毎日が観光

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もっとも大切な贈与

2009年09月02日 19時37分02秒 | らくがき


 諏訪から富士を眺める。素敵じゃないの。
 さて、富士山には浅間神社がいくつかあり、祭神はコノハナサクヤビメという女神である。「古事記」によるとニニギノミコトが今の鹿児島県あたりにやって来ると出会った美しい女神がいた。その女神がコノハナサクヤビメ、別名カムアタツヒメ。
 いきなり結婚を迫るニニギノミコトだけれど、コノハナサクヤビメはお父さんに聞いてくると。するとお父さんオオヤマツミは大喜びで長女イハナガヒメもつけてペアで送り届けた。
 ところがニニギノミコトは姉イハナガヒメが醜いのでオオヤマツミに送り返してしまう。オオヤマツミは言う、「姉妹二人を揃えて送ったのは、イハナガヒメを貰うとイハ(岩)のように不死で、コノハナサクヤビメを貰うと花が咲くような栄華が手に入るからで、イハナガヒメを送り返された以上、あなたの寿命は花のようにはかないものになるでしょう」と。
 山の神であるオオヤマツミが、このように不死と栄華を贈与したのに、ニニギノミコトは主体的に不死を返したのだ。この話はバナナ型神話と呼ばれ、東南アジアに広く分布する。そこでは花の代わりにバナナが出てくるが、内容は一緒である。人間は神の二つの贈与のうち、不死を返し、死だけを主体的に選ぶのだ(コノハナサクヤビメの別称カムアタツヒメはアタ族というポリネシア系の部族を表している。愚かで想像力に乏しい政治家が時折失言するけれど、日本は単一民族国家などではない)。 
 これは死そのものであると同時に死への意識のことだと思う。ある時、ある人類は気づいたのだ、自分がいつか死んでしまうことに。
 このとき、自らの生の内に矛盾する死を抱え込むことこそが人間の実存の最も奥深い定義ともなった。大切なことは、生と死が対立する概念でありながら対立させずに、自らの実存の中に共存させたことだ。人間は一度も死んだことがないくせに、いつか自分が死んでしまうことを予見的に認識する生き物である。この認識こそが文化を生み、やがて文明を生んだ。
 文化はその認識から生まれた人間の実存上に芽吹くことになり、文明は死から人間を遠ざけようとさまざまな発明や工夫をもたらした。
 およそ人間を人間たらしめているのは、この死への意識なのであり、それこそが神の最も重要な贈与であったのだ。
コメント
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