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坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

コロナ禍という不安

2020年05月10日 | 坊主の家計簿
視覚障害者用の点字ブロックは約40メートル分で30万~50万円程度の費用で設置出来るらしいが、「税金の無駄使いだ!」という意見は聞いた事がない。ただ、相模原殺傷事件の犯人の様に福祉に関わる税金投入を好ましく思っていない人たちも居るかも知れない。

アベノマスクの全世帯配布は、点字ブロックと同じように国民の大半には不要である。だが、いまだに「布マスクに意味がない」程度の感染症知識しかない人たちや、それ以前に「何故わざわざマスクをしないといけないのか?」や、三密もクソもない人たちに対して「マスクあげるから着けてくれ」という意味では非常に有効である。当然、それでも無視する人はいるだろうが、政府として無視する事は出来ない。

室井佑月と米山元新潟県知事との結婚が発表された。米山氏は最近も「ユニクロのカシミヤセーターを洗濯機で洗ったら縮んだ」的な事をアベノマスクで行い炎上したような人であり、室井佑月は知っての通りの人である。
福島第一原発事故以降、一部左派の在特会化が進んでいる。論理も事実もクソもない。ただ、叩きたいだけであり、その対象が違うだけの話である。当然、以前からあったのだろうが、ある種の民意を得て、拡がりを見せている。故にデマも平気で拡散する。

平田オリザ叩きという現象もある。当然、気になった人は仕方がないのだろうが、私はNHKの原文もツイッターも見た上では「言い掛かり」の側面が強いと思う。当然、差別心は本人が自覚して居なくても受け取った側が問題だと思えば告発すれば良いと思うが、チト冷静さを失っていると勝手に思う。

何故、冷静さを失うのか?って、それも含めたコロナ禍だと思う。思考が短略的になってしまう。「ネトウヨ」「ブサヨ」と言っても様々な人たちが居ており、一括りに出来るわけがない。ただ、その集団に入る事によって居場所を確保したいという不安感から来る現象もあるのかも知れないが、江川紹子など両方認定された人も居たりもする。

「片肺不全、不安に立つしかない」とは、大谷派では超ビッグネームの安田理深先生が亡くなられた後に発見されたメモ。
コロナ禍という不安。それは様々な角度からの不安だったりするのだろうが、まずは「私は不安なのだ」と認める事がとても大切だと思う。故に、短略的になったり、誰か何かを叩いてスッキリしたい存在なんだ、と。

叩くなら、それを理解した上で、純粋にストレス発散として叩けば良い。ツイッターでの私なんぞ、どれだけブロックされているか。まあ、いきなり「バカなの?」とツイートすればブロックされて当然だわな。ストレス発散に正義もクソもあるワケがない。

教育の機会

2020年05月02日 | 坊主の家計簿
9月入学・始業に10代以下の反対77%、20代の反対73%。但し、日刊スポーツ新聞社が行ったネットアンケートでの結果であり信憑性に疑問が残る。

日本PTA全国協議会は文部科学省に対して、9月入学は慎重に検討するよう求める要望書を提出したらしい。理由の中に「突然の9月入学の議論の高まりは子どもたちに不安を与え」という事があり、同感。

離れて暮らしているとはいえ、小学生の親でもある私は反対意見だが、最終的には子どもの意見を尊重する。
PTA云々、労働者(教師)云々、国際化云々、就職云々などの「大人の都合」などどうでも良い。自分の人生の事は、自分たちで決めれば良い。

学校の授業よりも「自分の頭で考えて意思決定をする」という教育機会を与えるチャンスだろ。

新学期が始まっていないが、今年度から始まる学習指導要領を大人たちは思い出すが良い。
「グローバル化や人工知能・AIなどの技術革新が急速に進み、予測困難なこれからの時代。子供たちには自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、自ら判断して行動し、よりよい社会や人生を切り拓いていく力が求められます。学校での学びを通じ、子供たちがそのような「生きる力」を育むために、学習指導要領が約10年ぶりに改訂され、2020年度より小学校から順に実施されます。」

他府県ナンバー狩り

2020年05月01日 | 坊主の家計簿
今日はバイクでラーメン屋。バッテリー充電も兼ねて少しウロウロする。大阪は狭いが、感染者が多い大阪府民の私が他府県に出向く事は一応避けたい。
他府県ナンバー狩りというのもあるらしい。「感染症が怖い」という心情もあるだろうが、叩ける理由があれば叩きたいという心情もあるのだろう。
縁さえあれば大量殺人してしまうような存在を人間という。コロナ禍という縁で色々な人たちが様々な反応をしているだけの話。

叩いている人を悪として叩いているのも人間だから。叩いている人を悪として叩いている人を悪として、以下エンドレスも人間だから。
憎しみの連鎖、恨みの連鎖を断つ事なんて、少なくとも私には絶対に無理。そんな器用に出来ていない。でも、そんな絶望の中で「同じやん」と思う。
反戦、非戦ではなく、悲戦。戦ってしまう、叩いてしまう縁を悲しむ。

以下、オマケ。書いていたら思い出した文章で、今も何度も何度も読み返しています。
【有名な「悪人正機」説は、個人の体験を契機として、まさしく親鸞聖人の血の滴るような苦悩に満ちた心の格闘を経て、練り上げられた絶対否定の論理なのです。それは、「生生流転、無縁解脱」の罪悪深重の衆生をすべて内包している無差別の、絶対平等の救済を示しているのです。
 このような親鸞聖人の絶対平等の救済は、常識的に理解されるような支配権力を対立相手と見なして戦うという民衆救済とは次元が違います。それは「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」(『歎異抄』)という言葉に裏づけられるように、一切の有情を絶対に平等に見る、対立項のない「無縁の救済」なのです。すなわち平等無差別の救済です。
 ここでもう一つ事実を申し上げて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。前に申し上げた「紅衛兵」の良のことですが、二十三年後の一九八九年、ちょうど文化大革命の 紅衛兵たちが自分の犯した罪を反省して、謝罪が行われた時期でした。五月一日のメーデーの日、私は良から彼の家庭パーティーへの招待状をもらいました。「改革開放」のなかで、良さんは奥さんと、シューマイの店を経営して、繁昌して、とても裕福な生活をしているということでした。
 「良」という名は、私を二十三年前の「文化大革命」時代に連れ戻し、あのつらかった出来事を思い出させます。二十三年来の恨みが湧き出てきて、行く気持ちにはなれませんでした。ところが、その招待状に込められた真意あふれる懺悔の感情に引かれ、とうとう行く決意をしました。
 パーティーに出てみると、十二人の参加者は、「文革」時代の良の仲間と、彼らによって迫害を受けた人たちでした。互いに顔を合わせると、何のために招待されたか、暗黙のうちにみんな了解していたようでした。パーティーが始まり、良がコップを挙げて、「皆さん、過去のこと……」と切り出した途端に、言葉が詰まりました。「乾杯!」という誰かの声が沈黙を破り、
「乾杯!乾杯!」
「忘れた、忘れた、過去のことは忘れた……」
 湧き出てきたみんなの声。それに伴う雑然としたコップのぶつかる音。私は、その声と音を聞きながら、隠された共有の傷跡がみんなの心の中でうずいているのだと、はっきり実感しました。
 良は、その後の武闘の中で片方の目を失いました。「文革」のあと、殺人容疑で審査されたり、拘禁されたりしたこともあったそうです。良の顔を見ると、豊かな生活に養われた艶のいい顔ですが、顔に刻まれた現在の年齢とかけ離れた深い皺と、皺から滲み出るように漂う苦渋の表情が、彼のけっして楽ではない心を語っています。良は、騒いでいる皆を眺めているうちに、抑えきれずに、涙を流しました。それを見たとたん、二十三年来、私の心のなかに溜っていた憎しみが大きな悲しみに揺さぶられてどうしようもない思いでした。もちろん、歴史において人間が犯した罪は追及しなければなりません。しかし、時代の嵐に弄ばれて、悪人にならざるを得なかった人びとの苦悩と悲哀の中に、罪を犯した者と犯さなかった者という二元対立を超えた人間そのもの共通する深層的な苦悩と悲哀があるのではありませんか。】
(張偉『海をこえて響くお念仏』38頁~42頁)

生活の質?

2020年04月30日 | 坊主の家計簿
「スウェーデンを始めとした北欧諸国では、自分の口で食事をできなくなった高齢者は、徹底的に嚥下訓練が行われますが、それでも難しいときには無理な食事介助や水分補給を行わず、自然な形で看取ることが一般的です。
それが人間らしい死の迎え方だと考えられていて、胃に直接栄養を送る胃ろうなどで延々と生きながらえさせることは、むしろ虐待だと見なされているのです」(国際医療福祉大学大学院・高橋泰教授)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/45510

という死生観を持つスウェーデンでの新型コロナ対策は、テーブルなどの距離を離す「社会的距離」に対する規制はあるものの、外出規制や休校などは行われていないらしい。
生活の質(QOL)を下げるなら「死んだ方がマシ!」なのかも知れない。

日本での緊急事態宣言が1ヶ月程度延長される見通しらしい。好みの中華料理屋は2店舗とも休業中であり、好みの定食屋はメニューを絞ってアジフライ定食が食べれない。「そんなもんぐらい我慢せえ」なのかも知れないけど、どれも私の脳治療にとっては大切なものだったりする。緊急事態宣言が終わって5月になればリハビリで九州にツーリング行こうと思っていたけど、延長か…。

どんなに情け無くとも「生きてりゃ良いじゃん」的な考えを持つ私はQOLという言葉がキライだ。でも、それは平時の憧れであって、緊急事態宣言下でQOLを激しく求める自分を発見する。

新型コロナ騒動は「コロナ禍」という言葉で少し前より表現されるようになった。「禍」という漢字が読めなくて「コロナ渦」「コロナ鍋」などと書いている人もいたが、真宗門徒では「吉凶禍福」で慣れ親しんでいる言葉。凶より吉が良く、禍より福を求め迷い続ける人間の姿。

QOLをという言葉は「思い通りに生きたい」と変換しても良いと思う。そして、その「思い」に迷い、自分や他人を支配する。
数日前に岐阜市でまたホームレスが殺害されたらしい。
この事件に関しては知らないが、ホームレスに対する多く語られて来た言葉は「しっかり勉強せんと将来あんな風になるで」だったりする。

1982年に横浜であったホームレス殺害事件の中学生は「おまえらのせいで横浜が汚くなるんだ」と語っていたりする。
吉凶禍福は「鬼は外、福は内」。思いを中心に都合の悪い自分や他人を排除する。コロナ禍ならば尚更。
全く好まずにやって来たコロナ禍。という学佛道場。その中でQOLの向上を求めて緊急事態宣言延長にゲンナリしてしまう私。
でも、新型コロナで死んで行くのは老人などの健康弱者。
でも、倒産などの経済的影響はすでに出ている。過去のデーターから想像すると失業率と自殺率はリンクする。
でも、自殺者は「まだ」である。QOLの低下なりショックなりは、一応、うつ疑惑で寝込んでいる時に突然離婚を突きつけられて家族も仕事も住所も一気に失ってしまった現在引き篭りの私には、「お前と一緒にするな!」と怒られそうだが、理解出来る部分がある。

「念佛は自我意識との格闘技です」とは竹中先生の言葉。自我意識=思い。
QOLという思いは離れ難い。つか、無理。でも、例えば七夕の短冊で書くならば、「みんなと一緒に生きたい!」と書く。だから、課題になり、迷う事が出来る。「思い通りに生きれない」という苦を共にする道が開ける。
当然、その道を生きれるかどうかは知らん。でも、生きたいだけ。

罪は悲

2020年04月27日 | 坊主の家計簿
ナイナイ岡村の冗談が滑りまくっている事が話題になっているみたいだけど、あれだけベテランの売れっ子芸人でも状況判断出来なかったのね。ひょっとして鬱病が再発してるのかな?

鬱病って、「気分が落ち込む」的なイメージでは無く脳機能の問題なので攻撃的になったりもする。また、ストレス耐性も無くなって短略的になったりもする。

多分、ナイナイ岡村の冗談はコロナ禍でストレス満腹で「コロナ鬱」も心配されるような状況下で無くとも放送で流すにはアウトだったと思う。でも、今はコロナ禍。受取る私たちも冷静ではない。

「んじゃ冷静な時って何時よ」と、私の脳が問い掛ける。多分、そんなものはない。コロナ禍で無くとも何らのストレスがある。当然、程の差はあるにしても、悟ってなんか居ない。
故に、自分がどんな状況だろうが、批判を含めた様々な意見を言って当然だし、当たり前の事。

それは他人も同じ。悟ってなんか居ない中での発言。

個人的にナイナイ岡村は暫く仕事を休んでゆっくりした方が良いと思う。貯金もあるだろうし。でも、それは「あんな酷い発言をしたから公に2度と出て来るな!」ではない。人気減少は知らないが、失敗など誰にでもあるだろう。単に鬱病の再発が心配なだけである。

NHKバリバラも話題になっている。パロディ云々、再放送差し替え云々。何かを表現した場合に不愉快に思う人が居て当然だろうし、不愉快に思う人の事を「1人1人」のレベルまで考えていれば何も表現出来ない。
私は関西人なので「アホ」という言葉を良く使うが、この言葉を見ただけでも不愉快というか、辛い思いをする人も居るだろう。「アホ」は放送禁止用語ではないが、当然、傷付く人もいるだろう。

「イヤならイヤと言え!」というのも強者の考えでしかない。イヤでもイヤと言えない人もいる。

♪人生は罪重ね
罪を重ねてナンボのもの
(byジャージ・アッパー・カット)

という歌詞を思い出す。

批判は排除ではない。いや、排除は排除ではない。ストレス耐性で限界だから排除しているだけ。排除という形で出会おうとしている。意識にすら昇らない排除は排除ではない。故にウイルスの怨霊など聞いた事がない。

「如来の本願って『みんなと一緒に行きたい』という事です」とは竹中先生の言葉。だから、「えらび・きらい・みすてる」私が課題になる。

社会正義もクソもない。社会に魂を売り渡すつもりもない。コロナ禍という縁が来ても、私の課題は変わらない。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がナイナイ岡村に石を投げなさい」

と、ナイナイ岡村に石を投げた人に石を投げるのが私。あらゆる「敵」に石を投げるのが私という関係存在。
罪は悲。

無駄な仕事

2020年04月25日 | 坊主の家計簿
「休業要請をするなら補償もセットにすべき」という言葉の裏に「商売人なんか金さえ渡せば店を閉めるに決まっとるやろ」的な香りがするのは私の勝手な思い込みかも知れない。

ビジネスという言葉が好きだ。少なくとも住職時代の私はビジネスとして寺を運営していた。ビジネスだから当然の事として、取引先(門徒)は大切にする。「布施は法施に対する言葉です。法施をしなければ泥棒です」という恩師の言葉を大切にビジネスをしていた。

仮に、住職時代だった寺が休業要請の対象となった場合に、どうしただろうか?と、フト考える。補償で100万貰える。うちは小さな寺だったので100万は大きい。でも、通帳と睨めっこしながら「誰か必要な人が居るかも知れん」と従わなかったかも知れない。
また、従ったとしても、当然、休業に入る前に全ての門徒にメールや電話などの利用を促すし、また、月1だった通信を週1にしたかも知れない。当然、葬儀は行くし、法事も行く。あくまでも日常の月参りでの話。あ、葬儀や法事に行けば休業補償も貰えないか。

今日は、ツタヤ→auショップ→不動産屋→スーパー玉出に行って来た。玉出はレジが混んでいたから特番3本98円のキュウリを断念して帰宅。

無駄な仕事って、何だろう?

大阪では6店舗のパチンコ屋の名前が公表された。お陰でその6店舗は大盛況らしい。世の中には「パチンコ依存症」というものがあるという事ぐらいはパチンコを全くしない私でも知っている。故に他府県にまでパチンコをしに行く人がいる事も報道で知っている。
感染症対策としては不味いのかも知れないが、パチンコ依存症の人たちにとっては、有事でも必要不可欠な存在がパチンコ店だったりする。

かれこれ30年以上の付き合いになったBARは無茶苦茶ヒマにも関わらず今夜も開けているみたいだ。私も大阪府から自粛要請に従わない店として公表されたら「大阪府から紹介されて来ました!」と呑みに行こうと思う。

人間は新型コロナ以外でも死ぬ。
国家や行政としてはトータルでの死者数を減少させる事が最重要課題だと思うが、ビジネスの現場は別の論理で動いていると思う。

デマ規制

2020年04月23日 | 坊主の家計簿
台湾では「感染症にまつわるデマやフェイクニュースを拡散し、それが一般公衆あるいは他人に損害を与えた場合、3年以下の懲役、またはこれに300万台湾元(約1,090万日本円)の罰金を併科することができる。」という条項も入った厳重特殊伝染性肺炎防治及紓困振興特別条例が2月25日に可決されたらしい。
気になってググっていると、昨年5月7日には「災害に関するフェイクニュースを広め公共または他人に損害を与えた場合、3年以上10年以下の懲役・拘留または100万台湾元(約360万円)以下の罰金に、重傷を負わせた場合は3年以上10年以下の懲役に、死亡させた場合は7年以上の懲役または無期懲役」が盛り込まれた災害防救法第41条条文修正案が可決されており、今回はその流れの一環なのだろう。

日本で最近流行中のデマの一つに「配布されたアベノマスクにカビが生えていた」というのがある。配布された中で見つかったのは汚れなどであり、カビは配布用の中から見つかった。毎日新聞の記事の書き方の問題もあったかも知れないが、配布される前に検品で見つかった中にカビが生えていたマスクがあっただけである。
にも関わらず、「配布されたアベノマスクにカビが生えていた」と、アベノマスク反対派、賛成派無関係に流れていたりする。
仮に日本でも台湾と同様な法案が可決された場合には、そういう勘違いでも罰則が適用されるのだろうか?

デマは単なる情報不足である場合も多い。当然、明確な反政府運動や、社会混乱を狙った愉快犯も居るが、拡散する多くの人たちは情報不足の場合が多い。
または、安易に他人を信じてしまう人。例えば、大谷派で著名な○○先生が発信した情報を鵜呑みにしてしまうような、悪しき閉鎖的なムラ社会。その情報を共有する事で、ムラ社会での居場所を得る的な事。
それらの人たちも罰則対象になるのだろうか?

当然、明確な情報を知りながらも敢えてデマを流す人たちも規制すべきではない。デマだろうが、ヘイトスピーチだろうが、言論の自由であり、言論の自由は批判という言論の自由で対象すべきである。

「デマは無視すべき」という人もいる。これは、解放運動の中で「寝た子を起こすな」という問題に似ている。

「問題については、〈何も知らない人にわざわざ問題所在を知らせる必要はなく、そっと放置しておけば自然に解決する〉とする考え方の比喩的表現」(八木晃介)

が「寝た子を起こすな」だが、デマをデマとして放置しておいたとしてもデマは消えないし、何周遅れだったとしてもデマを鵜呑みにしてしまう人が出て来る。政治不審やマスコミ不審の中からデマに引っかかる犠牲者が増えるだけの話である。
誰だったか忘れたが、ある運動家が「私らやってる事って宗教みたいなもんですよ。差別なんかすぐに無くなるわけがないし、批判しても批判しても次から次へと出て来る。でも、批判しなけらばならない。それは、いつか差別が無くなる世界に願っているから」的な事を話していたが、デマも同じだと思う。

台湾では回答者の74.1%が「国家の安全が報道の自由より大切」と考えているらしい。
当然、国の成り立ちが全く違う。ただ、日本は台湾みたいになるべきではないと思う。

デマが規制される事は、災害時の情報混乱を防ぐ為には有効的なのかも知れないが、変わりに失うものが大き過ぎる。デマも確かに過ちなのかも知れない。ただ、その圧倒的多くは、勘違いであり、情報不足である。極論化しまうと「アホは情報発信するな!」という事になる。
また、人はデマに騙される自由だってある。また、周囲から「カルトだ!」と言われている宗教を信仰する自由だってある。

日本は台湾に比べると遥かに平和である。だったら平和ボケで十分だと思う。デマを含めた言論の自由があり、それを批判する言論の自由もある。「お上」が口を出す問題ではなく、相互批判で解決すべき問題だと思う。

ある時ない時

2020年04月20日 | 坊主の家計簿
最近、私は今日がいつなのか分かっていません。緊急事態宣言が出されたのは4月初めだった印象はあるのですが、おお!もう20日なのか…。自律神経もかなり壊れているのか、なんか寒くて布団は真冬モードのままだったりします。そして、ずっと頭が重痛くて、常に眠たくて物凄く沢山寝ています。

さっき色々とググったので調べるのが面倒になりましたが、昔に和田先生が「551がある時!」「ない時」みたいな事を法話で話していました。551がある時は喜び、551が無い時はションボリする。確か清沢満之の言葉だったかな?あ、当然、551の豚まんの話ではなく、如来の云々だったかな?忘れました。
若き和田先生は清沢満之の「551がある時!」の部分ばかりを読んでいて、「ない時」をマイナスイメージで捉えていたみたいです。でも、老いた和田先生は「ない時」の大切さを話していました。確か「ない時」も出会っているんだ、的な流れ。私は適当にしか書かないので、適当に読んで下さい。そして、キチンとした話はキチンとした人に聞きましょう。

老いた和田先生は、同じく老い、しょぼくれた親鸞の話も良くしていました。そして、「ますます確かなものになって来た」云々と。これまた、キチンとした話はキチンした人に聞いて下さい。

そんな話を聞いたから思い出していたりするのですが、なんか、出来ない事が増えて来ると同じく、出来ない分というか、「どんなお前でも見捨てない」という言葉が身近に感じたりします。

これまた出て来ない…。「如来、我となりて」あ、ググろ。「如来我となりて、我を救いたもう」か。

今日は、変わらず「信長の野望」という何度も何度も遊んだゲームをしながら、YouTubeから落とした落語を聞いたり、ラジオを聞いたりもしてました。で、さっき投稿した、これまた脳味噌腐っているから出て来ないからググったけど、「変死の11人がコロナ感染」というニュースを聞いた。

緊急事態宣言から丁度折り返し点ぐらいなのか?警察からのリークなのか不明だが、結構衝撃的なニュースだと思う。22時過ぎたし報ステでもやってるかな?「自粛疲れ」という言葉が最近やたらと聞かれるし、昨日は湘南だったかの海に出かけた人が叩かれていた。そんなタイミングでの衝撃的なニュース。
当然、シャン!と出来る人はやれば良い。でも、出来ない人が居ている事も忘れないで下さい。そして、叩かないで下さい。周囲から見るとサボっているようにしか見えないかも知れませんし、本人も「自覚」という意識まで登って来ているのかどうかは分かりませんが、でも、そんな人なんです。バカでダメで、周囲に迷惑をかけているかも知れません。でも、そんな人なんです。新型コロナでの感染拡大で弱者を守る為にマスクをするような気持ちで、「出来ない人」も守って下さい。

自治

2020年04月20日 | 坊主の家計簿
「ドイツでは国からの給付が2日で届いた!」
「韓国では新規感染者数が1桁になった!」

と、一部旧左派系の人たちも騒いでいるが、確か新型コロナ騒動前はマイナンバー制度(ドイツは納税者番号だが)や、監視社会に反対していたはずだが、一気に崩れたのね。故に「旧左派系」と呼ぶ事にした。若しくは「平時の道楽左派」か。

田原総一朗が安倍総理に取材した事を記事にしていた。少し引用。

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僕は、「なぜ国が直接給付すると決めなかったのか」と、安倍首相に問うた。
「実は戦後日本では、地方自治体が主体性を持ち、国から直接給付となれば、独裁になってしまう。だからできないのです。」
(中略)
さらに、欧米では緊急事態宣言のもと、政府の出した要請に反すれば罰則がある。
罰金、あるいは逮捕もありうる。
ところが日本では、罰則規定がない。
「これでは少なからぬ国民が、守らないのではないか」と聞いた。
安倍首相は、「こういう時に罰則規定をもうけないのが、戦後日本の体制である。
それをやると圧政ということになる」と言う。
戦前の日本は、国に強い権限を持たせたことが、戦争という大きな過ちを生んだ。
だからこそ、戦後日本は、民主主義、地方分権とし、国の権力を抑える国として復活を果たした。
それはもちろんよいことなのだが、こうした「戦時」の場合は、舵取りが難しいであろう。
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「改憲反対を叫んでいる連中は、日本に爆弾一発落ちたら真っ先に『政府は何をしている!』と叫びだすだろう。」とは、右派系からのイヤミだったが、新型コロナ騒動という「戦時」の中で、一部旧左派系では証明されたみたいである。それらの人たちの間では、戦後民主主義よりも、政権批判の方が大切みたいである。
どんな願いで戦後民主主義が作られたのかを、もう一度考え直してみると良い。

日ごろの心を忘れない

2020年04月19日 | 坊主の家計簿
工場バイトでの検品作業はゲーム感覚で物凄く面白かった。半導体なら電子顕微鏡でロットから決められた枚数を決められた数カ所を検品するのだが、私的ゲームでは不良発見がポイントになる為に不良がないと面白くない。ある日、渋い顔をして作業している私に正社員の上司が「どうかした?」と聞いて来た時に「不良がないんですよ…」と答えると「無くてエエねん」と笑われた。

エアコンなどのコンプレッサーのシリンダーは全品検査だった。決められた水準までは良品として通して行く。ある日、不良が大量に出た時があった。1箱20の内、良品が1つもない事もあった。すると工場が止まる。正社員の上司は工場を止めたくない為に「ここまでは通せ」と検査基準を変更して来る。それでも良品が殆ど出て来なくなって、結局、工場停止。暫く掃除の日々が続いた。

アベノマスクに汚れや異物混入などの不良報告が多数上がって居る。恐らく、限られた納期の中で大量の枚数を出荷しなれけばならず、検品が甘くなっているのだと思う。
記事への反応を見ていると、「避難所でフルコース料理を求めるお嬢様か?」という言葉が思い浮かんだ。でも、ハッ!とした。
確かに今は緊急事態宣言が全国で発令されている状況下である。故に私も有事という言葉を使い、ついつい「日ごろの心」を見捨てようとしている。アベノマスクでの反応ならば「この緊急時に何を呑気な事」などと思ってしまう。でも、こんな緊急時であっても「日ごろの心」を忘れて良いわけがなく、むしろ、残された「日ごろの心」を忘れない為にも不良マスクへの不平不満は必要なのではないのか?

「花見をしている人たちがいる」などの通報があるらしい。当然、通報した人は元来通報好きな人だったのかも知れない。でも、そうではなく、平時には大らかな気持ちだった人が余裕を失い、有事モードに移行して「こんな御時世に花見をしているなんて!」になってしまったのかも知れない。だとするならば、寂しい話である。

感染のピークはまだ先だろうし、実態経済への影響は先が見えない。故に、恐らく、どんどんと「日ごろの心」が奪い取られる事になって行くのかも知れない。
「有事だから当然だろ!」ではなく、有事であったとしても、「日ごろの心」を忘れずに、堂々と不平不満、愚痴を言うべきだと思う。いや、言葉を改める。有事だからこそ、「日ごろの心」を忘れずに不平不満、愚痴を大切にすべきだと思う。

アホとしての独立

2020年04月17日 | 坊主の家計簿
今回の新型コロナ騒動で能力を発揮した政治家の筆頭は千葉市長、次点で国民民主・玉木で、その次に吉村府知事かな?立憲・枝野は支持率が誤差の範囲では治らない大幅な下落だが、今日の10万円騒動でのコメント

「また、一度政府が決めた予算編成の方針。それをぎりぎりになって、政府与党の方針転換で組みかえをするという、前代未聞の事態におちいりました。ガバナンスの点からも問題だと言わざるを得ません。」
「これが本当なら問題です。一人10万円との調整や、対象の見直しなどは必要であり、規模が小さくなることはあっても、全面取下げでは、特に減収の大きな方などへの支援が足りなくなります。」

は、良かった。次回選挙では国民民主に投票しようかと思っていたが、立憲に考え直すかも知れない。

血気に逸っている人には物足りないのだろが、物凄く残念な事に日本は独裁国家でもなく、大統領制でもない。言葉巧みで演説が上手い人を崇めたてる危険な風潮が最近特に盛り上がっているが、そんなものは不要だ。それらを求める人は、れいわ新撰組・山本代表の事を「総理に相応しい」と思うのかも知れないが、2人の障害者議員は相応しくないと思うのだろう。強烈なリーダーシップの下に従う国民像は真っ平ゴメンであり、故にまあ、れいわ新撰組は「カルト臭い」のだろう。
各調整が必要であり、10万円騒動でも「立憲」という視点からクレームを付けた議員は知り得る範囲では枝野だけ。この御時世に支持率下落覚悟でよく発言した。

先に投稿した #四谷三丁目 。無知なのか、悪意なのか不明であるが、結果的にこの投稿は煽りになっている。故に情報の信憑性などどうでも良い人たちが煽りに使っている。「これを批判する人はネトウヨだ」などという安易なレッテルを貼る事からも頭の悪さが明らかだが、物事なんて複雑な事よりも簡単な方が楽で良い。敵か味方で分けた方が楽で良い。そして善なる立場から悪を叩く事は気持ちが良い。

「侵略戦争ではなく、アジアの解放だ!」という論理は「大衆を啓蒙する」になった。
或いは「話し合えば私の気持ちを理解してくれるはずだ」など。そして、同意しない他者を「ネトウヨ」だの、或いは「在日認定」などと簡易な思考、カルトに逃げる。真実は常に自分側にあり、そこに証明は要らない。データーも要らない。確か情報ソースも要らない。だって、「私が正しい事を証明したいだけなんだもん!」というヤツか。
客観性よりも心象を重んじるならば法律は要らない。故に独裁者を好む。法律もクソもなく、自分たちの思いを叶えてくれる独裁者を好む。カリスマを好み、求める。

社会不安は思考力を低下させる。当たり前だ、個人としての生活があり、その上で社会不安が来たら必要な情報量の多さにパンクする。それが今の状況であり、それだけの話。恐らく普段「ソースは?」と言っていたであろう人たちもソースの信憑性よりも不安な心象を癒し塞いでくれる情報を求める。それは、政府情報を鵜呑みにする、福島第一原発事故当時であれば「御用学者」の意見を鵜呑みにする事も、その反対意見を鵜呑みにする事も同じ。一つの仲間内を含む共同体でのカリスマの意見を鵜呑みにする。

緊急事態宣言が全国対象になったらしい。採用するかどうかは知事次第だが、「緊急事態宣言」という言葉のストレスは半端ない。また、当初の予想通りに感染者&死亡者数もまだまだ増加するだろう。故に益々思考が単純化されて行くだろう。
私が陰謀論者ならば、「安倍政権は独裁国家を作る為に新型コロナ感染を敢えて阻止しようとしない!」と言っているかも知れないが、まあ、単なる陰謀論でんな。

思考には限界がある。故に、物凄く単純に「ワテはアホやから決め付ける事なんぞ出来るわけない」で押し落とせば良い。どんなに演説が上手く、言葉に説得力があろうとも「ワテはアホやから」で押し通せば良い。変に優れた存在に憧れるから独裁者に引っかかる。
民主主義は衆愚政治だ。アホでも優れた人でも共に1票しかないのが民主主義だ。アホが自信を失う所から独裁国家への道は始まっている。アホがアホとして独立すれば良い。

平時の道楽?

2020年04月13日 | 坊主の家計簿
「違いを認め合う」というのは平時の道楽だったのだろうか?それとも、苦難の中でも目指して行こうという事なのだろうか?

中東各地でモスクの閉鎖が相次ぐ中、SNSに「礼拝できないぐらいなら、感染して殉教した方がましだ」と書き込んだ方がいるらしい。その強い信仰心から、ふと病気治し系の宗教団体はどうしているのかが気になり、少し探すと色々と問題になっているみたいである。
ある教団では、服薬などの医療行為やアルコール除菌は「霊体を汚す」として否定しており、そんな中でも毎月2日間、計4000人を集めた集会を開いているらしい。三密であり、集団感染を不安視された人たちが反対の声を上げている。

千里にある国立民俗学博物館が好きで若かりし一時期良く行っていた。様々な民族の文化があり、宗教観があるという事を知る事が出来た。それを日本に置き直すと、例えば大峰山の女人禁制の山だったりするのだろうけど、その文化の中に生きて来られた方を否定する権利は誰にもない。

WHOが宗教関係者向けのガイダンスを出したらしい。
仮の話だが、信仰上での教えと、WHOが対立した場合には、WHOに従った方が感染症対策としては正解なのだろうけど、信仰はどうなるのだろうか?あくまでも机上の論理であり、現場では様々な工夫などをされている事だと思われるが、どちらを優先すべきなのだろうか?

公衆衛生に沿う事が出来る宗教や文化に生きる人たちは「善人」として居場所を与えられ、沿う事が出来ない宗教や文化に生きる人たちは「悪人」として居場所を奪われて排除の対象になるのだろうか?そして、それを当然の事とするのだろうか?それとも、「ごめんなさい」するのだろうか?

正義中毒

2020年04月10日 | 坊主の家計簿
バタイユ!あ、何でもありません。深夜に外出自粛要請を無視して御近所定食屋さんでムッチャ大きなアジフライを食べて少しハイなだけです。

引き篭りというのは「外に出たくない」というよりも「外に出れない」という方が私の場合にはシックリ来ます。酷い時は尿意の勢いでしか身体が動きませんし。そんな中で「外に出るな」と言われたりすると、ようやく少し動くようになった気持ちも絶たれたりします。また、脳を休めないと行けないにも関わらず、どうしても新型コロナ騒動が気になってしまいます。故に脳も疲れますし、外出自粛要請でのストレスで気分的な鬱も酷くなって耐えきれずにアジフライです。まあ、店内ガラガラですし、券売機のチェーン店ですから濃厚接触もクソもありませんが。
逆に言うと、私の新型コロナ騒動でのストレスはこの程度だったりします。無職ですから「仕事がヒマになった」などというストレスはありません。また、引き篭りですから感染リスクは低いです。
でも、多くの人たちが物凄い不安な状況に居る事は、実体験として経験は出来ませんが、様々な情報から何となく分かります。

「正義中毒」という言葉をある記事で知りました。記事内容としては違和感ありまくりなのですが、画像の部分は共感出来ます。ただ、私の場合は「集団」というよりも、「価値観」という部分、要するに私のプライドだと思います。私は51年間生きている中で「おおらかな人」と呼ばれた事はありません。プライドの高い神経質なのが私だったりします。故に、攻撃性も激しいです。
ですから、たった一度法話で聞いただけの「恨みに寄らす『悲しいね』と言えるかどうか。南無阿弥陀佛と言えるかどうか」という鍵主先生の言葉は忘れる事が出来ません。まあ、それでもこんなんですが。

デマ叩きは変わらずです。「引き篭り=2ちゃんねる」という概念がありましたが、私の場合はツイッターだったりします。脳内麻薬が出るのでしょう、スカッとします。当然、「私は正しいんだ!」というプライドも満たされてます。自己承認欲求です。
今日はフト、このままの勢いで戦争にならないかな?という事を思いました。日本だけでなく、世界の多くの国の人たちが不安になり、思考が短略的になっています。日本でも「あの安倍総理」がハト派に見えてしまうような状況です。

若い人には信じられないでしょうが、哲学者や思想家が流行った時代がありました。「吉本隆明、メンズビキを着る」だったかな?そんな企画が雑誌で行われたり、カフェBARで浅田彰を語る事が「トレンディ」だったりしました。若かりし私も意味なく浅田彰を読んで「全く分からん!」と思いました。結局、ハマったのは当時テレビにもバンバン出ていた栗本慎一郎であり、当然、今思い返してみると色々と問題はあるにしても、「土徳」という言葉を知る前に暗黙知を知る事が出来たり、当時は若手だった鬼の研究者・小松和彦や、そしてバタイユを知りました。爺ちゃんもでしたが、親父も異常な読書家であったので、本棚からバタイユを借りて読んでました。そして「難しくて分からん!」と。ただ、破壊衝動が人間にはある事、また、それに快感を感じてしまう事などの印象はあります。当然の友人に「人間は戦争が好きや」と言って怒られた記憶もあります。
仏教では、それも含めて「業」というのかも知れません。恐らくもっと的確な言葉があるのかも知れませんが、私は知りません。

集団感染が発覚した京都産業大学にはクレームが凄いらしいです。当然、普段からクレーマーは多くいますが、多分、新型コロナ騒動での不安から来るストレスで増えているのだと思います。より一層「叩け!叩け!叩け!」だったりします。それは、恐らく私のデマ叩きと同じようにストレス発散して心のバランスを取っているのかも知れません。「お前とは違う。俺は弱者を守る為に戦っているのだ」と言われるかも知れませんが、私的には同じだと思います。

福島第一原発事故当時には、人権派だと思っていた週刊金曜日が悪魔狩りを始めました。週刊金曜日がそうなのですから、他の雑誌や多くの運動家たちも「原発マネーに関わった人たち」などと悪魔狩りを始めました。仕事としてCMに起用された人たちまで悪魔狩りの対象になりました。そして、事故の余韻がまだまだ残っている中での新型コロナ騒動です。的確な言葉かどうか不明ですが、日本の精神史にとっては良くない状況だと思います。
当然、「魔女狩り」「精神史に良くない」という私の発言も一つの正義です。「精神史」などと出した私は、恐らくもっと危険です。健全なる精神史があるという、物凄く危険な思想です。そして、「危険性を感じる分だけ貴方たちより私は健全」と感じてしまう私も容易に発見出来ます。

私は真宗大谷派という一つの宗教教団に属して居ます。正しい話は諸先生たちに聞いてもらいたいですし、信仰心も弱いかも知れませんが、物凄く影響を受けている事は確かです。そんな中で「罪悪深重煩悩具足のわれら」という言葉を教えてもらいました。大阪下町語訳では「みんな気い狂ってアホや」だったりします。
今後、新型コロナでの感染や、経済からの不安から来るストレスで益々「叩け!叩け!叩け!」になるかも知れません。それは、叩く人を叩く事も同じです。
仏教では人間存在の事を「衆生」と呼びます。確か原語的な意味では「五蘊に執着する存在」だったかな?要するに自分という存在に執着する存在が生身の人間と。
変わらんのだ。そして、何か分かったような意見をしてしまう私に対して阿弥陀如来は「アホかボケ!お前が一番カスじゃ!」と。

当然、ここにも慢心があります。でも、多分、阿弥陀さんはそんな私の事など遠山の金さん的に「やいやい。よくもそんな戯言が言えたもんだな。何もかも、この桜吹雪がお見通しでえ!」的な感じで信じて貰っているのだと思います。
児玉先生が「浄土真宗は0点の人間が100点までの人間を救うのだ」と言われた事がありました。私はまだそんな境地には至っていません。

昔、ミナミに、みんなから「アホ」と呼ばれたヤツが居ました。実際に本当にアホで物凄く頭が悪かったです。少し年下だったかな?とりあえず気安く接していました。そんなアホとある店で同席して話している中で「俺はみんなから『アホ、アホ』と呼ばれるけど、でもみんなと一緒に居る事が嬉しいねん」と言いました。実際に彼は公衆電話で当時の恋人と数時間別れ話をしている時に2時間程、少し距離を置いた所で私を待ってました。

私にとっての南無阿弥陀佛の現代語訳は最初「寂しいから分かりあいたい」でした。その後に竹中先生から聞いた「みんなと一緒に生きたい!」という言葉になりましたが。

言葉も感情も読み取れない人にとっては、京都産業大学へのクレームなどと、猛烈に愛している人への告白も変わりないと思います。ただ、「ああ、この人は物凄く熱心に相手に何かを伝えようとしているのだ」と。
ほな、寝ます。明日もアジフライ♪街かど屋のトロアジフライ♪デカくて身厚のホッコリ、アジフライ♪醤油かけて美味しいアジフライ♪一口食べると脳内麻薬のアジフライ♪

ぼくがかんがえたさいきょうのけいざいたいさく

2020年04月08日 | 坊主の家計簿
FRB議長などの世界中の公的な経済人などが「景気は後退する」と発言しようが、「緊急事態宣言を出します」と報道されようが、総理が「戦後最大の経済危機」と記者会見で言おうが、どこ吹く風で上がり続ける日経平均。怖くて手が出せないが、そか、過去のチャートを見れば決算などの数字が出るまで反発するのか。

一部野党やマスコミが「30万給付は対象者が少な過ぎる!」「真水で100兆ぶち込め!」と勢いついているが、危機感が全く違うのでは?そんな程度では太刀打ち出来ないのが「戦後最大の経済危機」なんだろうし、余力を残して置かないと、どうしようもない。
戦争映画的には、恐怖に煽られた部隊が敵が遠くに居る間から弾を撃ちまくって弾切れで壊滅する。或いはペテン師の「弾なんぞ幾らでも作ればエエんじゃ!」という甘言に騙されて部隊壊滅したり。
民主党政権時代もそうだったのだろうが、野党よりも官庁含めた政府の方がより多くの議論をしている。議論している人数は何桁違うのだろうか?

まあ、少数派の「ぼくたちがかんがえたさいきょうのけいざいたいさく」などの声も議論の一つとして考慮して、犠牲を少なくして貰いたい。
私も預金が無くなれば犠牲者の1人になるだろう。死ぬのが先か路上生活が先かは不明だが、犠牲は少ない方が良い。
首相公邸には幽霊が出るという噂がある。当たり前だ、毎年多くの人たちを見殺しにしているのだから。医療含めて金があれば助かった人命など幾らでもある。だから幽霊が出る。
毎日食べているものは、生き物を殺したものである。犠牲は無くせない。尊くない生命などあり得ない。でも、殺し、食べている。それが現実の生活(死殺)である。それが沙婆である。
個人的には人権無視上等で福島に貧乏農場を作って貰いたい。ほれ、人生ゲームでゴール間際にありましたやん。やっぱり路上生活はイヤだし、でも、仕事が無ければどうしようもない。安月給だろうが、別に構わない。貧乏農場という言葉が悪ければ、梶大介の「いし・かわら・つぶて舎」か。
政府でも良いし、梶大介の意思を継いだ行動力のある人がクラウドなんちゃらを使って作るもよし。教団がやるもよし。出来れば、うつ疑惑の引き篭り状態の私も参加出来るような形が好ましい。ええ、身体が動く日は働きますし、障がい者の自立支援と同じように、何か出来る仕事もあるかも知れませんし。
まあ、それ以前に戦後最大の経済危機も懸念で終わるのが一番ですが…。

不要不急の外出

2020年04月06日 | 坊主の家計簿
飲み屋時代に「バーテンダーとは自殺を考えた人が最後に会いに行く人」という言葉を大切にしていて、実際に経験もした。

不要不急の外出とは、人によって違い、他人様から指示されたり文句言われる筋合いはない。ただ、慎重だった政府が緊急事態宣言を出さざるを得ないぐらいに大変な事態である事を自分の頭で考え、判断すれば良いだけ。