平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

糸井重里さんの『おいしい生活』~このキャッチコピーで人生を生きています!

2016年01月30日 | 1970年代を考える
 印象に残ってるキャッチコピーと言えば、西武百貨店の『おいしい生活』。
 単にカネやモノだけでなく、カルチャーや精神的なことで豊かになろうというメッセージだ。
 発表されたのは1982年だが、ちょうど高度経済成長が終わって、人々が文化的なことに目覚め始めた時期で、まさにタイムリーなキャッチコピーだった。
 僕もその頃、映画を見まくってたから、そうそうって思ってた。
 雑誌ぴあ(=当時は雑誌だった)が出てきて、パルコ文化がもてはやされたのも、この時期だった。

 ウディ・アレンがポスターなどのイメージキャラクターに起用されていたのもお洒落だった。
 何しろハリウッドのきれいな女優さんなどではなく、あのしょぼくれた眼鏡のおっさんのウディ・アレンの起用ですよ。
 普通ならあり得ない。
 でも、当時、ウディ・アレンはカルチャー世代のヒーローだった。
 インテリで皮肉屋で、ジョークを飛ばしてしゃべりまくり、小男で、いつも精神科の厄介になっている男で、ロマンスを求めてはフラれて人生の苦みを感じさせる男で、映画館と本屋とマンハッタンがよく似合うバリバリのニューヨーカーで。
 だから、ウディ・アレンを起用したセンスに驚いた。
 あまりにも的確すぎる。
 『おいしい生活』を表現するのに、ウディ・アレン以外にふさわしい人物はいない。
 ウィキペディアに拠ると、当時、セゾングループのトップだった堤清二さんは気難しいアレンを口説くために懸命に動かれたそうだが、やっぱり堤さんは詩人だねえ。
 今はこういう経営者がいなくなった。

 このキャッチコピーを書いたのは、糸井重里さん。
 すごいよな~。
 だって、〝おいしい〟と〝生活〟を繋げたんですよ。
 おいしい+生活。
 単純なことなんですけど、これを一般人はなかなか思いつかない。
 さらに、このふたつの単語で、時代の求めているものを的確に表現した。
 糸井さんは、この前年(1981年)にも『不思議、大好き』という西武のキャッチコピーを書いていましたが、これも好きだったなぁ。
 何しろ日常は単調で退屈ですからね、だから不思議を求める。
 英国のストーンヘンジやモアイ像のあるイースター島、これらを考えるだけでワクワクする。
 あと、糸井さんですごいのは、新潮文庫の『想像力と数百円』(1984年)。
 このコピーは現在でも<新潮文庫の100冊>で使われていますけど、これほど文庫本を的確に表現した言葉はない。

 というわけで、
 「印象に残ってるキャッチコピーは?」というお題で、僕が真っ先に思い浮かべたのは、『おいしい生活』でした。
 この言葉が心に引っかかっているせいか、僕は今でも『おいしい生活』を求めてウロウロしています。
 みなさんも「印象に残ってるキャッチコピー」を思い出すことで、自分の再発見ができるかもしれません。

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追悼、野坂昭如~大きなものに挑んだドンキホーテ、遊びとユーモア、哀しみ、そして非戦

2015年12月11日 | 1970年代を考える
 野坂昭如さんが亡くなった。
 作家、作詞家、テレビの構成作家、歌手、タレント、政治家、キックボクシング……。
♪ソ、ソクラテスか、プラトンか、みんな悩んで大きくなった! 俺もお前も大物だぁ!♪
 時代と戯れて、遊んだ人だったなぁ。

 大きなものと戦うドンキホーテ、ピエロのような人でもあった。
 金権政治を批判して、新潟三区に乗り込んで田中角栄と選挙対決!
 わいせつをめぐって、『四畳半襖の下張り』裁判!
 学生運動が熱かった時は、安田講堂にたてこもる学生たちにおにぎりを届けた。
 その根本にあるのは反権力。
 でも、革命家やテロリストになってしまうようなガチガチの反権力ではなく、どこかユーモアと遊びがあるのが野坂昭如。
 野坂昭如は軽くてシンコクが嫌いなのだ。

 70年代の元祖サブカル誌『面白半分』の編集長も務められた。
 裁判になった、永井荷風の筆とされる『四畳半襖の下張り』を掲載したのもこの雑誌。
 『面白半分』の歴代編集長は、そうそうたる方々で、野坂さんの他には、吉行淳之介、開高健、五木寛之、井上ひさし、遠藤周作、金子光晴、筒井康隆、半村良……すごい雑誌だ!
 雑誌名『面白半分』は、確か吉行淳之介の命名だったと思うが、吉行流に英訳して<ハーフ・シリアス>。
 <ハーフ・シリアス>、いい言葉だなぁ。
 この言葉を見た時、僕は自分の生き方はこれで行こうと思った。

 考えてみると、僕は常に野坂さんに影響を受けて生きてきたような気がする。
 テレビ朝日の朝のワイドショーでやっていた追悼特集で、こんな映像を流していた。
 『朝まで生テレビ』の大島渚監督との、戦争で戦うことをめぐるやりとりだ。
 野坂さんは、
「日本国なるものを守るためには戦わないが、女房、子供を守るためには戦う」
 これに対して、大島監督は、
「どんなものであれ、守るって発想を持っちゃいけないんだ! たとえ女房、子供であっても!」
 いずれも深い言葉ですね。
 僕は野坂さんの考え方に近い。
 まず、国なんてものはただの概念で、まったく信用していないし、仮に今、中国と戦争になっても安倍首相や、戦争で儲けたいやつや、国の名誉なんかのために戦わない。
 ただ、身内や親しい人がひどいめに遭うようだったら何らかの形で戦う気がする。(現実になってみなければわかりませんが……)
 一方、大島渚監督の言うこともわかる。
 女房、子供を守るためと言っても明確な線引きが出来るわけではなく、結局は権力者に利用されて、国家のために戦うことと変わりがない。だから守るなんて発想を持ってはいけない。
 野坂昭如や大島渚が出ていた頃の、朝生は面白かったなぁ。
 今は小賢しい小者ばかりで……。

 最後は野坂昭如の遺言をふたつ。
「どんな戦争も自衛のため、といって始まる。そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。騙されるな」
「この国に戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう」

 国の名誉にとらわれたバカどもと、戦争で儲けたいやつらが戦争を起こそうとしている。


※追記
 野坂さんは、坂口安吾に傾倒されていた。
 おそらく野坂昭如の<焼跡闇市派>の思想は、坂口安吾から来ている。
 だから、僕は『堕落論』を始めとする安吾の著作を結構、読んだんですけど、焼跡闇市の時代を知らない僕にとっては、いまいちピンと来ないんですよね。
 ただ、安吾や野坂昭如の根本にあるのはこれだな、と思った文章がある。
 野坂さんの作品『エロ事師たち』(新潮文庫)にある澁澤龍彦の解説の一文だ。
 澁澤はこう書いている。

「現実の醜悪悲惨が強調されればされるほど、そこにうごめく人間どもの言動の、何やらあっけらかんとした明るさや、また動物的な強靱な平静さが、作者の筆によって対照的に際立たせられるのだ。滑稽と、グロテスクと、哀愁(ペーソス)とが一丸となったユーモアが、そこから生ずる」

 なるほど、これが<焼跡闇市派>なのだ。
 目の前の現実は醜悪悲惨であるけれど、あっけらかんとして明るく、人々には動物的な強靱さがある。
 しかし、戦争を起こす人間の愚かさや黒こげの死体を見てしまった彼らは、生きることや人間を全面的に信じることはできない。
 生きることは、滑稽でグロテスクで哀愁漂うものだという考え方が根底にある。
 『火垂るの墓』の現実を体験した少年は、こうして『エロ事師たち』を書くようになった。

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1970年代を考える~「巨人の星」は高度経済成長と、戦前の価値観を乗り越える物語だった

2015年11月13日 | 1970年代を考える
「巨人の星」は、なかなか興味深いテキストだ。

 まず星一徹。
 絶対的な父親で、姉・明子は家に縛りつけられ、飛雄馬は一徹の価値観の支配下に置かれる。
 まさに戦前の家父長制度の価値観をもった存在だ。
 暴力をふるい、根性という精神主義と唱え、アメリカの大リーグを倒すためのギブスを飛雄馬を強要するあたりは、大日本帝国の軍隊のよう。
 そして、球界の王者ジャイアンツを至高のものと考えるあたりは、保守的で権威主義的。
 星一徹って、戦前の価値観をもったオヤジなのだ。

 一方、飛雄馬。
 当初、一徹に洗脳されていた彼は、魔送球というボールを長嶋茂雄を投げつけて敵意をあらわにする。
 これは何を意味するのか?
 長嶋茂雄……長嶋こそは戦後の日本の象徴だ。明るくて、ショーマンシップに溢れ、アメリカ的で、精神主義からは程遠くて。
 つまり飛雄馬が長嶋にボールを投げつけたのは、戦後日本への反抗だったのだ。
 戦前の価値観が戦後に牙をむいた。

 しかし、そんな飛雄馬も次第に戦後日本の価値観に目覚めていく。
 お金(契約金)にこだわり、遊びや恋愛やクリスマスパーティなど、まわりの人間がおこなっている青春を謳歌しようとする。
 一徹の呪縛や洗脳から解放され、「俺は父ちゃんの人形ではない」と反抗し、乗り越えようとする。
「巨人の星」の後半で描かれた、飛雄馬と一徹の対決は、戦後と戦前の戦いに他ならない。

 もうひとつ「巨人の星」には、こんな物語がある。
 貧乏人がのし上がっていく物語だ。
 金持ち代表は、花形満と伴宙太。貧乏代表は、飛雄馬と左門豊作。
「巨人の星」の前半では、まだ格差があった。
 しかし、飛雄馬と左門はプロ野球選手になることによりお金を稼ぎ、次第に豊かになっていく。
 左門豊作などは最終回で女番長・お京と結婚して幸せな家庭を築いてしまう。
 この物語こそ、まさに戦後日本である。
 高度経済成長により、飛雄馬も左門も一億総中流の仲間入りをしたのだ。
 左門は飛雄馬よりもさらに一歩進んで、小市民的な家庭を持つことができた。

 作品は時代を反映すると言われるが、「巨人の星」もまさに70年代の高度経済成長期を反映している。
 星飛雄馬の物語は、そのまま一億総中流になり、誰もが家庭を持ち、生活を楽しめるようになった時代にリンクする。
 では星一徹に代表される戦前の価値観はどこにいったか?
 現在、星一徹はパロディとして笑いになっているが、これこそは戦前の価値観が否定された証拠だろう。
 高度経済成長の豊かさは戦前の価値観を凌駕し、克服した。
 しかし、一億総中流・マイホーム主義という価値観が崩れているのも今の状況。
 現在はこれに代わる価値観が模索されている状況だと思うが、今後は、どのような価値観が出て来るのだろう?

 僕は星一徹はイヤだな。
 明るい長嶋茂雄がいいんだけど、ここから日本バンザイって方向に行くのはカッコ悪い気がする。

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あしたのジョーと1970年代論~ホセ・メンドーサ戦でジョーは日の丸を背負って闘った

2015年10月28日 | 1970年代を考える
 70年代前半、大学生たちの間で言われていた言葉は、
「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」
 その頃、少年マガジンは学生たちが共感するシンボル的雑誌だったんですよね。

 そんなマガジンの中でも熱狂的に支持されたのが「あしたのジョー」~原作・高森朝雄(梶原一騎)、画・ちばてつや。

 日航機「よど号」をハイジャックした赤軍派の田宮高麿は言った。
「最後に確認しよう。我々はあしたのジョーである」
 劇団・天井桟敷の寺山修司は、主人公・矢吹ジョーとの激闘の末、命を落とした力石徹の葬儀を講談社の講堂でおこなった。

 この時代の「あしたのジョー」とは何だったのだろう?
 寺山修司は、力石徹について次のように語っている。
「力石はスーパーマンでも同時代の英雄でもなく、要するにスラム街のゲリラだった矢吹丈の仮想的、幻想の体制権力だったのである」
 力石は体制権力。
 面白いとらえ方だ。
 確かに力石は、その背後に白木葉子・白木財閥がいて、体制権力側の人間だったと言える。
 そんな力石を叩きつぶすために闘うジョーは反権力・反体制。
 おそらくジョーが学生運動家たちの共感を得た理由は、このような所にあるのだろう。
 矢吹丈は闘いの象徴だったのだ。

 しかし、そんなジョーも時代の流れの中で、次第に牙を抜かれていく。
 橋の下にあった丹下段平ジムは立派な建物になり、ジョーは飢えや闘争心を忘れていく。
 世の中が落ちついていき、ジョーも大人になり、闘う意味をなくしていくのだ。
 この間、ジョーは東洋バンタム級チャンピオンの金竜飛や野生児ハリマオと闘うが、当初、彼らに圧倒され、こんなやつらには到底、勝てないと考えてしまう。
 金竜飛やハリマオは、ジョーがなくしてしまった<飢え>や<闘争心>そのものだからだ。
 そして、世界チャンピオン、ホセ・メンドーサ戦。
 ジョーは日の丸を背負い、警察の楽隊に国家を演奏させて、闘う。
 これこそが、ジョーが体制権力に飲み込まれた象徴的なシーンだ。
 かつて社会に牙をむいていた、ドヤ街、少年院出身の矢吹丈はもはやいない。

 矢吹丈の物語は、そのまま70年代の物語である。
 闘争の時代は終わり、小市民の生活へ。
 ホセ・メンドーサ戦の前、乾物屋の紀子はジョーに青春を楽しんで小市民の生活を送ればいい、と訴えるが、ジョーはそれを受け入れない。
 名セリフである「真っ白な灰」の話をして、メンドーサ戦に臨んでいく。
 小市民になれない、ジョーに唯一、残された道は、くすぶっている闘争心を最後に燃やして、真っ白な灰になることだった。

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1970年代を考える~植草甚一という自分の趣味と好奇心に殉じた自由人がいた!

2015年10月06日 | 1970年代を考える
 植草甚一という人がいた。
 自分の趣味と好奇心に殉じた自由人であり、そのライフスタイルは70年代後半ブームになった。
 その守備範囲は、
 ジャズ、ロック、映画、演劇、ミステリ、海外コミックス、洋書、ヒッピー文化、ボクシング……。
 今で言うサブカルである。
 その著書は、「ぼくは散歩と雑学が好き」「ワンダー植草甚一ランド」「映画だけしか頭になかった」など。
 晶文社から出ていた、植草甚一スクラップブック(1976~78刊行)は装丁も洒落ていて、僕も集めたなぁ。

 では、なぜ植草甚一はブームになったのだろう?
 前回も書いたとおり、70年代は、学生運動の政治の時代が終わり、社会は高度経済成長、消費の時代に入った。
 人々は会社に入り、サラリーマンになり、お金を稼ぎ、家族をつくり、新しい家電製品や自動車、家を買った。
 それが生きることそのものになった。
 だが、それに少し違和感を覚える人がいた。
 たとえば、
・消費社会はいいけど、家電や自動車や家じゃないよな、と考える人。
・サラリーマンや家庭を築くのもいいけど、当たり前過ぎて、つまらないよな、と考える人。
・組織の中で汲々とするより、自分のスタイルで、もっと自由に生きたいよな、と考える人。
 そんな人たちが、植草甚一に走った。
 植草さんのジャンルって、本や雑貨やマッチ箱で、車や家と比べたら安いものですしね。
 実際、植草さんは貧乏だった。

 こんな植草さんについて、哲学者の鶴見俊輔さんはこう語っている。
「人間は普通に生きてることに価値があるのだ。楽をして生きられればいいじゃないか。そこに(植草さんは)どっかと腰をおろしていた。それが戦後になって花開いたと思うんだな」

 政治や、画一的な消費社会から距離を置いて、自分のスタイルで気持ちよく生きていった植草甚一。

 現在も、国家やイデオロギーなどに惑わされず、各自が自分のスタイルで生きていけば、文化はもっと豊かになるし、世の中は平和になるだろう。


※参考資料「不良老人伝・植草甚一」(月刊「望星」・東海教育研究所)

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1970年代を考える~学生運動の熱狂を引きずって、街には余熱が残っていた!

2015年09月29日 | 1970年代を考える
 1970年代について考えてみようと思う。

 1972年の連合赤軍による浅間山荘事件。
 70年代を扱った本『70年代~若者が「若者」だった時代』(週刊金曜日)に拠れば、これによって世の中の空気は大きく変わっていったという。

 ひとつは、政治的なものから消費的なものへの意向。
 時代は高度成長期で、1970年には大阪で万国博覧会があったが、人々は豊かさを求めるようになった。
 1974年にはベトナム戦争が終結して、運動家は闘うべき敵を失った。

 ふたつめは、若者の二分化。
 すなわち、
 学生運動をやめて「このへんで足を洗おう」と企業戦士・サラリーマンになる人と、「会社人生を歩まなくたってどうにかなるさ」と街をさまよう人たちの二分化である。

 この頃、僕は子供で、政治というよりは消費社会を享受している人間だったのですが、この辺の空気は何となくわかります。

 で、会社人生を歩まず、街をウロウロしていた人たちは、どこに行ったか?
 映画館・ライブハウス・芝居小屋・飲み屋・喫茶店……。
 学生運動の熱狂を引きずって、街には余熱が残っていた。
 反体制という空気が残り、燻っていた。

 文化も多様だった。
 アングラ演劇、日活ロマンポルノ、萌えとは異質なエロ劇画……。
 現在で言うサブカルチャーですね。

 僕はこれらに乗り遅れてしまった世代なので、実はすごく憧れています。
 映画館・ライブハウス・芝居小屋・飲み屋・喫茶店などで熱く語る人たち。
 反体制、社会から外れること。
 大人になって、ビデオになった日活ロマンポルノや復刻版のエロ劇画を見た時の、恐ろしいものに触れるような、ドキドキした感じは今でも覚えています。
 何しろ僕は、これらと対照的な、小市民・生活保守主義的価値観を当たり前のこととして信じていたので尚更です。
 つまり、
・正社員になって就職すること
・経済、お金、重視
・家庭を持つこと
・学生運動なんかやったら連合赤軍になってしまいますよ、という恐怖。

 1970年代。
 この時代は、現在や僕自身を考える上で、重要な時代だと考えています。
 これからも折りにふれて、さまざまな角度から考察していきます。 

 
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