イオンがお坊さんの紹介を始めたらしい。
http://www.aeonretail.jp/aeonlife/expense/option/buddhistpriest.html
ただし【「イオンのお葬式」をご利用の方に限ります】との事らしいので、まあ、要するに『イオンのお葬式』に関わっている葬儀社から紹介して貰える『布施』の値段を明記して、より一層『葬儀料金の明確化』を押し進めたのか?
それにしても『イオン』である。イオンなので、私は昨日のテレビワイドショーで知ったし、
毎日新聞(http://mainichi.jp/select/biz/prtimes_release/archive/2010/05/10/000000001.000002268.html)
読売新聞(http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100510-OYT1T00866.htm)
でも取り上げられたらしいので、この影響はデカイ。
なんせ、『全国共通』『各宗派共通』の価格設定である。
紹介されている金額は、大阪での浄土真宗の布施『相場』よりも高い。が、東京での浄土真宗の布施『相場』よりも安いかも知れんし、他宗なら「そんな布施の相場を提示されたら。。。」という事も起こって来るのではないか?だって、「え?うちの父ちゃんの葬儀で坊さんに払った布施より遥かに安いやんけ」等と。
一応『僧侶』なので「布施は布施行と言いまして。。。」等と言わないといけないのだろうが、なので、「布施は本来『布施行』という行である。」と一応言っておくが、まあ、壊滅してる現実がまたあきらかにされた。『布施行』をする『側』に、布施行も喜捨もなく、やはり一連の葬儀の中で「支払わなければならない代金」だったりするのだろう。だから、「○○宗では」という事でなく、全宗派共通価格なんだろう。
また、読売の方の記事や、昨日のワイドショーでも紹介されていた言葉だが、「菩提寺が遠いから紹介して欲しい」と。
これも現実的な話でかなりある。だが、これも「なら、菩提寺の住職さんに相談して近くの寺を紹介して貰う」という関係が崩壊している現実がある事を証明している。『菩提寺』という言葉は好きではないが、長年の付き合いのある寺の住職、例えば、私が預かっている寺の門徒さんから相談されたら、私はその地域を管轄している所(教務所)の電話番号を紹介するが。それがなくとも、「あ、うち東本願寺やから、東本願寺の電話してうちの近所の寺を紹介して貰お」という関係も崩壊している現実がある事も証明している。
イオンの『お坊さん紹介』では主立った宗派は紹介しているらしい。つまり、「各宗派の伝統的な儀式」がまだ守られている。
直葬がものすごい勢いで増えているらしい。イオンでは直葬での僧侶派遣も紹介しているが、多くの直葬の場合はそれもないだろう。
先日、これは東京での話らしいのだが、「葬儀に数珠を持って行ったら、だれもしてなくて恥ずかしくなってポケットにしまった」という話を聞いた。
数珠も『形だけ』なのかも知れん。
読経も『形だけ』なのかも知れん。
宗派にこだわるのも、『布施』という『代金』も形だけなのかも知れん。
でも、この『形だけ』が守られている現実があっても、『形だけ』はある。まだ、機会はある。その『形』を通しての機会はある。習俗であっても『形』はある。その形がなくなってしまったらどうなるのだろう。
きっと、違う形の道もある。だが、残されている形がある。残して頂いている形がある。「葬式やし、坊さん呼ばんとアカン」というのが、形だけなのかも知らんが、あるいは、僧侶を呼ばなくとも「葬式やし、お経のテープを流そ」であっても、形はある。習俗であっても、残して頂いた機会がある。問われているのは、その機会をどうするのか?という事。
イオンが葬儀ビジネスを始めたのならば、大手宅配業者や、大手タクシー会社が直葬業界に参入してもおかしくはない。どの業界も生き残りに必死である。ならば、そういう話が出て来てもおかしくはない。
形にこだわるのではなく、『気持ち』が大切なのであれば、特定の宗派、宗教にこだわらずに直葬をしてその後にお別れ会をする形が増えて来てもおかしくはない。「私は無宗教ですし、特定の宗教方法でのいわゆる『お葬式』はいたしません」という人は間違いなく増え続けている。
数珠も無くなり、仏壇(お内仏)もなくなり、仏式の葬儀も法事もなくなる。
見捨てられる。
私が見捨てる側ならともかく、私は見捨てられる側である。
見捨てる側はきっと新しい道が見つかったのだろう。だから見捨てて行く。無宗教式の葬儀が増え、直葬が増える。それは「『見捨てる側』に問題がある」というから、ますます見捨てられる。
【葬儀や法事を執行する我々僧侶の後ろで参詣されている多くの方々がいる。日頃聞法を重ね、生活の中で勤行する習慣のない人には、読誦される経文や声明の音を聴いても意味不明で、そこに感動もなく価値を見出せずに、苦痛な時間を強いていることになる。それこそ大変なエネルギーの損失を放置してきたのである
新たな教化伝道の手法を論じる中で、仏事にたまたま参加される幾多の人々の莫大なエネルギーを、なんとか宗教的エネルギー源に転じる、思い切った儀式の転換が迫られているのではないか。伝統儀式はこれまで以上に大切に受け継ぎつつも、時と場所と参加者のニーズに即した新たな儀式を、次々に創生していく環境作りが大切】(南御堂2010年5月号『塵光』より)
という言葉が真宗大谷派難波別院から出ている『南御堂』に載っていたが、こういう言葉を発する『働き』が感動を生み出して行くのだと思う。
http://www.aeonretail.jp/aeonlife/expense/option/buddhistpriest.html
ただし【「イオンのお葬式」をご利用の方に限ります】との事らしいので、まあ、要するに『イオンのお葬式』に関わっている葬儀社から紹介して貰える『布施』の値段を明記して、より一層『葬儀料金の明確化』を押し進めたのか?
それにしても『イオン』である。イオンなので、私は昨日のテレビワイドショーで知ったし、
毎日新聞(http://mainichi.jp/select/biz/prtimes_release/archive/2010/05/10/000000001.000002268.html)
読売新聞(http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100510-OYT1T00866.htm)
でも取り上げられたらしいので、この影響はデカイ。
なんせ、『全国共通』『各宗派共通』の価格設定である。
紹介されている金額は、大阪での浄土真宗の布施『相場』よりも高い。が、東京での浄土真宗の布施『相場』よりも安いかも知れんし、他宗なら「そんな布施の相場を提示されたら。。。」という事も起こって来るのではないか?だって、「え?うちの父ちゃんの葬儀で坊さんに払った布施より遥かに安いやんけ」等と。
一応『僧侶』なので「布施は布施行と言いまして。。。」等と言わないといけないのだろうが、なので、「布施は本来『布施行』という行である。」と一応言っておくが、まあ、壊滅してる現実がまたあきらかにされた。『布施行』をする『側』に、布施行も喜捨もなく、やはり一連の葬儀の中で「支払わなければならない代金」だったりするのだろう。だから、「○○宗では」という事でなく、全宗派共通価格なんだろう。
また、読売の方の記事や、昨日のワイドショーでも紹介されていた言葉だが、「菩提寺が遠いから紹介して欲しい」と。
これも現実的な話でかなりある。だが、これも「なら、菩提寺の住職さんに相談して近くの寺を紹介して貰う」という関係が崩壊している現実がある事を証明している。『菩提寺』という言葉は好きではないが、長年の付き合いのある寺の住職、例えば、私が預かっている寺の門徒さんから相談されたら、私はその地域を管轄している所(教務所)の電話番号を紹介するが。それがなくとも、「あ、うち東本願寺やから、東本願寺の電話してうちの近所の寺を紹介して貰お」という関係も崩壊している現実がある事も証明している。
イオンの『お坊さん紹介』では主立った宗派は紹介しているらしい。つまり、「各宗派の伝統的な儀式」がまだ守られている。
直葬がものすごい勢いで増えているらしい。イオンでは直葬での僧侶派遣も紹介しているが、多くの直葬の場合はそれもないだろう。
先日、これは東京での話らしいのだが、「葬儀に数珠を持って行ったら、だれもしてなくて恥ずかしくなってポケットにしまった」という話を聞いた。
数珠も『形だけ』なのかも知れん。
読経も『形だけ』なのかも知れん。
宗派にこだわるのも、『布施』という『代金』も形だけなのかも知れん。
でも、この『形だけ』が守られている現実があっても、『形だけ』はある。まだ、機会はある。その『形』を通しての機会はある。習俗であっても『形』はある。その形がなくなってしまったらどうなるのだろう。
きっと、違う形の道もある。だが、残されている形がある。残して頂いている形がある。「葬式やし、坊さん呼ばんとアカン」というのが、形だけなのかも知らんが、あるいは、僧侶を呼ばなくとも「葬式やし、お経のテープを流そ」であっても、形はある。習俗であっても、残して頂いた機会がある。問われているのは、その機会をどうするのか?という事。
イオンが葬儀ビジネスを始めたのならば、大手宅配業者や、大手タクシー会社が直葬業界に参入してもおかしくはない。どの業界も生き残りに必死である。ならば、そういう話が出て来てもおかしくはない。
形にこだわるのではなく、『気持ち』が大切なのであれば、特定の宗派、宗教にこだわらずに直葬をしてその後にお別れ会をする形が増えて来てもおかしくはない。「私は無宗教ですし、特定の宗教方法でのいわゆる『お葬式』はいたしません」という人は間違いなく増え続けている。
数珠も無くなり、仏壇(お内仏)もなくなり、仏式の葬儀も法事もなくなる。
見捨てられる。
私が見捨てる側ならともかく、私は見捨てられる側である。
見捨てる側はきっと新しい道が見つかったのだろう。だから見捨てて行く。無宗教式の葬儀が増え、直葬が増える。それは「『見捨てる側』に問題がある」というから、ますます見捨てられる。
【葬儀や法事を執行する我々僧侶の後ろで参詣されている多くの方々がいる。日頃聞法を重ね、生活の中で勤行する習慣のない人には、読誦される経文や声明の音を聴いても意味不明で、そこに感動もなく価値を見出せずに、苦痛な時間を強いていることになる。それこそ大変なエネルギーの損失を放置してきたのである
新たな教化伝道の手法を論じる中で、仏事にたまたま参加される幾多の人々の莫大なエネルギーを、なんとか宗教的エネルギー源に転じる、思い切った儀式の転換が迫られているのではないか。伝統儀式はこれまで以上に大切に受け継ぎつつも、時と場所と参加者のニーズに即した新たな儀式を、次々に創生していく環境作りが大切】(南御堂2010年5月号『塵光』より)
という言葉が真宗大谷派難波別院から出ている『南御堂』に載っていたが、こういう言葉を発する『働き』が感動を生み出して行くのだと思う。