映画「ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ」を観た。
1972年、中核派のスパイと間違われて革マル派に拉致され、リンチで殺害された川口大二郎氏を描いたドキュメンタリーだ。
事件の再現映像と当時の関係者の証言、池上彰さん、鴻上尚史さんら著名人のコメントで構成されている。
早稲田の文学部の学生だった川口氏は「自分は中核派のスパイではない」と主張する。
しかし革マル派の人間はそれ受け入れない。
イスに縛りつけ、バットで殴り、角材で叩き、結果として川口氏は亡くなってしまう。
リンチをした者たちは「殺すつもりはなかった」と戸惑うが、東大前に遺体を放棄……。
この背景には少し前に革マル派の人間ふたりが中核派に殺害されたことにある。
いわゆる暴力の連鎖というやつだ。
これに加えて「自分たちは革命をやっているんだ」「正義の戦いをしているんだ」という狂信……。
彼らは「革命的暴力は正義の暴力だ」と考えていて、これが暴力に拍車をかける。
ここに何の疑いもない。
思想家で武道家の内田樹氏に拠れば、暴力には三種類あるという。
・ひとつは論理的暴力
自分は正しいことをしている。戦っている、と自己正当化しておこなう暴力だ。
・ふたつめは快感的暴力
快楽を得るための暴力だ。
・三つ目は自分を麻痺させての暴力
暴力を直視してしまうと心が壊れてしまうので感覚を麻痺させる。
元外交官で作家の佐藤優氏は、このリンチ殺人を「魔女の論理」という形で説明していた。
どんなに痛めつけられてもスパイだと認めない川口氏について、暴力をふるう側は
「もしかしたら自分たちは間違っているのでないか?」と迷うのではなく、
「こんなに耐えられているのは強い信念を持っているからだ」と考えてしまう論理だ。
さて川口大二郎氏のリンチ事件のその後──
川口氏の学生葬がおこなわれ、革マル派を糾弾する学生集会が開かれる。
集まった学生の数は3000人。
いわゆる党派に属さない学生たちだ。
当時、学生の自治会は革マル派が仕切っていたから、これに代わる新自治会がつくられる。
行動委員会というものも結成されて革マル派に対峙する。
川口氏の事件から発生した新自治会と行動委員会の基本方針は「非暴力」だ。
腕組みスクラムと非暴力で「革マルからの早稲田の解放」を目指すが、たびたび襲撃に遭い、暴力を使わざるを得ない状況になり、暴力か? 非暴力か? の選択を迫られる。
………………………………………
これが1970年前半の出来事なんですね。
革マル派、中核派はもちろん、そのアンチの行動委員会も新自治会も熱狂の中にいる。
今から見ると、すごい違和感。
糾弾集会に3000人、公開の激しい議論の応酬、襲撃、暴力。
どうしてそこまでになれるのか?
この狂乱は何なのか?
一方で時をやや同じくした1970年には大阪万博が開催。
高度経済成長が始まり、サラリーマン、小市民化が進行する。
狂乱と暴力への嫌悪から人々の心は左翼運動から離れ、
左翼運動をしていた人たちも熱狂から醒めていく。
時代は熱狂からシラケの時代へ。
左翼運動は収縮していく。
立て看だらけだった大学のキャンパスはきれいなキャンパスへ。
大学の自治? 何だ、それ? という世界へ。
戦争中の軍国主義の熱狂。
1960年代の世界革命の熱狂。
人の心はいったん火がつけばどんどん広がって消すことのできない大きな炎になる。
暴走して暴力の連鎖が始まる。
今後、こんな世界はやって来るのだろうか?
作品の最後は革マル派の幹部の「自己批判書」の言葉で締められる。
「人間の尊厳なくして人間の解放はあり得ない」
人間の解放か……。
古い概念だと思うが、考え続けたいテーマでもある。
1972年、中核派のスパイと間違われて革マル派に拉致され、リンチで殺害された川口大二郎氏を描いたドキュメンタリーだ。
事件の再現映像と当時の関係者の証言、池上彰さん、鴻上尚史さんら著名人のコメントで構成されている。
早稲田の文学部の学生だった川口氏は「自分は中核派のスパイではない」と主張する。
しかし革マル派の人間はそれ受け入れない。
イスに縛りつけ、バットで殴り、角材で叩き、結果として川口氏は亡くなってしまう。
リンチをした者たちは「殺すつもりはなかった」と戸惑うが、東大前に遺体を放棄……。
この背景には少し前に革マル派の人間ふたりが中核派に殺害されたことにある。
いわゆる暴力の連鎖というやつだ。
これに加えて「自分たちは革命をやっているんだ」「正義の戦いをしているんだ」という狂信……。
彼らは「革命的暴力は正義の暴力だ」と考えていて、これが暴力に拍車をかける。
ここに何の疑いもない。
思想家で武道家の内田樹氏に拠れば、暴力には三種類あるという。
・ひとつは論理的暴力
自分は正しいことをしている。戦っている、と自己正当化しておこなう暴力だ。
・ふたつめは快感的暴力
快楽を得るための暴力だ。
・三つ目は自分を麻痺させての暴力
暴力を直視してしまうと心が壊れてしまうので感覚を麻痺させる。
元外交官で作家の佐藤優氏は、このリンチ殺人を「魔女の論理」という形で説明していた。
どんなに痛めつけられてもスパイだと認めない川口氏について、暴力をふるう側は
「もしかしたら自分たちは間違っているのでないか?」と迷うのではなく、
「こんなに耐えられているのは強い信念を持っているからだ」と考えてしまう論理だ。
さて川口大二郎氏のリンチ事件のその後──
川口氏の学生葬がおこなわれ、革マル派を糾弾する学生集会が開かれる。
集まった学生の数は3000人。
いわゆる党派に属さない学生たちだ。
当時、学生の自治会は革マル派が仕切っていたから、これに代わる新自治会がつくられる。
行動委員会というものも結成されて革マル派に対峙する。
川口氏の事件から発生した新自治会と行動委員会の基本方針は「非暴力」だ。
腕組みスクラムと非暴力で「革マルからの早稲田の解放」を目指すが、たびたび襲撃に遭い、暴力を使わざるを得ない状況になり、暴力か? 非暴力か? の選択を迫られる。
………………………………………
これが1970年前半の出来事なんですね。
革マル派、中核派はもちろん、そのアンチの行動委員会も新自治会も熱狂の中にいる。
今から見ると、すごい違和感。
糾弾集会に3000人、公開の激しい議論の応酬、襲撃、暴力。
どうしてそこまでになれるのか?
この狂乱は何なのか?
一方で時をやや同じくした1970年には大阪万博が開催。
高度経済成長が始まり、サラリーマン、小市民化が進行する。
狂乱と暴力への嫌悪から人々の心は左翼運動から離れ、
左翼運動をしていた人たちも熱狂から醒めていく。
時代は熱狂からシラケの時代へ。
左翼運動は収縮していく。
立て看だらけだった大学のキャンパスはきれいなキャンパスへ。
大学の自治? 何だ、それ? という世界へ。
戦争中の軍国主義の熱狂。
1960年代の世界革命の熱狂。
人の心はいったん火がつけばどんどん広がって消すことのできない大きな炎になる。
暴走して暴力の連鎖が始まる。
今後、こんな世界はやって来るのだろうか?
作品の最後は革マル派の幹部の「自己批判書」の言葉で締められる。
「人間の尊厳なくして人間の解放はあり得ない」
人間の解放か……。
古い概念だと思うが、考え続けたいテーマでもある。