ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日」完結しました。

2020-10-02 | 純文学って何?
 「note」に連載していた「謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日」が完結しました。全13回。いちおう有料(100円)ですが、13本とも冒頭部分は無料で読めます。試し読みのうえ、ご購入ぜひともご検討のほど。



5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
試行錯誤的コメントです (aki)
2020-10-14 14:35:34
 こんにちは。akiでございます。
 まずは、『バナナフィッシュにうってつけの日』謎解き完結、おめでとう(?)ございます。&お疲れ様でした。
 ご投稿から日が経ってしまいましたが、拝見してから私自身、どうお返事すればよいものやらかなり迷ってしまいまして・・・。
 ただまあ、「楽しみにしております」的なことを申し上げた手前、率直な感想をお送りすることは道義でもあると思いますので、お目汚しではあると思いますが、訥々と書かせていただこうと思います。


 謎解き13編、すべてを拝読した結果の最初の感想は、「拍子抜けした」というものです。
 「シーモアが死を選んだ」という結末については、かなり早い段階で書かれていましたので、その結末が原因ではないと思います。どこかで読み落とした何か重要な情報があったか、と思い、もう一度最初から読み返し、「アイロニーが肝(超意訳)」との記述を拝見しては第3回をさらに読み直し、個人的に「ああ、なるほど」と得心するところがありましたので、申し上げてみますと・・・

 私は恐らく、キリスト教における救い(啓示と言ってもいいですが)とは何か、ということについて、何らかの未知の情報を得られるのではと期待していたらしい、ということです。
 まあ牧師か神父に聴け、て話ですねw ただ、戦争体験という現代の我々から見れば特殊な体験を経たサリンジャーであれば、現代人の自分には思いもつかぬような了解が生まれたのかもしれない、そこを見てみたい、と思っていたのですね。
 ところが結局、「啓示」の内容としては、「穴から帰ってきたバナナフィッシュがいる(≒世界の汚濁にまみれても清浄の世界に帰ってこれる可能性がある)」ということのみ。「どうすれば帰ってこれるのか」という方法論は一切なく、「清浄の世界」の中身についての言及もなし。そして啓示を得たシーモアは、その瞬間を永遠に定着するために死を選んだ、という解釈ですね。それがキリスト教的な「啓示(救い)」なのだとすると、

①啓示を得ると死にたくなる(生きねばならない意味を失う、と言っても良い)
②啓示を得た喜びは、時が経つと色褪せる

 ということになると思います。これはすなわち、「キリスト教の救いなんて所詮その程度だ」と、サリンジャー自ら神そのものを皮肉っていることになってしまうのではないか。ところがそうすると、その救いにすがって死んだシーモアの存在そのものを作者自身が嘲笑っていることになり、シーモアに仮託した自分自身をも罵倒していることになります。そこまで破滅的な作品であるようには、e-minorさんの口調からは思えないわけで、正直どう解釈すればいいのか理解に苦しみました。
 これを「サリンジャーの罠」と呼ぶことには、私には抵抗がありますね。恐らくサリンジャー自身にも、「宗教的な救い」とはどういうものか、その片鱗すらもわかっていないのでしょう(まあ当然か)。想像するに、「自身への罵倒」と「救いへの渇望」の双方がこの小作品には込められている。ただし無知であるがゆえに、その救いとはどういうものかを描き出す力は作者にはなかった。だからこそ「罵倒」と「渇望」が両立している。この循環論法をポップで瀟洒な筆致に隠して表現しているがゆえに、「何を言いたいのかわからない」作品が出来上がった、ということなのでしょうね。

 最後の段の記述は、この感想を書いているうちに、自分の理解よりも先に筆が動いて、書きながら「ああ、そうか」と了解が後に来た感じですw こう書いてみると、e-minorさんがこの作品の何に惹かれたのか、ようやく得心できた感じがします。やっぱ感想書いて良かったなw


 まあ最初に書いてることとだいぶ違うことを最後の方でだべってますが、私自身の試行錯誤の跡が見えるとは思いますので、(論理は無茶苦茶ですが)このままお送りしようと思います。「ああ、こいつも嵌っとるわw」てな感じでご笑覧くださいませ。(^^)
返信する
愛だろ、愛。 (eminus)
2020-10-14 19:10:27

 なんか色々と惑わせてしまったようで、恐縮です(笑)。
 20世紀を代表するキリスト教神学者といえばカール・バルト(1886 明治19 ~1968 昭和43)だと思うんですが、この人でさえ、浩瀚なライフワーク『教会教義学』において、ついに「救済」の項の執筆に至らぬまま逝去してしまった。それくらい、近代いこう……それはつまりニーチェ以降ということですが……「救い」を語ることはむずかしい。サルトルだってひとことも言ってないし。
 サリンジャーは作家としてもジョイスやプルースト並の超大家じゃないし、ましてやプロの神学者でも、哲学者でさえないのだから、この人に「救済とは何か」の答を求めるのは荷が重かろうと思います。ただこの短編のなかでは、持ち前のポップな語りとアイロニーを駆使して、いわば搦め手というか、裏サイドから「救済」のビジョンを形象化できたんじゃないか……。それが「バナナフィッシュ」なんですが、こんなもの、いかにもキッチュでカルトなガジェットでしょう? そこがかえって好きなんですよ。
 ぼくは作家論ってものが苦手なので、サリンジャー自身の信仰にかんして云々するのは回避して、あくまでも作品だけに即してお話をしたいんだけど、この短編は(13回にわたってdigとeなんとかが喋ったとおり)「キリスト教的」な小道具に満ち溢れています。でも、だからといって別に作家本人のキリスト教観を小説化したってものではない。そうではなくて、いわば、そういった道具立てを拝借して、彼なりの世界を創ってみせた。そういうことだと思っています。
 つまりサリンジャーはここで現代におけるキリスト教の価値を値踏みしたわけではなく、シーモアにとって、あるいは自分にとっての「救済」のひとつの形を描いてみせた。まあ作家なんてのはそんなもんだし、小説ってのもそんなもんだと思うんですよ。
 akiさんのお書きになった文章のなかの「自身への罵倒」というのは、ぼくの感覚だと「自己否定」と呼んだほうがしっくりきますが、この「自己否定」と「救いへの渇望」とは、けして相克する感情ではなく、対になってるといってもいいようなものですね。それはキリスト教圏の文学にかぎらず、たぶん真摯に「世界」や「自己」と向き合うすべての現代文学に何らかのかたちで伏流しているテーマではないか。
 いっけんカジュアルなようでいて重く、無造作に書かれたようで緻密に計算されており、なにか残酷な童話みたいに妙な後味を残す作品なんですが、これは「現代短編」のひとつのモデルじゃないかと思っています。たしかに「なんだかよくわからない」んだけど、その「わけのわからなさ」こそが「現代だなァ。」という感じでね……。同じ『ナイン・ストーリーズ』に入っている「笑い男」も名品ですが、こっちのほうは、一から十まで「わかる」んですよ。そのぶん完成度は高いんだけど、「底知れぬ深さ」みたいなものはないんですよね。

☆☆☆☆☆☆☆

 ところで、「救済」というテーマについて、キリスト教とは離れて、ぼく個人の考えを述べさせて頂くならば、それは「他者への愛」から導き出されるものだと思っています。シーモアだって、妻ミュリエルをふつうに愛することができたら、とりあえず救われたろうと思うんですよ。ただ、彼にとってはそれがいちばん難しかったんですね。じっさい、「愛」というのはものすごく難しいです。
 それで思い出すのは、かつてこのブログでも書いた「まどか☆マギカ」なんですが、ほむらのまどかに対する愛はほぼ「信仰」のレベルに達していて、あれが「愛」の極限のありようかなあとは思います。それに関しては、「思春期の女子にはありがちな感情」だと以前にご指摘を頂きました。あの時はよくわからなかったんですが、今は「そうかもしれない。」とぼくも思っています。だとすればそれは、成長すれば霧消してしまう類いの「幻想」ってことになっちまうわけですが、裏返して言えば、「成長して社会の汚辱に塗れてもなお輝きを失わない愛」ってものがもし可能だとすれば、それこそが「救い」に通じる道ではないか……と今のところは思っている次第です。


返信する
餅は餅屋 (aki)
2020-10-15 14:59:27
 いえいえ、こちらこそ、せっかくご執筆いただいた長編に肯定的な感想を述べられず、恐縮しております。
 今回頂いた返信の中の、

>サリンジャーは作家としてもジョイスやプルースト並の超大家じゃないし、ましてやプロの神学者でも、哲学者でさえないのだから、この人に「救済とは何か」の答を求めるのは荷が重かろうと思います。

 というお言葉が肯綮に中っているだろうと思います。まあやはり、餅は餅屋ですねw
 ただ一応断っておくと、私がキリスト教における救いの内容について知りたいと思ったことはあくまで知的好奇心の範囲内でして、私自身が神に救いを求めたいわけではありません。というか、私は仏教の信奉者ですが、仏教では明確に「天地創造の神」の存在を否定しています。そんなわけで、今から神学書を紐解くことはまあないでしょうw


>救済
 「愛」というものをどのように定義するかによっても、この辺の議論は変わってくるのでしょうが・・・。
 シーモアにとって、他者を愛することが一種の救いになったであろうことは同意です。それによって、彼は「戦争」という非日常の世界から、日常へと戻っていける。ただそれを自分自身で否定してたんじゃしょうがねえな、という感じです。

 まどかとほむらについては、どちらも他者への深い愛情に裏打ちされていたのは同じでも、その愛の発露の仕方には対照的な違いがある。
 まどかの愛は「全魔法少女」に向けられていて、これは「魔法少女」と対象が限定されているとはいえ「普遍的な人類愛」に近い。だからこそ、その願いを基に彼女は「神」に近い存在になった。
 それに対しほむらの愛はまどか唯一人に向けられています。それによって「神の願い」を打ち壊し、彼女は「悪魔」になった。
 この対比は、考えてみるとなかなかに面白いです。

 ただまあ、この話をどう決着させるのか、と創作者として考えてみると、話が壮大過ぎてどんな結末を描いてもチープなものになってしまいそう。虚淵さん、続編作るそうですが一体いつになるんですかね・・・。
「風呂敷広げすぎてグダりそう」なのはあのエヴァもそうですし、やはり物語は始めるよりも終わらせることの方が難しい。

 話を「ほむらの愛」に戻すと、私は彼女の愛は「思い込み」に近いと思ってるんですね。彼女の悪魔として為そうとしたことは、まどかの全象を見てその存在を全肯定するのではなく、ごく一部を捉えて「それがまどかの本心だった」と思い込み、自分の考える「まどかにとっての救い」をまどかに押し付ける。
 複雑なのは、それによって確かにまどかが救われた面もあるということで、「押し付けだから悪である」と断ずることはできないということです。
 しかし、「いつかまどかと戦うことになっても、自分はまどかの日常を守る」という思いは、明らかにまどか本人の意志を無視しています。それを「愛」と呼ぶのであれば、やはりそこにはエゴが挟まっている。一途さ、という一点には常人離れしたものがありますけど。
 その意味では、まどかの「普遍的な愛」にしても、かなり思い込みの部分が大きいですよね。こちらは「相手の意志を無視」しているわけではないと思いますが。
 そんなわけで、私はほむらばかりでなくまどかも「優れて少女的」であって、だからこそこの作品には魅力があると感じています。とはいえ一押しはあんさやですがw

 ほむらの「まどかへの愛」がほむら自身にとっての「救い」になっているか、という問題については、私にはどうも「なっていない」と思われてなりませんが・・・。愛するまどかとガチで戦う未来を「幸せ」だと彼女が本気で感じるとしたら・・・その愛ってかなり倒錯的じゃね? 絶対に負けてまどかに「めっ!!」される未来しか浮かびませんがw ・・・マゾかよ(ボソ
 いやまあそれはそれでアリですがw
 
返信する
はじめまして (かはたれ)
2020-10-15 17:36:45
 はじめまして、「かはたれのジエン」という拙いブログを書いております「かはたれ」と申します。
 「謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日」を読ませていただき、とても参考になりました。もう60歳近くですので、生きている内に「バナナフィッシュにうってつけの日」の謎が解けてよかったです。これから、一連の「グラース・サーガ」を再び読んでみようと思います。
 この度、拙ブログに勝手にリンクさせていただき、すみませんでした。最初にお断りしてからすべきでした。ブログのアプリでeminusさんが訪れていることがわかり、あわててお詫びのコメントをしている次第です。ご迷惑でしたら削除いたしますので、ご連絡ください。
 ところで、勝手に「ミュリエルはマグダラのマリアかな。自分のこめかみに狙いは定めない。彼の正しい寺院(キリスト教以外の)かな」なんて書いてしまいました。そして、「シーモアもテディも死んでないと思う」などとも。
 これらは、どちらでもいいことだと思うのですが、そういう意味で書かせていただきました。
 当方、英語も文学の力もありません。そんな者のたわごとだと思ってください。また、人と話すことも苦手ですし、コメントを書くことも初めてですので、失礼なことがありましたら、ご容赦ください。
 こんなにすばらしいものが、noteの方でお気に入りが2~4というのはもったいないと思っております。
 今後ともよろしくお願いします。
 
返信する
かはたれさんへ。 (eminus(当ブログ管理人))
2020-10-15 20:47:48

 はじめまして。
 ごていねいなコメントを頂戴しまして、たいへん恐縮しております。
 「迷惑」などとは滅相もないことで、リンクしていただき、光栄の至りです。ただ私はどうもネット上の交際というものが得手ではなくて、記事の下の「ソーシャルボタン」も非表示にしておりますし、いわゆる「フォロー返し」をすることもなく、フォローして下さっている方々に対して、いつも申し訳ない気持ちでおります。
 いっぽう、コメントを頂いた際には、それがgooブログの内からであっても外からであっても、当コメント欄にて、できうるかぎり真面目にお答えするように努めてもおります。こちらから他のブログに伺って、コメントを残すことは滅多にないのですが、これはご覧のとおりの長文癖ゆえに、かえってご迷惑をおかけするのではないかと恐れるためで、他意はありません。
 「バナナフィッシュ日和」は、10代で初めて読んだ時からずっと気にかかっている作品で、折にふれて何度となく読み返していますが、今回のような解釈に至ったのはわりと最近です。アメリカという国はヨーロッパに比べてキリスト教の影がわりあい薄いように感じていたのですが、文学はもとより、ハリウッド映画でも、キリスト教の物差しを宛てがってみないと理解の届きづらい作品が多いようですね。それは他の文化圏に属するわれわれには難しいことですが、その反面、やってみると探偵気分で面白くもあります。
 ブログを拝読させて頂いた限りでは、かはたれさんはユダヤ=キリスト教的なるものに対して辛辣な思いを抱いておられるようにお見受けしたのですけれど、私とて20代のころにはニーチェにかぶれていたので、その心情はわかるつもりです。ただ、信仰のことはさておいて、欧米の絵画や音楽や文学や演劇や映画の背後に見え隠れする「キリスト教的なるもの」は、やはり抗いがたい魅力を放っているなあ……と最近とみに思うのです。
 このたびの「深掘り」は、いうまでもなく私論であり試論なのですが、シーモアとシビルのあの短い「海水浴」が「洗礼」だという解釈にはちょいと自信がありますね(笑)。ざっと調べた限りでは、専門の研究者も(海外の方もふくめて)このことを指摘していないというのも事実で、その点については、ネット上に置いておく値打ちはあると思いました。
 もちろん、解釈ってものは読者それぞれの裁量に委ねられているので、私の「深掘り」を楽しんで下さったうえに、そこからさらに想像を広げて頂けるならば幸甚というよりありません。繰り返しになるようですが、「失礼」なんてことは決してありませんので、どうぞお気遣いなきように……。
 noteのほうのフォロワー数とか、「スキ」の数については、これはまあ、なんというか、まだ始めたばかりですので、いずれそのうちに……と期待を込めて思っております(苦笑)。
 こちらこそ、よろしくお願いいたします。



返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。