坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

「凡夫」は佛からの励まし

2012年12月30日 | 坊主の家計簿
 今年の御参り終了!!!
 ただ、私らは「一応…」と付くのだが。当然である。それが『住職』っちゅうもんである。どなたかがお亡くなりになれば、即仕事。
 とはいえ、打上げ気分。15時過ぎに御参り終了で、疲れて寝る。起きて学習会。打上げ(?)無しの学習会。まあ、打上げは明日やな。よし、明日飲みに行こう。と、変わらず独身気分を満喫しております。パパでもあるのだが、「パパには大事な用事がある」と娘に断って出かけよう。まあ、明日の気分次第だが。というか、飲みに行く先が開いているのかどうかを確認せんとアカンな。

 本日の地味な学習会。初参加の方も居られたけど、どんな感想を持たれただろうか?少し気になる。個人的には『気楽』という事をメインの置いていたりする。笑い声が絶えない学習会を個人的には目指していたりする。どうせ、帰り道なり、帰ってから何かを思い返すだろうし。

 という事で、復習。


【衆生・有情(サッタ)、衆生といわれるが、何故に衆生といわれるのか。
 五蘊(人間を構成する五つの要素の蘊)に対して、欲あり、貪りあり、渇愛あり、執著するから衆生・有情といわれる。】(『相応部』三・一九〇ページかららしい。引用は雲井昭善『万人に語りかけるブッタ』より)

【人間を「存在するもの」とみるのでなくて、「執著する存在」としてとらえていた点に特徴があったことを意味します。】(雲井昭善『万人に語りかけるブッタ』より)

【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと】(親鸞『一念多念文意』より)

 以前に恩師から聞いた話。寝たきりの姑を介護する嫁。姑は自分の身体が思うようにならない腹だたしさを嫁にぶつける。悪態を散々吐く。嫁はそれに対して「やってられるか!」と、やはり姑に悪態を吐いて介護を辞める。でも、思い直して「ごめんなさい!」と姑に頭を下げて介護を続ける。そんな話を聞いた事がある。

 今日、諸々喋っていた中では浮気話。喩え話で、連れ合いが浮気をした時にニヒリズム(空に沈む)で自分の感情を殺す事なく、相手を見放す事なく、ムカつき、腹立たしく思う中で、如何に自分自身が物事に執着している存在なのか、自己中心的でどうしようもない存在である事を気付く事が出来れば、「南無阿弥陀佛」と念佛申す機縁になれば、浮気した連れ合いは私に念佛申す機縁を与えて下さった仏様の化身である。諸仏である。それが煩悩を断ぜずして仏道を歩める真宗仏教である。

【罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし】(親鸞)

 である。

 とは云え、物事はそんな簡単に行かない。いや、行ける人も居ているのだろうが、私には難しい。五蘊から、煩悩から解放される事も無理であれば、解放されない事を機縁にして念佛申し、『敵』を仏の化身として観る事も難しい。しかしながら、「聞いた」という事実がある。「あ、先生がそういうえばこんな事を言っていたな」と、思い返す事が出来る。痛みとなる。「そんなん、あいつが悪いねんから当り前やん」だけには終わらず、痛みとなる。私の問題になる。私が人生の主人公になれる。私が私の人生の主人公になれる。「あいつが悪い」は、相手任せである。それは勿体ない。仏道を歩むのは私である。
 痛みは本願である。如来が苦しんでいる。そして、私に恩師から聞いた言葉を苦悩の現場に届けて下さる。私はその働きのお陰で「いのち」の感覚を取り戻す事が出来る。

 という事で、お腹ペコペコ。バラエティーを観ながら晩御飯を食べよ。