坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

愚痴聞き屋

2010年09月05日 | 坊主の家計簿
 昼間、ラジオを聞いてたら『愚痴聞き屋』という商売の紹介をしてはった。
 検索してみると、これかな?

 http://www.kikiwell.com/

 え~。。。人様の商売の邪魔をする気はないのだが、思わず「飲み屋に行け、飲み屋に」なんぞと思ってしまった。
 利用料金は10分間1000円である。1000円いうたら、ビール1本飲んで、10分以上愚痴れるぞ。ラジオ(ちなみに『それいけメッセンジャー』)では9時間利用した人も居た、との事らしいが、9時間って5万4千円か?まあ、割引もあるねんやろうけど。
 9時間。19時開店の店で朝の4時までか。まあ、1万円もあれば十分やろ。まあ、時間中、すべてが「愚痴を聞く」というわけにもいかんやろうけど。

 ちなみに、毎月お参りに来ている坊さんの御布施って、まあ、千円から3千円ぐらいなんだろうけど、読経が付いて、その後にヒマだったら1時間以上、愚痴、聞いてくれまっせ(多分)。あるいは、寺に連絡して、住職がヒマだったら、無料で愚痴聞いてくれまっせ(多分)。

 とはいえ、これは「だって、坊さんと付き合うと、後から寄付寄越せ、とか言って来そうやん」とか、「私、酒飲めへんし、飲みに行ってる時間ないし」という人には不向きである。っちゅうか、まあ、坊さんは「衣パワー!」で初対面でも話をしやすい愚痴りやすい、かも知れんが、飲み屋は、まあ、店の人との人間関係やし。初めて行っていきなり愚痴を話せる関係を作れる人(場合)もあれば、そうでない人(場合)もあるし。だから、まあ、愚痴聞き屋という商売が成り立つのだろう。

 この『人間関係』っちゅう事でいうと、私は「飲み屋」ぐらいしか想像つかない(体験していない)のだが、まあ、営業職なんぞはある意味『愚痴聞き屋』の側面がないと仕事を取って来れんのかも知れん。テレビで見た電気屋さんなんぞ、一日の仕事の殆どが「電気製品を売る事に関係のない仕事」という電気屋の人達もおったぞ。で、それでもって売り上げはアップしているらしい。顧客の買い物(電気製品ではない)をしたり、大掃除の手伝いをしたりしながら仕事を取って来るらしい。なので当然、「ちょっと○○さん、聞いてえや」から始まる愚痴を聞く事なんぞ「当然でんがな」になる事であろう。
 まあ、その電気屋さんだけでなく、他の営業職でも「すいません、ちょっと○○さんの愚痴を聞いてまして」と、帰社が遅くなった新米営業社員に対して責める人は居らんと思ったりするのだが。それが営業に繋がるのだろうし。
 でも、まあ、そういう、『営業』という面倒な事は「私、ヤ○ダでんきで買ってるし♪」とか、あるいは、まあ、顔を合わせない人だから話しやすい、愚痴を聞いて貰いやすい、なんぞの事もあるのだろう。占い師なんぞもそのジャンルに入るのだろうし。

 
 そういや、昨日深夜放送だった『T-1グランプリ2010~最強たとえ王決定戦~』を録画で録画で見てたら、議論形式で例え話をする話題の1つが「金で幸せは買えるか」だった。
 テレビを見ながら「んなもん、買えるに決まっとるやろ」と、本題である例え話と違った所で反応してしまったのだが。。。
 よく「そんな事いうけど、金で買えない幸せもある」なんぞというが、それは金があっても、なかっても条件は同じなんだろうし。だったら金で買える幸せを多く持っている方が幸せやろ。金があったら飲み屋に行って愚痴を聞いて貰う事も出来れば、愚痴聞き屋に電話する事も出来るわけやし。
 だいたい、「幸せ」って、まあ、「思い通りになる」みたいなもんやろ。「大好きな彼女と付き合う事が出来て、私はとっても幸せです」でも、「希望大学に進学する事が出来て、とっても幸せです」でも。小さい話では「ああ、今日は終電を気にせずに酒を飲む事が出来て、帰りにラーメンも食べれて、しかも自転車で帰らんでもタクシーに乗って帰る事が出来る。。。幸せ」でも。まあ、幸せって、欲望がかなう事やろ。欲望に金は付きもんでっせ。

 んが、まあ、「金で買えない幸せ」も当然ある。金持ち、貧乏を問わずに。金持ちだって寿命で死ぬ。んが、まあ、これだって、「お金があればもっといい医療を受けさす事が出来たのに。。。」と、まあ、そういう話もあるが、つまり、ここで『究極の幸せ』と『欲望の幸せ』なんぞと分けてみたりするのだが、寿命を延ばす『欲望の幸せ』なんぞは金で買える。

 と、まあ、ここで先日家族旅行の土産で買って来た梅酒を飲んでみたりする。結構、美味い。んが、この梅酒だって倍の金額で『なんとか賞』を受賞した梅酒があったので、その梅酒を飲んでたら「もっと幸せ」だったのだろう。金が無いから買えなかったが。ちなみに金が無かったから、赤イカを食べれなかったし。食べてたらもっと幸せだっただろう。っちゅうか、それ以前に金があったから家族旅行に行けたわけだ。また、土産を買う金があったから、安もんだが梅酒を今飲めているわけだ。これだって金で買った幸せだぜ。
 
 んが、まあ、死ぬ。同時に欲望は止まらない。ある先生は「欲しいものは全部百貨店にある」等と見事な表現をしてはったが、金があって、百貨店に売っているもんを買って「幸せ♪」でも、次から次へと欲しいものは出て来る。大金持ちで「百貨店ごと全部買う」なら、「この世の百貨店、全部よこさんかい」になるのやろうし(?)
 なので「金で幸せは買えるか」なら、「買えるに決まってる」なんだが、究極の幸せは金では買えません。っちゅうか、金は要りません。

 愚痴っちゅうのは現実を引き受ける事が出来ないから出て来る。「ちょっと聞いて下さいよ、うちの息子が」である。今の私の生活実態で言うのならば、このパソコン机の隣りにデッカイ冷蔵庫があって、もう、暑い、暑い。冷蔵庫も暑いやろうし、冷蔵庫に扇風機を向けたら、温風三昧で汗ダラダラでっせ。なんぞと、まあ、現実を引き受ける事が出来ない。

 『金で買える幸せ』を買える人は、『金で買える幸せ』という事に関しては『金で買える幸せ』を買えない人よりも幸せである。けど、まあ、金があってビハーラ病棟なんぞに入れたり、ホスピス病棟に入れたりする人だって愚痴をこぼすやろ。思い通りにならんかったら、愚痴をこぼすやろ。

 「私は金がないから、愚痴聞き屋に電話する事は出来ませんが、近所の人(家族)に愚痴を聞いて貰っています」も、愚痴聞き屋に電話するのも、飲み屋や、坊さん、営業の人に愚痴を聞いて貰ってるのも、同じやろ。条件の問題や。
 あ、「私はボランティアの人に愚痴を聞いて貰ってます」も。

 「私は幸せいっぱいで愚痴なんぞ全くありません」という恵まれた人は我慢してるだけなんちゃうん?なんぞと勝手に思ったりする。
 「私のような罪深い者が多くの人達に恵まれ、また、一瞬一瞬の臓器の働き、呼吸を感じて、愚痴など出て来ません。本当に有り難い事です」っちゅう人も居てるが、「ホンマけ?」なんぞと思ってみたりする。

【人間はかなしく、弱いものだ、恵林寺の僧がもし大悟徹底していたら、火中であんなことは云わず、 黙って静かに死んだことだろう、おそらく従容として、黙って死んだのが事実だと思う、火中にあって、心頭を滅却すれば火もまた涼し、などというのは泣き言にすぎない、けれども、その泣き言を云うところに、いかにも人間らしい迷いや、みれんや、弱さがあらわれていて、好ましい、私には好ましく思われる】(山本周五郎『樅ノ木は残った』より)