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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

所 さんまの超近現代史 笑いは世界を救う!

2010年03月31日 | バラエティ・報道
★<○○離れ>という現象が現在の若者にあると言う。
 活字離れ、車離れ、ブランド離れ、アルコール離れ……。
 活字離れは昔から言われていたが、現在の若者は、車やブランド品に執着しない。男子はアルコールよりはスウィーツ。ビールの苦さが嫌い。

 現代は<成熟社会>と言われる。
 物が行き渡って、欲しい物がなくなる。
 70年代の高度成長期は、車が欲しい、クーラーが欲しい、カラーテレビが欲しいの時代。それらが欲しくて皆、必死に働いた。
 バブル期は、付加価値のある商品が求められた。
 車はフェラーリや高級外車、バッグはブランド品。
 そして現在は、「都内で車など必要ない」「レンタカーもあるし」「安い物でいかにおしゃれして自分らしさを出すか」の時代。

 番組では長期不況がこの様な時代を作っていると言う。
 確かにそうだろう。
 だが同時に若者たちが、非常に合理的になったとも言える。
 「都内で車など必要ない」「レンタカーもあるし」はその典型的な例。
 ブランド品も機能は同じバッグなのに、なぜ20万円もするブランド品を買わなければならないのか、2千円のバッグではダメなのかという合理的で醒めた目がある。
 出演していた漫画家・浜田ブリトニーさんは次のような意味のことを言っていた。
 「現在はいかに安い物でコーディネイトし、自分を表現することの方が重要。こうして表現された自分を仲間に語ってコミュニケーションしている」
 昔はブランド品で自分の個性やステイタスを出し、ブランド品をコミュニケーションツールにしていたが、現在は安い物で十分それが出来るのだ。
 僕は現在の方がまともだし、頭がよく智恵があると思う。
 現在の若者は<ブランドが幻想>であることを十分に理解しているのだ。

★番組では、高度成長する中国の姿が紹介されていた。 
 家を買い、車を買い、ディスコで踊る。1コース8万円の料理を楽しむ。
 まさに日本のバブル期。
 バブルの崩壊を知っている我々はこれを醒めた目で見る。
 「我々の20年前と同じことをやってる」「いずれは崩壊するのに」「中国発の世界不況が近々起こるかもしれない」
 
 これらはバブルを経験し、超成熟社会に生きる我々だから言える意見だが、僕はさらにこんなことを心配してしまう。
 「中国発の世界不況が起こった時、世界は大いに混乱しテロや戦争の時代に入る」
 「大規模な世界不況が起こった時、経済的不安と格差の不満、宗教・民族問題が燃え広がり、テロや戦争の時代に入る」
 番組では<人間はアホか?>という問いかけが幾度もなされていた。
 確かに<アホ>なのだろうと思う。
 番組キャスターの所ジョージさんと明石家さんまさんは、人間の<アホ>を笑いにしていた。
 これはひとつの叡智。
 人間の<アホ>を悲観し、怒るのではなく、笑い飛ばす。
 「お前、アホだよな。俺もアホだけど」と言い合うことで、争いはなくなる。
 笑えば、哀しみや怒り、憎しみなど吹き飛んでしまうわけだし。

 この番組はそんなことをメッセージとして送っているようにも思える。


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浅田真央選手の「鐘」 芸を自分のものにするということ

2010年03月30日 | スポーツ
 浅田真央選手が、トリノの世界選手権で優勝。金メダル。
 キム・ヨナ選手とのライバル対決は、キム・ヨナ選手がコケてしまったため、いまひとつ盛り上がらなかったが、浅田選手のフリーの「鐘」は素晴らしかった。
 オリンピックの放送で繰り返し見たためであろうが、僕にも「鐘」の世界に入り込めた。

 この「鐘」というのは理解するのが難しいパフォマンスである。
 たとえば「007」はわかりやすい。007とヨナ選手の可愛らしさですんなり世界に入っていける。
 高橋大輔選手の「道」も、映画「道」を見ていれば、<人生>を表現しているんだなってことはわかる。すなわち、つまずき・苦悩の人生から歓喜の人生へというストーリー。
 このストーリーで世界に入っていける。
 でも「鐘」は?
 世界に入り込みづらいから、どうしても技の完成度などに目が行ってしまう。
 浅田選手はこれで何を表現したいんだろうと立ち止まってしまう。
 「浅田選手はこれを楽しんでいるのか」と思い、やらされている感を感じる。
 しかし、今回は完全に浅田選手のものになっているような気がした。
 「鐘」が自分のものになっている。

 歌手の尾崎紀世彦さんは、自分の歌「また逢う日まで」を歌うたびに新しい発見がある、と何かのインタビューで言っていた。
 歌い込むとはそういうこと。
 落語家は自分の持ち噺を高座で何度も話すが、毎回同じパフォマンスはない。
 客の反応によっても違うし、演じているうちに新しい解釈が加わったりする。
 演劇も繰り返し同じ人物を演じているうちに、人物像が深まっていく。
 <芸の深さ>とはこういうことを言うのだろう。

 そして今回の浅田選手にはそんなことを感じた。
 「鐘」という曲を浅田選手は深く理解したのではないかと感じた。

 現在のテレビは一回性のものばかりだ。
 瞬間、瞬間で笑いが起こり、笑いが足され、そのまま消費されていく。
 確かに「そんなの関係ねえ」や「グー」では、芸の深さもあったものではないが、浅い芸はやはり飽きられる。捨てられる。

 繰り返し演じられて、どんどん深みが出て来るパフォーマンス。
 繰り返し見られ、読まれて、新たな発見がある作品。
 こういうエンタテインメントこそ、現在必要なのではないか。


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龍馬伝 第13回「さらば土佐よ」

2010年03月29日 | 大河ドラマ・時代劇
★龍馬(福山雅治)の脱藩話。
 家族で黒船に乗って世界をまわりたいという<家族大好き>な龍馬ですから、その葛藤はすごかったでしょうね。
 しかし、加尾(広末涼子)がいなくなった時点で、龍馬の<幸せな家族>を作るという夢は終わった。
 龍馬は<家族>でない他のものを求めた。
 龍馬は、結婚した弥太郎(香川照之)に「奥さんを大事にしろ」と言いますが、果たせなかった自分の想いを託しているようにも思います。
 そして<土佐藩>という枠。
 龍馬は<家族>だけでなく、<藩>も捨ててしまった。
 今で言えば、恋人を捨て、会社を辞めるような感じ。
 龍馬はあくまで<個人>なんですね。
 <土佐・山内家の坂本龍馬>でなく、<坂本龍馬>として生きる。
 フリーランス、自由人として生きる。
 さて、そんな<坂本龍馬>がどんな表情を見せるか?
 予告で見ると、自由人、やさぐれ龍馬はなかなか格好良かった。
 第1話のやさしいお坊ちゃんからは大きな変貌。
 今回の主人公は本当に様々な顔を見せてくれます。

★そして半平太(大森南朋)。
 吉田東洋暗殺。
 ついに踏み出してはいけない一歩を踏み出してしまった。
 人間、この領域に踏み出してしまうと、後は歯止めが効かなくなる。どんどん過激になっていく。
 ロシア革命・中国革命の粛正、ナチスのユダヤ人虐殺、日本の学生運動の粛正。オウム真理教もそうかもしれない。
 半平太の発想は、土佐藩を<攘夷>に変えて日本を変えるというものだったのですが、東洋(田中泯)は龍馬には「土佐のためにわしに仕えんか」と言うが、半平太には言ってくれない。
 ならば暴力で。という発想。
 司馬遼太郎さんは「花神」の中で、「変革期にはブルドーザーのように荒々しく道を切り開いていく人間が現れ、次に道を整えていく者が出て来る」と書いていますが、半平太はまさにブルドーザー。ちなみに<道を整えた>のは大久保や伊藤博文。
 現代から見ると、<暴力>という手段は違和感がありますが、半平太のような道を切り開く人間は必要だったのでしょうね。
 そして現代の日本は小泉さんが壊して、民主党も壊そうとしているが、どうも上手くいっていない。
 上手くいっていないからといって、言論・民主主義という手段を捨ててはいけないのですが。

★最後にせりふ・作劇について

・半平太が龍馬に語ったスズメのせりふは暗喩として見事だった。
 「同じものを見ること」が出来なくなってしまったふたり。
 見事な別れのせりふです。
 これが「わしはお前は別の道を歩く」では、趣がまったくない。

・もうひとつ暗喩。
 東洋の暗殺シーンとカットバックして、梅の絵を描く半平太。
 梅の赤が血に見える。
 せりふはないが、これだけで半平太の狂気、踏み出してしまった悔恨が伝わる。
 まさにプロの脚本家の技。

・龍馬の姪の春猪。
 寝ている龍馬を起こす芝居を三回。
 三回目には龍馬はいない。
 上手い作劇だ。

・ビジュアルとしては弥太郎の所に行った龍馬。
 木の小枝を持っている。
 ただそれだけだが実に様になっている。


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面白くなくなった亀田興毅

2010年03月28日 | スポーツ
 昨日の亀田興毅、ポンサクレック戦を見た。
 何というか亀田選手、守りに入ったというか、オトナになってしまった感じがする。
 以下はボクシング・シロウトの意見。
 4ラウンドで、8ラウンドでリードされた亀田選手。
 8ラウンドまでの戦い方ではダメだということは明白なのだから、戦い方、戦法を変えるべきだった。
 もちろん世界のトップとの戦いで戦い方を変えるというのは至難の業だろうが、あるいはポンサクレックがそうさせなかったのかもしれないが、8ラウンドまでの戦い方ならジリ貧。判定負けは目に見えている。

 今回K-1といっしょに放映したのも間違いだった。
 K-1は皆、いい試合だった。
 倒すか倒されるか。KOされてもいいという感じで皆捨て身で戦っていた。
 たとえばボクシングVS総合格闘技の渡辺一久選手。
 彼は負けたが心に残った。
 渡辺選手はボクサー。ローキックを食らい、後半は脚が動かない。
 しかしダウンはしない。すさまじい気迫。
 その結果、相手の選手も攻め疲れでフラフラ。
 ファンはこういう試合を見たいのだ。
 見ている者はこういう試合に力を与えられる。

 もちろん、K-Iの1試合とボクシングの世界タイトルマッチでは得るもの、失うものが違う。
 K-Iとボクシングとの違いもあるだろう。
 K-Iは相手を倒すのをメインとするのに対し、ボクシングはKOよりはポイントを稼いで勝つことをメインにするスポーツ。
 おのずと迫力が違う。
 だが、亀田選手にはポイントを稼いで勝つような選手にはなってほしくないのだ。
 KOされてもいいから一歩踏み込める選手であってほしい。
 ポイントで渋く勝つのはベテランになってからでいい。
 物語としても、今回のような何も出来なかった判定負けよりは、壮絶なノックアウト負けの方がインパクトがあるだろう。
 ファンの心を揺さぶり何かを表現するのがプロフェッショナルだろうし。

 亀田陣営に目をやると、外国人のトレーナーなどやたらスタッフが多かった。
 それだけ多くのものを持ってしまったのか?
 ものを持ちすぎれば守りにまわる。
 失うものがなくハングリーに向かって来る者を見たいと思うのが<ボクシング>だと思うが、どうだろうか?


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コップンカー テレビを音で楽しむ

2010年03月26日 | その他
 テレビCMで妙に耳に残っている音がある。
 「コップンカー」
 フレッツ光のCM。
 世界各国の「ありがとう」を意味する言葉が次々と発音され、「コップンカー」は川島海荷さんがやっていた。
 この耳に残る効果は多分に川島さんの発音の可愛らしさに拠る所が大きいと思うが、音として実に新鮮。
 「メルシー」や「謝謝」などは耳に馴染みがあるが、「コップンカー」はそうでない。
 ちなみに「コップンカー」はタイ語らしい。
 ここで敢えてタイ語を持ってきたCM製作者のセンスを買う。
 「コップンカー」を世界各国の「ありがとう」の最後に持ってきたことも意図的なものを感じる。
 おそらくCM製作者にも「コップンカー」が他の何より新鮮に感じられたのだろう。

 テレビは家事などをしながら見られるものである。
 片時も目を離さず見られるものではない。むしろラジオ感覚。
 ましてCMなら尚更。
 だからCMは耳に残るものでなくてはならない。
 最近「コップンカー」の他に耳に残るものと言えば、子供店長・加藤清四郎君の声と♪ネコとアヒルが力を合わせて~♪の生命保険会社のCM。
 まあ、あれだけ多く流れればイヤでも耳に残るが。
 サウンドCIも音効果のひとつ。
 企業名をCM最後にサラリと言うやつ。
 <エイベックス・トラックス>とか<プレイステーション3><docomo><KOEI>とか。

 タレントも声やしゃべり方に特徴がある方が有利。
 紳助さんとかさんまさんとか、画面は見なくても声だけでわかる。
 まあ、それが一流で皆に認知されているということだが。

 テレビには様々な音が溢れている。
 音だけに集中してテレビを見るのも、ひとつの楽しみ方だ。


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赤と黒 ジュリアンが最期に求めたもの

2010年03月25日 | 洋画
 ジェラール・フィリップの「赤と黒」デジタルリマスター版を観た。

 主人公ジュリアン・ソレルが闘ったものは……?
 身分、差別、お金、神、そして愛。
 ジュリアンはそれらを得るために闘った。
 神は否定し、自分の出世栄達のために利用した。

 ジュリアンは近代的人間である。
 彼の中には神はいない。信仰はない。
 地位を求め、金を求め、のしあがって人々が自分を崇めることを望んでいる。
 地位と金があれば、愛も自然について来ると考えている。
 地位と金のためなら、あらゆるものを利用する。神も信仰もその例外ではない。

 そんな近代的自我の持ち主であるジュリアンが最期に求めたものが興味深い。
 それは<愛>。
 死刑執行前の一ヶ月、彼は愛するレナール夫人と至福の時を過ごす。
 ジュリアンは毎日牢獄に訪ねてくる夫人に言う。
 「こんな幸せなことは初めてだ。この一ヶ月、君と心から話そう。神も人間もふたりが共に過ごすことに邪魔を出来ない。そして僕たちだけが生きることを知っている」
 ジュリアンは地位や金でなく、最期に<愛>を勝ち取ったのだ。
 レナール夫人と過ごす日々を<人生の意味>だと理解したのだ。

 そんなジュリアンに語った恋人レナール夫人の言葉も興味深い。
 「あなたに神と同じものを感じるの。それは尊敬、愛、服従」
 信仰者は神に<尊敬><愛><服従>で臨む。
 それと同じ態度で夫人はジュリアンに臨むという。
 ジュリアンは、ある意味<神>になったのだ。

 信仰がヨーロッパの人々に及ぼした光と陰を理解することは、われわれ日本人にはなかなか難しいが、ジュリアン・ソレルという近代的自我が求めたものは十分に理解できる。
 19世紀のヨーロッパ文学こそ、今読まれるべきものなのかもしれない。


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百万円と苦虫女

2010年03月24日 | 邦画
 <自分探し>をテーマにした映画は多い。
 <自分の居場所><本当の自分>を求めて主人公はさすらう。

 <自分>とは他者との関係・人間関係の中に見出されるもの。
 たとえば、愛する人の恋人であったり、妻であったり、愛する子の母親であったり、これが<自分>だ。
 だから、自分の居場所が確定した時点で<自分探し>は完結する。

 ところが、この映画の主人公・鈴子(蒼井優)は違う。
 働いて百万円貯まると他の土地に移っていく。
 鈴子はそれをルールにしている。
 なぜか?
 人間関係が深まると、愛憎、好悪、嫉妬など、関係が複雑になってきて面倒になるからだ。
 鈴子はそうなる前に他の土地に移動する。
 これが精神衛生上、心地いい。

 鈴子は<逆・自分探し>の人間だ。
 人間どうしの繋がりから離れて、何者でもない自分を漂っていく。
 鳴らない携帯。
 鈴子はそれを肯定する。少しも寂しくない。
 そういえば鈴子は携帯を持っていなかった。唯一繋がっている弟とは手紙で連絡を取る。

 鈴子は現代のもうひとつの心象だ。
 他者と繋がっていないことが不安で寂しいのが現代だと思うが、一方で繋がっていない自由さも求めている。人間関係は<面倒>で<疲れる>ものであり、それから解放されることを求めている。

 物語は、そんな鈴子に彼氏(森山未来)が出来ることで展開を見せる。
 彼氏の中に居場所を見出す鈴子。
 だがすぐに誤解・すれ違いが生じて、その関係は鈴子にとって<面倒>で<疲れる>ものとなる。
 鈴子は彼氏との繋がりを切って、他の土地に移ろうとするが……。
 ラストはなかなかクールだ。
 観る者にこのふたりがどうなるか、判断を委ねている。


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コード・ブルー 最終話 自分を肯定する

2010年03月23日 | 職業ドラマ
 『生きていることが奇跡。打ち込めるものがあることが奇跡。
 あいつには負けたくないと思えるヤツが、叱ってくれる上司や先輩がいることが奇跡』

 と藍沢(山下智久)は言う。
 このように主人公達は自分を取り巻くあらゆることを<肯定>する。

 藍沢は父親と同じ器用な手を持つこと、両親がいなくて育ったことを肯定する。
 白石(新垣結衣)は父親を肯定する。「お父さんのような医者になりたい」と言う。
 緋山(戸田恵梨香)はまわり道をする自分を肯定する。田所部長(児玉清)には「(まわり道をすることが)私と同じですね」と言われる。
 冴島(比嘉愛未)は死んだ恋人と最期の時間を共有できたことを肯定する。救急で命を落とす患者は愛する人と別れの時間を共有すらできないことに気づくのだ。
 藤川(浅利陽介)は、命を落とす患者が多いけれど、救える患者もいる救急ヘリのドクターである自分を肯定する。

 主題歌「HANABI」ではこんな一節がある。
 ♪臆病風に吹かれて 波風がたった世界を どれだけ愛することができるだろう?♪

 <肯定する>とは<世界を愛すること>。
 困難や苦しいことに遭った時、人は「自分をダメだ」と思い、周囲や社会を恨み<否定する>が、それは実は不毛。
 自分や周囲を愛することによって、前に歩いていける。
 そんなことをこの作品は最後に教えてくれた。

 人物がしっかり描き込まれ、手術シーンは人の弱さ・崇高さを織り込んで抜群の迫力。
 しかもテーマがはっきりしている。
 名作だと思います。


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龍馬伝 第12回「暗殺指令」

2010年03月22日 | 大河ドラマ・時代劇
 半平太(大森南朋)の物語でしたね。
 現実が上手くいかない時、人はどう行動するか?
 言葉による説得、弥太郎(香川照之)のように口利きをしてもらって実現するという手もある。
 でもすべてがダメだった時、人は<力><暴力>に訴える。
 明治維新はある意味、革命だと思いますが、<革命>はこうして起こるんですね。失敗すれば<反乱>になる。
 そして、<革命>(あるいは戦争)には自らの行動を正当化する大義名分が必要。
 半平太の場合は<攘夷>。
 半平太や幕末の志士たちは純粋に<攘夷>を信じていたかもしれませんが、一方で<現実で上手くいかないこと>や<上士への怒り><権力欲>などがあったことも否めない。
 この作品では、もうひとりのダークサイド半平太がこう言っていた。
 「柴田備後に見限られるぞ、収二郎たちに見下されるぞ」
 半平太の心の中には<攘夷>以外にも、こうした個人的なドロドロしたものがあったんですね。

 そして龍馬(福山雅治)。
 半平太が認めていたように、龍馬は半平太の暴走を思いとどまらせるストッパー役だった。
 龍馬は半平太にとってバランスをとってくれる存在。
 右に傾きかけたら、助言して左に戻してくれる存在。
 そして揺れてふらふらしてしまう半平太は、実は弱い。
 東洋(田中泯)が、半平太より龍馬を買っていたのは、半平太の弱さを見抜いていたから?

 もう少し龍馬と半平太について論を進める。(←司馬遼太郎っぽい)
 半平太が死と破壊に向かう存在だとしたら、龍馬は生と創造に向かう存在かもしれない。
 半平太や志士達が<破滅>と<破壊>を志向するのに対し、龍馬は<生きること>と<創造すること>を志向する。
 龍馬と半平太の置かれている状況はある意味同じ。
 東洋が語っていたように徳川恩顧の山内家に生まれ、恩義を忘れない侍である。
 この制約の中で、半平太は東洋暗殺という<破壊>に向かう。
 一方、龍馬は山内家も侍も捨ててしまえばいいと考える。
 同じ状況に置かれていても、両者の発想は180度違う。
 龍馬の場合はある意味<逃げ>ではあるが、争いを避けるための前向きな<逃げ>。
 ここにも龍馬の独創性、オリジナリティがある。

※追記
 弥太郎のナレーション。
 「会いたいと思う人間には労を惜しまず会いに行く。それが龍馬じゃった」
 このフットワークの軽さ。
 龍馬の人生はひとつの所に定住しない、旅の人生だった。

※追記
 久坂玄瑞(やべきょうすけ)はこういう人だったのか。
 秀才で白皙の美青年というイメージがあったが、ここにも強烈な個性がひとり。
 「いい問いです!」は、なかなかの名セリフ。

※追記
 弥太郎パートはホッとする。
 思想・イデオロギーなんか信じていない。
 ひたすら自分の幸福、歓びを追求する。加尾のことなんかとっくに忘れているし。
 出世のため、家族の幸せのためならいくらでも頭を下げる。
 そして何よりパワーがある。
 脚本の福田さんが弥太郎に託した思いは何だろう?
 見守っていきたい。


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ブラッディ・マンデイ 作家は何を描きたかったのか?

2010年03月21日 | 推理・サスペンスドラマ
 スパイダー・倉野理沙(満島ひかり)の動機は<国に裏切られた父親の復讐>!
 そんな個人的な動機で核爆発を起こそうとするなんて、実に日本的だ。
 こういう作品ならもっとシビアな国際情勢の中で描いてほしかった。
 里沙の力を貸したのは<かの国>らしいが、こういう言い方しか出来ないのは放送コードの問題?

 さて里沙。
 この人物をどう評価するかは難しい所だ。
 客観的に突き放して見れば、この人物は頭がおかしい。
 父親の汚名を晴らしたいのなら、裁判とか他に方法があるはず。
 復讐するなら日本国民全体でなく、父に汚名を着せた当事者にしてほしい。 
 この辺はマンガ原作だし、エンタテインメントだし、こういうドラマだと言ってしまえばそれまでだが、作品である以上、描いたことに作家は責任がある。
 この里沙を描くことによって作家は何を訴えたかったのか?
 <復讐心がいきなり核爆発という極端な行為に結びついてしまう現代の若者>を描きたかったのか?
 おそらく何も考えていなかったのだろう。
 ただ、ハラハラドキドキして面白ければいいみたいな。
 一応「生きろ」「憎しみの連鎖を止めろ」と主張して体裁は整えているようだが、最終回で示されても心に訴えて来ない。
 藤丸(三浦春馬)が「生きろ」「憎しみの連鎖を止めろ」と里沙に話す必然も感じない。

 またエンタテインメントとしても不満が残る。
 これはパート1からの不満だが、サードアイはほとんど無能。
 誘爆の危険があるとはいえ、シャッターをこじ開けるのにあんなに時間がかかるか?
 藤丸たちの所に行くまで時間がかかり過ぎる。
 藤丸が万能なのも気にかかる。
 今回も藤丸のハッキングで解決してしまった。
 里沙の決着のつけ方も都合よくレディーバード(八代みなせ)に撃たれて終わり。
 音弥(佐藤健)や加納(松重豊)、政府の側の描き込みもイマイチ。
 結局この作品でキャラが立ったのは、折原マヤ(吉瀬美智子)と最後に美味しい所を持っていったJ(成宮寛貴)だったが、全体的に作家の力量不足を感じる。

 日本でこの手のエンタテインメントが成立するのは難しいでしょうね。


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