民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

いじめについて誰もいわないこと

2006-11-12 09:33:56 | 教育
 京都紀行の続きはあるが、教育に携わる者の一人として今書いておかなければならないことがある。いじめの問題である。
 かなり以前に、学会の談話会で排除の構造といった題で、いじめについて発表したことがある。大河内君の死以来、いじめについては何度も問題になっているが、いっこう減ってないし、根絶などとんでもない話だ。昔はこんなことなく、皆仲良くしていたのに、今はどうしてかね。先生たちの力がなくなったせいだ。という結論に落ち着く。こんな状況で、揚げ足取るのもなんだが、2つ問題にしたい。
 昔はいじめがなかったか。嘘だろう。人間のねたみや嫉みは平安時代からある。子どもが無垢だ何ていうのも嘘で、子どもは正直なだけ残酷だ。ただ、昔の大人は我慢とあきらめを知っていた。そして子どもにも教えた。分をわきまえろ、というのである。私は決してその方がいいとは言わない。分をわきまえろなんて、クソ食らえと噛み付く側の人間だ。しかし、事実としてそうした価値観があった。そうした中で昔から、いじめはあったのである。比較的小学校の近くに家があった私は、くつを遠くへ投げられたり、周りからはやしたてられて泣いて帰っていく友達をときに見た。だが、恥ずかしいことに自分はそれに何もしなかった。また、気がつくと自分の周りに誰もいないということがあった、でもそれはそれで仲間外れにあったとも思わなかった。別に一人だって生きていける。
 昔の先生は誠実で力があったか。そうとは思えない。力のない先生でも、先生の言うことは聞きなさいと家庭が協力してくれたのである。子どもに向かって一緒に先生の悪口をいう親などいなかった。だから、先生の説諭を子どもが重々しく素直にきいた。今は、親が馬鹿にするように子どもも先生を馬鹿にして、話してもきくものではない。水戸黄門が印籠を見せるように、いじめた側が私が悪うございましたと謝ることはめったにないし、逆に自分の子どもばかり悪者にすると保護者がねじこんでくる。目先のいじめに対して誠実に対応したとしても、いじめは簡単になくなるような問題ではない。
 人間の心の暗部は、なくそうとしても必ずどこかに生ずるものではないか。だとしたら、心の教育と称して学校に責任を押し付けても無理がある。キリスト教社会のように、個が罪の意識をもっていればモラルに訴えることも可能かもしれないが、この国では原罪観というものはなく、一定期間すると禊をして罪は洗い流されてしまう。誰もが心に悪をもつとしたら、システムとしてそれを押さえ込む方法を大人は考えなければならない。
 最後に、いじめは昔からあって、いじめられる側よりいじめた側が圧倒的に多いはずだ。いじめた子どもも大人になっている。いじめはいけないという大合唱は聞こえてくるが、子どものときにいじめをした多くの大人は、口をぬぐっているか、いじめなどもってのほかだという側にまわっている。かつて自分が何をしたか語らないで、討論番組では善良な大人だけが登場する。子どもが信用するわけない。