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写美開館15周年記念 カフェ・プロジェクション「映像人類学特集」

2010年07月23日 17時26分54秒 | 出会ったものたち
 昨日は恵比寿の東京都写真美術館で映像人類学の上映会。素晴らしかった。
 全3本なんですが、1本目はエチオピアの門付け夫婦。2本目はバリの影絵師。3本目はカメルーンのバカ(ピグミー)族の通過儀礼。
 こうした民俗的社会では富は共同体の外部からもたらされると考えられます。人間=共同体に対して自然=外部。全く離れた外部は人間には関係がありません。人間に関係のある外部は人間=共同体と自然=外部との境界に現れる外部で、そういう境界上に存在するものは、敬されながら、また疎んじられる存在になります。アルタミラやラスコーの洞窟で絵を書いた人たちは、まさに共同体と外部とを媒介する洞窟という中間地点で祈っていたわけです。そして、われわれの思考や脳の構造はその頃の人たちと基本的には変わりません。
 神は外部から訪れる来訪神として現れます。神は外部から訪れて、富をもたらすありがたい存在であると同時に、人を殺す怖い存在でもあります。
 日本でも富は外部から訪れるものでした。笠地蔵、花咲か爺さん、こぶとり爺さんなど、富をもたらすものは外部から訪れたもの、あるいは外部と接触したものでした。
 門付けは、だから、外部から富をもたらすために訪れる人びとです。共同体内の人間には、外部から訪れる人はありがたい存在である一方、怖い存在、そういうアンビヴァレントな存在でありました。エチオピアの門付け夫婦も、バスに乗って旅をしながら門付けをしている、共同体の外にいる存在なんですね。で、共同体はキリスト教の枠内、イスラム教の枠内で生活をしているのに対し、この夫婦はその垣根に頓着しない。それぞれの家で祝詞(?)を変えて門付けをするのです。ここに創唱宗教の世界の中での自然信仰の強さを感じました。ドキュメンタリーとしてたいへん貴重な作品でした。
 2本目のバリの影絵師はちょっとイマイチ面白くなかったんだけれど、白眉はバカ族の通過儀礼。これについては、ここに書ききれないほどの豊かな信仰世界を感じたので、いつか項を改めて。もうちょっと調べたいこともあるし。あれ見ながらマユンガナシだ、蓑笠だと、大興奮でした。アフリカ、カメルーンでの儀礼と沖縄に残存する儀礼、あるいは日本各地にある蓑笠への執着、こうした類似のものが全人類的に存在することの不思議さに圧倒されました。あと、殺して食らい、そして生む大地母神としての来訪神なども。
 刺激を受けたわけじゃないだろうけれど、8月に早稲田大学で幡屋神職神楽の上映会をやろうではないか、と今日話が盛り上がってきました。
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2 コメント

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門付けと聞いて虚無僧を思い出しました・・・「手の内ご無用」 (Nancy)
2010-07-24 04:30:27
虚無僧は門付けのひとつじゃないですね?
私の住んだ田舎では小さいころ虚無僧さんをよく見かけたものです(さすがにもういないようです)
民族や土地にまつわる風習はホントに不思議で興味深いものばかりですね。

「嵐が丘」の翻訳者は参考にさせていただきます。
ありがとうございました。
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まさに門付け (aquira)
2010-07-24 17:15:43
 虚無僧こそ門付けですよね。江戸時代、普化宗という宗派で全国を旅する権利を得ていたようですが(明治維新で普化宗は禁止)、もともとは中世以来の乞食(こつじき)が原点のようです。
 ちょっと昔なのに他所の国のような風習ってほんと面白いですね。
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