気象庁、てめっ、こら。きみ、今曇りだって言ったよね? 現在、この瞬間曇りって言ってるよね? じゃ、なんで外は雨なんだよ? 予報以前の事実すら間違ってんじゃんかよ。最近、晴れるだの、曇りだの言って、雨ばっかじゃんか、どうなってんのよ、え、どうしてくれんのよ?
なんて、ストレスためまくった1週間でしたが、ようやく東京に久しぶりの青空が戻ってまいりました。ばかばかばかばか、もう、一生会えないかと思ったよ、なんて青空の胸を叩いて泣きじゃくった朝5時。
昨日の晩、「東京は久しぶりの晴れです」という予報にはしゃいじゃって、10時にはベッドに入ってしまった。遠足前の小学生かよ。そのくせベッドに入っても眠れなくて、ウィスキーを飲みながら本を2冊読んでしまう効率の悪さ。ばか、である。
で、5時に起きてヨーグルトを食べて出発。ほんと、久しぶりの自転車。仕事前に軽く40kmほど走って来よう。田端を経由して隅田川を渡って、荒川サイクリングロードへ。ここまでで約6km。ああ、荒川のそばに引っ越したいな。
今日の荒川は昨日までの雨のせいで至る所に水がしみ出している。濡れた路面が乾ききらないんじゃなくて、土手から雨水がしみ出してくるのだ。たったこれだけの土手でこんなに水分をためておくもんだ、と感心する。土手でこれじゃあ、山を崩すだの、森を伐採するなんてことはうかつにはできないな。
ぼくの自転車には泥よけがないので跳ね上げた水が身体にかかる。背中とお尻が冷たい。
そんなこんなで6時過ぎには20kmポイントの朝霞水門に到着。見慣れた風景だけど、やはり水面の美しさ、ちょっと奇妙な風景が楽しくて、ウォークマンを聴きながら少したたずむ。
今日入ってるのは、「青柳の堤」っていう、イギリス音楽集、それから忌野清志郎30周年コンサート、小菅優、桂米朝「珍品集」。とりとめのない選曲だ、我ながら。ぴっとスイッチを入れると小菅優の「カーネギーホール・ライヴ」がかかった。
曲は、J.S.バッハのシャコンヌ(ブゾーニ編)。
水門の手すりに自転車をたてかけ、ボトルのアクエリアスを飲みながら音楽を聴く。青空が川面を照らしている。ああ、いい気分だ。
ほほう、変わった演奏だ。最初、こういう弾き方に必然性を感じなかったのだけれど、途中からその弾き方に説得力がましてくる。
彼女はなんの衒いも狙いもなく、その楽譜を見て、そのような音楽を感じているんだろう。音楽は不自然な誇張などなく、耳新しいまま響いていく。
そこにはまるで新しく手つかずの、ぼくたちの知らない音楽が生まれてきている。だけれど、きっと彼女は新しいことをしようと思っていたわけではないんだと思う。彼女には、その音符はそう聞こえちゃうんだろう。そしてそう聞こえちゃう音符をそう聞こえちゃうままに弾いているんだと思う。もちろん、そう聞こえちゃうままに弾くということは大変なことなんだけれど。
表現の幅の広さがすごい。
うーん、うなってしまった(いろんな意味で)。
仕事があるからこの1曲で終わりにして帰路につく。
これは偽物なのか、本物なのか、ぼくには、この1曲で判断はつかないけれど、いい、悪いは別にして、たいそう面白いシャコンヌであったことだけは確かだ。
なんて、ストレスためまくった1週間でしたが、ようやく東京に久しぶりの青空が戻ってまいりました。ばかばかばかばか、もう、一生会えないかと思ったよ、なんて青空の胸を叩いて泣きじゃくった朝5時。
昨日の晩、「東京は久しぶりの晴れです」という予報にはしゃいじゃって、10時にはベッドに入ってしまった。遠足前の小学生かよ。そのくせベッドに入っても眠れなくて、ウィスキーを飲みながら本を2冊読んでしまう効率の悪さ。ばか、である。
で、5時に起きてヨーグルトを食べて出発。ほんと、久しぶりの自転車。仕事前に軽く40kmほど走って来よう。田端を経由して隅田川を渡って、荒川サイクリングロードへ。ここまでで約6km。ああ、荒川のそばに引っ越したいな。
今日の荒川は昨日までの雨のせいで至る所に水がしみ出している。濡れた路面が乾ききらないんじゃなくて、土手から雨水がしみ出してくるのだ。たったこれだけの土手でこんなに水分をためておくもんだ、と感心する。土手でこれじゃあ、山を崩すだの、森を伐採するなんてことはうかつにはできないな。
ぼくの自転車には泥よけがないので跳ね上げた水が身体にかかる。背中とお尻が冷たい。
そんなこんなで6時過ぎには20kmポイントの朝霞水門に到着。見慣れた風景だけど、やはり水面の美しさ、ちょっと奇妙な風景が楽しくて、ウォークマンを聴きながら少したたずむ。
今日入ってるのは、「青柳の堤」っていう、イギリス音楽集、それから忌野清志郎30周年コンサート、小菅優、桂米朝「珍品集」。とりとめのない選曲だ、我ながら。ぴっとスイッチを入れると小菅優の「カーネギーホール・ライヴ」がかかった。
曲は、J.S.バッハのシャコンヌ(ブゾーニ編)。
水門の手すりに自転車をたてかけ、ボトルのアクエリアスを飲みながら音楽を聴く。青空が川面を照らしている。ああ、いい気分だ。
ほほう、変わった演奏だ。最初、こういう弾き方に必然性を感じなかったのだけれど、途中からその弾き方に説得力がましてくる。
彼女はなんの衒いも狙いもなく、その楽譜を見て、そのような音楽を感じているんだろう。音楽は不自然な誇張などなく、耳新しいまま響いていく。
そこにはまるで新しく手つかずの、ぼくたちの知らない音楽が生まれてきている。だけれど、きっと彼女は新しいことをしようと思っていたわけではないんだと思う。彼女には、その音符はそう聞こえちゃうんだろう。そしてそう聞こえちゃう音符をそう聞こえちゃうままに弾いているんだと思う。もちろん、そう聞こえちゃうままに弾くということは大変なことなんだけれど。
表現の幅の広さがすごい。
うーん、うなってしまった(いろんな意味で)。
仕事があるからこの1曲で終わりにして帰路につく。
これは偽物なのか、本物なのか、ぼくには、この1曲で判断はつかないけれど、いい、悪いは別にして、たいそう面白いシャコンヌであったことだけは確かだ。