坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

私の仕事

2012年12月25日 | 坊主の家計簿
「自分の仕事をせえ」
 なんとなく、さっきシャワーを浴びていたら出て来た言葉。

 今日はお通夜だった。故人については名前と年齢しか知らない。でも、この世に産まれ、しっかりと大地に足をつけ、人生を全うなされた方である事だけは間違いない。

 先日、先輩から電話があった。ヘロヘロモードだったので銭湯でまったりしていたら携帯に電話があったらしく、約40分遅れで電話する。活動的な先輩がやっている活動的な宗教者が集まる会で「昔の話をせえ」という事らしい。30分という時間にビビリつつあるが、先輩の他にも、先輩のサブをやっている人も昔から知っている人なので、まあ、全く知らない所に放り込まれるわけでもないので、了承する。まあ、正式には決まっていないが。30分というのはハードルが高過ぎるので、出来れば逃げたいのだが、まあ、他にいなけりゃ「別にエエか」と。
 
 昔の話は、坊主バー時代の想い出。経営面も含めての話らしい。帳簿、残ってたかなぁ…。

 自分の仕事。私は寺の住職なので、私がやるべき第一義の仕事は寺を護る事。経済的に豊かでない寺なので、経済的に豊かな寺なら軽く越えれる、もしくは全く問題にならない事が大問題になる。
 私は3歳児の父親であるので、娘育てなければならない。「育てる」とは傲慢な気もするが、メシを喰わせなければならない。経験した事がないが、色々な『親』としての先輩達から「これから金かかるで」と脅されている。
 もっと厄介なのが、『私』という存在である。私は『私』という厄介な存在と共に生きて行かなければならない。これまた、他の人なら「なんでこんな簡単な事が出来ないの?」という事も出来なかったりするし、ハードルが高かったりもする。でも、私は『私』から逃げる事は出来ず、私は『私』と共に生きて行かなければならない。

 これまた先日、某所で僧侶仲間達と飲んで居た。年齢も人生経験も様々な人たち。ある私と同じ『在家出身(寺産まれでない)』の人。今もバリバリと、いわゆる『坊主』以外の仕事で働き、生きて居られる。同席した僧侶仲間には、いわゆる『無職』の人がいる。というか、別に働かなくても生活出来る環境に産まれ育った方。
 もう20年以上前だろうか?当時、生活する為にバリバリ働いていた私は、そういう私の苦労で一杯だった。今も変わらんのだが、今とは違って、「働かなくても食べて行ける人」という人の存在を許せなかった。「お前に何の苦悩があるねん」というヤツであり、恐らくその僧侶仲間にそういう事を言った時に、その人が「私の苦悩が解るのですか?」みたいな事を言った。浅かった。「甘かった」というよりも、浅かった。私が浅かった。
 先日某所での飲み会に居た『長老格』は「縁」という一言で纏めておられた。

 坊主バーは3代目時代に大きな変化を迎える事になるのだが、その3代目マスターがケッタイな人であって、前科3犯独房2年やったかな?前科だけは覚えているが、独房(政治犯でもあった)の年数はうる覚え。ホームレス生活は8年だったかな?金のある時はドヤ暮らし。まあ、かなり変わった経歴の持ち主であり、40前まで酒を毛嫌いしていた割に、後期(死にました)は半アル中状態だった。
 坊主バーのマスターになり、僧侶資格も取った。僧侶資格を取ったという事で、当時同じ所属寺だった事もあり、同じ法要に参加。
 その法要の帰りだっただろうか?私と、もう一人の友人と共に三代目マスターを吊るし上げた。「僧侶資格を取得したなら、もっと僧侶としてしっかりせえ!」と。その時に三代目マスターがポツリと「でも、俺は親鸞好きやねん」と言った。

 坊主バーをやり始めて、後に2代目マスターとなる人と、後の東京・四谷坊主バーの初代マスターになる人と朝まで遊んでて、そのまま3人京都珍道中(?)に出かけた事があった。
 法然上人ゆかりの『法垂窟』という所にも初めて連れて行って貰い、その時に初めて2人から『一枚起請文』という法然上人の遺言状みたいなものを紹介して貰った。というか、2人から暗唱して貰った。「何や、この2人は?」と思ったのだが、その前にも「何やお前らは?」と思った事も多々あったので特に驚きはしなかったのだが、『法然上人』という方がどういう方なのか、当然、選択集も読んでいない時に2人が暗唱していた『一枚起請文』を聞き、解説を聞いて「おお!すげぇ!」と。

【もろこし(中国)・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに篭り候ふなり。このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。】

 解説は浄土宗で、どうぞ。

 http://jodo.or.jp/jodoshu/index3.html

【私の専修学院での学びは、凡夫という言葉を中心に始まりました。しかし学院は生活学習の場ですから、そこで繰り広げられる私の意識生活は、その凡夫の身を裏切る自尊心との格闘でもありました。それは今日も、今も、続いています。そうした事実と思いのぶつかる日々の生活の中で、それでもここに身を置いていることの支えとしている言葉があります。それは信國先生が大病を患われた晩年のころだったのではないかと思いますが、授業で法然上人の『一枚起請文』(真宗聖典九六二頁)を取り上げられて
 「ここに『一文不知の愚どんの身になして』とあるでしょう。この『なして』という日本語は、意思をあらわす言葉です。意思して、愚鈍の身になるのです。」
 と、強い口調でおっしゃいました。「意思して、なる」。いつのまにか、如来回向とか、本願他力という教学用語を自分勝手にとりこんで、仏法を自動起床装置であるかのように錯覚する腑抜けた信仰理解にまどろんでいる私どもに、「目覚めよ」と命じる一言でした。
 凡夫とは、意思して凡夫にならなければ、自分が凡夫の身を生きていることに気付けないものです。その凡夫への意思を私どもに喚び起こす強い力が、如来の本願です。】
(狐野秀存『共に是れ凡夫ならくのみ』願生第145号より)

「私は昔にこんな事をして来ました」「私は今、こんな事をしています」と、自分の行動を誇る、誇ってしまう、差別化してしまうのが自我。何をやろうが、やろまいが、それは単なる縁の問題。
 何か解りやすい『社会的な行動』、『宗教家らしい行動』。それ等は単に様々な御縁でもって、たまたま出来た事。

「ただ念仏」とは、宗教的差別の否定。必ず自我を誇ってしまう煩悩がある。自分にしか、あるいは『自分たち』にしか出来ない『行動』でもって、差別し、見下してしまう。自分や、自分たち、あるいは『世間的価値観』からの色眼鏡でもって優越し、卑下してしまう。それが煩悩。仏道を歩んでいるが故に出て来る煩悩だってある。『宗教家らしく』という煩悩だってある。『宗教家らしい』という差別だってある。そして、悲しい事に私(たち)は差別が好きだ。煩悩を喜ばしてくれるものが大好きだ。苦労自慢は『苦労していない(ように見える)人』を差別する。そこで優越感に浸る事が出来る。
 運動論では「差別された側の人間から、差別する側の人間に対する差別は差別ではない」という事らしいが、そんな事は知ったこっちゃねえ。が、ここでも私の煩悩の働きは「私の方が上」と、差別してしまう。「あなた達は解っていない」と、見下してしまう。

「自分の仕事をしろ」
 あるいは
「自分の修行をしろ」
 
 私にとっては、ある恩師からから教えて頂いた言葉、「人がそこに居られる」と。全く平等に人がそこに居られるにも関わらず、主観でもって、エゴでもって、自我でもって、様々に切り裁く。同時に『私自身』をも切り裁く。そんな所からの解放、それはある人にしてみればハードルの低い作業かも知れないが、でも、私にとってはとても難しい事。私の課題。

『念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い』(田中角栄)

2012年12月25日 | 坊主の家計簿
【親鸞聖人の何かの折りにふとおっしゃった言葉が、唯円の胸に染み入り、年月を経るごとにいよいよ心に深く刻みこまれ、人生の節目節目に鮮やかに甦ってくる。】(狐野秀存『願生第153号』より)

という様な心の作用というか、信仰生活の働き、御念仏の働きを所謂『仏教学』というもので解説したりする事に増々興味を失いつつある昨今でございます。まあ、様々な意味を含めて余裕があれば「やろうかなぁ~」と思ったりもするのですが、いかんせん、母校の機関紙の口座振替をつい先程まで忘れていたわけでして…(笑)

今日は早朝の御参り一軒だけだったので、お休み気分。誰がなんと言おうとお休み気分。なので諸々の事務的な仕事を「しようかなぁ~♪」と。医療保険の結婚しての名義変更はインターネットでは出来ないらしい。けど、せっかく立ち上げたパソコンでポツポツと。


昨夜、どなたのリツイートか忘れたが、Twitterで田中角栄botの言葉が流れて来た。あ、映画『無人地帯』の藤原敏史監督か。
流れて来た言葉は

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

という言葉。田中角栄氏がどこで発言なされた言葉なのか知らないが、ネットの田中角栄語録でも紹介されていた。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/goroku.htm

『宗教者』という言葉が気になる。
『宗教』という宗教教団はない。ひょっとしたらあるのかも知れないが、聞いた事がない。『宗教』という宗教がないにも関わらず『宗教者』という言葉はある。「我々は宗教者として…」云々。

私が中学か高校時代に最初に買った哲学の入門書の前書きか、最初の項目だったかに、「哲学は誰だってしているものです。八百屋さんには八百屋さんの哲学があるでしょうし、魚屋さんには魚屋さんの哲学がある」みたいな事が書いてあった。引越が多いので当然その本は手元にないし、なんというタイトルだったのか、誰が書いたのか一切覚えていないが、生意気だった(今もか)思春期真っ盛りの時代の私の心に響いたのだろう。44歳になったいまだに覚えているし、その言葉の持つ哲学性に共感する。

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

という言葉の田中角栄氏は、日本の高度成長期時代の象徴的な人物だろう。高度成長期の中では、いや、私(たち)の自我意識の中では

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

にしか成り得ないのだろう。

【今日、私たち真宗門徒自身が、念仏者に対する敬意を忘れてしまっているのではないか。そんな気がしてなりません。念仏する者は、ただそれだけで敬意を払われるべき存在なのです。念仏者という人が尊いというよりも、その人を通して念仏が出てきているという事実が尊い。その尊さは、お念仏が誰の口から出てきても同じで、その人の人格や才能や経験によって左右されない。その価値や意義はそういうことでは少しも異なることはないのです。「南無阿弥陀仏」とその名を称する声となって、法蔵菩薩の精神が私たちの前に飛び出しているのだということです。だから、念仏者に対する弾圧は、法蔵菩薩の精神すなわち菩提心に対する弾圧なのです。】(藤場俊基『親鸞の仏教と宗教弾圧』164ページより)

宗教者。
真宗教団で『宗教者』とは宗教法人の代表者(住職)や、あるいは、『僧侶』のみに限定されるのだろうか?それとも『真宗門徒』全体を指していうのだろうか?宗教法人云々の話は国法である。仏法云々の話ではない。
真宗教団での『宗教者』が真宗門徒全てを指すのであれば、それこそ、八百屋さんだったり、魚屋さんだったりも宗教者である。御念仏という宗教活動(行)を行っている。

『宗教』という宗教はない。あるのはそれぞれの宗教の教えであり、その教えに生きて居られる方々だ。教えが違う以上、「立派な宗教家」という概念自体がおかしい。日蓮宗の方々にとって、熱心な念仏者であればある程救い難い存在であるのだろう。

真宗門徒が

【念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。】

こういう言葉をいうとは思えないが、『宗教者』というフィルター、まあ、色眼鏡(偏見)でもって観た場合には「あの人は何の行動もせずに念仏しか申していない」という事になってしまうのだろうか?だとしたら、それは『真宗門徒という宗教者』としてどうなのだろうか?己の信仰を無視した宗教者にどういう意味があるのだろうか?


【神さま
 信じている私に 信じていない私が
 いつも 厳しく問いかけてきます
  ”お前の信仰はウソだ 心の底から
  ほんとうに信じていない
  お前の生活はなんだ
  ほほえみながら 冷たい心で人を
  憎みつつ 自分をごまかしている
  愛の業 奉仕だといいながら
  人が認めてくれないことに傷ついている
  お前は 信仰者といいながら
  偽善の不幸の中で いつも不平をいって
  感謝も 喜びも忘れて生きている”
 もうひとりの私の厳しいののしりの声に
 私はひと言も答えることができないのです。
 でも 神さま
 信仰は何かをすることでしょうか
 何かをしなければと思いつつ
 何もできない痛みに苦しむ私を
 愛をもって招いてくださる主のみ声を聞く耳
 愛されることを感謝する心
 信仰とはそんなことだと 私は思います
 何をすることでもない ただ素直に単純に
 率直にあなたを信じて 礼拝を守りつづけ
 祈りを共にしていく力を 私にください】
(石井錦一『お前の信仰はウソだ』。日本基督教団出版局『信じられない日の祈り』より)