坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

復習

2014年05月27日 | 坊主の家計簿
【念仏が禁止される。禁止されるような念仏というのは一体何なのだろうかと。勿論、親鸞聖人が「承元の法難」でで流罪になった。そういう事も関係あるわけですけれども、念仏が禁止される。もっと言えば、現代で言えば、皆さんが例えばお寺へお参りになると、ひょっとしたらそういうことを禁止したという事かも知れません。「念仏してはいけないですよ」とその当時言われたという事は、今で言えばどういう事なのだろうか。
 今では恐らく念仏が禁止されるという事は、絶対と言っていい程ありません。むしろ奨励されますね。「あなた、若いのにお寺に参ってそれは感心。」とかですね。若い人がお寺に行こうとするならそういう風に言われますね。決して奨励されても、禁止されたりする事の無い念仏。まあ念仏というかお寺参り。それに対して、今申しましたように法然・親鸞の時代は再々、念仏する事を禁止されています。
 そうするとですね、一体どういう事なのだろうか。法然上人とか親鸞聖人のされておった念仏つ今、私達がしている、或いは、していると思っている念仏とは、ひょっとしたら違うのかも知れないと。】(玉光順正『運動としての親鸞』より)

 まあ、だからといって、運動や国家に反対するが故にゴクゴク少数の専門家の意見を取り入れて福島差別を展開するような事も違うと思うのだが、まあ、置いておく。

【蓮如上人の周囲にいた念仏者達は、自分が念仏者だという事をいろんな形で表現し、そしてその事が色々、まさに行き過ぎと言いますか、そんな風に見られて、こういう事をしてはいけないよ、という風に言われておったのだろうと思うんですね。】(玉光順正『運動としての親鸞』より)

 まあ、何の話かというと、『自己満足』と『自我満足』。つーか、『自己満足』と『自体満足』つーか。あ、ややこしいのでカッコ付けて打ち直すなら、『自己(セルフ)満足』と『自我(エゴ)満足』。んで、『自己(エゴ)満足』と『自体(セルフ)満足』。どっちでもええねんやろうけど、まあ、『自己(セルフ)満足』と『自我(エゴ)満足』にしとこ。

 念仏を自我満足の為に、世間の中で居場所確保の為に使う。倫理道徳の中での念仏。でも、それならば親鸞は流罪になっていない。
 
 松虫鈴虫の出家というかなんというか。まあ、後鳥羽上皇の言いなりにならなかった。松虫鈴虫が後鳥羽上皇の元で念仏申す生き方もあったのだろうが、それは歴史的にはなかった。故に、その事が問題になった。そして法難であり、流罪である。倫理道徳社会通年。それを前提において、その中での居場所を確保する為の念仏だけなら、別に流罪になんかならない。

 もっというと、弾みである。

【私たちの現実は「機」「はずみ」を生きているのであって、予定・予想が現実ではないのだ、と。私たちの現実がこのように「はずみ」であるために、どこに向かって、どのようなことになって「はずむ」かわからないのです。そして、どこに向かってはずもうとも、私たちがもっとも恐れるのは、暗い所、いやな所へ向かっての「はずみ」です。】
(平野修『民衆の中の親鸞』東本願寺出版部)

 ん?酔うとる。

 んまあ、自我が望む生き方で生きようとするし、それしか出来ないし、でも、それずらも思い通りに行かない。誰もがみんなアントニオ猪木には成れないし、アントニオ猪木も数十億の借金まみれになって、IWGPでホーガンのアックスボンバーで舌を出して痙攣する演技をして借金取りから逃げなければならなかった。ん?なんのこっちゃ。
 あ、誰もがヒーローになり得るわけもなく、ヒーローは生身の人間としての悩みがある。

 世間の中での居場所を確保する為の念仏、倫理道徳社会通念の中での念仏であるのなら親鸞は流罪になる必要はない。安楽は首を斬られる必要もない。

 自我肯定といっても、多くは「世間肯定」になる。何故なら世間は人間の作り出すエゴであるから。決して「自然」ではない。人工的なものである。故に苦しむ。狭い世界であるが故に苦しむ。そして、なにか余程の事でもない限り、別にそのまま生きれてしまう。それなら流罪、つーか、いわゆる『首が飛ぶ念仏』になんぞならない。まあ、無理して『首が飛ぶ念仏』になる必要もなく、カスの社会運動に憧れる必要もない。つか、それだって自我肯定の中でしかない。あくまでも「憧れ」という自我が目指すものでしかない。
 そんな流転輪廻の生活しかおくれない。だが、

【牛乳配達の青年は、こわごわ、遠くから、その死体を眺めた。
まるでその死体の番をするように野良犬が動かない。死体と同じように雨にしとどに濡れたその犬は哀しそうな眼で青年をじっと見つめた。まるで野良犬は青年にこう訴えているようだった。
(あんたには・・・この人の・・・哀しみがわかるか・・・)】(遠藤周作『悲しみの歌』より)

 何の話やったっけ?まあええわ。学校帰りの居酒屋での話の続き。そんな眼もある、っちゅう話。