平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

宮沢賢治の世界①~「カイロ団長」

2011年12月13日 | 短編小説
 宮沢賢治の「カイロ団長」という作品の冒頭にこんな描写がある。

『あるとき、三十疋(ひき)のあまがえるが、一緒に面白く仕事をやって居りました。
 これは主に虫仲間から頼まれて、紫蘇(しそ)の実やけしの実をひろって来て花ばたけをこしらえたり、かたちのいい石や苔(こけ)を集めて来て立派なお庭をつくったりする商売でした。
 こんなようにして出来たきれいなお庭を、私どもはたびたび、あちこちで見ます。それは畑の豆の木の下や、林の楢(なら)の木の根もとや、又雨垂れの石のかげなどに、それは上手に可愛らしくつくってあるのです。』

 賢治の目には、庭の風景がこんなふうに見えるですね。
 この庭の風景はあまがえるが作っているんだと。
 自分の姿があまがえるのように小さくなって、あまがえるが働くさまを見ているような感じもある。
 こんな描写もある。

『さて三十疋は、毎日大へん面白くやっていました。朝は、黄金(きん)色のお日さまの光が、とうもろこしの影法師を二千六百寸も遠くへ投げ出すころからさっぱりした空気をすぱすぱ吸って働き出し、夕方は、お日さまの光が木や草の緑を飴色にうきうきさせるまで歌ったり笑ったり叫んだりして仕事をしました。殊(こと)にあらしの次の日などは、あっちからもこっちからもどうか早く来てお庭をかくしてしまった板を起こして下さいとか、うちのすぎごけの木が倒れましたから大いそぎで五六人来てみて下さいとか、それはそれはいそがしいのでした。いそがしければいそがしいほど、みんなは自分たちが立派な人になったような気がして、もう大喜びでした。』

 これは<働く喜び>の表現。
 仲間とともに『歌ったり笑ったり叫んだり』、とても楽しそうです。
 『いそがしければいそがしいほど、みんなは自分たちが立派な人になったような気がして、もう大喜びでした。』
 というのもわかる。
 人は(この物語の場合は、あまがえるですが)、誰かの役に立つこと、必要とされることに喜びを感じるんですね。

 さて、物語は、そんなあまがえるたちの前に、とのさまがえるが現れることで大きく展開していきます。
 ウイスキーを飲まされ、それが高価で払えなくて、あまがえるたちは、とのさまがえるにこき使われることになるのです。
 とのさまがえるはあまがえるに無理難題を押しつけ、ノルマを科し、過酷な労働を強います。
 今までの楽しかった労働は一変し、ただつらいものに変わっていきます。
 賢治の中に、社会主義・共産主義の思想があったかは定かではありませんが、この、とのさまがえるとあまがえるの関係は<資本家と労働者の関係>に似ています。
 過酷な労働を強いられ、搾取されるあまがえるたち。

 やがて、王さまの命令が出て、あまがえるたちは解放され、とのさまがえるに復讐する時が来るのですが、この時にあまがえるたちがとのさまがえるに見せる反応は、まさに宮沢賢治の世界。実にやさしい。

 「カイロ団長」は10分くらいで読める作品なので、ぜひ読んでみて下さい。

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愛なんか 唯川 恵

2010年03月14日 | 短編小説
 唯川 恵さんの「愛なんか」(幻冬文庫)は、男に裏切られた女性の心情を描いた短編集だ。
 その中の一編「夜が傷つける」では、こんな描写がある。
 倦怠期の主人公と恋人の宗夫。
 デートの約束の約束で「週末は空いているか」と主人公が聞いて、恋人の宗夫は「たぶん」と答えるのだ。
 そのことについての主人公の感想。

『その「たぶん」という言葉を使われた時も、私はひどく自尊心が傷ついていた。たぶん、の中には、今は空いているがいつ何時埋まるかわからない、という意味が含まれていて、それはいつ何時埋まるかわからない予定の方が、私と会うことよりも大事である、と宣言されたということだ』

 「たぶん」という何気ない言葉から、ここまで心の奥を読み取ってしまう主人公。
 デートをして沈黙が訪れた時はこう思う。

『沈黙は苦しい樹液のようにふたりの間にとろりと流れ込んだ。出会った頃にもよくこうして沈黙した。けれど、それはまったく異質なものだった。あの頃、私たちは沈黙している時の方がはるかに多くを語り合っていた。沈黙の長さは、愛してる、と言ってるのと同じだった。あの頃も、私たちは沈黙を怖れたが、それは全身で愛していると告白している自分が死にたいほど恥ずかしかったからだ』

 なるほど、同じ沈黙でも種類が違うのだ。
『私たちは沈黙している時の方がはるかに多くを語り合っていた』なんていう表現もすごい、的確だ。
 セックスの時の描写はこうだ。
 主人公は今では自分から服を脱ぐ。宗夫に脱がされていた昔を思い出してこう思う。

『服を脱がすところから、セックスは始まる。私はブラウスという羞恥を剥ぎ取られ、キャミソールという羞恥を剥ぎ取られながら、これから自分にされるさまざまなことを想像して、いっそう羞恥を深める。服を脱がされるというもどかしい行為を、宗夫と私は楽しんでいた。私はその楽しみのために、時には服より高価な下着を買った。いつだって宝物は綺麗な包み紙に包まれている。レースやシルクの下着が少しずつチェストの中に増えてゆくのが嬉しかった。私は宗夫に脱がされるたび、自分が宝物になったような気がした』

 なるほど、これが女性心理か!
 そして主人公は抱かれながらこう思う。

『私のカラダを気持ちよくしてくれる前に、私の心を愛撫してほしい。濡れたい場所はもっともっとカラダの奥にある。心を快感で満たしてほしいという望みは、贅沢だろうか』

 この主人公が最後にどんな行為をし、結論を出すかは読んでのお楽しみ。
 その他にも男に裏切られた女性の心情がつづられた短編12編が収録されている。
 一編、10分から15分ほどで読める。

 解説に拠ると、唯川 恵さんはコバルト文庫出身らしい。
 輝くまぶしい少女の心情から、出口の見えない孤独な女性の心情へ。
 この変化を読み取るのも面白い。


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空飛ぶ馬 北村薫~ファンタジックな現実

2010年02月10日 | 短編小説
 日常で起こる何気ない出来事の謎を解き明かしていく北村薫さんの落語家・円紫さんシリーズ。
 そのミステリーパートも魅力だが、主人公の女子大生の人物造型も読む者を引き込む。

 「空飛ぶ馬」では、主人公はこんな童話談義をする。
 
「あたし、子供の時、アンデルセンって大嫌いだったんだ。『みにくいあひるの子』が白鳥になるなんて許せなかったのよ。それだったら何の苦しみもありゃあしない。あたしはあのあひるの子はどこかで泥まみれになって野垂れ死にしたって思うのよ。その死ぬ間際に見た夢が、最後の白鳥になる部分。あれは、ただ一瞬の幻想なのね」
 主人公の友人・正ちゃんの言葉。何とも現実的だ。
 これに対して、口を挟む気になった主人公はこんな童話体験を話す。
「頭に残ってる話なら、私にもあるわ。小川未明の短い話。題は忘れちゃったけど、子供が綺麗な鳥を採ろうとして木に登るのよ。鳥は結局採れないで、<美>というか<夢>というか、とにかくそれを求めたためにその子は木から落ちて一生腕だか脚だか動かなくなるの。童話でそういうのってないでしょう。ぎょっとしちゃった。ちょっと忘れられないわよ」

 現実とはこの小川未明の童話のようなものかもしれない。
 大人になろうとしている主人公はそんなふうに思っている。
 だが、一方でこんなふうにも現実を見ている。
 ある時、ご近所のトコちゃんという幼稚園児のクリスマス会のビデオ撮影を頼まれる主人公。
 トコちゃんの通う幼稚園は主人公もかつて通っていた所だ。
 久しぶりに母校の幼稚園に入って主人公はこんなふうな感想を持つ。

「幼児の頃はもうはるかに遠い昔で、大袈裟に言えば私にとって飛鳥時代も同様である。それなのに建物は昔のままであり、ジャングルジムなどの遊び道具も配置こそ変わっているが、中には残っているものがある。ただ総てが魔法の薬でもかけたように小さくなっていた」

 ここで面白いのは<魔法の薬でもかけたように小さくなっていた>と主人公が感想を抱く所だ。
 あるいは主人公はクリスマスの飾りつけをした幼稚園の部屋を見て空想の中でタイムスリップする。

「思いは瞬時に十数年の時を越えた。秘密めいたその部屋の、真ん中に仕切られたアコーディオン・カーテンの向こうに胸をときめかせた子供達がいた。くすくすと興奮のあまり笑い出しそうになっているのは男の子より強いみさちゃんだ。風邪気味のよっちゃんはコンコンとせきをしている。おしゃれなまきちゃんは靴下や襟元を気にしている。けいちゃんは太鼓のばちでポンポンと肩をたたいている。そして、列のはじっこに唇をきゅっと結んだ無口な女の子がうつむいている」

 主人公はこんなふうにファンタジックな日常を生きている。(ちなみに<列のはじっこに唇をきゅっと結んだ無口な女の子>とは主人公のことだ)
 実に魅力的な主人公だ。
 彼女のファンタジックな日常はラストのこんな描写にも現れる。
 それは謎が解明されて帰宅する途中、牡丹雪が降ってきた時のこと。

「勤め人風の人がコートの襟を立てて速足に過ぎていく。明日は一面の銀世界となるのかもしれない。私は手を上げ、白い踊り子を再び宙に舞わせた。そして思った。人は誰も、それぞれの人生という馬を駆る。私の馬よ。その瞳よ、たてがみと、蹄よ。素直に、愛しく幻想を抱くことが出来た。私が生まれたのは真夜中近くだったという。家に着くのがちょうどその頃だろうか。今夜は丁寧に髪を洗おう。いよいよ数を増す白銀の天の使いに、私はそっと呼びかけた。それまでは、雪よ、私の髪を飾れ」

 何という豊かな感性。
 牡丹雪が降る現実世界が、主人公の目にはこう見えている。
 こういう表現に触れるとワクワクしてくる。
 これが小説を読む愉しみだ。


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乙一の文体 日常から非日常へ

2009年10月08日 | 短編小説
 乙一先生の連作ホラーミステリー「GOTH」でこんな文章がある。

  夜中に僕は考えた。
  たぶん、今ごろ森野は殺されているに違いない。死体はどこかの山で撒き散らされているだろう。
  その様を想像しながら眠りについた。

 「GOTH」の中の一話「暗黒系」の中の文章。
 連続女性殺害犯の手帳を拾った僕と同級生の女生徒・森野が犯人を追っていくうち、森野が行方不明になった時の主人公の描写だ。
 この文章のこわい所は、最後を<その様を想像しながら眠りについた>と締めているところだ。
 普通なら「僕はベッドから起きあがり、死体を探すために山に向かった」というところだろうか。
 <その様を想像しながら眠りについた>と描くことで、主人公の僕の異常なキャラクターが伝わってくる。
 また、何の情感も交えず淡々と描くことでこの異常さはさらに増している。

 こんな描写もある。
 僕がやっと山の中を歩き、森野の死体を探している時の描写だ。

 もしかしたら、まだ犯人は森野を殺しておらず、家に閉じこめられているだけだという可能性もある。本当にそうなのかどうかを確かめるには直接、犯人にたずねるしかない。
 もしも殺害しているなら、森野の死体をどの辺りに捨てたのか聞き出す必要がある。
 なぜならそれを見てみたいからだ。

 <なぜならそれを見てみたいからだ>がこわい。
 普通なら「遺体を埋葬しなければならないから」とか「遺体を森野の家族に戻さなくてはならないから」というところか。

 乙一先生の作品はこのようにいきなり<日常>から<非日常>に突き落とされる。
 僕が犯人の喫茶店の店長に話す時の描写はこう。
 
 注文したコーヒーはすぐにできた。
 「僕は、森野という女の子の友達なんです。ご存じでしょう?」
 「常連ですよ」
 彼女はまだ生きていますか、と聞いてみた。
 主人は動きをとめた。
 持っていたコーヒーのカップをゆっくり下に置き、正面から僕を見た。
 彼の目は濁って、穴のように光りのない黒になった。

 これも<日常>から<非日常に>突き落とされる文章。
 <彼女はまだ生きていますか>といきなり聞くところもすごいし、<持っていたコーヒーのカップをゆっくり下に置き、正面から僕を見た>という描写もすごい。
 普通の発想なら<コーヒーカップを落とした>とか<コーヒーカップを持つ手が震えた>ぐらいになるところだ。

 これがプロとシロウトを分けるポイントなんですね。


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朧夜の底 北村薫

2008年03月12日 | 短編小説
 自分の感性に合う作家さんに出会うのは大きな喜びだ。
 北村薫さんの連作短編集「夜の蝉」(創元推理文庫)を読んでワクワクした。

★その最初の短編「朧夜の底」ではこんな描写がある。

 大学生で主人公の「私」は友人の「詩吟発表会」に行く。
 次々と朗読される詩歌。
 『新古今』の巻頭歌が朗読された時はこんな表現がされる

 「ぞくりとした。快感である」

 主人公は音で語られる和歌の世界の美しさに酔う。
 漢詩が朗読された時は

 「そこで一転して、きん斗雲に乗ったように舞台は中国に飛んだ。合唱といっていいのか、五人がいっせいに声を揃え吟唱した」

 そして「詩吟発表会」で演じられた世界をこう表現する。

 「和歌と漢詩と、そして俳句によって春の錦が織られていった。霞が立ち、桜が咲き、花吹雪が舞った」
 「陶酔的で耽美的で、おかしないい方だけれど<ちょっとまずいんじゃないの>と思うくらいに色っぽかった」
 
 抜き書きしてしまうとこの表現の妙は半減してしまうが、ともかく読者もこの耽美的な吟唱の世界に誘われてしまう。

★主人公の人物像も共感できる。
 例えば本や図書館についての考え方。

 「学校の本を白蟻が家を崩すように次から次へと借りては読んだ」
 「大学の巨大な図書館は利用していない。開架式でないところは感覚的に苦手なのである」
 「私がよく行くのは隣の市の私立図書館なのだ。三年間通った女子校のすぐ近くにある。何より高校生の間、帰り道にはそこに寄るのが生活の一部になっていたのだから、ごく自然に利用できる」
 「特筆すべきは、ビデオ、CD、テープの貸し出しもやっていることで、中でも落語のテープが充実している。私にとっては宝の山である」

★知り合いの陶芸家の個展・展示即売会にいった時はこんな描写。

 「茶碗の前に立つ。
  六つの茶碗が置かれ、それぞれの個性を主張していた。その右手にある茶碗に魅きつけられた。
  形は単純素朴、ひねくりまわして奇をてらったところがない。ほんのりと底からベージュが浮かんでくるような暖かい白の茶碗である。その胴にたなびく雲の流れがあり。それもほとんど白に見えるのに。じっと見詰めていると内に紅を感じさせる。いや、紅だけではない。それは実は、五彩の雲なのである。
  この美しいものを欲しい、と思った」

★ラストは夕暮れのお茶の水の描写。

 「やがて、ごうごうと音がして川面に、向こうから駅に滑り込んで来る玩具のような紅色の丸ノ内線の電車が映った。電車の上には聖橋の灰色のアーチがあり、橋を通る人々の姿は胸から上だけが遠く小さく墨絵のように見えた。その彼方には秋葉原電気街のネオンの城が幾重にも重なり、赤や城の光が駆け上がり駆け下り、黄色い三角形が点滅していた。背景となる夜の漆黒は光に溶け、薄桜色に染まっていた」 

 まさに言葉による絵画。 
 北村薫の作品はミステリーとしても優れているが、言葉の世界に酔うことができる。


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江戸川乱歩 「踊る一寸法師」

2007年12月19日 | 短編小説
 江戸川乱歩の「踊る一寸法師」の一節。

「八字ひげの手品使いは酒樽のふちをたたきながら、胴間声をはりあげて、三曲万歳を歌い出した。玉乗り娘の二、三が、ふざけた声で、それに合わせた。そういう場合、いつも槍玉に上がるのは一寸法師の緑さんだった。下品な調子で彼を読み込んだ万歳節は次から次へと歌われた」

 大正時代の描写である。
 この時代には「八字ひげの手品使い」「玉乗り娘」「一寸法師」らが通りにいた。
 街にいかがわしさがあった。
 乱歩は子供ものでもこれらのいかがわしさを描いてきた。
 「二十面相」「黄金仮面」「青銅の魔神」
 僕らはこれらをわくわくして読んだ。

 今の時代にはこうしたいかがわしさがない。
 きれいな数学的な無機質な街並み。

 「地獄の季節 酒鬼薔薇聖斗がいた場所」(高山文彦/新潮文庫)では少年Aのいた須磨ニュータウンのことが描かれている。
「六角形の巨大な箱の底のような広場は、見渡す限り人工の石畳で敷きつめられている。まわりを囲む垂直の壁は、百貨店の大丸であり、スーパーマーケットのダイエーであり、それらを囲むようにつないでいるマクドナルドや無数の和洋中の食堂、用品店、花屋、書店などのはいったショッピングモールだ」
 そして犯行の行われた「タンク山」がかろうじて残された「異界」だと表現している。

 合理的で窮屈な現実の中で人は異界を求める。
 都市伝説がそう。
 グリコ森永事件で犯人が「かい人二十面相」を名乗ったのにも同じ根があるような気がする。
 現在の街には異界がない。

 乱歩の小説を読んでそんなことを考えた。


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人間椅子

2007年12月12日 | 短編小説
 江戸川乱歩の「人間椅子」。
 この作品にはふたつのモチーフがある。

★ひとつは現実の忌避。

「私は世にも醜い容貌の持ち主でございます」
「私は、お化けのような顔をした、その上ごく貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身のほど知らぬ、甘美な、贅沢な、様々な「夢」にあこがれていたのでございます」
「私がもし、もっと豊かな家に生まれていましたら、金銭の力によって、いろいろの遊戯にふけり、醜貌のやるせなさをまぎらわすことができたでありましょう。私にもっと芸術的な天分が与えられておりましたなら、例えば美しい詩歌によって、この世の味気なさを忘れることができたでありましょう。しかし、不幸な私は、いずれの恵美にも浴することができず、哀れな、一家具職人の子として、その日その日暮らしを立てていくほかはないのでございました」

 主人公は単調でただ生きているだけの現実を憂えている。
 空想、妄想の世界に遊ぶことが救いだと考えるが、彼には十分な「芸術的才能」もない。
 『現実を忌避し空想世界に逃げる』
 乱歩作品の底流にはすべてこのモチーフが流れている。

 明智小五郎は奇怪な犯罪世界に胸を躍らせ、「パノラマ島奇譚」の主人公はお金の力で彼が空想する理想郷を作り上げる。

 そしてこの「人間椅子」の主人公が「悪魔の囁き」を聞いて味気ない現実から逃げるために行ったことは『革の椅子の中に入ること』。
 彼は椅子の中に入ることにより「怪しくも魅力ある世界」を得る。
「人間というものが、日頃見ている、あの人間とは全然別な生き物であることがわかります。彼らは声と、鼻息と、足音と、衣ずれの音と、そして幾つかの弾力に富むただの肉塊にすぎないのでございます」
「革のうしろから、その豊かな首筋に接吻することもできます。その他、どんなことをしようと自由自在なのであります」

 彼は現実を逃れる理想郷を得たのだ。
 ここに作品の2番目のモチーフが現れる。
 即ち……

★触覚の世界
 普通の世界では人の体に触れることはなかなか出来ない。
 ほとんどが視覚、聴覚で人に関わる。
 しかし主人公は椅子の革一枚を通して人に触れることが出来る。
 触覚の世界。
 そこに人間性の復権を乱歩は見ている。
 テレビ、映画などの映像、音楽。人間は視覚・聴覚に溢れた生活をしているが実は本当に満たされていないのではないか。
 人は視覚の美醜によって他人を判断するが、それだけでは足りないのではないか?もっと様々なコミュニケーションがあるのではないか。
 そんなことを乱歩は問うている様に思える。
 人間性に根ざした文学世界は時代によって様々な読み方がなされる。

※追記
 谷崎潤一郎の「春琴抄」も自分の目を針で刺し、視覚のない世界で真実の愛を見出す話だった。


 
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D坂の殺人事件

2007年12月09日 | 短編小説
 江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」。
 D坂とは東京の団子坂のことらしい。
 確かにタイトルが「団子坂の殺人事件」ではかっこ悪い。
 明智小五郎が最初に登場した作品でもある。

 さて古い推理小説を読む楽しみとして当時の風俗を知るという楽しみがある。
 作品が発表されたのが大正十四年ということから、描かれているのは大正風俗。
 まず喫茶店がある。アイスコーヒーのことは冷やしコーヒーと言ったらしい。
 語り部の私と明智小五郎は喫茶店で推理小説などの話題でダベっているが、そんな行動を大正期にしていたことがわかる。
 その他にはアイスクリーム屋なども事件の目撃者として証言しているから、アイスクリームも存在していたらしい。
 現代に近い習俗である。
 またD坂は『菊人形の名所』だと描かれているが、僕は『菊人形』というのを見たことがない。漱石の「三四郎」なんかにも菊人形見物が出てくるが、どんなものなんだろう。

 推理小説としてはひとつの事実を私と明智が推理する方法がとられている。
 オモテに現れている事実は
1.古本屋の女房が殺されたこと。首を絞められた窒息死であること。
2.被害者の体にいくつもの傷があったこと。
3.犯行時に襖の格子越しに男の姿を見たふたりの学生がいること。
4.ひとりの学生は男の来ていた着物は紺だと言い、ひとりは白だと言っていること。
5.その目撃された男はオモテからも裏口からも出た様子がないこと。
6.犯行時に電灯が消えたこと。灯りのスイッチは明智が部屋に踏み込んだ時につけたため、犯人の指紋が消され明智のものだけしか残っていないこと。
7.殺された女は明智の幼なじみであること。

 この事実に基づいて私と明智が推理するわけだが、事実が人物の解釈によりA案、B案ふたつあるという所が面白い。
 黒澤明の「羅生門」よろしく、物事の解釈など見る者の主観によりいくらでもあるということを描いている。

 まずは語り部である私の解釈。
 犯人は明智。
 犯行に明智にアリバイがない。ぶらぶら歩いていたと言っている。
 それに当時、着ていたのは紺と白の着物。
 明智は殺人を終えると隣の蕎麦屋を通って逃げた。
 動機は過去の痴情のもつれか?

 それに対して示される明智の推理。
 ネタバレになるので書かないが、動機としては当時としては驚くべきものであったろう。現代ではわりとポピュラー?
 ヒントは『被害者の体にいくつもの傷があったこと』

 最後に明智の言葉をひとつ。
「物質的な証拠なんてものは、解釈の仕方でどうにでもあるものですよ。一番いい探偵法は人の心の奥底を見抜くことです」


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鬼畜 松本清張

2007年06月17日 | 短編小説
 探偵小説を謎解きのパズルでなく心のドラマとして描いた松本清張。
 それはこの「鬼畜」でも同様。
 身ひとつで印刷会社を興した宗吉。
 会社は順風満帆で調子に乗った彼は愛人を持ち、愛人の子3人をもうけたが、そこから転落の人生が始まった。
 きっかけは印刷工場の火事。
 これで印刷機械を失った彼は仕事を減らしていく。
 そして押しつけられる愛人の子供3人。愛人が逃げてしまったのだ。
 宗吉は妻と愛人の子3人と暮らすことになるが、困窮は彼を鬼畜にする。
 最初は一番下の子の布団の圧死。
 この死は事故で片づけられたが、実際は妻がやったことらしい。
 妻にしてみれば、愛人の子3人は憎しみの対象でしかない。生活の困窮もある。
 しかし人を殺すという罪の意識は妻を苛んだらしい。
 下の子を殺した夜、妻は宗吉を激しく求めた。
 まず、この心理描写が巧みだ。
 「わるいやつら」にも夫に毒薬を飲ませた後、戸谷に激しく身体を求める女の姿が描かれたが、これも同様。
 松本清張は人間心理の作家だ。

 この心理描写は二番目の子・良子の時も描かれた。
 東京のデパートに置き去りにする宗吉。
 食堂で食事をさせ、他の子が旗を持っていると「後でもらいにいこうな」と言う。屋上で猿を喜んで見ている良子の姿を見て、この子は猿も見たことがなかったのかと思う。ここは涙を誘う親の情。
 しかし宗吉は良子を捨てる。
 「父ちゃんはちょっと用事があるから、ここで待っておいで」
 そう言ってその場を離れるが、いざとなるとふり返らざるを得ない。
 この葛藤。
 ふり返ると今まで喜んで猿を見ていた良子までが自分の方を見ているというのはドラマチックだ。
 宗吉は迷子のアナウンスなどに動揺するが、捨てた自分に言い聞かせる。
 「あれは、おれの子供ではない」
 宗吉は3人の子供たちが自分に似ていないことを言い訳にして、自分を正当化しようとしていたのだ。
 この正当化せずにはいられない人間の弱さ!
 正当化、言い訳は「弱さ」の現れであることを松本清張は知っている。

 そして長男の利一。
 この子は頭がいい。
 妻の作った毒入り饅頭を食べさせられるが、「きらい」と言って吐き出してしまう。ならば東京で外食させて食べさせようということになり、売っている最中に毒を入れる。しかし鋭敏な利一は毒の入っている最中だけを吐き出す。宗吉は無理やり口の中に入れようとするが、吐き出してしまう。
 このやりとりは壮絶だ。
 宗吉はさらに利一を殺そうとする。
 伊豆の海岸に連れて行き、崖から落とそうとする。
 この時に言い訳も「おれの子供ではない、おれの子供ではない」という言い訳だ。
 そして崖から突き落とされる利一。
 奇跡的に利一は助かるが、警察に事情を聞かれても突き落とされたことは言わない。
 利一はすべてを知っていて宗吉をかばったのだ。
 この利一のかばうという心理がまた巧みだ。
 実に泣ける。

 愛と憎、こうした人間の様々な心理を一編の中篇に凝縮した松本清張。
 宗吉の動機は『貧困』で松本清張の作品はもはや現在に合わないと言われてきたが最近はそうでもない様だ。
 格差社会。
 宗吉は火事という事故で『負け組』になった。
 貧困が犯罪の動機になる時代が再び訪れようとしている。
 また犯罪の動機を描くことは社会の現状を描くことでもある。


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独白するユニバーサル横メルカトル 平山夢明

2007年05月23日 | 短編小説
 大沢在昌氏によれば「ミステリーは芸であり技であり、ときに思想である。時代や風俗と不可分な要素を持つ半面、時間を超越した、人の心の負の部分を浮かび上がらせる」「物語とは、人と何かのかかわりを描いたものだ。ミステリーは、おおむね、人と人のかかわりの中から生まれる、誤解、摩擦、そして殺意が核になっている」

 「独白するユニバーサル横メルカトル」(平山夢明・著)は「人と地図」とのかかわりを描いた作品。
 地図の視線でストーリーが語られていく。

 この構造の生み出す怖さは、物が思考し独白すること。
 まわりにある物が自分たちを見つめ、何かを考えていると考えてみると怖い。
 自分たちの行動を笑い、非難し、時に危害を加えると考えると怖い。
 この短編集の「魔地図」という作品では親子二代の殺人鬼と関わっている地図の独白がなされる。
 怪談では物が意思を持つことは多く見られるが、それを殺人鬼というミステリーと組み合わせたところにこの作品の斬新さがある。「怪談」と「ミステリー」の融合だ。
 既存のジャンルを組み合わせる。
 新しい作品を生み出すためには、この発想は大切だ。

 さて物語。
 前述の「魔地図」に材をとってみれば、この地図の主人公が主人である人間の忠実なしもべであり、観察者であることが逆に怖い。
 地図が関わる殺人鬼親子は父親がタクシー運転手、息子が救急隊員であり、その職務の傍ら殺人を犯していく。そして犯行地点と死体を埋めた場所を地図に血で記していく。最初、地図は血で記されることを嫌がるが、一方で親子の犯行を時に弁護し、淡々と物語っていく。父親の犯行は緻密だが、息子は荒っぽいなどと感想を独白したりする。
 そしてその悪意のない語りが逆に怖さを増す。
 地図が「何という怖ろしいことでしょう」「もう嫌だ。助けて」などと感情を表したら、怖さは半減する。
 物語の途中、殺人鬼の息子の犯行はエスカレートし、殺した人間の皮膚で地図を作ったりする。これにはさすがの物語の語り手の地図も嫌気がさし、「それは邪悪だ」と主人に忠告するが、その邪悪さにのみ込まれる様に狂気にとらわれた息子は犯行を繰り返していく。
 ここで描かれるのは殺人に魅せられた人間の業。
 それが客観的に描かれるから怖い。

 この作品は視点が変わるだけで描かれる世界が一変するといういい証明である。
 それにしても思考する地図より怖いのは人間である。


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