アウトローたちを描いた阿佐田哲也の『麻雀放浪記』
小市民的な生活を送っている僕には結構、ざわざわする。
たとえば、博打打ち・ドサ健のこんなせりふ。
「手前っちは、家つき食つき保険つきの一生を人生だと思っていやがるんだろうが、その保険のおかげで、この世が手前のものか他人のものか、この女が自分の女か他人の女か、すべてはっきりしなくなってるんだ。
手前等にできることは長生きだけだ。糞ォたれて我慢して生きてくんだ。
ざまァみやがれ、この生まれぞこない野郎」
ドサ健は小市民的な生活より、キリキリするような博打の勝負の世界を求める。
命ぎりぎりで生きているから生命の燃焼を感じることが出来るし、自分の女を賭けの対象にして真剣勝負をしているから、女を愛していると心から感じることが出来る。
一方、それは命を縮める生き方でもある。
行き着くところは、すべてを失い、スッカラカンになって死ぬ、野垂れ死だ。
だが、ドサ健はむしろそれを歓迎する。
長生きや平穏や我慢など、糞喰らえというわけだ。
ざわざわさせられる生き方ですね。
作品の舞台が戦後復興期であるというのも関係している。
終戦直後は、あたりは焼け野原で、人々は何も持っていなかった。
みんなが同じで、法律もゆるく、無法も許された。
しかし、町が復興し、秩序が出てくると、人々は職に就き、家族をつくり、安定を求めるようになった。
つまり小市民の誕生であり、アウトローには生きにくい時代の到来だ。
ドサ健の先程のせりふは社会から疎外されたアウトローの悲痛な叫びと言っていい。
ドサ健はシロウト相手に安易な賭け麻雀をする博打打ちにこんな事も言っている。
「ケチな客のお守りして細く長く稼ごうなんてやめちまえよ。
世間の人間は、暮らしていくことで勲章をもらうが、俺たちはどれだけすばらしい博打を打ったかできまるんだ」
これぞ博打打ちのプライド。
短く激しく、生命を完全燃焼させることがアウトローの生き様なのだ。
小市民的な生活を送っている僕には結構、ざわざわする。
たとえば、博打打ち・ドサ健のこんなせりふ。
「手前っちは、家つき食つき保険つきの一生を人生だと思っていやがるんだろうが、その保険のおかげで、この世が手前のものか他人のものか、この女が自分の女か他人の女か、すべてはっきりしなくなってるんだ。
手前等にできることは長生きだけだ。糞ォたれて我慢して生きてくんだ。
ざまァみやがれ、この生まれぞこない野郎」
ドサ健は小市民的な生活より、キリキリするような博打の勝負の世界を求める。
命ぎりぎりで生きているから生命の燃焼を感じることが出来るし、自分の女を賭けの対象にして真剣勝負をしているから、女を愛していると心から感じることが出来る。
一方、それは命を縮める生き方でもある。
行き着くところは、すべてを失い、スッカラカンになって死ぬ、野垂れ死だ。
だが、ドサ健はむしろそれを歓迎する。
長生きや平穏や我慢など、糞喰らえというわけだ。
ざわざわさせられる生き方ですね。
作品の舞台が戦後復興期であるというのも関係している。
終戦直後は、あたりは焼け野原で、人々は何も持っていなかった。
みんなが同じで、法律もゆるく、無法も許された。
しかし、町が復興し、秩序が出てくると、人々は職に就き、家族をつくり、安定を求めるようになった。
つまり小市民の誕生であり、アウトローには生きにくい時代の到来だ。
ドサ健の先程のせりふは社会から疎外されたアウトローの悲痛な叫びと言っていい。
ドサ健はシロウト相手に安易な賭け麻雀をする博打打ちにこんな事も言っている。
「ケチな客のお守りして細く長く稼ごうなんてやめちまえよ。
世間の人間は、暮らしていくことで勲章をもらうが、俺たちはどれだけすばらしい博打を打ったかできまるんだ」
これぞ博打打ちのプライド。
短く激しく、生命を完全燃焼させることがアウトローの生き様なのだ。