毎日が観光

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この夏 その二

2010年10月09日 22時23分15秒 | らくがき
 効かない身体で七転八倒していく内に、ぼくが気づいたのは、時間の不可逆性、その一瞬のどうしようもない貴重な存在でした。
 それまでのぼくは、何年間か撮っていた写真をハードディスクのクラッシュで失っても、まあ、別にまた新しい写真撮ればいいや、と思っていました。それでいて、たとえば、穂村弘が著書で生の一回性について語るのを読んで、「ああ、そのとおりであることだ」と思っていたり。でもね、全然わかっていなかったんです。生の一回性は、頭で理解することではなくて、むしろ身体で感じることだったんです。だいたい、身体があることで生の一回性が生じるわけなのだから。
 七転八倒しながら、強烈に突然訪れた自分の体の不自由さを思いながら、生の一回性が身体と一体であることを強く感じました。どの瞬間も二度と訪れない瞬間だという真理、それこそ鴨長明も言及しているぐらい何度も耳にした真理は、理解すべきことではなくて、身を切られる経験の上に存在するものなのだ、と。瞬間、瞬間、身を削られていく、そしてそれはもう二度と戻らない、どんどん損なわれていく身体、これこそが生の一回性と同義の概念なんだ、と。今、冷静に書いてますが、そのとき感じた恐怖と後悔にどれだけ身を切られたかわかりません。もう、だめだ、もう、あれもこれもすべては過ぎ去って、二度とぼくは同じ感情を手に入れることはできない。
 しばらくして左手が少し使えるようになったので、ツイッターにアクセスしたら、ある方に言われました。「書くことは肉体的なパッションだと教わりました。夢想ではないと。」たぶん、そのパッションは情熱ではないでしょう、それは「La Passion」、すなわち受難のことなのではないか、と思いました。身体の受難(また後日「ヒックとドラゴン」などについても書きたいと思うのですが、あれもまさに身体の有徴的受難の物語でした)と「書く」こと、この二つはもしかしたら同じ出発点なんじゃないか、と。それこそ、最初の人類が抱いたどうしようもない喪失感(これは多く、目覚める前のユートピアの喪失として描かれています)こそが、語る、書く、描く、こうした行動を生んだのではないか、と。
 今、まさにこの身体的受難が生そのものをおびやかしている時、ああ、今がぼくにとってのハイリゲンシュタットの遺書の時なんだ、と強く思いました。この試練は、ぼくに必要な試練だったのだ、と、とても自分に都合よく解釈し(しかし、世の中はそんなに甘くもないし、暗示的でもありません。ただ、ぼくは自分の身体的欠落をそのように解釈したかっただけなのかもしれません)、ここ、この状況を書くことによって乗り越えるんだって、寝床から二足歩行のなまこのようにノロノロと這い出して、今書かなくていつ書くんだと、パソコンの前に座り、そして、だから、両手が使えないから苦しんでるんじゃん、と絶望的に気づいたのでありました。

 字数多くてごめんなさい。あと、もう一回書かせて下さい。
コメント (5)
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