平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

レ・ミゼラブル ②~貧しき人々・悲惨な人々

2012年12月31日 | 洋画
 映画版の『レ・ミゼラブル』。
 原作を知っている人は楽しめたと思うけれど、知らない人にはどう見えたんだろう?
 あの膨大な内容を2時間半で描くこと自体が無謀なのだが、ダイジェスト感は否めない。
 ただ、映画版(ミュージカル版)ならではの解釈も描かれている。
 それは<貧しき人々><悲惨な人々>。
 『レ・ミゼラブル』は『ああ無情』と訳されることが多いが、直訳すると<貧しき人々><悲惨な人々>である。
 映画版では、まさに<貧しき人々><悲惨な人々>が描かれている。
 それは
・飢えている妹の子供のためにパンを盗んで獄に繋がれたジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)。
・父親のいない子を産んだだけで迫害され、コゼットのために体を売り、髪や歯を売るファンテーヌ(アン・ハサウェイ)。
・そんな貧しい人たちのために立ち上がるマリウスやアンジョルラス。
 ジャン・バルジャンの<愛の行為>に目を奪われがちだが、この作品の底流には<貧しき人々>を作り出す19世紀フランス社会への怒りがある。
 バルジャンは罪人として獄に繋がれたが、彼は悪人なのだろうか? 貧困が彼を追い込み、仕方なくパンを盗むという行為をさせたのではないかと問うている。

 ところで『レ・ミゼラブル』の状況は、別に19世紀フランス社会に限ったことではない。
 現在の日本だって。
 非正規雇用、ネットカフェ難民、年越し派遣村……。
 格差がもっと進めば、19世紀フランスの『レ・ミゼラブル』がこの国にも現れるかもしれない。
 安倍さん、自民党政権は、国民に<自助・自立>を求める政権で、弱者を切り捨てる政策をしようとしているようですけど、頼みますよ、憲法25条で<生存権>は認められているんです。
 <非正規雇用>というシステムを作ったのは、小泉氏の自民党政権ですから、それがもっと極端にならないか心配。

 さて、話を映画『レ・ミゼラブル』に戻すと、<貧しき人々>は決して暗く描かれていない。
 バリケードの少年・ガブローシュは元気でたくましいし、あの悪党ティナルディエ夫妻でさえ、ユーモラスに描かれている。
 ラスト、マリウスとコゼットの結婚式から追い出されるティナルディエ夫妻は、金持ちから金品をスリまくり、どんなことをしても生きてやると宣言する。
 自分たちは貧しいんだから金持ちから盗み取るのは当たり前、どんな手段を使っても生き抜くのは当たり前と考えているようだ。
 この夫妻の生き様は、マリウスたちが特権階級と闘おうとしたのと同じ。
 ただ手段が違うだけ。
 マリウスたちは<革命>によって闘おうとしたが、夫妻は<盗み>や<脅迫>によって特権階級と闘っている。
 そんな彼らは何としたたかで、たくましいことか!

 というわけで<貧しき人々><悲惨な人々>という視点からもとらえ直すことが出来る映画版『レ・ミゼラブル』。
 ネタバレになるので詳しく書かないが、だから映画版はあのラストになる。
 <貧しき人々>は繋がり合うことが出来るのだ。


 レビュー『レ・ミゼラブル ①~愛の人ジャン・バルジャン』はこちら


コメント

レ・ミゼラブル ①~愛の人ジャン・バルジャン

2012年12月30日 | 洋画
 ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)の愛には、さまざまなものがある。
 まずはミリエル司教によって教えられた<無償の愛>。
 自分を無にして、与え続ける愛。
 バルジャンはモントルイユで工場を経営し、マドレーヌ市長になって、人々を幸せにしようとする。
 貧困に苦しんできただけに、『お金が人を幸せにもする』という発想はいかにもバルジャンらしい。
 そんなバルジャンが大きな<無償の愛>の行為をする時がある。
 別の人間がジャン・バルジャンとして捕まり、裁判を受けることを知った時の行動だ。
 彼は裁判の場に行き、「その人はジャン・バルジャンじゃない。自分がバルジャンだ」と叫ぶ。
 この名乗りをしなければ、バルジャンは一生マドレーヌ市長として、警察に追われることなく、穏やかに過ごせたのに。
 しかし、彼はそんな保身を否定する。
 自分の幸せのために無実の他人が犠牲になることが許せない。
 まさに<無償の愛>だ。

 しかし、バルジャンの<無償の愛>はコゼットの存在によって変わってくる。
 <父親の愛>に変わる。
 コゼットと暮らすことに大きな喜びを感じるバルジャン。
 自分だけにしか頼る者がいないコゼットにバルジャンは愛を与え続ける。
 そして幼いコゼットにとって、バルジャンはすべてである。
 与えれば与えただけ、笑顔を返してくれる存在、日に日に成長して美しくなっていく存在でもある。
 今まで独りで生きてきた彼にとって、そんな存在を得たことは衝撃であっただろう。 
 コゼットによって、バルジャンは孤独を癒され、希望を与えられ、逆に救われていたのかもしれない。

 しかし、そんな存在が奪われる時が来る。
 恋人マリウスの登場だ。
 彼の登場でコゼットはバルジャンがすべてではなくなる。
 今まで自分にしか向けられていなかったコゼットの愛が別の人間に向けられることになる。
 ここでバルジャンは人生の第二の選択を迫られる。
 革命のためにバリケードに立てこもるマリウス。
 市民が呼応して立ち上がる気配はなく、軍隊は派遣され、革命は失敗で、このままではマリウスは死ぬしかない。
 コゼットを失いたくないバルジャンにとっては好都合な状況だ。
 しかし、彼はマリウスを助けにいく。
 自分を無にして、コゼットとマリウスの幸せのために行動する。

 このようにジャン・バルジャンの人生は<愛>で貫かれている。
 その愛は、法の人ジャベール(ラッセル・クロウ)の厳格な心をも打ち砕いてしまう。
 愛は強し。
 しかし、愛の人ジャン・バルジャンが、コゼットを奪われたくないといったエゴに苦しみ、激しく葛藤したことも忘れてはならない。
 愛を貫くことは困難な作業なのである。
 だからこそ、ジャン・バルジャンの生涯は人の胸を打つ。


※追記
 ジャン・バルジャンの成長したコゼットへの愛は<男としての愛>と解釈する評論家もいる。
 確かに。

 この作品についてはもうひとつのレビューを書きました。
 『レ・ミゼラブル ②~貧しき人々・悲惨な人々』はこちら

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ロンドンハーツ ウラでこんな事をやってました 2012~ロンハーは個人戦だが、チームワークでの戦いでもある

2012年12月27日 | バラエティ・報道
『ロンドンハーツ ウラでこんな事やってました 2012』
 芸人さんたちがウラでやっていた、あんなことこんなことが明らかにされて面白かったが、同時に芸人さんたちの本音も聞けて面白かった。 真面目だったのは『はねるのトビら』のドランクドラゴン・塚地さん、ロバート・秋山さん、インパルス・板倉さんの3人。
「ロンハーに出るたびに何もできなくて帰るだけで落ち込んでた」
「ここで(会話に)入るべきかで迷ってた」
「ザキヤマさんは竹山さんを役者いじりして笑いをとっていたけど、自分は何で塚地さんでそれが出来なかったんだろう?」
「結局残るのは自分のスタイルを貫いた人なんだよな」
「ロンハーは個人戦だが、チームワークでの戦いでもある」
 と、いたって真剣な芸人トーク。
 最後のふたつなんかは、すぐれた芸能論でもある。
 つまり
 芸能人に必要なのは個性、キャラクター。
 その個性・キャラクターを形作るのが、自分のスタイル。
 自分のスタイルを貫きまくってる人と聞いて頭に浮かぶのは、江頭2:50さんかな。
 あの過激さはすごい。
 結果、テレビにはあまり出られないのだけれど、出れば必ず強烈なインパクトを残す。
 江頭さんの言う<伝説>だ。
「1クールのレギュラーよりも、1回の伝説」
 江頭さんはこんなことも語っている。
「芸人にとっちゃ無秩序が秩序さ!」
「まずい事をやるために、俺は呼ばれたのさ」
 まさに江頭2:50スタイルだ。

 江頭2:50さんの名言集はこちら

 話がそれてしまいましたが、話をロンハーに戻すと「個人戦だが、チームワークでの戦いでもある」という言葉もなかなか深い。
 ロンハーでは、チームワークによるさまざまな連携技がある。
 たとえば、ザキヤマさんのアゴなめ。
 有吉さんがフリをして、ザキヤマさんがアゴなめを求め、千原ジュニアさんがなめる(笑)
 フットボールアワー後藤さんの例えツッコミも、ザキヤマさんのフリがあって成立する。
 見事な連携だ。
 それは、まるでプロレスのタッグマッチで連携技を見ている感じ。
 きっと芸人さんたちは、バラエティというリングでプロレスをしているのだろう。
 ひとりひとりは、それぞれに個性をもったレスラー。
 得意技も持っている。
 芸人さんは自分の持っている技を駆使して笑いを取るわけだが、そこには連携プレイも必要だし、自分の技を受けてくれる相手も必要。
 大技を効果的に決めるために、小技の応酬も必要で、これら小技を駆使するのが、狩野英孝さんや千鳥さんたち。
 ここで小さな笑いをとっておき、ザキヤマさんのアゴなめとかの大技が炸裂して大爆笑が起こる。
 ちなみに司会のロンブー淳さんは、名レフェリーだ。
 レフェリーは決して試合には参加しない。
 試合と選手をうまくコントロールするだけ。

 というわけで、さまざまな芸人さんがバラエティというリングで闘っているお笑い界。
 来年はどんな選手が登場してくるのだろう。


※追記
 ポン村上さん、相撲強いな。
 あれだけ土俵際に押し込まれたら、なかなか反撃技を繰り出せない。
 腰がしっかりしてるし、相撲経験者なのだろうか?

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遅咲きのヒマワリ 最終回~「きれいになんて咲かなくていい。もがくばかりで咲けない日があっていい」

2012年12月26日 | 学園・青春ドラマ
 丈太郎(生田斗真)とかほり(真木よう子)が選んだ道。
 オトナの視点で見ると、どうかなぁ?って思ってしまうんですよね。
 丈太郎は地域おこし協力隊を辞めなくてもいいのではないか? 収入はなくなるわけだし、田んぼをやることは認められてるわけだし。
 かほりは要請を断らず、教授を逆に利用するくらいのしたたかさで、やりたい癌治療の研究をやった方がよかったのではないか?
 彼らは潔癖で純粋すぎる。
 カッコよすぎる。
 でも、これが若さなんですね。
 灰色のあいまいな状態はイヤで、白黒をはっきりつけずにはいられない。
 自分はまっすぐでまっ白でいたいと思う。
 ぼくなどは人生の残り時間が少ないので、かほりのようなまわり道をやってる暇はないのですが、若い彼らには十分な時間がありますからね。
 このことを、作品はナレーションで以下のように語る。

 きれいになんて咲かなくていい。
 もがくばかりで咲けない日があっていい。
 今いる場所で、できることをやってみよう。
 いつか、自分らしく咲ける日が来ることを信じて

 最終回を迎えても、丈太郎たちは決して『きれいに咲いていない』。
 おそらくこれからも『もがくばかりで咲けない日』が続くだろう。
 でも彼らはそれを良しとしている。
 そして未来を信じてこう誓う。
『今いる場所で、できることをやってみよう。いつか、自分らしく咲ける日が来ることを信じて』
 いささかきれいごと過ぎる感じもするが、これが青春であり若さである。

 今回、しばしば使われた『夢』とかもけっこう恥ずかしい言葉なんだけど、彼らはそれを真面目に使う。
「ここで米作って四万十の人たちに食べてもらいたい。日本中の人に食べてもらいたいし、いつか世界中の人に食べてもらいたい。それがここで見つけた俺の夢なんだ」
「たとえ何年かかっても、私は自分で道を開いて、いつか必ずアメリカで研究する夢をかなえます。夢は私のものですから」
 これらのせりふを今の若い人はどのように受けとめたのか、知りたい気がする。
 そうだよね! なのか? ダサ~い! なのか?

 というわけで、青春バリバリの最終回に、ぼくのようなおじさんは少し戸惑う。
 そんなこと言ってももっと現実的な道を歩んだ方がいいんじゃない? とアドバイスしたくなる。
 それと同時に、哀しいけれど、ぼくの中で<青春>が失われてしまったことも感じる。


※追記
 青春バリバリの丈太郎たち。
 では、中年のおじさん、おばさんたちは生きることをどう考えているんだろうと思い、『最後から二番目の恋』の最終回のメッセージを思い出してみる。
「人生の終わりは誰とも分かちあえない。だから楽しい時には思いっきり笑いたい。悲しい時にも思いっきり泣きたい。どちらも大切な時間だから」
「月並みな言葉だけど、前を向こう。ちゃんと生きてることが一番大事なんだ」
「人生って自分の未来に恋することなのかもしれない。自分の未来に恋していれば、きっと楽しく生きていける」
 丈太郎たちよりは、ずいぶん肩の力が抜けていますね。
 <夢>とか<厳しい困難な道>というよりは、<楽しく生きること>をメインにしている。
 こちらの方が、ぼくにはしっくり来ます。


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ラブ・アクチュアリー~クリスマスだから聞き流してほしい。僕の心は君のもの

2012年12月25日 | 洋画
 別に浮かれているつもりはないけれど、クリスマスの夜には「ラブ・アクチュアリー」を見る。
 そこで描かれるさまざまな愛の物語。
 ぼくが好きなのはこのシーンだ。

 親友の妻に恋をしてしまった男。
 親友の妻であるため、一歩を踏み出してはいけないと思っている男は、彼女に冷たくあたる。心を開かない。
 彼女はそのことが気になっていて、自分のことが嫌いなのかとか、彼はゲイなのかとか思ってしまう。
 原因を明らかにして、彼と心を通わせたい、友達になりたいと思う。
 だが、ある時、彼女は、男が撮影した自分の結婚式のビデオを見てしまう。
 そこにいたのは、彼女! 彼女しか映っていない!
 これで彼女は理解する。
「彼は自分のことが好きなのだ」「親友の妻だから距離を置いているのだ」
 男はそれをあわてて否定するが、気まずいふたり。

 そしてクリスマスの夜、男は彼女の家のドア口にやってきて、告白し、けじめをつける。
 自分のきもちをボードに書いて、紙芝居みたいに一枚一枚めくって。
 それはこんな感じ。

①『来年にはきっとこういう恋人が出来る』
②セクシーな女性の写真
③『重荷に思わず、クリスマスだから聞き流してほしい』
④『本心を打ち明けるのが、クリスマスだから』
⑤『僕の心は君のもの』
⑥『君がこういう姿になり果てる日まで』
⑦ミイラの写真
⑧『メリークリスマス!』

 何というお洒落な告白だろう。
 自分の気持ちをしっかり表現し、同時に彼女への決別も語っている。
 しかも、セクシーな女性やミイラの写真も駆使して。
 こんな告白がうれしかったのだろうか、彼女は、雪の中せなかを向けて歩いていく彼の所に走っていき、キスをする。
 見ていない方のためにフォローしておくと、このキスは彼の気持ちを受け入れたというキスではない。友だちとしての、彼の誠実さに対する感謝のキスだ。
 キスをすると、彼女は夫のいる家の中に走っていく。
 キスを受けて、男はうれしそうにつぶやく。
「これでいい。これで満足だ」

 この告白のシーン、時間にしたら3分くらいかと思うが、映画史の十指に入る告白シーンだと思う。
 この他にも『ラブ・アクチュアリー』には、クリスマスでのさまざまな愛の形が描かれる。
 それは笑いあり、涙あり、感動ありで、心温まる料理をフルコースで食べているような感じだ。
 世界には愛があふれている!!


 昨年書いた『ラブ・アクチュアリー』の記事はこちら

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平清盛 最終回「遊びをせんとや生まれけむ」~わが墓前に頼朝が首を供えよ!

2012年12月24日 | 大河ドラマ・時代劇
「わが墓前に頼朝が首を供えよ!」
 これが清盛(松山ケンイチ)の最期の言葉。
 この言葉の後にバタリと倒れ、絶命する。
 何という最期だろう。
 これまでの大河ドラマの主人公の最期って、枯れて眠るように死んでいくものが多かった。
 自分の人生に満足し、穏やかに訪れる死。
 ところが『清盛』が違う。
 最後の最後まで権力に執着する。
 心の中に激しい炎が燃えている。
 前回までの、力尽きて人生から退場した清盛の描かれ方と矛盾している気もするが、そんな矛盾も力でねじ伏せてしまうような感じがこの最期にはあった。
 作家は、きれいにまとめるよりも、最後の最後まで権力と勝ち続けることにこだわった清盛の<激しい業>を描きたかったに違いない。
 <激しい業>こそが、平清盛であるからだ。

 その<激しい業>は、死んでからも燃え尽きることがない。
 霊として、西行(藤木直人)に取り憑き、平家一門に語りかけ、頼朝(岡田将生)と対峙する。
 海の底の都にも行く。
 清盛の<生のエネルギー>は凄まじく、おとなしく消滅することを許さないのだ。
 坊主がお経をあげたぐらいでは決して浄化されないのだ。

 平成の時代。
 この閉塞の時代にあって、われわれは生きるパワーをなくしている。
 諦め、そこそこでいいと考え、心の中の炎はチョロチョロとしか燃えていない。
 そのことがいいか悪いかは別として、作家は現代人に清盛というとてつもない<生のエネルギー>もった人間をぶつけて挑発しているのかもしれない。
 西行は清盛のことを「命尽きるまで存分に生きた人」と評したが、現代人にも「あなたは存分に生きているのか?」と問いかけているのかもしれない。

 さて、清盛の人生の総括だが、
 ひとつは<武士の世の礎>を作った人物として位置づけられる。
 この清盛の志は、頼朝に受け継がれる。
 清盛は「されば頼朝、まことの武士とはいかなるものか見せてみよ!」と迫り、頼朝は<武士の世>を作ってそれに応える。
 見事な政権交代だ。
 弟子は師を乗りこえていく。

 そして、もうひとつの清盛の人生。
 それは<平家一門>。
 重盛、知盛、宗盛、頼盛、時忠、忠度、経盛、教盛、重衡、維盛、資盛。
 盛国、忠清、貞能。
 時子、徳子。
 彼らは「一蓮托生」という言葉のもとに、繋がっている。
 三種の神器の鏡を手土産に最後までしぶとく生きた時忠のような人物でさえも、「まあ、あいつなら仕方ないか」と許してしまえるような固い絆。
 だからラスト、海の都で、清盛と一門が再会するシーンは感動的だ。
 こうした一門を作れただけでも清盛の生涯には意味がある。
 おそらく清盛と平家一門は海の都で楽しく宴をしたことであろう。
「時忠、おまえは本当にどうしようもないやつだな」
「これが私の生き方でございます」
 みたいな会話をして笑いながら。
 一蓮托生の平家の絆は強く楽しく、つねに笑いにあふれているのだ。


 最後に、毎回熱演を見せて下さった松山ケンイチさんを始めとするキャストの皆様、大河史上最低の視聴率と非難されながらも自分を貫き通した脚本の藤本さん、スタッフの皆様、ありがとうございました。
 本当に見事な大河ドラマでした。


※追記
 清盛が作り上げた一蓮托生の平家一門。
 一方、頼朝は一門を作ることには失敗したようだ。
 義経を死に追いやった頼朝。これは清盛と頼盛の兄弟関係とは対照的だ。
 その後の鎌倉幕府の権力抗争→鎌倉幕府の崩壊。
 頼朝が清盛のような<一蓮托生の一門>を作れなかった背景には、血の繋がりがなかったこともあろうが、清盛から遠く離れて暮らしていたため、清盛の一門づくりを学べなかったこともあろう。


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悪夢ちゃん 最終話~「私が受け止めてあげるから。だから安心して現実に戻っておいで」

2012年12月23日 | 学園・青春ドラマ
 日々感じる未来への不安って<予知夢>のようなものなのかもしれない。
 たとえば
・明日解雇されて、収入が途切れるんじゃないか。
・このまま独りで死んでいくんじゃないか。
・より厳しい格差社会になるんじゃないか。
・原発事故が起こって放射能に脅える生活を送ることになるんじゃないか。
・戦争が起きるんじゃないか、とか。
 何しろ人間の無意識というのは、解明されていない未知の領域ですからね。
 結衣子(木村真那月)が見る<予知夢>というのは、<われわれが日々感じる不安>と読み替えてもいいのかもしれない。

 では、そんなつらい未来に対してどう立ち向かうか?
 彩未(北川景子)は言う。
「その人間の未来はその人にしかつくれないものなのよ。だから、あなたは何にも恐れることなんかない。悪夢ちゃんは悪夢ちゃんのままで未来をつくって行けばいいのよ」
 未来は変えられるのだ。
 実際、この作品では、未来を変えてきた彩未の生徒たちの姿が描かれてきた。
 未来を変えられたのは、結衣子の予知夢や彩未たちの奮闘があったせいだけど、人は望めば<未来を変えられる>。
 もちろん、そこには多くの困難が襲って来るだろう。
 だが、そんな時には、必ず自分を助けてくれる人が現れる。
 ちょうど生徒たちの前に彩未先生や結衣子が現れたように。

 では未来を変えようとして苦しんでいる人には、なぜ助けてくれる人が現れるのか?
 それは、無意識が呼び寄せるのだろう。
 無意識が感知して、苦しんでいる人と他人とを結びつける。
 何しろ無意識は解明されていない未知の領域ですからね、そんな機能があってもおかしくない。
 無意識は人と人とを繋ぐ新たな領域。
 だから人は未来に対して、怖れを抱く必要はないのだ。
 無意識が必ず誰かを連れてきてくれる。
 受け止め、手をさしのべてくれる人は必ず現れる。
 結衣子の前に彩未が現れたように。
 彩未の前に、病気で亡くなった親友・菜実子が介在して、甘澤校長(キムラ緑子)が現れたように。

「人間の未来は、いい事ばかりじゃない。悪夢も多い。だけど、いつだって私達が思い描く未来は夢なのか現実なのか、自分が行ってみるまでは分からない。どんなに悪い現実の中でも人はいい夢を見ることができる。だから恐れず一緒に生きて行こうね」

 現代人は、意識レベルではもう限界に来ているのかな。
 意識レベルではディスコミュニケーションで繋がりを実感できない。
 無意識というものに注目して生きていく時代なのかもしれない。

 最後に結衣子のお父さんって……。
 そうなると、いっしょにアメリカに行こうとした理由とか、なぜ○王子なのかとか、もう一度、1話からあの人のことを考え直したくなるじゃないの。
 本当に意地悪なドラマだ(笑)



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相棒11「猛き祈り」~3年3ヶ月たったらまた来てください。父の祈りを成就させるために

2012年12月20日 | 推理・サスペンスドラマ
・鈴の音
・竹筒
・悲惨な事件の新聞記事

なるほど、これで<即身仏>か。
右京(水谷豊)さんの想像力ってすごいですね。
これだけで背後に隠された意味を読み取ってしまうなんて。

即身仏になって世を救おうとした真智子(柴本幸)の父・伏木田辰也はまさに<善意と理想の人>だった。
辰也は、前科者や心に傷を持つさまざまな人たちに手を差しのべ、救っていた。
彼の<善意と理想>は高じ、今度は世界中の悲惨を救うために<即身仏>になろうとした。
この辰也の人物像が面白い。
こういう辰也みたいな人、これから現実に出てくるんじゃないですかね。
格差社会は進み、社会はどんどん荒廃し、不安になって来ているから。

ただし<善意と理想>は、今回の事件のように、時として罪を犯す。
理想を実現するために、その狂信者たちが暴走する。
享(成宮寛貴)を暴行した『まろく庵』の人たちがそうだ。
テロや戦争を行うイスラム原理主義者たちがそうだ。
現在、日本の右傾化が心配されていますが、カリスマ性のあるリーダーが誕生したら、この国の人たちも狂信的に暴走するんじゃないかな。
それが心配。
真智子のように暴走を止める人がいてほしい。

それにしても、最近の『相棒』はオカルト要素が多い。
右京さんは合理主義者で幽霊なんて信じないだろうと思っていたけど、案外幽霊好き、どうしても幽霊を見たいらしい。

それから警察上層部のやりとり。
享の不祥事に
「この件は私は聞かなかったことにしよう」
「そんなこと通りませんよ」
「通るんだよ。タテ社会では十分に通じるんだ」(笑)


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遅咲きのヒマワリ 第9話~「あったんだよ、最初から目の前に」

2012年12月19日 | 学園・青春ドラマ
 かほり(真木よう子)は、四万十の医者として生きていくことについて、丈太郎(生田斗真)にこう語る。
「見つけたんじゃないよ、あったんだよ。最初から目の前に」
 物事とはこういうものかもしれませんね。
 人は、はるか彼方のものを求めて、結局獲得できなくて、つらい思いをする。
 でも、本当に<大切なもの>は案外近くにあったりする。
 幸せの青い鳥はすぐ近くにいる。

 だから丈太郎。
 彼も目の前に大切なものを見つけてしまった。
 放棄された田んぼ。
 大切な物はすでに存在していた。
 それは今まで目には入ってはいたが、気がつかなかったもの。
 順一(桐谷健太)も毎日見ていた風景だったが、耕作放棄された田んぼに気づかなかった。

 では、目の前にある大切なものに気づくにはどうしたらいいか?
 丈太郎は言う。
「目の前にあることを一生懸命やる」
 丈太郎は<地域おこし協力隊>の仕事を一生懸命やった。
 欣治(ミッキー・カーチス)のために田んぼを懸命に耕した。
 その行為が、農業をやるという今回の発見に繋がった。

 一歩踏み出してみることも大切だ。
 一歩踏み出せば、今まで見えなかった風景が見えてくる。
 東京から追い出されて来たようなものだったが、もし丈太郎が四万十に行くという一歩を踏み出さなければ、今の充実した生活はなかっただろう。
 彩花(香椎由宇)のことだって、自分の気持ちを伝えるという一歩を踏み出さなかったら、今回の高知での墓参りのように彼女が本当の姿を見せてくれることはなかっただろう。

 まず一歩踏み出して、一生懸命やってみる。
 すると大切なものが見えてくる。

 シンプルですが、これが生きることの基本なのかもしれませんね。

 さて丈太郎。
 目の前にある大切なものは他にもありますよ。
 それは、かほり。
 放棄された田んぼのように今まで気づかなかった大切なもの。
 今回、彼はそのことに気づいたようですけど、次回は丈太郎はどう決着をつけるのでしょう?


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平清盛 第49話「双六が終わるとき」~あの「光らない君」がここまで上られたのです。気楽にまいりましょう

2012年12月17日 | 大河ドラマ・時代劇
 後白河法皇(松田翔太)との最後のすごろく。
 すごろくの賽の目は7で、清盛(松山ケンイチ)の勝ち。
 清盛は言う。
「もはや平安の世は終わりを告げようとしておりまする。これより先は武士同士が覇を争う世となりましょう。武士は、もはや王家の犬ではござりませぬ」
 清盛は勝利したんですね。
 時代は完全に<武士の世>になった。
 後白河法皇も負けを認めた。
「さようか。もう、さような所までたどりついておったのか」

 しかし清盛の役割は、頼朝(岡田将生)に橋渡しをする役割だった。
 鎌倉に武士の都を造ろうとしている頼朝。
 清盛の場合は厳島神社、頼朝の場合は鶴ヶ岡八幡宮。
 同じ構想でありながら、清盛の厳島神社は遠く離れた地にある。
 そして内裏の奥にあるのは帝の御所だ。
 しかし、頼朝の鎌倉にはそれがない。
 頼朝は<帝や朝廷の権威>など必要としていないようだ。
 武士たちと自分が<御家人>として契約を結ぶ武士本位の体制づくり。
 ここに頼朝の独創がある。
 清盛は、この頼朝の都づくりを西行(藤木直人)から聞いて、自分の限界を知る。
 帝や朝廷を頭に置かないことこそが<武士の世>だと覚る。
 そして、清盛がかつて鳥羽上皇(三上博史)にしたように、頼朝は清盛に向かって矢を引いた。
 これでジ・エンド。
 清盛は頼朝に敗北したのだ。
 もっとも、それは仕方がないこと。
 清盛が道を切り拓き、新しい都を発想したからこそ、頼朝が発展させることが出来た。

 時代が変わったことは、西行も語る。
 堀川局との再会。
 ここで「恋の歌を交わす雅な時代は終わった」と言って昔を懐かしむ。

 あとは夫婦の物語。
 高倉上皇(千葉雄大)と徳子(二階堂ふみ)。
「死んで気がかりなのは徳子、そなたじゃ」
「王家より平家より上皇様が大事にございます」
「上皇様だけが私の光る君でございます」
 虚しく鳴らない笛の音に対しては
「何と美しい音色でございましょう」
 脚本の藤本さんは、この時代に翻弄された夫婦にもしっかり見せ場を作った。

 そして清盛と時子(深田恭子)。
「もうよいではございませぬか。あの「光らない君」がここまで上られたのです。これ以上の高望みはなされますな。気楽に参りましょう」
「気楽なことを」
「ひさしぶりに源氏物語を読みたくなりました」
 絶望の中でのやすらぎの場。
 いいシーンだ。
 時子は『源氏物語』を読みながら、昔を思い出していたに違いない。

 さて次回は最終回。
 今回で、清盛の生涯の総括はある程度出来たように思われるが、さらにそれがどのように深め、描かれるのか?


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