坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『闇』からの名告り

2006年11月04日 | 坊主の家計簿
 11月4日

 雑費    缶コーヒー           120円
       タバコ             300円
 外食    ちゃんぽん焼き飯セット     730円
 食類    豆腐              120円
       水菜               98円
       鳥モモ肉            164円
       白菜漬け物           100円
       発泡酒2            350円
       もやし              45円
       焼き鯖             100円
 
 合計                   2127円
 11月累計               11081円

 あ~、しんど。さすがに昨日はムチャやったな。一昨日の事もあるしやな、元々ダルい中を仕事忙し→報恩講準備その1→某寺報恩講に遊びに行って、今日もまた仕事忙し。まあ、6日休みなので、その分のお参りを前倒しにして貰っててやな、そりゃしゃーない。
 ので、今日もチラっと気になってた所属寺の『若い人の集い』と云う恥ずかしい名称は最近は消えたのか?まあ、毎月の仏青みたいな会。坊主バー発祥の場でんな。あの場を気に入ったから「毎日やりましょ」で坊主バーが出来て、で、相乗効果なのか、その会にも坊主バーのお客さんが行く様になってやな。まあ、今回、今の所の流れでは「いったん閉めましょか?」なので行きたかったんだが、まあ、明日も忙しやし、報恩講前やし、あんまりムチャするとあかんし。今後の事を考えるにしても脳味噌回らんっちゅうねん。

 そういや、先日、坊主バーに行ったら、某差別事件の裁判をやられてる方に会う。違う場所で一度あって、メールのやり取りなんぞもしてたのだが、ごく普通に居てはったのでビックリ。まあ、昔からの常連、っちゅうか、坊主バーが出来る前からの知人の友達らしい。
 以前も少し喋って、この間は少しゆっくりと喋る事が出来た。
 
 もの凄く当たり前の事なんだが、差別事件なんぞ、差別が発覚した時に謝罪すりゃ裁判になんぞらなんで済む。
 「え?これって差別なんですか?すいません、私は知りませんでした。出来れば何故差別なのかもう少し詳しく教えて頂けませんか?」
 みたいな感じ。

 当然、もっと感情が入る場合もある。
 私は女性が男性にする差別もあると思って居るので、例えば女性から「男は戦争が好きだ」等と云われると当然私も『男』なので「そりゃ偏見の差別でんな」の話やな。別に『差別』なんぞ解放運動家だけが決めていいわけでもないんだし。『○○という先生が仰った』などは権威でしかなく、例えばある運動家は『女が男にする差別は差別にならない。何故なら女は男から社会差別を受けているからだ」などと云ってたが、そりゃおかしい。勝手に決めつけられたらおかしい。また、そんな慢心を増長させるから『解同潰し』になったんだし。大谷派は「解放同盟が今日の状況にあることは、解放同盟と深い縁がありながらあなた達の差別性を問えなかった私達の責任でもあります」と云えばエエと思うのだが。まあ、こりゃ私の問題だが。
 ん?そや、例えば女性が男性を差別する場合には、そりゃその女性がどれだけ男性に苦しめられたのか?偏見でもって「男達は、男達は」と云いたくなった感情もある。まずはその辺を聞かない事には話にならない。一方的に「それは差別だ!」だけなら何ら問題の解決にはならない。
 
 私がその差別事件を抱える方に願い話していた事は、単なる謝罪を相手に求めるだけでなく、相手を本当の人間にして下さい、と。つまり、自分の差別性を認める事が出来る人にして下さいと。『よゐこ』でなく、差別する事を抱えた人間である事を認める事が出来る人間にして下さいと。んなもん、誰だってするのだし。
 
 まあ、会ったのも2度目だし、メールでのやり取りも何度かして多少気心も知れて、エロ話しも出来る関係だから好き勝手に言ってたのだが、その人も「差別は誰だってするでしょ」には同意見だったし。
 当然裁判は支援するし、出来る範囲では協力しているし、当然勝って貰いたいのだが、たんに勝つだけでは私としては不満足だ。

 中外日報のホームページを見てたら本田神父のインタビューが載ってた。ケチなので中外日報を購読してないのだ。業界紙だから高いし(私にとっては)。
 本田神父は釜ヶ崎に住んでる神父さん。同時に確か上智の卒論が『親鸞』だった事もあって真宗にも詳しい。

【痛みを否応なく見せつけられるような場に自分も立ってみるということが有効な方法かもしれませんが、それだけでは不充分です。】(http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-interviews/Nint/n-d060909.htmより)

 同意見だ。でも、これだけで終わってしまう可能性がある事もよく知ってる。体験で解る。
 「エエ事してますやろ」と云う事だけで『よゐこ』に陥ってしまう。その事だけで満足してしまう。
 もっとタチが悪いのは、10年ぐらい前の私を知ってる人ならよく解ると思うが、それで裁く。
 そんなもん、坊主の資格をとったとはいえ、釜ヶ崎の近所で市民運動家達が作った共同作業所で働いてたら、釜ヶ崎で夜回りぐらい楽勝で行けまっせ。なんせ作業所のパン屋の若チーフが釜ヶ崎の教会関係者でもあるんだし。自然に行けまっせ。同時に、当時住んでた所は大阪市内やし。んなもん楽勝で行けまっせ。まあ、仕事がパン屋なので仕事の都合で行けなかった事も多々あるが。。。仕事が当然メインやし。他に関わってた事もあったし。
 その事を誇る弱さも解る。よく解る。誰だってきっと誇りたいんだし、当然、私は今現時点も変わらずそうである。
 ただ、誇るだけの為にやったんか?っちゅう問題。

【自分の中の負の部分をしっかりと受け止める勇気を持つことが、 ある意味で痛みの共感・共有につながるのではないでしょうか。】(http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-interviews/Nint/n-d060909.htmより)

 この部分は、当然私は大谷派門徒なので、本田神父が文脈の中で云いたかった事とは違う問題意識で受けとる。言葉を受けとるのは私だし。あったり前の話だが。
 釜ヶ崎の朝は早く、朝早くから仕事を求めている。よって『怠け者』と云う言葉を全てに当てはめようとするのは間違いである。
 また、ホームレス状態であっても、空き缶なんぞを集めて生計を立てて居られる方々の方が多いはず。詳しいデーターは知らん。
 
 「○○ちゃんも、ちゃんと勉強しないと大きくなったらあんな人になるのよ」
 「ホームレス?あんなもん自業自得やろ」
 と、プライドを立て、頑張る。そういう弱さ、悲しさ。

 差別なんぞ誰だってする。それは社会構造以外の人間存在の『業』みたいなもんやろ。
 そういう存在である人間が作り出す社会だから社会構造での差別が生まれる。
 決して、社会構造が先ではない。

 例えば、過去に何度も何度もネットでもリアルでも言ったが、釜ヶ崎の運動に関わっていながらも、他の差別問題や、青少年問題に関わって居る人達が
 「何もしないヤツ」等と云う。
 「あいつ等は、坊主のクセにお参りバッカリしやがって何の活動もしない」
 「こういう社会問題に関する集会には関心がないのか人が集まらない」
 等々。
 
 何を学んで感じて来てんや。。。

 大阪は人権に熱心にならざるを得ない土地柄でもあって、故に人権活動に熱心な人達も多い。
 その中のある『人権活動』といってもイイのだろう活動に熱心に参加されている方が、同じ熱心に活動して居るあるメンバーに対して愚痴をこぼしていた。
 「あの人達の論理は、差別する側の論理や。」

 当然、参加する、活動するだけで満足してしまう弱さも解る。そこから裁いて差別してしまう弱さもよく解る。
 特に、旧特権階級である聖職者でもある大谷派僧侶なんぞ。
 んが、たまに本気で頭が痛くなる時があるのだが。。。それは私の傲慢さ、弱さ以外の何ものでもないのだが。

 そういう『闇』を持って居る。その闇は、私は一直線に社会の『闇』に通じると感じる。
 社会の闇とは、象徴『よゐこ』天皇中心社会の周縁に追い立てられた存在であり、具体的には『女』であり、被差別の人達であり、アイヌ民族の人達であり、琉球の人達であり、在日の人達であり、ニートであり、不登校児であり、犯罪を起こしてしまった人達等である。

【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと】(親鸞『一念多念文意』より)
 
 誰が誰を裁けるのか?
 裁く、具体的には差別する事であり、「何もしないヤツ等」等と云う事でもある。

【神は一番貧しく小さくされた仲間たちを選んで、その人たちを通して救いの力をすべての人に伝えようとなさる方だということ。】((http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-interviews/Nint/n-d060909.htmより)

 当然、私は本田神父ではないし、クリスチャンでもない。でも、多大なる影響は受けている。
 『小さくされた』
 それは、私にとっては


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 「あみちゃん」
 小さく小さくされた、あみちゃん。
 ドストエフスキーの小説で読んだ、ロシアの寒い冬に、親から虐待されてトイレの中で糞まみれになりながら、小さな小さな手を、凍える手を合わせながら「神ちゃま」と、「神ちゃま助けて下ちゃい」と。そんな幼児とダブさる。

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 と、このブログの10月25日にも書いた事である。
 当然、エゴ存在でしか生きていない私にとっては、そういう私の問題を『問うて呉れる』大切な大切な存在でもある。無関心でなく『問うて呉れる』。

【自分の中の負の部分をしっかりと受け止める勇気を持つことが、 ある意味で痛みの共感・共有につながるのではないでしょうか。】(http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-interviews/Nint/n-d060909.htmより)

 私はこの本田神父の言葉を聞いて感じるのは『煩悩具足のわれら』と云う事である。
 『煩悩具足のわれら』の対極にあるのは『よゐこ』であり、『あいつ等』である。

 当然、そこには『敵』が出来る。
 『敵』に対しては「何をしてもエエ」なんぞというのは戦争と云う事で散々証明されている。
 当然、身内を固める。自分達の優位性をもてはやす事で仲間意識を作り出す。「何もしないヤツ等」なんぞと。


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 明日、私が出発すると言わないでください。
 今日まだ、到着しているのだから。

 深く見てください。私は毎秒、到着している。
 そして、春の樹の蕾となる。

 羽がひよわで、新しい巣でさえずりはじめた小鳥となる。
 花のなかにいる青虫となる。
 石にひそんでいる宝石となる。

 私はまだ到着している。笑い、泣き、恐れ、望むために。
 私の心臓の鼓動は、すべての生きものの、出生と死にほかならない。

 私は川のみずもで変態する蜻蛉。
 私は春になって、蜻蛉を食べる頃にやって来る鳥。

 私は澄んだ池で幸せに泳いでいる蛙。
 そして私は、静かに近づき、その蛙を飲み込む小蛇。

 私はウガンダの子供、痩せこけて、脚が篠のように細い。
 そして、私は武器商人。ウガンダに死の武器を売っている。

 私は十二歳の少女。小舟に乗った難民。
 海賊に犯されたあと、大海に身を投げる。
 そして、私は海賊。心はまだ、見ること、愛することができない。

 私は党の中央委員。大きな権力を手にしている。
 そして、私は人民にたいして、「血の債務」を払わなければならない者。
 強制労働収容所でゆっくりと死の道を辿っている。

 私の喜びは、春のよう。暖かく、生命の歩みのすべてが、花を開かせる。
 私の苦しみは、涙の川のよう。あふれて、四海を満たす。

 すべての、ほんとうの名前で呼んでください。
 そうすれば、私の泣き叫びと笑いが、すべて、同時に開ける。
 そうすれば、私の喜びと苦しみが一体であることがわかる。
 
 すべての、ほんとうの名前で呼んでください。
 私が目覚め、
 心の扉、慈悲の扉が、開け放しになるために。

 (ティク・ナット・ハン『ほんとうの名前で呼んでください』 但し、中公文庫『仏の教え ビーイングピース』棚橋一晃訳より)

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 『縁起・空→慈悲』としての『煩悩具足のわれら』