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婆娑羅太平記

2007年06月06日 14時11分29秒 | 読書
黒須 紀一郎著 「婆娑羅太平記」     作品社

 全6巻、長編である。
 第1巻に話の発端が詰め込まれており、2巻以降は自然な流れで話が進んでいく。
 太平記であるから、舞台はご存じ鎌倉末期。
 鎌倉幕府、足利尊氏、後醍醐天皇、さまざまな人間が交錯し、戦ううちに足利氏の天下となる。この本はその舞台裏にの民や立川流の僧侶たちの力があったと物語る。
 武法興隆を目指す足利尊氏、王法興隆を目指す後醍醐天皇、そして芸法興隆を目指す佐々木道誉。これらの陰で民法興隆を目指す人々がいた。
 彼らにとって支配者など百害あって一利なし。

 「大覚寺統とか持明院統とか勝手に騒ぎおって、その内に、民を巻き込む争いを起こすかもしれぬ。院だの帝だの東宮だのと言っても、わしらのような溢れ者には、何の関わりもないわい。古来から、帝が民のためになったことは一度もない。帝が表に出れば、必ず民を巻き込む戦になる。壬申の大乱、源平の戦、みんなそうじゃ。今度の二統争いも、このまま行けば大乱になる。民から搾り取るのに慣れた輩は、始末におえんわい」

 だれが支配者になっても同じこと。彼らの民がかかげる民法興隆は、支配階級の交替ではなく、民みずからが大きな力を持つことであった。その力が立川流と結びつく。
 立川流中興の祖文観は後醍醐天皇の護持僧にもなった。しかし、それは後醍醐天皇のために何かをするためではなく、後醍醐天皇と武家を戦わせることによって、無政府状態を作り、多くの荘を悪党、の民の支配下におくためであった。
 その発端が詰め込まれた第1巻が一番面白かったのだ。あとは、史実の裏側のネタが実は無政府状態を作るためという1本だけなので、足利直義と執事との対立などすべてが、実は無政府状態のため、というノリ。6巻は長すぎたのかもしれない。
 一番面白いのは、立川流がなぜ民法興隆を唱えるのか、その理由かもしれない。つまり、人々(有情)が平等であればこそ、性における絶頂(忿怒)も平等なのだ(「一切の有情は平等なるが故に、忿怒は平等なり」)、と。
 しかし、立川流と茶枳尼天信仰はちょっと興味深いものがある。
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