坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

実存からの名告り

2006年11月01日 | 坊主の家計簿
 11月1日

 先に10月〆。

 一般会計              126931円
 奨学金返済              10000円
 医療保険                4740円
 ネット&携帯&アマゾン        13786円
 家賃                 32430円
 水道代(2ヶ月分)           7666円
 ガス代                 2863円
 国民健康保険             25000円
 電気代(10月分)           1505円

 合計                224921円
 
 で、まとめ払いの国民年金13580円を仮にプラスするとしたら
                   238501円

 携帯電話初回請求なんで、若干高い、っちゅう以前に高いわな。。。市民税払ったにしろ高いわな。。。&裏金やないけど、香典とか志とかも払ったし、今月は出費でかい。まあ、その分よく働いたんだが。。。                 

 
 11月1日

 雑費   タバコ           300円
      缶コーヒー         120円
 食類   のり弁           250円
      無添加ワイン        438円
      納豆3            79円
      豆腐            120円

 合計                1307円
 11月累計             1307円

 ほっかほっか亭、只今、っちゅうか、11月1日、2日『のり弁キャンペーン』中。え~。。。全国は知らん。うちの近所のほっかほっか亭ののり弁が変わった(値上げした)らしく、そのキャンペーンで250円。
 ちなみに主な変更点は、容器が変わった以外では
 1 御飯の量が若干増えた気がする
 2 ちくわ天が若干大きくなった気がする
 3 タルタルソースが美味くなった気がする


 無量寿とは実存からの問いか?
 だいたい釈尊の関心は『輪廻からの解脱』であって、無いものを実体化しているか。のり弁も変わりまっせ。
 「オバはん!のり弁変わっとるやないか!」
 「ああ。。。昔ののり弁が喰いたい。。。」
 「(スーハ、スーハ)もう、俺はダメだ。。。のり弁が食べられない人生なんて『人生』なんて呼べない。(スーハ、スーハ)」

【無常であるからこそ、いまの一瞬一瞬、一日一日を有意義に充実させるという積極性と転換の可能性を示唆していたことを知るべきです。】(雲井昭善)
 
 『不安に立つ』(安田理深)
 有無の突破。まあ、縁起・空でんな。

 無量寿なんぞ縁起・空を離れて存在するわけがなく、存在するのなら梵我一如みたいなもんだろう。天地自然に
 『♪行ったきりなら幸せになるがイイ』(ジュリー)
 でんな。仏教でもなんでもないのではないのか?まあ、そういう流れもあるんだろうが。

 「今、いのちがあなたを生きている」(真宗大谷派 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ)
 
 青は青である。
 赤は赤であって、アカもアカであって、赤軍は赤軍であって、我々は明日のジョーである。
 ん?
 「ジョー!立て、立つんだジョー!」(丹下段平)

 本名。
 名告り。

 『あなたは、あなたに成ればいい。あなたはあなたで在ればいい。』(釈尊)

 本名。
 名告り。
 通名から本名への名告り。

 私の実家には地道の裏路地があった。最初の遊び場、隠れ場所。
 少し大きな石があった。その石をひっくり返してみたら、石の下からウニョウニョ、ゴチョゴチョと色んなワケ解らん虫が沢山出て来た。
 「気持ちわる~。」と同時に怖く、恐ろしく、でも、ハマった遊び。面白かった。

 「人がそこに居られる」(コザブロー先生)
【凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと】(親鸞『一念多念文意』より)

 差別。
 差別は隠されてたら、見えなければ問題にならない。
 「私(達)はあなた(達)の奴隷ではない」と云う声。
 ペットはペットでなく、存在するいのちである。首輪付けようが、金で買おうが、んなもん、人間社会だけのルールであって、関係ない。『食べ物』と呼ばれる『いのち』しかり。

 毎日の食べ物が同じ『いのち』なら罪である。
 よって、『食べ物』として罪を逃れる。
 あるいは『害虫』『死刑囚』『人権無視の北朝鮮』等と罪を逃れる。
 ヘタレが。。。オンドレは誰の人生生きとるねん。
 
 『よゐこ』は自己責任をきらう。美しき聖者を目指す『よゐこ』

 人間は人間である。どんな形をしていようが、どんな人生を歩もうが人間は人間である。
 私は私である。
 「構わんから、そのまま来い!」

 『あなたは、あなたに成ればいい。あなたはあなたで在ればいい。』(釈尊)

 そういう世界観。
 縁起・空→慈悲。

 差別という偏見。偏見で苦しんで居るのは差別者。
 「私はこういう名前なんだ!こういう人間なんだ」
 と、そこで生まれる人間関係。
 「そうか、あなたはそういう本名で、そういう人生を歩んで来られて、今、居られるのですね」
 か、
 「お前はなんでそういうヤツやねん。俺は認めんぞ」

 認めるも認めないもなく、その人は実存している。実存している存在を『観ようとしない、認めようとしない』、あくまでも『自分の思い通りに世界を支配しようとする』事は、苦であり、迷いであり、輪廻からの解脱への道ではあり得ない。自我中心、エゴだけで生きている。

 たまたま通名でなく、本名を名乗られた方との出会いによって、『私がそういう存在』である事に『気ずく』のか、『執著する存在』である実存から逃げるのか。自分自身から逃げようとするのか。

 差別なんぞ誰でもする。それは『社会』という問題でなく、人間存在としてする。必ずする。専門教育を受けたから問題にならずに済む事が多いだけの話だ。
 在日だってする。女だってする。被差別の人達だってする。「しない」等と云うのは、一部の安物運動被れの坊主ぐらいだろう。偏見と逆差別に凝り固まった人達ぐらいだろう。「素晴らしい、素晴らしい」と、「このような愚か者の私が」だけで、土下座外交だけで話を済ましてしまう人達だけだろう。

 「あなたは、あなたではないのか?」
 「私もあなたと同じ差別する様な愚かな存在です。」
 なのか、
 「お前は差別する様な罪人である」とでは違う。全く違う。

 『あいつ等』『敵』
 と、
 『同朋』『煩悩具足のわれら』

 エゴでなく、実存からの名告り
 
【吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。】(宣言より)

 「今、いのちがあなたを生きている」(真宗大谷派 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ)


 と云う事で
 『実存からの名告り~「隠さず本名で生きたい」~』か。
 まだ、甘いな。もっと強烈に訴えかける言葉が欲しいな。