ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

アニメとリアリズム(雑談的試論)

2020-10-08 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽

 それにしても、そもそも「アニメでリアリズムができるのか。」って問題はあるね。『アルプスの少女ハイジ』や『赤毛のアン』の時代からほぼ半世紀を閲して、作画の点でも内容の点でも、制作技術が長足の進歩を遂げているから、ひとくちに「アニメ」つっても同列には論じられないわけだけど、それでもやっぱりふつうの映画なりドラマ、すなわち「実写」に対してアニメのほうはワンランク軽くみられてる印象はある。さすがに「子どもの見るもの」とはもはや思われてはいないだろうけど(プリキュアシリーズみたく、もともと児童を対象につくられてるものは別ですよ)、総体として、視聴対象年齢は実写に比べてより低く見積もられてるのは間違いない。


 「演劇」ってものは古代ギリシアからの伝統があるんで、それに比べたら「近代」の産物である映画やドラマもぜんぜん「サブカルチャー」なんだけど、サブカルの中にも階層があって、アニメはさらに下ですよと。しかも「アニメーション」を「アニメ」と表記することで、ニュアンスとしてはさらにまたランクがひとつ下がるわけですが。


 その理由についてはいろいろなアプローチができると思うんだけども、煎じ詰めればアニメというのが結局は「記号」として表象されるってことに尽きると思うんだな。記号の集積なんですよね全部が。何よりもまず人物。つまりキャラ。これは1991年に公開された高畑勲監督の……まあ一種の実験作といってもいいと思うんだけど……『おもひでぽろぽろ』が逆説的に(もしくは確信犯的に)明らかにしたことですね。たとえばヒロインが笑うと口角や目元に「笑いじわ」ができる。それがラインとして(専門的には「マッハ線」というんだけど)描き込まれてみると、どうしても目についてしまう。違和感が残る。それは実生活においてわれわれの目が「明暗」ないし「光の濃淡」として捉えてるものをアニメでは「線」として描かざるをえないせいですね。


『おもひでぽろぽろ』より。(念のために言っときますが、これは行論のためにあえてこういうカットを切り取ったんで、むろんヒロインは基本的には可愛らしく描かれているし、『おもひでぽろぽろ』はとても良い作品ですよ)



 いうまでもなく、これでは萌えない。そういう意味では90年代以降の高畑監督の主題のひとつに「萌えの峻拒」ってものがあったとぼく個人は考えてるけど、これは高畑勲論になってしまうのでまたの機会に。ともかく、アニメのキャラってものはそういった「笑いじわ」やら何やらをカットして成立しているものだ、という前提が既にぼくたちのなかにはある。ようするにそれは「記号化」を受け入れてるってことだよね。つまり「へのへのもへじ」すら「顔」として認識してしまうような……いわゆるシミュラクラ現象……人間の知覚のありかたを最大限に利用した表現手段として大多数のアニメは製作され、流通し、受容されている。


 もうひとり、アニメ史に残る天才のなかで、高畑さんとは違って「描きたくても萌え絵が描けない」という……それもまた偉大な才能であるとぼくは思ってますけども……方がおられて、大友克洋さんですね。この方のつくるヒロイン像は、男性キャラと同じ顔をしている。

『AKIRA』より




 「2020年トーキョー・オリンピック(中止)」の件で再び注目を集めた『AKIRA』(アニメ版公開は1988/昭和63年)は、ハリウッド映画『ブレードランナー』(公開は1982年)と共に「サイバーパンク」の世界観をビジュアライズした傑作でしたが、その『AKIRA』の「普及版」ともいうべき『老人Z』(公開は1991年)においては、キャラデザインを江口寿史が担当したんですよね。



『老人Z』より




 一目瞭然(笑)。ぜんぜん違う(笑)。江口さんの絵は洗練度が高いんでイラストみたいにリアルっぽくも見えますが、それでも「可愛さ」のコードに合わせて記号化が施されているのは明らかでしょう。このヒロインが大友さんのキャラデザインだったら、動員数がかなり変わったんじゃないかな。「萌え」がユーキャン流行語大賞に選出されたのは2005年らしいんで、90年代でもまだ「萌え」という単語はさほど人口に膾炙してなかった。それでも既に80年代には、「萌え」要素の多寡が作品の売り上げに直結するってことは自明の理として作り手の側には行きわたってたと思う。『うる星やつら』のラムちゃんに対する当時の思春期の少年たちの熱の上げ方なんて、それを措いては説明できないもんね。ぼく個人は、その「キャラの記号化」のひとつの到達点が「まどか☆マギカ」(テレビ放映は2011年)だと想定してますが。


 今回のテーマに即して話を戻すと……「萌え」という用語をよりエレガントに「感情移入」と言い換えるならば……キャラクターの「記号化」は見る者の感情移入を妨げぬばかりか、よりいっそう感情移入に寄与する。という一見アイロニカルな、しかしよく考えてみれば「当たり前じゃん?」と言いたくもなる事実が明らかになるわけですね。何のことはない、そんなのはディズニーアニメを日本の文脈に換骨奪胎した手塚治虫御大が黎明期においてとっくにやってたことだぜ。という声も聞こえてくるわけですが。


 それで、2000年代いこう、「キャラを記号化しながら尚且つ一定のリアリティーをも付与する」……だって本物の「へのへのもへじ」には誰も「萌え」ませんからね……というテクニックが作り手サイドで飛躍的に高まっていった。とぼくは推察しているわけだけど(そんなにアニメを見てるわけじゃないんで、あくまで推察です)、いっぽう、それとは対照的に、記号化ではなくひたすら「実写」のクオリティーに近づいていった……というか、もはやフィルムやビデオ機材の捉える映像を超えて、より精緻かつ美麗になっていった。のが背景美術でしょう。


 それはもちろんCG技術の目覚ましい発達によるものだけど、撮影ののちいったんパソコンに取り込まれた上で光や色を足されるなどして加工・編集を経た都市や田舎の風景は、作品の内容いぜんにもう、ただそれを見ているだけで或る種の感動を覚えざるをえないほどの水準に達している。ぼくがそれに気づいたのは2013年に放映された『はたらく魔王さま!』ってアニメで、まったく何の予備知識もなくたまたま見つけて、ラノベが原作らしいんだけど、申し訳ないが内容については当時もぜんぜん興味をひかれなかったし、今ではまるで覚えていないんだけども、とにかく背景が綺麗でね。背景美術を見たいがために毎週チャンネルを合わせてましたね。



『はたらく魔王さま!』より


『はたらく魔王さま!』より




 だけど深夜アニメなんてのはそれこそ「サブカルの中でもワンランク下」で、冒頭の話に戻るけど、世間的には「ガキの見るもん」って扱いでしょう。ただ、そういう風潮に一石を投じた。というか、社会の通念をあるていど革めるのに大きく寄与した。といっていいのが2016年に劇場公開された新海誠監督の『君の名は。』ですよね。内容がセンチメンタルだとか、セカイ系じゃないかとか不平を述べる人がいたとしても、あの映像の美しさだけは認めざるを得ないと思う。ビジュアルの訴求力ってのはそれくらい圧倒的だからね。


『君の名は。』より


『君の名は。』より。ただしこの画像は本編にはない。



 ただね、ここでまた冒頭の話に戻るんだけども、こうやって表象されたものであってもやっぱりそれは「記号」なんだよね。ハイパーリアリズムばりの緻密さで迫ってくるからうっかりしてしまうんだけども、それが人の手によって改編されたものである以上、この風景は「記号」であると。あくまでも記号化された「現実」なんですよ。


 つまり、アニメにおいては「キャラ」も「風景」も同じように記号化されてるんだけど、いわばそのベクトルが両極に分かれちゃってるわけだ。キャラの「記号化」はもっぱらデフォルメと簡略の方向を目指して為され、風景の記号化は逆に緻密および美麗の方向を目指して為されるというね……。そして、現代の日本アニメの風景描写ってものは、ほとんど19世紀のロマン主義でいう「崇高」に近づいてると思うんだよね。だからそれは、リアリズムというよりロマンティシズムであると。


 『君の名は。』を劇場で見ての帰り道、いつもの都会の風景が妙に汚く見えちゃったのを今でも覚えてるんですよ。とくに裏通りに入った時なんか酷かった(笑)。ゴミとかさ。でもそれがフツーの現実なんだよね。あたりまえだけど。そういった夾雑物っていうか、ノイズをぜんぶクリアカットして、さらに修正を施したものが今のアニメの背景ならば、それもまた、「リアリズム」とは別種のものですよね。