平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

日本惜敗! しかし心にしっかり刻まれた!

2010年06月30日 | スポーツ
「感動をありがとう」サムライ完全燃焼(読売新聞) - goo ニュース

 エキサイティングな時間をありがとうございました。
 勝敗は二の次、われわれにたくさんのことを教えてくれた。
・チームワーク
・団結して闘えば、1の力が2にも3にもなること
・諦めない心、強い気持ち
 試合後も素晴らしい。
・PKで失敗した駒野選手をみんなで励ます。抱きしめる。
・岡田監督は「すべては私の力の足りなかったせい」と責任を自分に持ってくる。
・本田選手は「今回の経験を次に活かしていきたい」とあくまで前に踏み出す。

 観客のあるスポーツでは、そのプレイで何かを表現するかが問われている。
 今回の日本代表の試合を見た者はおのずとこれらのことが心に刻まれる。
 今回の試合を見た者は、実生活でも仕事で失敗した同僚をいたわる気持ちを抱くだろう。
 一方、野球賭博の大相撲は?
 真面目に相撲に取り組んでいる力士は別として、ふやけた体のふやけた精神の賭博力士から学ぶことは何もない。
 何が「相撲道に精進する」だ。懸命に上を目指していれば、ギャンブルなどやっている暇はないはず。

 さて、再びワールドカップ。
 まだ祭りは終わっていない。
 日本戦のハラハラドキドキする様な感じはないが、今度は理性的に余裕を持ってベスト8のスーパープレイを楽しもう。
 今回目に焼き付いたパラグアイが上位陣とどの様に闘うかは見物だし、お祭り男・マラドーナ監督もいる。
 マラドーナ監督、あまりにも選手に熱い抱擁をするものだから<男が好き>疑惑?
 すぐに「俺は女が好きだ。今も31歳の金髪女性とつき合っている」と否定したそうだが、<31歳の金髪女性とつき合っている>と自分でわざわざ暴露しなくても……。

 まだまだ祭りは続く。


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座頭市 その魅力的なキャラクター

2010年06月29日 | 邦画
 北野 武監督の「座頭市」を見た。
 「座頭市」というのは映画を創る人にとって魅力的な素材なんでしょうね。
 新作では香取慎吾さんがやり、異色では「イチ」で綾瀬はるかさんがやった。

 では「座頭市」の魅力とは何か?
 まずは目が見えないのにメチャクチャ強いということ。
 <目が見えない> 戦う主人公にとってこんなハンデ、マイナスはない。
 だが、このマイナス要素と強さのギャップが主人公像を際立たせる。
 北野版の「座頭市」では<目が見えない>ことを逆手にとって、プラスにしていた。
 たとえば博打。目が見えない分、聴覚が鋭く、サイコロの音を聞き分けられる。結果、丁半博打は大当たり。
 あるいは臭覚。血の臭いを嗅ぎ分けられる。結果、その人間がどんなに善人を装っていても悪党であることがわかる。
 そして北野版では、目が見えないから人の心の善悪も見分けられると結論づけていた。

 <居合い>というのも「座頭市」の魅力。
 時代劇では様々な殺陣が見られるけれど、居合いはなかなかお目にかかれない。
 それが新鮮だし、斬ってすぐに鞘に収めるという<居合い>の技が凄すぎる。
 北野版「座頭市」では、居合い刀を放り投げて遠くにある鞘に収めるという遊び、究極のスゴ技を見せていた。

 そして魅力の三番目は<仕込み杖>。
 これは小道具として、武士の刀やガンマンの拳銃がいかにも「武器ですよ~」自己主張しているより凄みがある。
 居合いの技ともマッチしている。
 北野版では、この<仕込み><隠し武器>というアイデアを膨らませて、三味線に刀を仕込むという姉弟を登場させていた。

 この様に座頭市は日本が誇る究極のヒーローである。アメリカ映画でいえば、スーパーマンやスパイダーマンといった感じか。
 そして演じる役者によって、出て来る味が違ってくる。
 北野版の「座頭市」では、人生の酸いも甘いも知り尽くし、世間の冷たい風を顔に刻んだ座頭市が描かれた。ユーモアもあった。
 香取慎吾さんの「座頭市」は未見だが、どんな座頭市なのだろう。
 勝慎太郎さんやビートたけしさんの真似でなく、香取さんでしか出せない味の座頭市を演じてほしい。


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龍馬伝 第26回「西郷吉之助」

2010年06月28日 | 大河ドラマ・時代劇
 西郷吉之助(高橋克実)が登場。
 彼の考え方の中心はあくまでも薩摩藩。薩摩が天下を動かすために行動している。
 そこには龍馬(福山雅治)や勝(武田鉄矢)の様に「国内で争っていては海外列強に国を奪われる」という発想はない。
 薩摩が権力を握るために武力を使い政治力を使う。邪魔なものは排除する。
 この点、後の戊辰戦争で幕府が滅びるまで攻め続けた西郷像と合致する。
 西郷にしてみれば、龍馬の様な「みんなで仲良く」という発想は甘いのだ。
 現に幕府はフランスと手を組んだ。一橋慶喜(田中哲司)はしたたかだ。うかうかしていたらかつての力を取り戻してしまう。
 薩摩、幕府、長州……西郷はこうした権力争い、政治のリアリズムの中で生きている。
 だから西郷にしてみれば、龍馬の言っていることはきれいごとでしかない。
 勝は幕府の中での権力争いに敗れた男でしかない。

 そして個人は無力。
 龍馬の西郷に対する意見など、「何者でもないただの浪人が薩摩藩の重臣に意見するな」と簡単に否定されてしまう。
 権力争いの中では個人の純粋な思いなど無力なのだ。
 それは武市(大森南朋)も同じ。
 もっとも容堂(近藤正臣)は、天下国家というよりは<下士憎し>という動機で動いているようであるが。

 というわけで完全に行き詰まった龍馬。
 「若者には無限の可能性があり、何でも出来る」と勝は言うが、それは同時に<何も持っていない>ということだ。
 若者は世の中を動かす力を持っていない。純粋な思いや熱情だけでは世の中は動かせない。
 若者の前には常にオトナや権力が立ちはだかる。
 西郷に発言力があるのは薩摩藩という背景があるからだ。武市もかつてはそうだった。
 第二部は<個人の敗北>というテーマで終わりそうである。
 龍馬は<個人の人>だが、個人では何も出来ないと知った龍馬が世の中を動かすためにどう動くかが第三部のテーマになりそうである。

※追記
 それにしても「龍馬伝」は司馬遼太郎作品の<痛快さ>とはほど遠い。
 司馬遼太郎作品では、龍馬と西郷の会見など最大の見せ場で、英雄どうしの会談として面白おかしく描かれるだろう。
 勝も「龍馬伝」では、「もう歳をとった。冒険は出来ない」と弱音を吐いてるし。
 この描かれ方を良しとするか悪しとするかは好みの問題。

※追記
 毒饅頭を渡す弥太郎(香川照之)の震える手。
 ギリギリの人間を描いてますね。
 人間は普段、鎧をつけて取り繕って生きているものですが、この弥太郎は鎧を脱ぎ捨ててむき出しの人間を見せている。
 これにはどんなせりふもかなわない。
 それまでの龍馬を含む役者さん達の演技が全部かすんでしまう。
 香川照之さん、美味しいところを持っていきますね。


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ゲゲゲの女房 人は気づいて生きていく

2010年06月26日 | ホームドラマ
 「はじめての里帰り」で布美枝(松下奈緒)は気づいた。
 自分の落ち着ける場所はもはや安来の実家ではなく、調布の家なのだと。
 布美枝は「ゲゲゲの女房」になったんですね。調布の地にしっかり根を下ろした。
 人はどこかに根を下ろして生きていく。

 茂(向井理)も気づいた。
 おならをしてもいっしょに品評してくれる人がいない生活の物足りなさ。
 くだらないことでも同じものを共有し、喜び、時に悲しむ。
 これも生きるということ。

 源兵衛(大杉漣)も気づいた。
 次男の反抗・独立。
 子供はやがて親の手を離れて生きていく。
 親の力を借りなくても、自分ひとりで歩き始める。
 さびしいけれど、これも受け入れなければならないこと。
 ヨチヨチ歩きの藍子。
 祖父が孫を可愛がるのは、再び愛情を注げる存在を見出したからなのかもしれない。

 里帰りとは関係ないが、冨田書房の冨田(うじきつよし)も気づいた。
 儲けの道具でしかないと思っていた漫画。
 でも本当は漫画が好きだった。
 戦後の闇市で買った漫画。飢えていて漫画本など買っている余裕はないのだが、買わずにはいられない気持ち。貪り読んで心にしみ通る感じ。
 人はパンのみに生きるものにあらず。
 
 この様に人は何かに気づいて生きていく。
 この日々の気づきを大事にしたい。
 <自分の落ち着ける場所がここであること>
 <いっしょに語り合える人間がいること>
 <子供はいずれひとりで歩いていくこと>
 これらのことに気づいていれば、かけがえのない一瞬一瞬を大事に生きていける。
 冨田の様に後になって気づいて後悔するのは結構つらい。

 今回のディティルでは源兵衛。
 布美枝が帰ってきて大喜びで出迎えたいのに、新聞を読んだフリをして威厳を保っている。
 その時の新聞は逆さま。
 こういうディティルの遊びは楽しい。

 せりふでは「ナンセンス!」
 末娘が古い考えの源兵衛に言うせりふ。
 なるほど、こういう使い方をしたのか。

 浦木(杉浦太陽)が冨田のことを「毒気が抜けた」と評したのも面白い。
 以前の冨田は金に追われ、金を追いかけ、毒気のかたまりだった。
 それが憑き物が落ちた様に茂に謝り、浦木を許す。
 「毒気が抜ける」「欲がなくなること」ことが人間にとって良いことか悪いことかは判断が難しい所だが、人間を語っていて面白い。


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爆笑問題のニッポンの教養 オカルトは救いのシステム

2010年06月25日 | ドキュメンタリー
 爆笑問題のニッポンの教養。
 今回は「京都パワースポット」。
 安倍晴明の式神で有名な一条戻り橋や深泥池(みぞのがいけ)、貴船神社などが紹介された。
 そこで紹介されたことは戻り橋や深泥池を境にして、この世とあの世の境目があること。
 貴船神社の家来は鬼で、貴船神社の神様は人々の呪いを聞いてくれる神様であることなど。

 それにしても人間はなぜこの様なオカルトなものを求めるのであろう?
 番組ではこう考察していた。
 ひとつは<現実では説明できない出来事を説明する手段であったこと>。
 確かに不可解なことも鬼や神様の仕業と考えれば説明が出来る。
 第二は<人間には現実から抜け出して違う異世界に行きたいという思いがあること>。
 戻り橋や深泥池を渡れば、異世界に行ける。
 現実で息苦しい思いをして生きている人には<異世界>の存在は救いであっただろう。
 戻り橋や深泥池の伝説は人間が楽に生きるための救いのシステムだったのだ。
 それは貴船神社の呪いを受け入れてくれる神様も同じ。
 憎らしいヤツを懲らしめてほしいと願掛けすることによって、人間の憎しみの気持ちは少しは軽減される。
 神道の言葉で言えば<浄化>される。憎しみ、怒りという穢(けが)れの感情を祓う。
 貴船神社も人間が楽に生きるためのシステムだったのだ。

 こうして見ていくと、オカルトや伝説も人間というものを表現していてなかなか面白い。

 最後に爆笑問題の太田さんのコメント。
 「現代のネット空間も異世界ではないか?」
 なるほど、ネットの世界に入れば様々な人に出会えますからね。
 喜びだけでなく、怒りや憎しみの言葉も溢れている。
 ブラックなサイトに行けば、鬼や妖怪のような人間にも出会える。

 現実が息苦しくなったら、ネットやオカルトの世界に逃げ込むのもひとつの手段。
 それにしても人間の営みというのは面白い。


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臨場 最終話 父と子

2010年06月24日 | 推理・サスペンスドラマ
 男の子は父親を越えようとするんですね。
 優しいお父さんが増えた現在、こういう感覚は少なくなったかもしれないが。
 今回、純一(山田純大)は造園業を営む父親の大庭久雄(竜雷太)を越えようとした。
 「お前を認めてやる」「お前に負けた」と父親に言わせたかった。
 だが父親は厳しく、簡単に「お前を認めてやる」と言うほど甘くはなく、息子は常に劣等感に苛まれていた。
 父親が厳しいのは、息子を愛する故だが、当事者の子供にはなかなかわからない。
 その結果、息子はグレ始め、偶然も手伝って罪を犯し、十六年間その罪に悩むこととなった。
 そして、息子の罪を知った父親はそのことを許せなくて……。

 父と子の愛憎をめぐるどうしようもない悲劇である。
 ひとつ歯車が狂わなければ、あるいは父親が「お前もなかなかがんばってるな」と声をかけていればなかったかもしれない悲劇。
 しかも十六年という歳月をかけてじわじわと進行してきて。

 そして倉石(内野聖陽)の部下の新人・永嶋(平山浩行)。
 彼もまた大きく厳格な父親の存在に悩んだ子供だった。
 ある意味、倉石は永嶋にとって、父親のような存在だったのかもしれませんね。
 厳しく愛情をもって叱咤してくれる存在。
 永嶋は父親を求めていて、倉石にその陰を見た。
 そう言えばラストの釣り堀でも倉石は完全に少女の父親代わりだった。
 また留美(松下由樹)は母親?
 公私混同した監察官にあるまじき行為をした永嶋を留美は母親の様に叱った。

 「臨場」は本格推理ものではない。
 事件の裏にある人の心や人生を描くことに力点が置かれる。
 <根こそぎ拾う>とは、人の心までも明らかにすること。
 すべてを明らかにすることによって、さらなる悲劇が現れてくるかも知れないが、その悲劇を正面から見つめることこそ明日に繋がると倉石は信じているのだ。


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週間時評~野球賭博、ワールドカップなど

2010年06月23日 | 事件・出来事
 週に一度は世の中の出来事についてコメントしたいと思います。

 まずは野球賭博事件。
 ここ数年の相撲界の不祥事は次のとおり。
 暴行・暴行致死・麻薬、そして今回の賭博。
 ひとつのスポーツでこれだけの不祥事が起きるなんてどう考えてもおかしい。たとえば野球とかサッカー、その他のスポーツを考えてみればいい。
 相撲の地方興行にヤクザが関わっていたという昔からのしがらみで、こうなってしまいやすいのはわかるが、相撲協会自体の体質が問われても仕方がない。
 相撲関係者にはそもそもスポーツとは何か? あるいは相撲とは何かを考えてほしい。
 スポーツは人々に夢とか勇気とか、力を与えるもの。
 今やっているワールドカップを始め、バンクーバーの浅田真央選手、野球のWBCなどを考えてみればわかる。
 相撲だって、名勝負をして観客が拍手喝采する。
 そこに力士の皆さんも喜びがあるはず。
 この原点を忘れていなければ、やっていいことと悪いことの区別はおのずとつくはずだ。
 
 昨日の事件ではマツダの暴走事件。
 「クビになって復讐しようと思ってやった」
 キレてしまったわけですね。
 犯人は40代前半だそうだが、全く想像力がない。
 自分が犯したことで人が亡くなれば、悲しむ人がいる。あるいは自動車に引かれれば痛い。後遺症でその後苦しむことになる。
 そんな他人に対する想像力が働けば、こんなことは出来なかったはずだ。
 確かに物事がうまくいかなければ、うっぷんが溜まる。世の中を憎みたくなる。
 でも、そんなものはワールドカップを見たり、映画やドラマで感動したり、バラエティで大笑いすれば解消すること。
 山に登ったり、運動したりしてもいい。
 それでも解消できなければ、社会的な方法で闘えばいい。
 たとえば弁護士や労働問題に関わるNPOに相談して、不当解雇を訴えるとか。
 沖縄の基地問題のデモに参加してみるとか。
 キレてやりたい放題やるというのは、その何分間かはスカッとするだろうが、その後は虚しい。
 現在は不満や怒りを解消するチャンネルが少ないのかな?
 確かに個人がバラバラで連帯するということは少ないけれど、不満や怒りのエネルギーを何らかの手段で発散する智恵を持たなければ。

 そして参議院選挙。
 僕は民主党を支持しているが、今回はためらっている。
 通常国会会期末の強引なやり方。
 今度の参議院選挙で過半数を与えたら、民主党のやりたい放題になってしまう。
 国会では議論をしっかりやっててほしい。
 強行採決や不十分な議論で政策が決められることなどもっての他だ。民主主義に反する。
 ところが、それを過半数を与えたら民主党はやりそうだ。
 民主党が間違った方向に走っても誰も修正できない。これはまずい。
 だから今回はためらっている。

 最後にワールドカップ。
 韓国がナイジェリアと引き分け決勝リーグ進出決定。
 よかったですね。
 同じ東アジアの民として共に喜べる。
 韓国の人も、今度は日本が決勝に行けることを望んでいるという。
 こういう連帯感。
 もちろん、韓国と闘うことになれば必死に日本を応援するけれど、試合が終わればお互いの健闘を讃え合う。
 こういう健全なナショナリズム。
 そして、これが出来るのがスポーツだ。
 相撲協会には、こういうスポーツの素晴らしさに気づいてほしい。
 マツダの暴走事件の犯人もスポーツの中で連帯感を味わい、蓄積したもやもやを発散してほしかった。


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ポルトガル・北朝鮮戦 にわかサッカーファンがサッカーを語る

2010年06月22日 | スポーツ
 にわかサッカーファンが、ポルトガル・北朝鮮戦を見た。
 これだけ実力差があると、僕のような素人ファンにもわかりやすい。
 やっぱり優勝候補のチームは、スピード・パワー・戦術すべてが違いますね。

 昨日のゴールショーの内容は次の様なもの。
 選手名はロナウド以外、わからないので選手A・B・Cで。
 まず見事だったのが選手A・B・Cの三人の選手によるゴール。
 選手Aがボールを獲ってBへパス。
 敵の守りが堅くシュートできない選手Bは再びAにボールを返す。
 そして選手Aは何と逆サイドから走り込んで来た選手Cにパス。
 選手Cはそのままシュートでゴール!!
 選手Cは逆サイドから走り込んできたため、敵のディフェンス陣がいないのだ。
 だから簡単にゴール出来る。
 サッカーでは、この選手Cの存在が大きいのだと僕は理解した。
 日本チームは、A→Bの攻撃はする。しかしCがいない。

 ポルトガルはこんなゴールもした。
 選手AがBにパス。そしてBがシュートしてゴール。
 A→Bの攻撃だが、何とこの時、選手Cが同じように逆サイドから走り込んでいた。
 Bのシュートが決まらず、こぼれ球になった時、Cが押し込んでゴールを決めるためだ。
 これで得点の可能性、確率は大きく増える。
 逆サイドからのCの存在の有無で得点力が変わってくる。

 あと気づいたのは個人技。
 北朝鮮戦で見せたロナウドの背中と頭にボールを乗せて打つシュート。
 これは個人技のすごさ以外の何者でもない。
 こういう個人技の有無で勝敗の行方が変わってくる。

 勝敗の行方を左右すると言えば、ミドルシュートの有無もそう。
 今回のポルトガル・北朝鮮戦でも見られたが、日本が敗れたオランダ戦での1点はミドルシュートに拠るものだった。
 ゴール前の混戦、攻防から離れて後方から打つミドルシュート。
 守る側にしてみればかなり意表をつくものであろう。
 ゴール前で攻めている選手は後方のミドルシュートを打つ選手にパスする。
 この後方パスを決めるには、ミドルシュートを打つ選手が自分の後ろにいることを知っていなければならない。
 またミドルシュートを打つ選手は、ゴール前で選手が入り乱れる中の隙間をついて的確にシュートしなければならない。
 これも高度なテクニックだ。

 A→B→C攻撃、個人技、ミドルシュート。
 これら攻撃の手札を多く持っている方が勝利に近づくんですね。
 どんなことでもそうだが、物事は極めていくとやはり奥が深い。
 ポルトガルの次の相手はブラジルか。
 ヨーロッパとラテンサッカーの違いを確認する意味でもぜひ見てみよう。


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龍馬伝 第25話「寺田屋の母」

2010年06月21日 | 大河ドラマ・時代劇
 お龍(真木よう子)と寺田屋・お登勢(草刈民代)のキャラクターがいい。
 お龍は心を開けない女性。
 他人に何度も裏切られ、酷い目にあって来たのだろう。
 他人の好意を素直に受け入れられない。自分の力だけを信じて生きていこうとする。
 そして他人との間に壁を作り、笑えない女性。
 ラストで龍馬(福山雅治)がいなくなってから、小さな声で「う~み」と練習する所が可愛い。
 凛とした部分と可愛い部分、そして今まで生きてきた苦労が具体的に描かれなくても視聴者に伝わる描写。見事な人物描写だ。
 一方、お登勢。
 船旅館を営むだけあって男まさり。背筋がピンと通っている。
 お龍を雇う時も「断ったらあたしがいけずになってしまうじゃないか」と気持ちいい。
 なかなか格好いい女性だ。
 このお登勢、龍馬も「やっぱり違う」と言った様に、龍馬の母親とは正反対の性格なんですよね。
 龍馬の母親は病弱で女性っぽかった。
 この対照的なふたりに同じ役者さんをキャスティングしたことは、製作側のヒット。
 幼くして母親を亡くした龍馬の母親を求める気持ちも伝わってくる。

 そして龍馬。
 海軍繰練所が廃止され、すべてがなくなってしまった状態なのに、お龍が笑わないことに気づいてあげられる。
 自分がどん底でつらいのに他人のことを考えられる。
 この点が実に龍馬らしい。

 一方、武市(大森南朋)。
 武市話を引っ張りすぎた弊害が出て来ましたね。
 弥太郎(香川照之)が言った様に、「以蔵があれほど苦しんでいるのだから罪を認めてしまえ」と言いたくなる。
 現代風に言えば「トップなら責任をとれ」「自分のやったことに責任をとれ」と言いたくなる。(このことを視聴者に気づかせたらいけないんですけど)
 おまけに毒饅頭。
 武市は生きて何を守ろうとしているのか?
 仲間を苦しめて、死に追いやってまで守ろうとしているものは何か?
 朝廷が長州を朝敵にし、攘夷の可能性が断たれた今、武市の生きる目的はないはず。
 そのことはお冨との別れのシーンで武市も理解しているはずだ。
 武市のキャラクターが破綻しつつある。
 史実として伝えられている<毒饅頭>を作家は持ってきたが、これは物語を破綻させかねない劇薬の小道具。どう武市話を完結させるつもりか?


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ゲゲゲの女房 連合艦隊を再建したい

2010年06月19日 | ホームドラマ
 今回見て思ったのは、僕も連合艦隊を再建したいということ。
 すごいぞ、茂(向井 理)! プラモデルを見て連合艦隊を再建したいという壮大な夢を思いつくなんて!
 これなんですよね、男は。
 現実家の女性から見れば、何の役にも立たないバカなことに熱中してる。
 僕は戦争は人間の行う最大の愚行だと思うし、仲間が死に腕一本を奪われた茂にしてみれば、その思いは痛烈だろうと思うが、連合艦隊にはロマンを感じてしまう。
 海に浮かぶ連合艦隊を直に見られた茂をうらやましく思ってしまう。

 そして、ここが男と女、夫婦の仲の分かれ道。
 布美枝(松下奈緒)はよく男のロマンを理解して受け入れてくれましたよね。
 ここで稼ぎもないのにバカなことに熱中して!と怒れば大ゲンカ、現代であれば即離婚。
 それを一緒になって模型を造ってくれるなんて。
 女性は男が1円にもならないことに夢中になっている時、こう思うといいですね、「この人はちょっと現実から逃避したがっているんだ」と。

 もっとも茂も今回布美枝が病気になって、鼻紙ひとつ買ってやれない自分を不甲斐なく思ったようですね。
 漫画家廃業を言い出す。
 そして、この描写がないと、茂はただの現実逃避男になってしまう。
 家族のために漫画家である自分を捨てようと思う茂。 
 ここは難しい人生の岐路ですね。
 漫画家をやめていたら別の道で成功していたかもしれない。あるいはやめたという挫折体験が尾を引いてその後も挫折の人生を繰り返していたかもしれない。
 結果的に茂は漫画家として成功したわけですが、人生の岐路でどう行動するかは難しい。
 結局は自分の信念とまわりの人間。
 布美枝は「お父ちゃんは強い人。腕が三本だから何とかなりますよ」と励ましていたが、まわりの人間は、肯定して信じてあげることが一番大事ですね。


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