坊主の家計簿

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反日の葬儀

2011年01月09日 | 坊主の家計簿
 葬儀が入ったので、夜の外出予定を辞めて、準備、準備。
 この準備が半日仕事である。しかし、「はんにち」と打ってそのまま漢字変換すると『反日』と出てしまうのは(笑)

 せっかくなので『反日の葬儀』。

 先日、月参りについての相談があった。まあ、「忙しいから、日にちをまとめたい」という相談。そこは元々一ヶ月に3回だったらしい。それが『2つ』と『ひとつ』の合計2回の月参り。
 実家のオカンが仕事をしながら坊さんが来るのを待ってたのを知っているので、まあ、「坊さんを迎える大変さ」は、なんとなくだが、それぞれの家の環境、事情にもよるのだろうが、まあ、大変な事は知っている。「坊さん来るから掃除しなアカン」とかである。華を買ったり、饅頭買ったり。それが月に2回でも忙しい家庭にとっては大変だ。
 話はついでに「切り上げ」の話に。「50回忌で切り上げて永代経にすればエエんですよね」と。え~。。。「通信をちゃんと読んでくれ!」なんだが、まあ(笑)
 
 先輩から聞いた話なんだが、新潟県の一部の地域では中陰の御参りはしないらしい。別に「面倒」だとかではなく、真宗は『即得往生』がその理由らしい。
 満中陰までは確かインドで出来た考え方であって、3回忌までは中国やったかな?深夜なのでいちいち調べるのが面倒なので。その後は日本で展開。
 なので、基本、私の意見としては「気が済むまでやったら宜しいですやん」である。親鸞聖人なんぞ七百五十回御遠忌でっせ。三回忌で切り上げたかったら、三回忌でもエエし、葬儀だけで良ければ、それでも良し。「葬儀なんぞ要らん」なら、それでも良し。困るのは私の経済の問題。経済の問題でいうのならば、50回忌までやって頂いて、その後は寺で永代経をやって頂けるのが、そりゃ、エエ(笑)

 今日は午後からの法事もあった。法事が終わって、その他のちょっとした用事を済ませて帰宅したのが夕方4時半頃。遅めの昼ご飯を食べに出かけて、散髪。帰宅したのが5時半頃。娘がリビング(?)でテレビを観てた。夕方の子ども番組。ママは台所で夕食準備中。私は部屋着に着替えて、娘と一緒にテレビを観る。え~。。。厳密にはウソである。テレビを見てるのは娘だけであって、私はiPhoneでネット。娘の『パパ・ソファー』になりながらiPhoneでネット。
 少し気になった事を検索してたらなんか最終的には細木数子氏の事についてになった。特に関連はないのだが、調べる事が調べられて、「ん?」と思った事を追っかけて行ったら細木数子氏。

 http://www.bunshun.co.jp/bikkuri85/rank06_01.htm

 上記リンクの文藝春秋の記事を読みつつ、「激動の人生をおくって来はってんなぁ。。。」と。
 
 細木数子氏に対する私の評価は決まっている。「あれは細木教ですよ」と。テレビに出て有名人だし、当然、多くの人達が細木教の影響を受けて居られる。墓の相談を受ける時なんぞは特に。仏壇の時の相談でも、過去帳の時の相談でも影響を受けて居られる方々が結構居られる。

 これはやりたいのだが、出来ていない事なんだが、真宗門徒の過去帳の『28日』の所には『弘長二年十一月二十八日 愚禿釈親鸞』と書けばすっきりすると思ったりするのだが。『家』の枠を超えるには。あ、釈尊も忘れずに。なんせ、『釈』の法名なんだし。「大師の本は釈迦より尊きなし」(釈道安)なんだし。

 「先祖供養をせんと祟られる」なんぞは脅迫以外のなにものでもない。
 また、その供養の仕方なんぞは、「それぞれ」にしか過ぎない。
 
 葬儀のやり方も「それぞれ」だと思う。だって、キリスト教の葬儀と、真宗の葬儀は全然違うだろうし、真宗と他宗派の葬儀も違うだろうし。他宗派みたいに「引導を渡す」事は真宗ではないわけやし。

 あ、『反日の葬儀』やった。

 「日本文化」というが、結構、漠然としている。
 『日本人』と限定した上であっても、『アイヌ』『琉球』『朝鮮』『中国』『台湾』なんぞと文化も抱えた上であり、かつ、『ヤマト』といっても、んなもん、『近畿』『畿内』なんぞの言葉があるように、結構限定されている。『夷』なんぞの言葉もある。いや、「あった」に成りつつあるのだろうが。

 『成りつつある』とは単純な話で、幻想としての『日本文化』が、つまり「日本人っちゅうのは、こういうもんや」みたいなもんがある。帰属意識、孤独になりたくない、なんぞの事なのかも知れないが。
 でも、その中で奪われて行くのは『個』。

 去年、在日コリアンの方の葬儀をやらせて頂いた。名字から察して「ひょっとして」と思ってたのだが、お墓に行って墓の横に書いてあった文字で確認。
 当然、私に依頼があったので、私は真宗大谷派の儀式をした。向うの方がどう受けとったのかは全く解らないが、私にとっては『浄土』である。浄土なので国境はない。それぞれの文化を尊重する儀式である。

 え~。。。言葉遊びで『反日の葬儀』なんぞと書いてしまったが、別に『反日』ではないわな。
 ただ、「日本を越える」のが、あるいは「日本文化に収まり切らない」のが『反日』である事はない。
 日本で生まれ育った在日コリアンの人達が、自分達の文化を大切にする事が、「反日」であるわけがない。

 『反日』の反対用語は『親日』なんだろうか?その『親日』は、なんとなくの日本文化に従わなければならないのだろうか?なんとなくの日本文化に従わないと『反日』であるのならば、そんなのは『和の国』でもなんでもない。

 今日の法事。いつもの如く何を話そうか全く決めてなかったので、なんとなく昨日紹介した『アメトーク』の

【あなたたち2人の子どもに生まれて幸せです。今度生まれて来た時も2人の間に生まれて来たい】(某、売れてないのに子どもがいてる芸人)

 の言葉を紹介しつつ。

 「ありがとう」と言って死んで行ける人生、やったかな?まあ、別に死ぬ間際にのたうち回って、「イヤや!死ぬのはイヤや!」なんぞと、あるいは、一休さんの様に「死にとうない」と死んで行っても別にエエと思ったりするのだが、それでも、人生の中で一度は

【あなたたち2人の子どもに生まれて幸せです。今度生まれて来た時も2人の間に生まれて来たい】(某、売れてないのに子どもがいてる芸人)

 と。
 まあ、両親の顔を知らない人も居てるだろうから、この言葉に限定する必要もないのだろうが、「私は生まれて来て良かった」と、どっかで言えんと。「有り難う」「有り難い」。「有る事難し」だと。
 そんな時に両親も含めた『御先祖』を筆頭とする『お陰様』に対する感謝への気持が芽生えたりする。
 
 当然、煩悩を抱えているから、なにか都合の悪いことがあれば、「クソ!なんで俺はこんなんやねん」なんぞと(笑)周囲を恨み、先祖を恨み、自分を恨んだりしてしまったりするのだろうが(笑)

 でも、そういう時に便利な儀式。お盆の墓参りだったり、法事だったり、月参りだったり、あるいは誰かの葬儀だったりの仏事。そういう伝統もあったりする。
 
 ヒマな寺の住職としては、葬儀は『仕事』として純粋に有り難い。
 同時に、葬儀という仏事で、改めて『個』の大切さを感じさせて頂けるので、『個』から始まる広がり(縁)を感じさせて頂けるので、本当に有り難い。
 多分、今日、葬儀の準備をしてなければ、細木数子氏の事をボロクソに書いてたはずである(笑)