ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

20.10.22 akiさんとの対話。ひきつづき、仏教のこと。

2020-10-22 | 哲学/思想/社会学


10.16の記事「バナナフィッシュと、まどマギ。そして仏教のこと。20.10.19 加筆」からの続き。

☆☆☆☆☆☆☆


20.10.18
ぼくからのご返事
「信念ってほどではないですが。」




 ぼくのほうは、「自分の信念」を述べているという程ではないんです。「わからない。わからない」と言ってるだけで(笑)。
 親鸞という僧は日本の文学者にことのほか人気がありますね。倉田百三、吉川英治、丹羽文雄といった方々の作品は有名だし、近年では五木寛之さんが長編を上梓しましたね。哲学者でも、西田幾多郎をはじめ、田辺元、マルクス主義に近かった三木清、明らかにマルクス主義者だった服部之総といった人まで、おおむね晩年になると親鸞に惹かれていくんですよ。
 三木清は投獄されて非業の死を遂げたんで、結果として遺稿になってしまったんだけど、彼の「親鸞」は素晴らしいエッセイです。
 前回名前を出した吉本隆明も、もともとマルクス主義者なんだけど、「いちばん影響を受けた思想家は親鸞です。」と講演ではっきり言ってますね。
 梅原猛が、こういったことを踏まえて、「親鸞は、日本人の精神的な故郷であると、私は思う。」と書いているほどで。
 ぼくなんの理解だと、親鸞の教えとは、仏教というものをできうるかぎりぼくたち庶民のふつうの暮らしに近づけた……というか、根付かせたというか、息づかせたというか、そういうものであろうと思っています。あと、阿弥陀如来が西方浄土におわして臨終の際に衆生を迎えに来てくださるとか、「本願」とは「大無量寿経」にある四十八願のうちの十八番目のもので、それが「絶対他力」の由来であるとか、そういったことも知識としては持ってはおります。
 もちろんまあ、すべては手当たり次第の雑読によるごった煮で、仏教にしても、原典を含めて体系的にきちんと学んだわけではなく、例によって入門書やら啓蒙書を読み漁っただけですが(さすがに薄い岩波文庫の『歎異抄』だけは読みましたけど)、どうも自分の傾向としては、わが日本の仏教よりも、より哲学的に堅牢なインド仏教のほうに興味がいっちゃうんですね。なぜなら理詰めで追いかけやすいから。


 そういったなかで少しずつ自分の裡に育っていったのが、前回書いた、




「広大無辺で崇高な宇宙意思のようなもの……というか現象……を指して「仏」と仮初めにお呼びしている。」




 というイメージなんですが、しかしこれもあくまで心象であって、とてものことに「信念」と呼べるほどのものではありません。あえて無理やりに分類するなら「華厳」の教えに近いかと思うし、ここでいう「仏」とは大日如来がいちばん近いかと思うんですが、まっとうな信徒の方からは「とんでもない。」と言われるだろうし、やはり「よくわからない。」というよりないですね。
 もし「無神論者」というのをもっともシンプルな意味での「唯物論者」だとするならば、自分はけっして無神論者ではないですが、「じゃあなに教? 宗派は?」と訊かれたら、「いや……えーと……」と口ごもるしかないという……なんというかまあ、そんな感じでずっとやらせてもらっておりますが。




 そういうわけで、「信念」というほど筋金の入ったものではまったくないんですけども、身体感覚っていうか、からだのなかにわだかまっている感じとしては、「死」を恐れるって気持ちは今はあんまりないですね。
 生噛りの仏教用語を使わせていただくならば、すなわち生命活動の終わりにともない「五蘊」が霧散して「空(くう)」に還るというイメージでしょうか。まさに無常です。ただしそれは全き虚無ってわけではなくて、「広大無辺で崇高な宇宙意思」の懐ろに戻るだけなので、しょうがないわなあ、という感じです。
 くどいようですが、それが信念ってわけではないんです。ばくぜんたる思いでしかなくて、それを「安心立命」と呼ぶわけにはいかぬだろうけども、今のところはそれで充分というか、とくに支障を覚えないんで、当面はこんな塩梅でいくのでしょう。
 「もとより教義も、聖典も、先導者もない。」というところは暁美ほむらさんに似てますが、「全身全霊を挙げて没入する。」わけではないというところは違っていますね。
 それでも、ユダヤ教やキリスト教やイスラームに比べれば、まだ「自力」よりは「他力」に近いと思うんですけども、そこはやっぱり、「一緒にするな。」と言われるかもしれません。
 とりあえずこちらからは以上です。


☆☆☆☆☆☆☆




20.10.18
akiさんからのコメント
「無常観と罪悪観」






>「広大無辺で崇高な宇宙意思」の懐ろに戻る




 ・・・アルティメットまどかによる「円環の理」ですね。間違いないw








 てなわけで、こんばんは。
 流石多読家でいらっしゃいますね。『歎異抄』も読んでおられましたか。確かに明治以降、多くの作家や思想家が親鸞聖人に魅せられていて、それは『歎異抄』に依るところが大きいんですが、この『歎異抄』は「剃刀聖教」と呼ばれ、仏法に縁の浅い者が読むと大きな誤解を引き起こし、危険である、という理由で、本願寺8代目の蓮如上人は「この書物は仏縁の浅い者に読ませるな」と注意書きを施しています。それが世に出てしまったものだから、さあ大変。親鸞聖人に関する誤解が世に蔓延してしまいました。




 とはいえ、自力の者にとって他力信心とは宇宙人の言語よりも理解不能なもの(そもそも人間の知恵で理解できるものなら「真の救い」にはならない)なので、親鸞聖人の教えの全象を理解することは、たとえ学者であっても難しいと思います。学者は人知を尽くして真理を探究するのが仕事ですから。人知によってわからないものはわからない。そういうものだと思います。




 今回お話しくださった、「円環の理」・・・じゃなかった、「宇宙意思」というのは仏教で言うと「曼荼羅」に近い考え方のことかな? 確かにこちらは大日如来が中心になってますね。まあ私は多読家どころか希読家なのでジャンルが少しずれるだけでたちまちわからなくなってしまいますw
 ただ、仏教で「他力」とは「阿弥陀仏の力のみ」を言うので、それ以外の一切は自力です。華厳も天台も真言もすべて自力仏教ですね。「宇宙意思」も自力に分類されるべきでしょう。
 ただそれも、仏教本来の目的・・・迷いからの解脱を果たし、涅槃に至る・・・を求める上ではじめて問題になってくるもので、やはり宗教的な教義はまずそれを求める者の心が出発点だと思います。




 仏道を求める者にとって、出発点となるものは「無常観」と「罪悪観」だと言われます。このうち「無常観」は現在でもよく言われますが、「罪悪観」の方はほとんど言われませんね。恐らく、「罪悪観」はそのまま「死後の地獄」に直結する考え方なので、死後を認めない現代文化の中では無視されてしまっているのでしょう。だから根本のところから仏教を理解することができない。その立場から親鸞聖人の教えを見たとしても、全象どころか「門の入り口」すらも見えないと思います。








 バナナフィッシュの話からえらく話題が飛んでしまいましたが、まあとりあえず。(^^)




☆☆☆☆☆☆☆


20.10.19
ぼくからのご返事
「それが信念と呼べるのならば。」




 まあ「懐ろに戻る」ってのは甘すぎましたかね(笑)。エヴァの旧劇場版とか、ポニョのラストみたいでね。母性原理にどっぷり、というね。胎内回帰願望の変種と見られても仕方ありますまい。ほんとはそっちは大事ではなくて……
 「私(/自己/自我)」が霧散する……というほうが肝なんですよ。いま自分を認識している「私」が無くなるんだから、べつに後はどうでもいい……というか、どうなっても知覚できないぞと。ただ、だからといって「虚無」ではないぞ、と。そんな塩梅なんですけども。
 「円環の理」となったまどかは「神」ってよりもむしろ「仏」……というか如来……のイメージだよなあ……というのは前々から思ってましたね。でも、彼女が救うのは「魔法少女」だけですからね。なんかムキになって言い募るのもアレですけども(笑)。
 「宇宙意思」なんて書いちゃったのは、苦し紛れというか、「筆が滑っちゃったな」って気分なんですが、なんらかの実体じゃないんです。あえていうなら現象ですね。
 曼荼羅を思い浮かべたら、図像としては確かに近いのかも知れませんけど、ぼくたちが一枚の静止した図版として見ているあれではなくて、ものすごい勢いで流動・変異・生滅を繰り返しているわけです。一瞬たりとも留まっていない。そもそも2次元で表されるものでもない。3次元、4次元、あるいはもっと上の次元まで絡まってくるかもしれない。
 そういう現象のごく一部というか、ほんの一局面として、いま自分が認識している「私」ってものがたまたまここに在る。でもそれは、全体からみればまさに「一刹那」でしかなくて、時が満ちればまた流動・変異・生滅のなかに巻き込まれて、全体のなかに還っていくわけです。
 こういうビジョンっていうか、「宇宙観」みたいなものは、セム教系(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)からは出てこないんで、やはりインド仏教……というかインド思想の影響ですね。そこに、よく分らぬまま読んでいる現代宇宙論なんかも混じってるんですが、もちろん「科学」ではまったくないし(実験によって観測/証明できないので)、かといって教義を形作るまでには至らないから「宗教」でもない。やはり「文学」と呼んでおくしかないのでしょう。埴谷雄高なんて人は、そんな調子の奇ッ怪な「小説」を書いてましたけども(ぜんぜんスケール小さいですけどね、言わせてもらえば)。
 それで、まあ、そんな「宇宙観」を持っていて実生活で何の役に立つのか、と言われたら、それはもちろん何の役にも立たないんですが(泣)、「葬式は無用。戒名は論外。墓も要らない。お骨は散骨。それが難しければ樹木葬で」ということはつねづね周囲に言っているし、口で言いおくのみならず、正式な書面にして残しています。もし「信念」という言葉を使うなら、これが自分の信念ですね。




 蓮如さんが封じた『歎異抄』を明治になって紹介したのは清沢満之ですね。江戸時代にも「秘本」というほどの扱いではなかったと聞いておりますが、これだけ広まったのは清沢満之の功績(?)でしょう。
 『教行信証』も岩波文庫で出てるんですが、ぼくはそちらを読んでないんで、大きなことはいえないんですけど、蓮如さんが危惧した理由というのは、主に①「ただ念仏を称えされすればよい、と安直に解されるから」と②「悪人正機説が混乱を招くから」ということでしょうか。
 「他力」ということは、もちろんぼくにもわからないですけど、これはおそらく『教行信証』を読んでもわからないだろうし、そのことで誤解なり曲解が広まることを危惧されたというようには思えないんですよね……。
 ともあれ、いちおう文学史や思想史に名を留めるほどの作家なり著述家たちならば、『教行信証』はもとより、基礎的な文献はきっちりと読み込んでると思います。ぼくとは違って。
 ところで、ぼくは清沢満之の書いた短い文章を目にしたことがあって、けっこう好感をもったんですけど、「拭いがたい煩悶苦悩がまずあって、それ故に信仰を求めた。」という意味のことを述べてましたね。これはakiさんの仰る動機にかなっていると思うんですね。
 「いろいろと思索するうちに、何が善でなにが悪か、何が真理で何が偽りか、何が幸福で何が不幸か、そういった事どもがわからなくなって、にっちもさっちもいかなくなった。」というようなことを、清沢満之は書いておりました。
 「死」とか「死後」への不安ということは、そこには書いてなかったです。だから、ゆくゆくはとうぜん、「死」の問題も織り込まれてくるとは思うんだけど、ひとが「信仰」を欲する際に、とりあえず「いかに生くべきか?」という切実なる問いが機縁になるのはけして珍しくないと思うんですよ。
 ちょっと話が後戻りして、申し訳ないんだけど、だから劇場版「叛逆の物語」の暁美ほむらが「円環の理」となったまどかに抱く感情を「信仰」と呼ぶのはアリなんじゃないかな……とはまだ思っています。まあ、ほむらのばあいは魔法少女になった時点で既に「死んで」いて、本人もそれを知ってるという特殊な状況なわけだし、それ以前にそもそも、フィクションのキャラクターにあまり入れ込んでどうこういうのもアレなんで、この件は保留にしておきましょうか(笑)。




 罪悪観ですか……。お釈迦様の説いた10悪とは、貪欲・瞋恚・愚癡、綺語・両舌・悪口・妄語、殺生・偸盗・邪淫ですね。これらがあんまり取り上げられないのは、誰にとっても身近すぎるせいではないでしょうか。こころでおもうこと、口でいうこと、それすらも悪であり罪でありというならば、これに抵触せずに社会生活を営むことはほぼ不可能のように思えます。さすがに殺生・偸盗・邪淫はいささかハードルが高い(?)ですけども、「殺生」が「生き物の命を取る」こと、「偸盗」が「他人の利益を何らかの形で奪うこと」、「邪淫」が「みだらな行為に耽ること」であると拡張解釈するならば、これもまた、誰しもが身に覚えのあることでしょう。これらの業を為す者たちがみな仏道に無縁というならば、ほとんどが「縁なき衆生」になってしまう。とても峻厳な教えだと思います。
 その厳しさを和らげて、ぼくたちみたいな凡夫凡婦にも近寄りやすくしてくださったのが、すなわち親鸞聖人であるとぼくは長らく思ってたんだけど、これは俗流の解釈だったんでしょうか。
 というわけで、自分なりの「宇宙観」から、仏教についてふだんギモンに思ってることまで、長々と書いてしまいましたが、ブログといえど、こういう折でもなければこんな話をすることはまずないんで……。質問については、差支えのない範囲でお答えいただければ結構ですので、またお暇なときにでも、よろしくお願いいたします。


☆☆☆☆☆☆☆


20.10.22
akiさんからのコメント


仏教の峻厳さ
 こんにちは。多忙にかまけてお返事遅くなりました。<(_ _)>


 どうも「信仰の対象」を重視する考えからか、「宇宙意思」の方に目がいってしまってましたが、なるほど、「私が霧散する」ですか・・・。
 確かに今私が知覚している「私」はこの肉体がなければ知覚できないものですから、死と共に消滅しますね。でも、それですべてが「無」になるわけではなく、仏教においては「阿頼耶識」と呼ばれる「輪廻転生する真の自己」は残り、自ら為した行い=業の力によって次の生へと転生する。この辺はeminusさんもご存じだと思いますが。
 同時に、今見ているこの世界は死と共に認知できなくなり、私にとってこの世界は死と共に消滅します。ここまでは、人知によっても想像できる。でも「死後の転生」となるともうお手上げ。人知によっては絶対に知ることはできないでしょう。
 だからこそ、人生にとって「死」こそが最大の問題事であることになるわけですが。


 『歎異抄』に関しては、名文であり、かつ親鸞聖人が高弟の唯円に対して(つまり教えを分かっている相手に対して)ご自身の信心を赤裸々に吐露された言葉が記録されているわけで、やはり抗いがたい魅力があるんですよね。「仏縁浅い者に読ませるな」ということは、「仏縁深き者は読んでよい」ことになりますので、「間違った教えが説かれている」ということではありません。
 ただ、誤解しやすい箇所がいくつもある。eminusさんがおっしゃった「ただ念仏して」とか「悪人正機」はその最たるものですが、他にも「親鸞は父母の供養のために念仏称えたことはない」とか「喜ぶ心が起きないのは煩悩のせい」とか、誤解を生じやすいところはいくつもあります。仏教を誤解させるということは、その人の「後生の一大事」に関わる重大事なので、「仏法をよく知らない人に見せてはならない」と言われたのだと思います。




>その厳しさを和らげて、ぼくたちみたいな凡夫凡婦にも近寄りやすくしてくださったのが、すなわち親鸞聖人であるとぼくは長らく思ってたんだけど、これは俗流の解釈だったんでしょうか。


 仏教の峻厳さはおっしゃる通りで、心まで見れば全人類、罪人でない人はいなくなります。
 親鸞聖人も、「罪悪深重」とか「極重悪人」とか、歎異抄にも我々凡夫の罪悪の深いことをはっきり言われています。この峻厳さが分からなければ、仏教は到底わかり得ず、当然親鸞聖人の教えもわかりません。
 「縁なき衆生」とおっしゃいましたが、仏教に照らせば全人類は縁なき衆生、助かる縁手掛かりの尽き果てた者です。
 そういう者を救う、というのが阿弥陀仏の本願なのですが、我々は自惚れて「いや求める心くらいはあるだろう」と錯覚し、「助かる縁なきお前をそのまま救う」という弥陀の呼び声をはねつけている。これが「自力の心」です。
 この自力の心を捨てた時(正確には阿弥陀仏の本願力によって捨てさせられるのですが)、弥陀の「そのまま」という呼び声が届き、他力の信心に生まれ変わるのです。
 この自力と他力が切り替わる時を「一念」と言い、あっという間もない一瞬のことだと言われます。


「一念というは、信楽開発の時尅の極促をあらわす」


 と、『教行信証』にあります。




 なんとまあ、凄まじい教えです。
 要するに「地獄しか行き場のない我が身」が徹見されると同時に、「極楽行きまちがいなし」と生まれ変わるわけですから、人知など軽く飛び越えて想像すら及びません。
 さらに、「地獄一定」であることは、他力の信心を得てからも寸分変わりません。生きている限り煩悩が消滅することはありませんから。すなわち、他力の信心の人にとっては、「地獄一定」と「極楽一定」が同時に明らかな事実として矛盾なく存在します。だから念々に懴悔と歓喜が同時に起こる。そして、「地獄一定」が徹見されていますから、最早どんな悪も恐れる必要はなく、往生の妨げにはなり得ない。これほど安らかなことはありませんから、「易行」と言われるわけです。ですが、「自力を捨てて他力に帰する」教えは難信であり、だからこそ親鸞聖人も真剣な聞法を勧めています。


「たとひ大千世界に満てらん火をも過ぎゆきて仏の御名を聞く人は永く不退にかなうなり」(浄土和讃)


 大宇宙が火の海になってもそこを突破する覚悟で仏法を聞け、ということです。


 これに対し、自力仏教は峻厳さを自分の修行によって乗り越えて行く教えですから、「難行道」と言われます。おっしゃる通り、凡夫にとっては遥か雲の上の教えであり、とてものことに実行できるものではありません。その意味で、親鸞聖人が「凡夫にも近寄りやすくしてくださった」というのは間違いではないと思いますが、ただし厳しさがないわけではない。もしかしたら、そこが一番誤解されている部分かもしれません。




☆☆☆☆☆☆☆




20.10.22
ぼくからのご返事
「峻厳さを和らげる。ということ。」




 ていねいなご返事をいただき恐れ入ります。込み入った話なので、1週間やそこらは空いて当然です。こちらもそのかんに色々と考えますんで(笑)、そこはお気遣いなく……。
 阿頼耶識ですね。ぼくの宇宙観(?)にはいくらか唯識論の影響もあるかもしれません。ただし、我流の工夫を加えることで、自分の口に合うよう味を調えているわけですな。禅でいうところの「野狐禅」ってやつでしょうか。褒められたことじゃないのは承知してますが、いかに伝統に裏打ちされた教えであっても、自分なりに料理しなければどうしても喉を通らぬ性分なので……。
 自己流だから、前にいったとおり「信念」ってほどではなく、流動性はあります。おおまかな方向はこの先も変わらぬと思いますが。
 「肉体」に対置されるものとして、「心」「意識(仏教用語ではなく、ふつうに使う意味での)」「真の自己」、あるいは、akiさんは周到にその語を避けてくださっているのかもしれませんが、「魂」、そういったキーワード(キーコンセプト)がありますね。むろんこれらはきちんと微分してゆけばそれぞれに異なる事象ですが、ここでは簡素化のために「ほぼ同じもの」として扱います。今回は「こころ」と名付けておきましょうか。
 前回アップしたカントの「超越的」の話にも関わってきますが、絶対不変の揺るぎない「本質」ってものが厳然として存在する。という考えは洋の東西を問わず普遍的にありますね。それともうひとつ、「心身」を截然と2つに分かつデカルト(1596 文禄5/慶長1~1650 慶安3)の「二元論」ってものもあります。これは哲学史においてもずっと批判されてきたし、近年では、60年代アメリカから起こったニューエイジの運動の中で、手ひどく攻撃されました。
 それでもやはり、ぼくたちがふだん物事を考えるとき、どうしたって、しぜんに依拠する発想であるのも確かです。基本的な前提というか。
 ぼくなりの宇宙観ってやつは、大胆不敵にも(笑)、これらの基本的な前提に抗うもので、「肉体」と「こころ」とは不可分というか、渾然一体なんですよ。別の名まえで呼んでいるのは、あくまでも便宜上でしかない。
 だから前回述べた「ものすごい勢いで流動・変異・生滅を繰り返している。一瞬たりとも留まっていない。」とか「それがたまたまここに在るのは、全体からみればまさに一刹那でしかなくて、時が満ちればまた流動・変異・生滅のなかに巻き込まれ、全体のなかに還っていく。」ってのには、いうところの「肉体」だけでなく「こころ」も自ずから含まれるわけです。
 「肉体」だけならば、仮に原子や、さらに素粒子のレベルまで降りても、所詮は(というのもヘンですが)3次元、せいぜい4次元までの世界でしょう。つまり「物質」だけで構成される世界の話。でも、ぼくなりの宇宙観においては、「こころ」もまたその流れのなかにあるわけだから、量子力学まで拡張しても、たぶん現行の物理学では説明がむずかしい。それで、「もっと上の次元まで絡まってくるかもしれない。」と述べた次第でして。
 いやいや、改めて振り返ると、これでは「唯識」の思想からもかなり隔たっていますね。「自分の口に合うよう味を調えている」なんてレベルではない。やはり「野狐禅」なんでしょう。とはいえ、今のところは、これがいちばん自分のからだに心地よくて、しっくり馴染む宇宙観であります。


 ぼくは正直、子どもの頃から「死への怖れ」というのははなはだ希少だったんだけど、「今ぽっくり逝ったらもう本が読めないなあ。もうちょっと経験を積んで本をたくさん読んだらもう少し利口になれるのになあ。残念なことだなあ。」というようなことは昔からしょっちゅう思ってましたね。でも、上に述べたような「宇宙観≒死生観」に思い至ってからは、そういう執着も薄れました。まあ、たんに齢を取っただけのことかもしれないんですが。
 とはいえむろん、ことさら達観してるってわけではなく、もし窮地に陥ったら浅ましくとことん悪あがきするでしょう。そういう意味では今もなお、「死」こそが最大の問題事であるには相違なく、だからこそ「文学」なんて迂遠なものにかかずらって、右往左往しているわけですが。


 前に述べたとおり、吉本隆明という人が「僕がいちばん影響を受けた思想家は親鸞です。」と生前に公言していて、ぼくは10代の半ばから20代のはじめにかけてこの吉本隆明に「いちばん影響を受けた」ので、岩波文庫の薄い『歎異抄』と、あと関係文献を何冊か読みました。まあ、「仏教史」なり「日本思想史」の入門書/啓蒙書をひもとけば、親鸞さんは必ずやお目にかかるお名前ですしね。『教行信証』にまで手が届かないのが、ワタシの甘いところなんですが。
 吉本さんはマルクス主義者で、60年代の「政治の季節」には大きな影響力をもちました。その著作はきわめて難解にもかかわらず、文章は独特の魅力を放っており(吉本さんは詩人でもあります)、過激なアジテーションとしても読まれたわけです。この人の本に感化されて激しい運動に身を投じ、命を落としたり、一生を棒に振るような傷を負ったりした人もおられたと聞いております。
 そのような吉本さんが、80年代後期、のちに「バブル」と呼ばれることになる時代になると、コム・デ・ギャルソンのスーツに身を包んで(もちろん編集部が用意したものですが)「アンアン」のグラビアを飾ったり、アニメやマンガやCMを論じたり(いま思うとサブカル批評の草分けの一人でもありました)、RCサクセションのライブに行って体験記を書いたりしたのです。「高度大衆消費社会」を完全に肯定したわけですね。古い左翼仲間の文学者などは、「何をやってるんだ。資本主義の走狗に成り下がったのか」などと、いかにもそういう際にそういう方々が言いそうなことを言って非難しました。
 吉本さんは『最後の親鸞』という論考を遺しており、これは今ちくま学芸文庫に入ってますが、文庫化されてからも20年近く版を重ねています。学芸文庫は売れ行きの芳しからぬものはすぐ品切れ扱いにするので、よく出ているんでしょう。ほかに、中公文庫で『親鸞の言葉』を出していますし、やはり政治運動から華麗に転身してバブル時代の寵児となった糸井重里氏と共に、新潮文庫から『悪人正機』という本も出しています。ぼくは『最後の親鸞』をずいぶん前に読んだきりで(いま手元になくて残念ながら読み返せないのですが)、ほかの本には目を通してないんですけども。
 ぼくが知ってるかぎりでは、吉本さんが自らの「転向」(と呼んでいいとぼくは思うんですが)を親鸞さんに結んで正当化したことはないです。でも、ふつうに見ている分には、吉本さん、ひいては糸井さんの親鸞に対する傾倒には、ニッポンが豊かになっていくのに合わせて、自分たちのかつての政治理念……すなわち、「オレたちの手で世の中(社会)を根底から革めるのだ!」という信条……を放擲してしまったことへの慚愧の念(という言葉は少し重いかもしれませんけど)がまったくないとは思えないんですよ。
 akiさんは吉本隆明にも糸井重里にもさして興味はないでしょうから、こんな質問はご迷惑かもしれませんが、とりあえず「悪」や「罪」というほどの話ではなく、いわば「責任」の問題として、上で述べたことにつき、どのようなご意見をお持ちになるでしょうか。

 最後になりますが、このたびのコメントの後半部分を読んで、やはり「他力」がわからぬことは同じですが、少なくとも理屈のうえではごく僅かながら理解が進んだように思います。吉本さんの話ともいくらか関係があることとして、自分なりの言葉にしてみると、こういう具合になりました。
 「大いなる存在に己を委ねたからとて、やすやすと安寧に陥り、怠惰を貪るのではなく、表向きは穏やかではあっても、内には常に適度の緊張感を保ち、身を慎んで日々を送るべし。」
 いかにも俗っぽい解釈になっちまった気もしますが……。上の件と合わせて、よろしければ回答をお待ちしています。1週間やそこら、いや別にもっと空いてもぜんぜん構いませんので。




この記事の続き。
20.11.05 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事「私という現象。あと少し吉本隆明のこと。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/21a83c31e85dbc41eeff7abdccabbf3c