こどもたち
茨木のり子
こどもたちの視るものはいつも断片
それだけではなんの意味もなさない断片
たとえ視られても
おとなたちは安心している
なにもわかりはしないさ あれだけぢゃ
しかし
それら一つ一つの出会いは
すばらしく新鮮なので
こどもたちは永く記憶にとどめている
よろこびであったもの 驚いたもの
神秘なもの 醜いものなどを
青春が嵐のようにどつと襲ってくると
こどもたちはなぎ倒されながら
ふいにすべての記憶を紡ぎはじめる
かれらはかれらのゴブラン織を織りはじめる
その時に
父や母 教師や祖国などが
海蛇や毒草 こわれた甕(かめ) ゆがんだ顔の
イメージで ちいさくかたどられるとしたら
それは哀しいことではないか
おとなたちにとって
ゆめゆめ油断のならないのは
なによりもまづ まわりを走るこどもたち
今はお菓子ばかりをねらいにかかっている
この栗鼠(りす)どもなのである
………………………………………………
茨木のり子さんの詩「こどもたち」
そう、こどもたちが見ているものって〝世界の断片〟なんですよね。
硬かったり柔らかったり、熱かったり冷たかったり、痛かったり楽しかったり。
それが何を意味するのか、わからない。
同時にすべてが新鮮で驚きに満ち溢れている。
大人になるということは、バラバラだった〝世界の断片〟が繋がっていくこと。
思春期になり自我がうまれた時、子供たちに世界はどのように見えているのだろう?
茨木のり子さんはこう綴る。
『その時に
父や母 教師や祖国などが
海蛇や毒草 こわれた甕(かめ) ゆがんだ顔の
イメージで ちいさくかたどられるとしたら
それは哀しいことではないか』
本当にそうですね。
成長した子供たちの見る世界が「歪んだ醜い世界」だったら哀しい。
茨木のり子さんの人生で言えば「軍国主義の社会」を意味するのだろうか?
この前のパートの言葉のチョイスが秀逸。
「どっと襲って来ると」
「なぎ倒されながら」
「ゴブラン織」
これが詩を詠む楽しみだ。
ラストは見事なユーモアで落とした。
『おとなたちにとって
ゆめゆめ油断のならないのは
なによりもまづ まわりを走るこどもたち
今はお菓子ばかりをねらいにかかっている
この栗鼠(りす)どもなのである』
それまでは「認識論」や「子供論」や「社会論」を語っていたのにクスリと笑わせて終わった。
茨木のり子
こどもたちの視るものはいつも断片
それだけではなんの意味もなさない断片
たとえ視られても
おとなたちは安心している
なにもわかりはしないさ あれだけぢゃ
しかし
それら一つ一つの出会いは
すばらしく新鮮なので
こどもたちは永く記憶にとどめている
よろこびであったもの 驚いたもの
神秘なもの 醜いものなどを
青春が嵐のようにどつと襲ってくると
こどもたちはなぎ倒されながら
ふいにすべての記憶を紡ぎはじめる
かれらはかれらのゴブラン織を織りはじめる
その時に
父や母 教師や祖国などが
海蛇や毒草 こわれた甕(かめ) ゆがんだ顔の
イメージで ちいさくかたどられるとしたら
それは哀しいことではないか
おとなたちにとって
ゆめゆめ油断のならないのは
なによりもまづ まわりを走るこどもたち
今はお菓子ばかりをねらいにかかっている
この栗鼠(りす)どもなのである
………………………………………………
茨木のり子さんの詩「こどもたち」
そう、こどもたちが見ているものって〝世界の断片〟なんですよね。
硬かったり柔らかったり、熱かったり冷たかったり、痛かったり楽しかったり。
それが何を意味するのか、わからない。
同時にすべてが新鮮で驚きに満ち溢れている。
大人になるということは、バラバラだった〝世界の断片〟が繋がっていくこと。
思春期になり自我がうまれた時、子供たちに世界はどのように見えているのだろう?
茨木のり子さんはこう綴る。
『その時に
父や母 教師や祖国などが
海蛇や毒草 こわれた甕(かめ) ゆがんだ顔の
イメージで ちいさくかたどられるとしたら
それは哀しいことではないか』
本当にそうですね。
成長した子供たちの見る世界が「歪んだ醜い世界」だったら哀しい。
茨木のり子さんの人生で言えば「軍国主義の社会」を意味するのだろうか?
この前のパートの言葉のチョイスが秀逸。
「どっと襲って来ると」
「なぎ倒されながら」
「ゴブラン織」
これが詩を詠む楽しみだ。
ラストは見事なユーモアで落とした。
『おとなたちにとって
ゆめゆめ油断のならないのは
なによりもまづ まわりを走るこどもたち
今はお菓子ばかりをねらいにかかっている
この栗鼠(りす)どもなのである』
それまでは「認識論」や「子供論」や「社会論」を語っていたのにクスリと笑わせて終わった。