民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

葡萄も人も育てるのは同じ

2005-09-19 10:41:46 | 教育
 妻の実家は巨峰を作る葡萄農家である。40年ほど前、桑を切って葡萄を植えた。以来、巨峰を作り続け、80歳を越えた今も夫婦二人で面積は減らしたが、懸命に栽培している。
 この連休に訪ね、久しぶりにゆっくり葡萄作りの話を聞くことができた。なんであれ、何十年も一筋に打ち込んでくると、含蓄のある言葉が出てくるものである。そうした言葉に触れることが、民俗学をする喜びでもある。
 テレビじゃ、巨峰のあんな赤い房を切って食べてみせて、おいしいおいしいなんていっているが、ありゃ嘘だ。巨峰は、粒が黒くなりゃなるほど甘くなるんで、あんな赤い奴が甘いわけがねえ。今年の葡萄は、暑くて房が大きくなったせいだか、色がなかなかつかなくて困ったもんだ。そこいきゃ、あの畑の東っかわの真中の接木の葡萄は、粒がそろってどれも黒くなってドル箱だ。葡萄の木にゃ、ショウ(性)のいいのと悪いのがある。石垣のそばの2番目の木、あれにゃびっくりした。こんな木は、と思っていたが、こないだ袋開いてみたら、どの葡萄も真っ黒になってるだ。ショウのいい木は、じっと我慢して作り続けていると、いつかコロッとよくなるだ。ソリョ人はちょっと作ってできねえと、すぐ切っちまう。木はショウがよきゃ、いずれよくなるだ。

 ひとしきり、葡萄畑の木の話が続く。聞きながら、私はこの話どこかで聞く話だぞ、と思いをめぐらしてみると、何のことはない職員室でよく教員がしている子どもの話と同じではないか。果樹を育てるのも子どもを教育し育てるのも、根本は同じと納得する。そして、日本の農業の面白さ、奥深さとはこうしたことではないかと思う。企業的経営では、果樹1本1本への思いなど語れないだろう。さしてもうかりはしないが、労働が喜びであり対象との対話でもあるという世界がここにはある。

 人はTさんを役にたたん、使い物にならんなんていうが、ありゃ違うな。Tさんの家の裏にオラッチの畑がちっとばかあって貸してある。そうじゃなきゃ、Tさんはウリやナスを遠くまで車でとりに行かなきゃならん。そのウリやナスのTさんの作り方見りゃ、まあで工夫してきれいに、こんな風にできるかっていうくらい上手に作ってある。そしたらこないだ、酒一升と水羊羹持ってきて、年貢(地代)とってくれっていうんだ。そんなもなあとれるわけがねえ。水羊羹もらや十分だ。来年は、あの続きの柿木も切っちまって、畑作ってもらうよ。草もできなくていいから。あんないい人に作ってもらえりゃ、そりゃいいから。

 見かけでひとは計れない。為したことによってのみ、人は評価されるのだ。