平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

ブラタモリ 「高尾山」~高尾山の豊かさ。1598種の植物、小仏層群の地盤、神仏習合の薬王院

2016年09月18日 | ドキュメンタリー
 ブラタモリで<高尾山>を特集していた。
 高尾山は豊かな山である。
 番組に拠ると、植物の種類は1598種で、総面積の比率で比べると世界一らしい。
 植生も北斜面と南斜面で違っているそうだ。
 北斜面ではブナなどの落葉広葉樹。
 南斜面ではヒイラギ、カシなどの常緑広葉樹。
 高尾山は落葉広葉樹と常緑広葉樹の植生の境界線にある山らしい。
 山頂の薬王院も面白い。
 神仏習合のまま残されていて、お寺と神社が混在し、お寺なのに鳥居がある。
 水も豊かだ。
 高尾山を登る時、僕は必ず<六号路のびわ滝コース>を往路か復路に入れるのだが、ここを歩いていると、この山が水で満杯な山であることが、よくわかる。(まだ、このコースを試されていない方、お薦めです!)
 堅い砂岩と泥岩の小仏層群の地盤が地下水を蓄えている。

 番組に拠ると、高尾山はさまざまな人に愛されてきたらしい。
 戦国時代は北条氏。
 北条氏照・氏政は、北条家の安寧と隆盛を願って薬王院に寄進し、保護した。
 江戸時代は、参拝する庶民。
 富士山に行けない庶民は高尾山を登って参拝した。
 近代になると、高尾山のそばに天皇の御陵(大正天皇陵/現在は昭和天皇陵も)がつくられて、これまた、たくさんの人が参拝した。
 それらの人を運んだのが、京王御陵線。
 僕は、子供の頃、どうして京王線の正式名称は<京王帝都電鉄>なのだろうと思っていたが、理由はこれなんですよね。
 帝都と天皇の御陵を結ぶ鉄道だから<京王帝都電鉄>。
 京王線に<聖蹟桜ヶ丘>なんて駅があるのもその名残。
 天皇の御陵は<聖>であり、人間が住む東京は<不浄>。
『帝都・東京』(宝島社)という本を読んで「そうだったのか」と感動したことがある。
(※追記/この件に関しては風太郎さんからご指摘をいただきました。コメント欄参照)

 話が脱線してしまったが、改めて言うと、高尾山は豊かな山である。
 登るたびに、さまざまな発見がある。
 しかし、一時、高尾山の下にトンネルを通すというプランがあったらしい。
 この計画は結局、地元の人や自然保護団体の猛烈な反対でなくなったそうだが、もし実行されていたら危なかった。
 高尾山が蓄えている地下水が抜けて、山の豊さが失われてしまうからだ。
 番組に拠ると、高尾山周辺の山々は、すべて杉やヒノキで覆われた<人工林>らしい。←花粉症の原因!
 一方、高尾山は1598種の植物がある世界一の<自然林>。
 よくぞ守られたものだと思う。
 守られた結果、高尾山は現代人にも愛される山になった。

 こうして見ていくと、<開発>って何なんでしょうね?
 大切なものを失くしている気がします。

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『廃墟の休日』(テレビ東京)が面白い!~僕たちはなぜ廃墟に惹かれるのだろう?

2015年07月31日 | ドキュメンタリー
 廃墟。
 どうして僕たちはこの場所に惹かれるのだろう?

 幽霊が出そうな不安
 かつては人がいて会話や笑い声が溢れていたのに、現在は沈黙
 諸行無常
 虚無
 死の空間……

 通常の旅番組が、その土地の食などを紹介し、<生>を扱うのに対し、『廃墟の休日』は<死>だ。
 『ブラタモリ』は過去にさかのぼるが、切り口は知的・学術的であり、<死>の雰囲気はない。

 第3話で紹介されたのは、世界遺産になった長崎県・軍艦島の隣にある<中ノ島>だった。
 この中ノ島、軍艦島で暮らす人たちが遊びに来る遊園地であったらしい。
 同時に軍艦島で暮らす人たちの火葬場もあった。
 遊園地と火葬場が同居しているのが面白い。

 しかも、それらの施設、すっかり朽ち果て、自然が侵食して草木が覆い、目の前のオブジェが何であったかよくわからない。
 注意して見れば、それがかつて遊園地のすべり台であったことが、かろじてわかる。
 劇中、太い木に絡まれたコンクリートの柱が紹介されていたが、これなどは何に使われていたか、地元の人でもわからなかった。
 かつては何らかの意味のあったオブジェだったのだろうが、記憶の風化と共ともに意味が失われ、ただのコンクリートの柱になってしまった。
 このことを、番組のナビゲーターである俳優の安田顕さんは「遺跡だ」と言っていたが、なるほど、これはもはや<廃墟>でなく<遺跡>なのだ。
 英国のストーンヘンジが何に使われていたかわからなくなったように、このコンクリートの柱も遺跡化している。

 中ノ島では、自然の力も実感させられた。
 島のオブジェを覆い尽くす植物。繁茂する草。絡みつく木。
 それらの勢いはまさに人間のちっぽけな営みなど、あざ笑うかのようだ。
 都市は自然を管理して排除する人口空間の最たるものだが、いったん人の営みがなくなると、たちまち自然が侵食してくる。
 自然は圧倒的な生命力で溢れている。

 廃墟は日常で僕たちが目を背けている真実……死や無常や人間の無力や哀しさを感じさせてくれる。 


 『廃墟の休日』は毎週金曜日・深夜0時52分よりテレビ東京系で放送中。
 HPはこちら。
 『廃墟の休日』(テレビ東京)

 
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「深夜特急」 沢木耕太郎~青春とは<無意味なこと>が出来ること

2015年01月08日 | ドキュメンタリー
「ほんのちょっぴり本音を吐けば、人のためにもならず、学問の進歩に役立つわけでもなく、真実をきわめることもなく、記録をつくるためのものでもなく、血湧き肉躍る冒険活劇でもなく、まるで意味がなく、誰にでも可能で、しかし、およそ酔狂な奴でなくてはしそうにないことを、やりたかったのだ」

 日本からロンドンまでを乗合いバスで旅する過程を描いた、ドキュメンタリーの傑作『深夜特急』を改めて読み返してみた。
 上に挙げたのはその一文。

 青春ですね。

 沢木さんは「誰にでも可能で」と書いているが、実はこんな旅は若者でなくてはできない。
 なぜならオトナは<意味>を考えてしまうから。
 これをやることで、お金になる、有名になれるなどと考えて、オトナは行動を始める。
 あるいは、今回の文章から引用すれば、「人のためになる」「学問の進歩に役立つ」「真実を極めることが出来る」「記録を作れる」「血湧き肉躍る冒険となる」と考えた時点で行動する。

 一方、青春とは<無意味なこと>が出来ること。
 オトナから「そんなことやって何の意味があるの?」「バカじゃないの?」と言われてしまうことを平気でできてしまうこと。
 まあ、オトナは社会生活を営んでるし、責任も背負っているし、人生の残り時間も少なくなっていますから、どうしても行動の意味を考えてしまうんですけどね。

 しかし、それは不自由なこと。
 意味の呪縛から解放されれば、人は自由になれる。

 <酔狂>に生きる人間はオトナ社会を否定していて、カッコいい!

『深夜特急』が青春のバイブルと言われる理由は、こんな所にあるのでしょうね。

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歴史秘話ヒストリア~藤原頼長 ”悪の華”は平安京の夜に開く

2012年05月25日 | ドキュメンタリー
 NHKの『歴史秘話ヒストリア』で<悪左府>藤原頼長のことを紹介していた。
 そこで描かれていたのは

★発言力が失われた藤原摂関家の再興のために戦った頼長。
★父・忠実の期待に応えようとした頼長。
★千巻を越える漢籍を読んで、政治家としての知識を習得していった頼長。(彼の勉強はすさまじく石風呂に入っている時も、家人に漢籍を朗読させ、その内容を記憶しようとしたらしい)
★腐敗しきった貴族政治を立て直すべく、周囲に嫌われながらも左大臣として厳しい政治を行っていった頼長。

 ここには、<悪左府>とは程遠い、理想に燃えたひたむきな政治家の姿がある。
 しかし、ひたむきさというのは、時に暴走し、極端に走る。

★自分に厳しい頼長は他人にも厳しさを要求する。
★学問を積んだ自分が一番に思えるから、周囲がバカに見える。
 結果、他人を蔑視し、敵を作り、自分に歯向かう者を排除しようとする。

 やがて過度なひたむきさは、目的のためには手段を問わない方向へ向かう。

★頼長が浮き名を流した数々の男色関係。
 頼長の日記『台記』に書かれた<讃>や<美>の文字は<讃岐守><美濃守>のことで、頼長が落とした貴族たちを意味するらしい。
 つまり頼長は政治に関わる若い貴族たちを恋人にしていき、政治の実権を確固たるものにしようとした。
 中には真剣な恋愛があったらしいが、この情事に裏には多分に政治的な意図があった。
★また随身・秦公春(はた・きみはる)らを使って、恩赦で釈放された悪党などを、<必殺仕事人>のように暗殺していったらしい。

 このあたりが、頼長が<悪左府>と言われる所以であろう。
 しかし、過度な行為には反動が来る。
 敵となった反動勢力が足を引っ張り、追い落としにかかる。

★目の病で17歳で死んだ近衛天皇。愛宕山の天狗像の目に差された釘。この呪いの首謀者として頼長が疑われる。
★後白河天皇を呪詛しようとしたという疑いをかけられ、蟄居させられる。

 すべて敵対勢力の陰謀である。
 この陰謀には、兄・忠通も荷担していたらしい。

 そして復権をかけた保元の乱。
 頼長は負けて、矢を背中に受けて、父・忠実が避難している奈良の屋敷へ行く。
 しかし、忠実は頼長を屋敷の中に入れようとしない。
 頼長を助ければ、自らの身も危なくなるからだ。
 この父親の裏切りに頼長は舌を噛みきって悔しがったという。

 頼長の遺体は近臣に拠って埋葬されたが、すぐに暴かれて、そのまま曝されたらしい。
 現在は京都の相国寺に、<悪左府>と書かれた首塚がある。

 というわけで、藤原頼長の生涯は完全な悲劇。
 ひとつのひたむきな魂が、過度に走り、次第にまわりが見えなくなり、結果、多くの敵を作り、敵から自分を守るために策を弄し、陰謀は陰謀を生み、裏切りの果てに失われていく。
 こうして見ていくと、西行のように世を捨てて生きていくのが一番のように思えますね。
 貧しくても、諸国を旅して、美しいものにふれて、心穏やかに生きる。

 次回の大河ドラマ『平清盛』は<保元の乱>ですが、どのような頼長が見られるのでしょうか。


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朝まで生テレビ! 田原総一朗も老いた。なぜ沖縄の人の疑問に答えない?

2012年05月02日 | ドキュメンタリー
 「朝まで生テレビ」in 沖縄、「日本の安全保障とアジアの平和」を見た。
 この番組も25周年だそうだが、田原総一朗さんも老いましたね。
 せっかく沖縄に来て、基地問題で苦しんでいる人がいるのに話を聞こうとしない。
 パネリストは持論を主張するばかりだし、司会であるべき田原さんも結局は自分の考えの押しつけ。

 田原さんが司会者であるのなら、まずスタジオに来ている沖縄の方の意見を吸い上げ、それをパネリストにぶつけるべきだ。
 スタジオに来ている沖縄の方はテレビで意見を述べることなどあまりやったことがない方々なのだから、田原さんがフォローして代弁すべきなのだ。
 なのにせっかく意見を述べようとしている沖縄の方に「黙れ!」と恫喝したり、スルーしてすぐに別の話題に移ったり。

 たとえば、沖縄の方は<なぜ沖縄に海兵隊の基地があることが抑止力になるのか?>を知りたがっているのだ。
 その裏にはこんな疑問がある。
・ミサイル戦争の時代なのになぜ局地戦を行う兵力が必要なのか?
・朝鮮半島で有事が会った時は、九州に基地があった方が有効ではないのか?
・そもそも沖縄に基地があるからミサイルで攻撃される。なければ攻撃されないのではないか?
・中国脅威論に怯える人がいるが、そんなことに怯えるよりも経済で密接な関係を築いて共存共栄する方が平和にとって有効なのではないか?
・中国脅威論と言うが、そもそも中国が侵略行為をしてくるのか?
 20世紀の帝国主義の時代ならともかく現在は21世紀である。そんなことをしたら国際的な非難を浴びるのは必至。
 東海大学の葉千栄教授は「中国の軍部の一部にそういった20世紀型の思考をする人間がいる」と発言したが、中国脅威論の本質とは、こんな所にあるのではないか?
 つまり他国の侵略を考えているのは、中国でも一部の人間であり、21世紀の時代、現実には他国が他国を侵略するなんてことはあり得ない。仮にそうなったとしても国際世論が許さない。

 こんな疑問に対し、田原総一朗氏を始め、右側のパネリストの方々は何も答えていない。
 ただの妄想かもしれない自説を述べるのみ。
 司会の田原氏は、なぜ上記の疑問をくみ取り、深め、代弁してパネリストにぶつけないのか?

 現在は地方分権の時代である。
 沖縄の人が<基地はいらない>と決めたのなら、政治家はその方向でアメリカを説得するなりして動けばいい。
 国が自分たちの価値を押しつけて現地の人を苦しめるべきではない。
 特に沖縄はその痛みを十分に味わってきたのだから。

 われわれは20世紀型の思考を棄てるべきである。
 そして、頭が硬くなってきた田原総一朗さん、朝ナマも25周年ということですし、そろそろ新しい思考の出来る方に司会の座を譲った方がいいのではないでしょうか?


※追記
 かつては、この番組に大島渚さんや野坂昭如さんがいた。
 大島さんは横暴で独断的な意見には「バカ野郎!」と激しく叱った。
 野坂さんは「まあまあ、双方の意見を聞いてみようじゃないか」と中立的立場を貫いた。
 彼らがいた時はバランスがとれていたのに。


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サワコの朝~生物学者・福岡伸一 「遊んでいる遺伝子があってもいい」

2012年02月28日 | ドキュメンタリー
 2月25日の『サワコの朝』(TBS系・土曜朝7時30分)で、分子生物学者の福岡伸一さんが出演されていた。
 そこでのお話。
 福岡先生に拠れば
 「細胞は他の細胞との関係の中で、折り合いをつけて、自分の役割を決めている」らしい。
 たとえば
 「君が脳細胞をやるなら、僕は皮膚細胞をやるよ」みたいな感じ。
 私たちの体を構成している個々の細胞は、こんなふうに他の細胞との関係を考えて役割分担をしている。
 決して「君は脳細胞にふさわしくない」とか「僕が脳細胞をやる」とかは言い出さない。
 そして、過度に自己主張する細胞は<ガン細胞>なのだそうだ。

 この<役割分担する細胞>の話は興味深い。
 これって、まさに<人間社会>と同じではないか。
 たとえば、野菜を作る農家の方がいて、それを流通させる運送業者の人がいて、売るスーパーや八百屋さんがいて。
 もっとマクロに見てみれば、個々の人々が自分の役割を果たして、日本という国が構成され、地球の人類というものが成立している。
 つまり個人は<人類という生き物>の細胞なのだ。
 なので、ヒトラーみたいな過度に自己主張する細胞は<ガン細胞>?
 実際、それはガン細胞が増えていくように、ナチスという形で増殖していったし。

 こうなると、福岡先生の理論は、歴史学であり、哲学ですね。

 福岡先生は若者に対してもこんなメッセージを贈られていた。
 「人は他者との関係を作りながら、自分が何者であるかを決めていく。なので自分探しを自分の中に求めても何も得られない」
 確かに。
 自分は<夫>である。<母>である。<子>である。<学生>である。<フリーター>である。<農家>である。<トラック運転手>である。<八百屋>である。
 こんなふうに社会の中で、自分が果たしている役割が、すなわち<自分>なんですね。
 当たり前のことを言っているようだが、このことに気づかずに虚しい<自分探し>をしているのが人間。
 そして人は、
 <人類という生き物の細胞の一部として、過度に自己主張せず、自分の役割を果たしていけばいい>。
 こう考えると、人は結構楽に生きられるような気がする。

 福岡先生は遺伝子についてもこんな話をされていた。
 「遺伝子は生めよ、増やせよで設定されているわけではない。遺伝子はもっと自由で、遊ぶ遺伝子もある。遊ぶ遺伝子は、他の遺伝子が生殖が行っているのなら、自分は遊んでいてもいいと考える」
 これは衝撃だった。
 なぜなら僕は、遺伝子は<種の保存>という形で設定されているものだと考えていたから。
 つまり、人の生きる目的って<子孫を作って残すこと>ではないかと考えていた。
 でも、そうでなくていいんですね。
 <遊ぶ遺伝子>であってもいい。
 あるいは「これ以上、人類が増えては困るから、遊ぶ遺伝子を増やしておこう」「じゃあ、僕は遊ぶ遺伝子を担当するよ」と遺伝子レベルでさまざまなことが考えられているのかもしれない。

 というわけで、福岡先生の細胞理論は実に面白かった。
 すべてが行き詰まっている現代。
 現代は、このような科学、歴史学、経済学、政治学、哲学など、すべての学問を統合する新しい理論が求められている。


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プロフェッショナル 仕事の流儀~言葉のチカラ

2012年02月07日 | ドキュメンタリー
 昨日の「プロフェッショナル 仕事の流儀」では、登場した人物が影響を受けた<人生の言葉>を紹介していた。

★まずはリーダー論。
 リゾート再生経営者の星野佳路さんは、大学時代に所属していたアイスホッケー部の監督の次の言葉にリーダー論を学んだそうだ。

 「お前が考える7割で良しとしてほめてやれ」

 自分に厳しい人は他人にも厳しい。自分のやっていることと同じことを他人にも要求する。
 でも自分と他人は考え方もやり方も違う。他人だって精一杯やっている。
 プライドを傷つけられ、過度の要求・圧力を受けたら反発したくなるのが人の心。
 だから「7割で良しとしてほめてやれ」。
 これを実践した結果、星野さんのチームは活気が出て、リーグ優勝したそうだ。

 同じ様な自分と他人との人間関係の言葉では、絵画修復家の岩井希久子さんのこんな言葉も。

 「人は変えられないが、自分は変われる」

 確かに。
 人は自己愛の生き物だから、自分が他人に影響を及ぼしたいと考える。
 しかし、この言葉のように、前提として「人は変えられない」と考えた方が方がいいように思う。
 むしろ先程紹介した星野佳路さんのように自分が変わった方が他人を変えられる。

★人生に迷った時は、次のような言葉。

 「人生は線ではない。1日という点が連続して、一本の線になる」(樹木医・塚本こなみさん)
 「決まった道はない。ただ行き先があるのみだ」(獣医師 齋藤慶輔さん)

 確かに。
 塚本さんのおっしゃるとおり、その日にやるべきことを精一杯やった小さな積み重ねが現在の自分であり、人生の結果なのだろう。
 なのでやるべきことは目の前の自分に出来ることを一生懸命やること。
 ただし、齋藤慶輔さんがおっしゃるように自分の「行き先」を定めることは大切なのかもしれない。
 齋藤さんの場合は、野生動物を死に追いやる猟銃の鉛の弾丸をなくすことだったそうだが、齋藤さんはその行き先を達成するために何をすべきかのみを考えた。
 猟銃を使う方に鉛の弾丸でなく銅の弾丸を使うように手紙を書くこと、小学校で子供たちに鉛の弾丸が野生動物に被害をもたらすことを語ること。
 そこには目的達成のためのスケジュールや道筋はない。
 時には道が途中でなくなっていて後戻りしたり、脇道に逸れたりしながら、ただ、やるべきことをやるのみ。
 その結果、いつの間にか、「行き先」にたどり着いていた。
 それが、人生のいうものなのだろう。

 そして訪問看護師・秋山正子が末期癌の患者さんから聞いた言葉。

 「まだ山は降りていない。登っている」

 生きることを登山にたとえた言葉だが、何と力強い言葉なのだろう。
 死の淵にあっても登ることを諦めず、ひたすら高みを目指す。

 言葉はすべてを伝えることが出来ず、実に頼りないものだが、上記のように人にチカラも与える。
 また、真剣に生きていれば、出会った人、すれ違った人の何気ない言葉が突き刺さる言葉になる。
 たとえば、獣医師の齋藤さんの「決まった道はない。ただ行き先があるのみだ」という言葉は、ロシアのトラックの運転手さんから聞いた言葉なのだそうだ。


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今井絵理子 「なんくるないさぁ」

2011年03月06日 | ドキュメンタリー
 昨日、SPEED・今井絵理子さんのドキュメンタリー番組「なんくるないさぁ」をやっていた。
 今井さんには耳に障害を持つお子さんがいるらしい。
 そこでの言葉。
 「障害は個性」
 まさにそのとおりですね。
 みんながみんな、同じである必要はない。
 人と同じでないことで悩む必要もない。
 たとえば、太っている人は世間の物差しに合わせてダイエットでやせようとするけれど、それで苦しむ必要はない。
 たとえば、タレントの柳原可奈子さんは十分に可愛い。
 彼女はおそらく太っている自分を否定せずに、どうすれば太っている自分が魅力的に見えるかを研究したのであろう。あるいはそれをタレントとしての武器にしようとしたのであろう。

 今井さんはこんなことも言っていた。
 「あせらず、比べず、あきらめず」
 素晴らしい言葉だ。
 この言葉は、子育てをする今井さんご自身に言い聞かせた言葉だろうが、夢を持ってがんばっている人にも当てはまる。
 なかなか思うように実現しない夢。
 他人と比べて、自分が遅れていると焦ってしまう。
 焦りが自己否定に繋がり、それが夢を諦める結果になってしまう。
 そんな悪循環に陥りそうな時、思い出したい言葉だ。

 あとは耳の不自由な子に音楽を伝えるということ。
 今井さんのお子さんはドラムのスティックを叩いてリズムをとっていた。
 ドラムを叩くミュージシャンの真似をしていたのだ。
 なるほど、リズムなら耳が不自由なことは関係ない。
 メロディは難しいかもしれないが、リズムなら体で音楽を楽しめる。
 あるいは震動。
 今井さんは、耳の不自由な子たちにギターを触らせていた。
 弦をつまびいて起こる音楽の震動が手を通して伝わってくるのだ。
 この形でも音楽を楽しむことが出来る。

 今井絵理子さん。
 SPEEDの頃には女の子でしたが、今ではしっかり地に足を降ろしたお母さん、魅力的な女性になりましたね。
 そして彼女が発する言葉はどれも重く深い。



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恐竜絶滅 ほ乳類の戦い 生物はDNAを遺すために生きている

2010年08月04日 | ドキュメンタリー
 NHK特集「恐竜絶滅 ほ乳類の戦い」を見た。
 恐竜の時代、人類の祖先であるほ乳類は小さくてネズミの様な姿をしていたらしい。
 絶えず恐竜に食べられる危機にさらされ、夜にコソコソ動きまわるだけの存在。
 だが転機が訪れた。
 6550万年前の隕石の落下だ。
 直径10キロの隕石が落ちてきて、チリが巻き起こり、それが大気と摩擦を起こし、地球は炎に包まれた。最大高さ300メートルの津波が3日間に渡って陸地をのみ込んだ。
 そして<衝突の冬>が起こり恐竜は絶滅。ほ乳類の時代がやって来た。

 この隕石落下の災厄をほ乳類が免れたのはなぜか?
 それは<ほ乳類が小さく、胎盤で子供を育てる生物だったから>だそうである。
 まず体が小さければ、食料が不十分でも生きていける。巨大な恐竜は生きていけない。
 また胎盤で子供を育てるため気候の変動にあまり左右されない。恐竜は卵で子孫を残したが、卵は寒さの影響を受けうまく孵化しない。
 なるほど。
 余談だが、胎盤で子供を育てるほ乳類が生まれた背景には次の様なことがあったそうだ。
 ほ乳類の前身であるネズミは恐竜同様、卵で子孫を残していた。しかし卵は恐竜を始めとする生物に食べられやすい。気候の影響も受けやすい。それを避けるために進化して胎盤を作り、胎盤で育てる様になったそうだ。
 この様に進化とは、生物が何とか子孫を残すために生み出された必死の手段なんですね。

 さて、隕石の落下により恐竜が滅びた時代。
 ほ乳類が全盛とはいえ、まだ敵はいたらしい。
 恐竜の生き残り達だ。
 ひとつはワニの先祖。彼らは水の中に逃れたために気候の変動に拠る被害をあまり受けずに済んだ。
 そしてもうひとつは鳥の先祖(=ガストルニス)。
 知らなかったが、何と鳥は恐竜の進化した姿なのだそうだ。(確かにあの鋭い爪を持った三本指の足などは恐竜を思わせる)
 ではなぜ恐竜は鳥という形で生き残ったか?
 それは恐竜の中に巨大な羽根の様なものを持った種類がおり、その羽根で卵を覆って寒さから守ったから。
 なるほど、羽根にはそんな意味があったんですね。
 そして、この羽根には先程のほ乳類の胎盤と同じことが言える。
 すなわち、子孫を遺すためにほ乳類が<胎盤>を持った様に恐竜も<羽根>を持った。

 こうして何億年にも及ぶ生物の進化の歴史を見ていると、生物がなぜ生きるのかがわかる気がします。
 つまり<子孫を残すこと><自分のDNAを遺すこと>。
 生物はこのために必死に生き、自らの体の形を変えて進化していくんですね。
 それは同じ生物である人間も同じ。
 自分のDNAを遺すために生きている。
 ただ人間という生き物は複雑で、子供を産んでDNAを遺すこと以外に様々なことをする。
 たとえば歴史に名を刻みたいと思うこと。巨大建築物を造って自分の代わりの存在を遺すこと。本を書いて自分の考えを遺すことなどなど。
 本当に人間って複雑だ。
 また、この様に人間の様々な営みも<自分のDNAを遺す>という見地で考えると、わりとシンプルに見えてきますね。
 
※追記
 <進化>についても人間はいろいろなことをする。
 たとえば
 人間には羽根がない。だから飛行機を造り出そうとする。
 人間は水中で生活できない。だからアクアラングや潜水艦を造る。
 人間は鋭い牙がない。だから武器を造る。
 これはある意味、恐るべきことだ。
 なぜなら他の生物は羽根を作るために、水中で生活するために、鋭い牙を得るために<進化>という何万年もの時間を使う。
 ところが人間は?
 鳥が何万年もかけて生み出した羽根を<飛行機>という形でほんの三十年ぐらいで作っている。
 さて、この様な人間は今後どうなって行くのだろう?
 人間には天敵はいないのだろうか?恐竜を滅ぼした様な隕石は降ってこないのだろうか?
 人間を<生物><自然>の一部として見なければならない時代が来ている。

 そして、もうひとつ認識しなければならないのは、今自分が生きているということは何億年前のネズミから必死に命を繋いできた結果だということだ。
 こう考えると、自分の命って崇高で奇跡に近いものの様に思えてくる。


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爆笑問題のニッポンの教養 オカルトは救いのシステム

2010年06月25日 | ドキュメンタリー
 爆笑問題のニッポンの教養。
 今回は「京都パワースポット」。
 安倍晴明の式神で有名な一条戻り橋や深泥池(みぞのがいけ)、貴船神社などが紹介された。
 そこで紹介されたことは戻り橋や深泥池を境にして、この世とあの世の境目があること。
 貴船神社の家来は鬼で、貴船神社の神様は人々の呪いを聞いてくれる神様であることなど。

 それにしても人間はなぜこの様なオカルトなものを求めるのであろう?
 番組ではこう考察していた。
 ひとつは<現実では説明できない出来事を説明する手段であったこと>。
 確かに不可解なことも鬼や神様の仕業と考えれば説明が出来る。
 第二は<人間には現実から抜け出して違う異世界に行きたいという思いがあること>。
 戻り橋や深泥池を渡れば、異世界に行ける。
 現実で息苦しい思いをして生きている人には<異世界>の存在は救いであっただろう。
 戻り橋や深泥池の伝説は人間が楽に生きるための救いのシステムだったのだ。
 それは貴船神社の呪いを受け入れてくれる神様も同じ。
 憎らしいヤツを懲らしめてほしいと願掛けすることによって、人間の憎しみの気持ちは少しは軽減される。
 神道の言葉で言えば<浄化>される。憎しみ、怒りという穢(けが)れの感情を祓う。
 貴船神社も人間が楽に生きるためのシステムだったのだ。

 こうして見ていくと、オカルトや伝説も人間というものを表現していてなかなか面白い。

 最後に爆笑問題の太田さんのコメント。
 「現代のネット空間も異世界ではないか?」
 なるほど、ネットの世界に入れば様々な人に出会えますからね。
 喜びだけでなく、怒りや憎しみの言葉も溢れている。
 ブラックなサイトに行けば、鬼や妖怪のような人間にも出会える。

 現実が息苦しくなったら、ネットやオカルトの世界に逃げ込むのもひとつの手段。
 それにしても人間の営みというのは面白い。


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