毎日が観光

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この夏 その三

2010年10月17日 00時45分49秒 | らくがき
 間があいてしまってごめんなさい。
 もしかしたら大したことのない体験なのに、大騒ぎして恥ずかしかったり。あるいは、身体が訴える違う気持ちの問題もありました。
 ゴロゴロ転がりながら、なにしろ両手を上げることすらできない状態でいろいろ考えた、というか、身体に訴えかけられたのですが、最後の訴えは、この体験をどう語ろうか、という問題でした。よく「言葉にすると嘘っぽくなる」という言い回しをするじゃないですか。身体が体験したことを言葉にして語る。これがとても辛いことでした。どう辛いか、それを語ることすら難しくて、なんだかうまくまとまらなくて。
 気づいたのは、体験をすべて語るのは不可能だということ。それは、技術的なレヴェルではなく、語るという行為そのものに起因する、そもそもの構造的レヴェルでの不可能性でした。語る、ということは、言ってみれば解剖のように体験を分節し、それを腑分けし、そして息の根を止めます。語ることは、体験の語られないことを固定化して、永遠に消え去るよう要請します。つまり、語ることは、体験のうちの生き残る部分と死にゆく部分とを峻別する作業でもあるのです。
 これは体験の存在感が大きければ大きいほど、厳しい作業になります。どの体験も、どの一瞬も、そのときのぼくの反応もどれをとってもかけがえがないのに、語ろうとした瞬間、指の隙間からすくった砂がこぼれ落ちるように、さまざまな瞬間が消え去っていきます。そしてもう二度と戻ることはありません。
 それは、時間の不可逆性をまたひとしお、ぼくに実感させました。語ることと、時間の不可逆性とは表裏一体の人間の条件、人間が身体を持ち、そしてそのことを意識する、そうした人間の基本的な事象のことなんだと、強く強く思い知らされました。
 うまく書けていないことはわかっています。ぼくの身体が感じたことのうち、ぼくがなんとか掬い止めたものだけ、ものすごく焦りながら、でも、うまくできずに歯噛みしながら、時間の流れから掬い上げたものです。その技量や技術に大きな問題があるのはわかっています。もう一回やればもっとうまく語れそうですが、もうそれは勘弁して下さい。
 今もぼくの右手は力が入らないし、薬指と小指に違和感が残っています。でも、この夏の体験は、逆説的かもしれないけれど、本当に素晴らしかったと思うようになりました。これだけいろんなことを身体が感じることって今までなかったわけで。
 この3回に渡ってグダグダ書いたことにコメントを寄せて下さった方々、ありがとうございました。来週からは、今までの脳天気なシモネタ満載ブログになります(嘘です、ごめんなさい)。
コメント (5)
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