を交わすこともない。他人が話しかけようとすれば、それが行き先の案内など、確たる目的をもったものでない限り、変に思う人がいる。」

これも恐らく大都市での習慣です。私が青年期のころまでは、電車で向かい合わせになった見ず知らずの人に話しかけ、おやつを交換したりして親しげに話している大人の人たちはたくさんいました。数年前、関西を旅行中に電車の隣に座ったおばあさんに、親しく話しかけられたことがありました。その方は、城崎温泉に行ってきた帰りで、家族にどんなお土産を買ってきたか、どんな家族がいるかなどをうれしそうに話して、降りてゆきました。今ではまれなことで、大概の人々はスマホの画面を見つめて周囲にはかかわりませんが、ずっと昔からそうだったわけではありません。

また、人間の身体に関する以下の記述も、そうだろうかと首をひねります。

身体の各部分がいかなる意味をもっているかをみる際、最も注目すべき点は、日本人の上半身および下半身に対する考え方が明確に区別されていることである。上半身は清潔で重要な部分であり、下半身は汚れた部分である。だから、眠っている人の足元を通るべきであって、決して枕元を通ってはならないことになっている。洗濯する際にも、上半身に着けるものは決して下半身に着けるものと一緒に洗わない。この上・下の基準は白物と色物の区分けに優先するのである。この習慣は日本人にはあたり前のようであるが、米国では色さえ一緒ならよく平気で一緒に洗っているのをみる。」

これは、がさつな我が家だからかもしれませんが、こんな区別をして洗濯をしない。面倒だし水の無駄にもなるでしょう。たらいで手洗いしていた頃には、こうした区別があったかもしれませんが、今はどこの家もまとめて洗濯機に放り込んでいるんじゃないでしょうか。著者の専門が象徴人類学であり、この本のサブテーマもー象徴人類学的考察ーとあるので、2項対立にこだわって分析したがるのはわかりますが、当事者としては首を傾げてしまう考察も何か所かあります

病原菌という見えない脅威にどうやって立ち向かったらいいのか、もしくはどうやって共存していけばいいのか知りたいと思って読んだ本でしたが、少し焦点がズレているようでした。そこで次は、波平恵美子著『病気と治療の分化人類学』を読み直します。