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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

「推し、燃ゆ」 宇佐見りん~推しの喪失。生きづらさを抱えた主人公はどう清算するのか?

2025年04月23日 | 小説
 主人公は生きづらさを感じている女の子だ。
 たとえばこんな感じ。

「寝起きするだけでシーツにしわが寄るように生きているだけでしわ寄せが来る。
 誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。
 最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。
 いつも最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。」

 さすが芥川賞受賞作品。
 生きづらさをこのような形で表現している。
 こんな主人公の生きる支えは推し活だ。
 主人公は推しを推すことについて次のように語る。

「あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、そのしわ寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。
 だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で、絶対で、それだけは何をおいても明確だった。
 中心っていうか背骨かな。」

「映画を観たり、ご飯に行ったり、洋服を買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることでより豊かになっていくのだろう。
 あたしは逆行していた。
 何かしらの苦行みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて背骨だけになっていく。」

 推しのライブに行った時はこのようなことを語る。

「自分自身の奥底から湧き上がる正とも負ともつかない莫大なエネルギーが噴き上がるのを感じ、生きるということを思い出す。」

「あたしは彼と一体化しようとしている自分に気づいた。
 彼が駆け回るとあたしの運動不足の生白い腿が内側から痙攣する。
 泣く彼を見て伝染した悲しみごと抱きとめてあげたくなる。
 柔らかさを取り戻し始めた心臓は重く血流を推し出し、波打ち、熱をめぐらせた。
 外に発散することのできない熱は握りしめた手や折りたたんだ太腿に溜まる」

 ライブが終わった後はこんな表現。

「推しが目の前で動いている状況は舞台が終わるたびにうしなわれるけど、推しから発せられたもの、呼吸も視線もあますことなく受け取りたい。
 座席でひとり胸いっぱいになった感覚を残しておきたい。覚えておきたい。
 その手がかりとして写真や映像やグッズを買いたい。」

 これらの感覚、推し活をしている人なら多かれ少なかれ感じていることではないだろうか。
 ……………………………………………………

 主人公の推しに対する関わり方は次のようなものだ。

「あたしは触れ合いたいとは思わない。
 現場も行くけど、どちらかと言えば有象無象のファンでありたい。
 拍手の一部になり、歓喜の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい。」

「あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった」

 このようなスタンスで主人公は推しと一体化し、彼のすべてを理解していると思っている。
 だが推しが暴力事件を起こしてしまい、主人公は自分の知らない推しの姿を見て戸惑う。
 さまざまな噂も聞えて来る。
 崩れる幻想。
 主人公は抗う。
 主人公にとって推しを失うことは生きる「背骨」を失うことを意味するからだ。

 しかしメンバーとの不和なども報じられてグループは解散に……。
 主人公は最高にドレスアップして解散コンサートに向かう。
 推しの最後の姿を見て主人公は何を感じ、何を考えたのか?
 ネタバレになるので書かないが、この時の主人公の思いや気持ちは実にせつない。
 推しを失って主人公が今後どう生きていくのかも気になる。
 主人公は推しの喪失をどう清算するのか?

 誰もが多かれ少なかれ生きづらさを感じている。
 誰もが多かれ少なかれ何かに支えられている。
 主人公の姿は決して主人公だけのものではない。
「推し」を自分に当てはまる事柄に置き換えてみればいい。
 自分の「背骨」は何なのか、考えてみればいい。

 さて主人公の発する言葉に、僕たちは何を感じ、考えるのだろう?

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「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」~アンドロイドと人間の違いは何か? 共感力と宗教か?

2025年04月18日 | 小説
 フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
 物語の舞台は第三次世界大戦後の荒廃した未来。
 放射能汚染によって多くの動物が絶滅し、生きた動物を持つことがステータスになっている。
 人々が飼っているのは動物の姿をした機械だ。
 外見は普通の動物と変わらないが、中を見ると機械仕掛けになっている。
 主人公のリック・デッカードはアンドロイドを「処理」する賞金稼ぎだ。
 彼はアンドロイドと人間の違いを見極めることに苦悩する。
 アンドロイドは人間の姿をしていて、話す言葉もあらわれる感情も普通の人間と変わらないからだ。
 交流していくうちに、彼らにも「命のようなもの」があるのではないかと考え始める。

 デッカードは考える。
 人間とアンドロイドの違いとは何なのか?

 たとえば「共感力」
 アンドロイドは「そうだね」と同意したり、笑ったり泣いたりするが、共感してそうしているわけではない。
 実際デッカードは「フォークト=ガンプフ感情移入度測定法」という手法でそれを見分ける。
 でも人間も多かれ少なかれそうではないか?
 心からそう思っていなくても、同意したり笑ったり泣いたりしている。
 サイコパスな人間なら共感力はゼロだ。
 だから「共感力」も人間とアンドロイドを分けるものとは言えない。

 作品では「マーサ教」という宗教が出て来る。
「共感ボックス」という装置に手を置くことで、個人はマーサー(宗教的な指導者)の経験を疑似体験して、他の信者たちと意識を共有するのだ。
 これにより個人は一体感を持って幸せになれる。

 なるほど。
 人間とアンドロイドを分けるものは「宗教」なのかもしれない。
 作品では、マーサー教が作り物の幻想であることが示唆される。
 アンドロイドは実体のない幻想(神)を受け入れない。
 一方、人間はたとえ幻想だったとしても共感して救いを得られるのなら、
 それを「現実」として受け入れる。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』はアンドロイドを通して「人間とは何か?」を追究している。
 元来、文学や哲学は「人間とは何か?」を表現するものだが、ディックはSF的な手法でこれをおこなってる。
 生成AIが社会に浸透している現在、この作品のテーマはリアリティを持って我々に迫る。
 読んでいて実に面白い。


※追記
 ディックは短編「小さな黒い箱」で「共感ボックス」について書いている。
 短編「聖なる戦い」ではコンピュータが「神」と「悪魔」をいびつな形で認識することを書いている。

※追記
「攻殻機動隊」の「スタンド・アローン・コンプレックス」「意識の並列化」のテーマは、この作品の「共感ボックス」「マーサ教」から来ているのではないか?

※追記
 この作品、核戦戦争後の世界を描いているのだが、廃墟の描写が素晴しい。
 たとえば──
「このビルは、その同類たちのすべてと同じように、より大きいエントロピー的な廃墟へと、日に日に転落を始めている。やがては、このビルのあらゆるものが溶けあい、顔のない同一のもの、プディングのようなただどろどろになって、どの部屋の天井までも溢れかえることだろう。そして、次には、見捨てられたビル自体も形のないものに還元して、あまねく灰の下に埋もれる。」

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「坊っちゃん」 夏目漱石~漱石の「明治嫌い」「西洋嫌い」「江戸趣味」

2025年02月28日 | 小説
 夏目漱石の『坊ちゃん』
 作品はこんな感じで始まる。

 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。
 小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。
 なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。
 新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃(はや)し立てたからである。
 小使いに負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

 見事な始まりですよね。
 これだけで主人公のキャラクターがよくわかる。

 同時にこの文章は名調子の語り口調だ。
『声に出して読みたい日本語』の齋藤孝さんも紹介していたが、朗読して心地いい文章だ。
 さあ、声に出して読んでみましょう♪

 漱石は落語が大好きだった。
『坊っちゃん』は「小説を落語口調で書いてみたら」みたいな意図があったのではないか。

 同時に漱石は西洋嫌い。
 英文学を学び、ロンドン留学までしたが、留学中はノイローゼになってしまった。
『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(島田荘司・著)は漱石とシャーロック・ホームズが難事件に挑むミステリーだが、ノイローゼ描写が描かれていて面白い。
 ………………………………………………

 さて話を『坊っちゃん』に戻すと、
 坊っちゃんはたまたま通りかかった物理学校の生徒募集の広告を見て入学の手続きをし、
 たまたま物理学校の校長から、四国の中学校で数学の教師の職があると言われて松山に赴任する。
 深く考えず、勢いで行動してしまう所がいかにも坊っちゃんらしいが、
 これは明治の価値観に対する漱石の意思表示ではないか?
 当時の価値観は『帝国大学に入って立身出世する』のが主流だったから。
 これと対照的なのが江戸っ子だ。
 彼らはその日暮らし、自由気ままで上昇志向はない。
 まさに坊っちゃんだ。
 
 漱石の〝明治嫌い〟はこんな所にも表われている。
 松山の中学校で、坊っちゃんは教頭の『赤シャツ』や『野だいこ』らと戦うが、
 いっしょに戦う『山嵐』は〝会津〟出身なのだ。
 坊っちゃんと山嵐はこんな会話をする。
「君は一体どこの産(うまれ)だ」
「俺は江戸っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「君はどこだ」
「僕は会津だ」
「会津っぽか、強情な訳だ」
 江戸っ子と会津っぽは官軍が嫌い。
 山嵐を会津出身に設定したのには〝明治政府への反発〟の意図があったのだろう。
 漱石は、明治になって「人間が小者になった」「卑怯になった」「ずるくなった」と考えている。
 その代表が赤シャツと野だいこだ。

 坊っちゃんはそんな赤シャツたちを叩きのめして『不浄な地』松山を離れる。
 そんな坊っちゃんが最後にたどりつく場所が、下女の清(きよ)がいる場所だ。
 東京に戻った坊っちゃんは鉄道の仕事をしながら、清といっしょに暮らす。
 清は『坊っちゃん』を読み解く切り口のひとつだと思うが、今回は以下の形でまとめる。

 坊っちゃんにとって清は心の故郷だった。


※追記
『坊っちゃん』で披露される松山弁も音として面白い。
「あまり早くて分からんけれ、まちっと、ゆるゆるやって、おくれんかな、もし」
「然し四杯は過ぎるぞな、もし」
「それや、これやであの教頭さんがお出でて、是非御嫁にほしいとお云いるのじゃがもし」

※追記
 現在、四国・松山の人たちは自分たちの街を〝坊っちゃんの町〟としてアピールしているが、
 どうなんだろう? 何しろ『不浄な地』ですからね。
 まあ、松山の人たちはそれを百も承知で受け入れ、笑い飛ばしているんでしょうけど。

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「こころ」 夏目漱石~Kはなぜ自ら命を断ったのか? 先生はなぜ厭世的になったのか?

2025年02月26日 | 小説
 夏目漱石の「こころ」
 Kが自ら命を断った理由を「失恋したから」と解釈している方がいて、
 そうかな~? と思ったので書いてみる。

 Kが命を断った理由。
 それは『恋愛に心を惑わされた自分が許せなかったから』だと思う。

 Kは宗教的な求道心をもった人物でストイック。
 それで神経衰弱になってしまったりする。
 そんなKを先生は「人間らしくしたい」と考えてお嬢さんに会わせる。
 ところが、このことが思わぬ事態を巻き起こした。
 Kがお嬢さん(静さん)に恋に落ちてしまったのだ。
 先生はお嬢さんに心を寄せていたので焦る。
 Kに劣等感を持っているので、お嬢さんを奪われるのではないか、と不安になる。
 だからお嬢さんにメロメロになっているKを批判してこんなことを言う。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
 この言葉はKにとって致命的なものになった。
 先生がお嬢さんと婚約したことも重なって自ら命を断ち、Kはこんな遺書を残す。
『自分は薄志弱行で到底行先の望みがないからみずから命を断つ』

 ストイックでまっすぐな人は折れると弱い。
 ………………………………………

 先生が厭世的になった理由は、もちろんKのことが大きい。
 自分がKを死に追いやってしまった罪の意識に苛まれている。
 こんな自分が世に出て他者と関わったら、また同じ間違いをしてしまうかもしれない。
 だから厭世的になった。

 このことを掘り下げると、こういうことだと思う。
『自分への不信』だ。
 若い頃、先生は叔父に父親の財産を掠め取られて『人間不信』になっている。
 お金は人を狂わすとも考えている。
 この段階で、先生はまだ『他者への不信』というレベルで留まっている。
 自分にすり寄って来る者、近づいて来る者をすべて警戒している。
 それは後に妻になるお嬢さんや彼女の母親もそうだった。

 ところが、今度は自分が信じられなくなることが起きてしまった。
 お嬢さんを奪われたくないと焦って、Kを裏切ったことだ。
 これで先生は自分も信じられなくなってしまった。
 自分の心の中の闇に気づき、醜いと考えてしまった。
 こんな自分が許せなかった。

 Kといい、先生といい、何てピュアなのだろう。
 彼らとは対照的な生き方。
 鈍感で、突き詰めて考えることなく生きていくことが生きる秘訣なのかもしれない。

『こころ』の最後では、乃木希典の殉死が描かれて、それが先生の死のきっかけになる。
 殉死してしまう乃木希典もピュアな人なんだろうな。
 これが『明治』という時代なのだろうか?

『こころ』は人の心の中を深掘りして描いた作品だ。
 日本文学で初めて人間の心の中を深掘りした作品だから、文学史上、重要な作品なのだと思う。


※追記
 芥川龍之介は『将軍』という作品で乃木希典をメチャクチャ、ディスっている。
 鼻持ちならない俗物として描いている。
 結果、検閲を受け、伏せ字だらけの出版となった。
「明治の漱石」と「大正の芥川龍之介」で、大きく違っている乃木希典像。
『将軍』は芥川龍之介や大正という時代を考える上で注目すべき作品かもしれない。

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「蟹工船」② 小林多喜二~労働者たちは国家に裏切られる……。しかし立ち上がる。

2025年01月12日 | 小説
『蟹工船』のラストは以下のような形で描かれる。

・ストライキをすることで、労働者たちは浅川に労働条件の改善を迫る。
・浅川は明日返事をすると言ってその場を収める。
・翌日、蟹工船を守っていた海軍の駆逐艦がやって来る。
・労働者たちはこれを歓迎する。
「駆逐艦は俺達国民を守る帝国の軍隊だ。俺達の状態をくわしく説明すれば有利に解決がつく」
・しかし──
 やって来た軍隊が労働者に浴びせた言葉は次のようなものだった。
「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」
 軍隊はストライキを主導した労働者の逮捕した。
 結果、ストライキは失敗に終わる。

 国家は資本家の味方であり、国民の味方ではなかったのだ。
 労働者たちは国家に裏切られた。

 ただ、『蟹工船』はここで終わらない。

「今に見ろ。今に見ろ」
「よし、今度は一人残らず引き渡されよう! その方がかえって助かるんだ」
「もう一度やるんだ! 死ぬか、生きるか、だからな」
「ん、もう一度だ!」

 労働者たちは屈しなかった。
 今度は戦い方を変えて戦おうと決心した。

 そして後日談としてこんなことが語られる。
・サボやストライキは博光丸だけでなく、他の船でもおこなわれていたこと。
・浅川や雑夫長が管理能力を問われ、缶詰製造に多大な影響を与えたという理由で首になったこと。
 解雇された浅川が「ああ、俺ア今まで、畜生、だまされていた!」と叫んだこと。
・「組織」「闘争」を経験した漁夫、雑夫らが警察の門から色々な労働の颯へ、それぞれ入り込んで行ったこと。

 浅川たち幹部が、その上の者たちに拠って切られる所が皮肉だ。
「組織」「闘争」を経験した労働者がそれぞれ労働運動に入っていった、というラストは
 小林多喜二の希望・願いなのだろう。
 ………………………………………………………

 この作品、自然と人間の戦いの描写も秀逸だ。
 たとえば──

 博光丸は函館を出港した。
 留萌(るもい)の沖あたりから雨が降り出し、稚内に近くなるに従って波のうねりがせわしくなった。
 宗谷海峡に入った時は三千トンのこの船がしゃっくりにでも取りつかれたようにギクシャクした。
 船が一瞬宙に浮かび、グウと元の位置に沈む。船が軋み、雑夫達は船酔いでゲエゲエした。
 糞壺の窓から樺太の山並みが見えるようになると、棚から物が落ち、船の横っ腹に波がドブーンと打ち当たった。
 強風でマストが釣り竿のようにたわみ、甲板に波が襲い、機関室の機関の音がドッドッドッと響き、時々波の背に乗るとスクリューが空廻りした。
 カムサッカの海は、よく来やがった、と待ち構えていたように挑みかかって来た。
 波は荒れ狂い、空は猛吹雪で真っ白になっている。
 そんな中、雑夫や漁夫は蟹漁で使う八隻の川崎船が波や風にもぎ取られないようにロープで縛る作業を命じられていた。
 細かい雪がガラスの細かいカケラのように、甲板に這いつくばっている漁夫達の顔や手に突き刺さる。唇が紫色になる。

 こんな描写に触れるのも小説を読む楽しみである。

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「蟹工船」 小林多喜二~プロレタリア文学の代表作。権力者たちはなぜ「赤化する社会」を怖れたのか?

2025年01月10日 | 小説
「おい、地獄さ行ぐんだで」

 蟹工船はオホーツク海で猟をし、船の中で加工して缶詰にする工場付きの船である。
 ここで働くのは貧しい農民や食い詰めた者たち。
 ここでは人は軽い。
 道具でしかなく簡単に使い捨てられる。
 蟹工船の幹部たちにとっては、人が漁で死ぬよりも「川崎」という小舟が失われることの方が
 重大事だ。
 船長などの幹部は船のサロンで豊かな生活している。
 一方、労働者たちは暗くて悪臭のする船底だ。

 蟹工船の管理監督・浅川はこんなことを言って労働者たちを鼓舞する。

「言うまでもなくこの蟹工船の事業は一会社の儲け仕事ではなく国際上の一大問題なのだ。
 我々日本帝国人民が偉いか、露助(ロシア人)が偉いか。一騎打ちの戦いだんだ」
「我がカムサッカの漁業は国際的に言って優秀な地位を保っており、
 日本国内の行き詰まった人口問題、食料問題に対して重大な使命を持っているのだ。
 俺達は日本帝国の大きな使命のために命を的(まと)に北海の荒波をつっ切って行くのだ」

 この浅川の言葉に労働者たちは感激して必死に働く。
 しかし、次第に疑問を持ち始める。

「帰りてえな。カムサッカでァ死にたくないな」
「浅川の野郎ば、殴り殺すんだ!」
「日本帝国のためか、いい名義を考えたもんだ」
「いくら働いても俺達のものにならない」

 疑問を持つきっかけもあった。
 たまたまロシアの海岸に漂着した「川崎船」の労働者たちが、
 ロシアの中国人通訳からこんなことを言われるのだ。

「あなた方、貧乏人。だからプロレタリア。
 金持ち、あなた方をコクシする。金持ち、だんだん大きくなる。
 あなた方、貧乏人になる。働かない金持ち、えへん、えへん。
 プロレタリア、一人、二人、三人、百人、千人、五万人、十万人、手をつなぐ。
 みんな強くなる。働かない金持ち、にげる。
 プロレタリア、一番偉い」

 こうして労働者たちは、他の工場で「ストライキ」というものが行なわれていることも知って、
「サボタージュ」、つまり「サボる」ことを始める。
 これには浅川たちも困り始める。
 ひとりふたりなら力で押さえつけられるが、全員だとさすがに無理。
 漁が滞り缶詰ができなければ今度は監督者の浅川たちが会社から責められる。

 かくして労働者たちは「労働条件の改善」を浅川に飲ませることに成功するのだが……。
 ………………………………………………………

『蟹工船』(小林多喜二・著)は「プロレタリア文学」の代表作である。

 現在も格差社会はどんどん進行していて、『蟹工船』は決して古くない。
 それどころか力を持っている。
 プロレタリア文学の登場に、「芸術」を志向する芥川龍之介は作家として危機感を抱いたらしい。

 上記の中国人通訳の言葉は「資本主義」や「社会主義革命・運動」とは何か? を的確に表わしている。

 資本主義とは──
「金持ち、あなた方をコクシする。金持ち、だんだん大きくなる。
 あなた方、貧乏人になる。働かない金持ち、えへん、えへん。」

 社会主義革命や運動とは──
「プロレタリア、一人、二人、三人、百人、千人、五万人、十万人、手をつなぐ。
 みんな強くなる。働かない金持ち、にげる」

 さて、皆さんは上記のことをどう考えられるだろうか?
 時代遅れだ。
 これだからパヨクは困る、と思われるだろうか?

 ただ、この点を押さえないと、
「戦前の昭和」「アメリカの50~60年代」「日本の学生運動」を理解できない。
 赤化する社会を権力者がなぜ怖れたのか、がわからなくなる。

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「山月記」 中島敦~高すぎるプライドと羞恥心を描いた青春文学!

2024年11月27日 | 小説
 中島敦の『山月記』
 近々、これが国民の教科書から外されるらしい。
 教科書で『山月記』を読んだ時、僕は漢語をつかったその格調高い文章に魅せられたんだけどなぁ。
 こうして日本人の国語力がどんどん貧弱になっていく。

『山月記』は羞恥心と高すぎる自尊心の物語である。
 詩人になりたかった主人公の李懲(りちょう)はなぜ虎になってしまったのか?
 その原因を李懲はこう語る。

『人間であった時、己(おれ)は努めて人との交わりを避けた。
 人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
 実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。
 もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは言わない。
 しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。
 己は詩によって名をなそうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
 かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
 共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。
 己(おのれ)の珠に非ざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、
 また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。
 己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによってますます己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
 人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
 己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。』

 高すぎるプライドと羞恥心。
 それゆえ世間や他者と上手くやっていけない。
 なまじっか自分に才能があると思っているから、普通の平凡な生活を送ることを潔しとしない。

 文学青年が陥りそうな心情だ。
 あるいは、
 文学青年なくても前半の部分は、青春時代の若者が多かれ少なかれ抱く思いではないか?
 青春時代、若者は自尊心と羞恥心に振りまわされ七転八倒する。

 まあ、年齢を重ねるうちに、自尊心は社会生活の中で粉々に打ち砕かれ、
 羞恥心はなくなってだんだん図々しくなっていくんですけどね。

 この点で『山月記』は若い人に読んでほしい青春文学だ。
 こういう漢語の格調高い日本語があることも識ってほしい。
 
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「痴人の愛」② 谷崎潤一郎~浮気をしたナオミに河合は激怒し、出て行けというが、やがて……

2024年10月04日 | 小説
 ナオミと結婚して幸福の絶頂に立つ河合。
 ここから河合の地獄が始まる。

 ひとつめ──ナオミは河合が期待したほど賢い女ではなかった。
 勉強ができなくて叱ると、すぐ拗ねる、上目使いで見る、負け惜しみを言う。
「理想の女」に育てあげるという河合の願いは見事に崩れ去ったのだ。

 ふたつめ──贅沢が大好き。
 以前は一枚のビフテキで満足していたのに、次第に口が奢って「あれが食べたい」「これが食べたい」と言い出す。
 服への執着もすごくて、買ってあげないと拗ねるし、おかしな誘惑をしたりする。

 結果、河合の貯金は尽きて、国の母親にお金の無心をすることに。
 しかし、河合はこう思っている。
「私の本懐はナオミを少しでも身綺麗にさせて置くこと、不自由な思いやケチ臭いことさせないことでしたから、困る困ると愚痴りながらも彼女の贅沢を許していました」

 三つ目──「お伽噺の家」の生活に満足できなくなる。
 今までは河合との生活に満足していたのだが、次第に外に出たがるようになり、
「ソシアル・ダンス」を習いたいと言う。
 河合はそれを許すが、そこでさまざまな男たちと出会う。
 銀座のダンスホール・カフエ・エルドラドオでは、男たちに囲まれて女王様のようにふるまい、
 西洋風に着飾った日本人のお嬢さんを「猿」と呼んでからかい、西洋人を前にすると卑屈になる。

 こんなナオミに河合は失望する。
 だが、河合は……
「私は失望しました。しかし一方で、ナオミの肉体は私を惹きつけてやみませんでした。
 ナオミは頭脳の方では私の期待を裏切りながら、肉体の方ではいよいよますます理想通りに、いやそれ以上に美しさを増して行ったのです」

 いやはやなんとも。
 俗な言い方をすれば、
・恋の熱情
・執着の怖ろしさ
・マゾヒズムの男の心象
・女という生き物の怖ろしさ  である。

 奔放なナオミの行き着く先は当然浮気だ。
 河合は怒り狂う。
「何だお前は! 己(おれ)に恥をかかせたな! ばいた! 淫売! じごく!」
 この時の河合の心情はこうだ。
『私にとってナオミは成熟するまでに労力をかけて育てた果実と同じです。
 だからそれを味わうのは栽培者たる私の当然の報酬であって、あかの他人にむしられ歯を立てられてはいけないのです』

 何ともエゴイスティックな思いだが、二度と浮気をしないと誓ったのに、なおも浮気を重ねると
「出て行け! 畜生! 犬! 人非人! もう貴様には用はないんだ!」

 結果、ナオミは出て行く。
 河合は「清々した」といったん思うが、すぐに後悔して
「お前は馬鹿だぞ。ちっとやそっとの不都合があっても、あれだけの美は世間にありはしないぞ」と思うようになる。
 ナオミは強い酒なのだ。
 飲み過ぎると体に毒だと知りながら、その芳醇な香気を嗅がされ、なみなみと盛った杯を見せられると飲まずにはいられなくなる酒なのだ。
 河合のナオミへの執着は、凄まじい人間の業である。
 ナオミが稀代の悪女と言われるのはこのためである。

 最終的にふたりがどうなるのかはネタバレになるので書かないが、
 ラストはなかなか衝撃的、いや笑劇的だ!
 微笑ましくて笑ってしまう。

 たぶん、この結末で河合はものすごく幸せなのだと思う。

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「痴人の愛」① 谷崎潤一郎~ナオミちゃん、これからはほんとに友達のように暮らそうじゃないか

2024年09月20日 | 小説
 谷崎潤一郎の『痴人の愛』には大正デモクラシー時代のさまざまな風俗が描かれている。

 主人公・河合譲治(28)の職業はサラリーマン。
 そんな河合が引き取って育てるヒロイン・ナオミ(15)は浅草のカフエの女給の見習い。
 その姿は活動女優のメリー・ピクフォードに似ている。
 そんなふたりが共に住むのは、大森にある、「文化住宅」と呼ばれる「お粗末な洋館」。
 赤い屋根、白いマッチ箱のような外側、長方形のガラス窓の洋館を見て
 ナオミは「まあ、ハイカラだこと!」と目を輝かせる。
 ふたりがデートをするのは活動写真、デパートメント・ストア、洋食屋。
 洋食屋でナオミはビフテキを食べる。
 河合はナオミを理想の女性に育てるため、音楽と英語を学ばせる。
 稽古に行く時のナオミの服装は、銘仙の着物・紺のカシミヤの袴・黒い靴下・可愛い小さな半靴。

 カタカナがいっぱいだ。
 西洋風でお洒落で明るい。
 大正デモクラシーと言えば「個人の自由」が尊重された時代。
 人々は新しい文化や自由を満喫していたのだろう。
 ……………………………………………………………

 さて、このような河合とナオミはどのような物語を紡いでいくのか?

「ナオミちゃん、これからお前は私のことを『河合さん』と呼ばないで『譲治さん』とお呼び。そしてほんとに友達のように暮らそうじゃないか」

 両親からナオミを引き取った河合は大森の文化住宅でこう提案する。
 ナオミは河合が与えてくれる新しい生活に大満足だ。
 ふたりは「お伽噺の家」で、世帯じみてない楽しい生活を送る。
 河合はナオミを背中に乗せ、馬になって「ハイ、ハイ、ドウ、ドウ!」と部屋の中を歩きまわったりする。笑

 共同生活を始めた頃の気持ちを河合はこう表現している。
『その頃ナオミに恋していたかどうかは自分にはよくわかりません。彼女を立派な夫人に仕込む楽しみの方が強かったようにも思います』

 だが、次第に河合はナオミに女を感じるようになる。
 鎌倉に海水浴に行き、彼女の水着姿を見て、
「ナオミよ、ナオミよ、お前は何と云う釣合いの取れた、いい体つきをしているのだ」

 そして共同生活を初めて二年目──ふたりは結ばれる。
 事が終わり、ナオミは「譲治さん、あたしを捨てないでね」と語り、河合は結婚の話をする。
 ナオミは引き取られてからこうなることを薄々理解していたらしく、結婚に同意する。

 こうして河合は幸せの絶頂に立つわけだが、ここから先が谷崎潤一郎の真骨頂。
 ナオミに翻弄されて、河合は泣き、怒り、狂い、消耗していく。
 ナオミを理想の女性に育てて支配しようとしたのに逆に支配される。
 だが、どんなに酷い目に遭っても河合はナオミを捨てられない……。

 その詳細は次回。
 
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「エトロフ発緊急電」 佐々木譲~すべてが愚かだった。共和国の理想もデモクラシーも革命も

2024年02月14日 | 小説
 日本機軍機動部隊が真珠湾を奇襲?
 この情報をつかんだアメリカは真偽を確かめるべく、
 ひとりの日系人をスパイとして日本に派遣する。

 佐々木譲の『エトロフ発緊急電』は本格スパイ冒険小説だ。

 スパイとして白羽の矢が立てられたのはケニー・サイトウ。
 スペインでフランコ独裁政権と闘った元義勇兵だ。

 スペイン内戦。
 ここで作家ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』を書き、
 ジョージ・オーエルは『カタロニア讃歌』を書き、
 写真家のロバート・キャパは有名な写真『崩れ落ちる兵士』を撮った。
 ピカソは空爆された街ゲルニカの悲惨を目の当たりにして『ゲルニカ』を描いた。
 スペイン内戦は『自由と民主主義』のための戦いであり、世界中の耳目が集まった。

 さて、こんなスペイン内戦に参加した主人公ケニー。
 自由と民主主義のための闘争に裏切られて虚無的になっている。
 アメリカの諜報部からスパイとして日本に潜り込むことを依頼されるが、ケニーは拒絶する。
 いはく、
「おれは世界中のどの政府にも忠義を尽くすつもりはない」
「この世界はおれが真面目に怒らなくてはならないほどの価値はない」
「すべてが愚かだった。共和国の理想もデモクラシーも革命も」

 こんなケニーに、彼をスカウトに来たアメリカ軍のキャスリンは反論する。
「それは安っぽい虚無主義よ。愛したものから十分な見返りがなかったからと言って、
 かつて自分が何かを愛したという事実すら否定してしまうのは」

 しかしケニーの心は動かない。
 それどころかアメリカの批判を始める。
「貴様らの標榜するデモクラシーなどただのお題目」
「圧政と搾取を糊塗するためのきれいごとのスローガンでしかない」
「国内では黒人やメキシコ人やアジア人をどう扱っているか。
 中米ではどれほど好き勝手のし放題をしているか。胸に手を当ててよく考えてみろ」
 ……………………………………………………………………

 日本ではめずらしい骨太の冒険スパイ小説だ。
 僕はこの作品をスタート地点にして船戸与一など、日本の冒険小説を読んでいった。

 そして現在、僕はケニーの言葉に共感する。
「おれは世界中のどの政府にも忠義を尽くすつもりはない」
「この世界はおれが真面目に怒らなくてはならないほどの価値はない」
「すべてが愚かだった。共和国の理想もデモクラシーも革命も」

 国のために。自由と民主主義のために。
 政治家はきれいごとを言うけれど、裏金問題などでどうしようもない言い訳を聞いていると、
 懐疑的にならざるを得ない。

 この後、ケニーはカネのためにアメリカの要請を引き受けて日本に潜入する。
 そこで彼が何を見て考えたのかは本作を読んで確認して下さい。
 非常に面白い冒険小説です。

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