坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

行年と成仏

2009年10月25日 | 坊主の家計簿
 え~と、深夜である。「こんな時間まで何をしとるねん!」なんぞと思いつつ、え~と、「寺報を作らなアカンのぉ。。。」と思いつつ、深夜である。
 よって、ちょい、宿題。
 今日の学習会でも話してたんだが、私は過去帳に『何年何月何日成仏』と書く。ちなみに生きてた時間は『行年』で書く。

【亡くなったお人は、賜った自らの生を完結していのちの真実に帰っていかれた仏さまであります。ゆえに生き残っている私たちにとっては、そのままそのお人の一生が、仮にどんな生きざま、どんな死にざまであっても、活説法であり、その意味で人生の教師というほかありません。生き残っている者が、慰めてさしあげる、鎮めてさしあげるなどといった思いあがりはゆるされません。その人を通して、こちらが”どんないのちを生きているのか”が問われているのです。その意味から親鸞聖人は亡き人・ご先祖を「諸仏」と仰いでおられます。『諸仏」とは本尊・なむあみだぶつに導いてくださる、つまり真実のいのちに気づかせてくださる先達という意味であります。「諸仏」と申しましたが、その代表がお釈迦さまです。そのお釈迦さまのご説法が「お経」ですね。するとお経は、お釈迦さまふぁお弟子方に真実のいのちの世界を説かれたものですから、決して亡くなった人に読んでさしあげるものではありません。亡くなった人をご縁として、生き残っている私たちがお釈迦さま、つまり「諸仏」の教えに遭わせていただく質のものです。
 ”それなら、死んだ人に対しては?”とおっしゃるかもしれませんが、私たちが諸仏の教えに耳を傾けることこそが、亡くなったお方の真に満足していただける方法ですから、ほんとうの「お供え」になる所以なのです。】(池田勇諦『法事をつとめる』東本願寺出版部 P85~86より)

 っちゅう事で、今月の寺報は上記文章が載っている本を全ての門徒さんに配るので、テーマは決まったし、上記文章も使おう。その為に打ち込んだんだし。
 いや、住職祝いを教団末組織から頂いてでんなぁ。「これは私物化したらアカン」っちゅう事で、総代さん達に相談して「任せまっさ」っちゅう事になったので、『内祝』というのかな?こういう場合でも。まあ、んな感じで配るので、『教団』とかも含めて書くつもりである。んでもって、『本を見ながら打ち込む』っちゅう面倒な作業を今晩しただけでも、ああ、私は偉い、偉い、近年まれにみる好青年である。(好中年か)