ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

20.11.05 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事「私という現象。あと少し吉本隆明のこと。」

2020-11-05 | 哲学/思想/社会学
「20.10.22 akiさんとの対話。ひきつづき、仏教のこと。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/98c9953412bb5f280e78c72edda94627
 からの続き。





20.11.04
akiさんからのコメント
「お返事になってますかね?」


 こんばんは。akiでございます。
>1週間やそこら、いや別にもっと空いてもぜんぜん構いませんので。
 とのご温言に「そうか」と思ってまったりしているうちに、いつの間にか十日以上が経ってしまいましたw
 いや、このまったりっぷりはとてものことに無常観に裏打ちされた仏法を語る資格などはありませんね。eminusさんはご自身を「野狐禅」とご謙遜でしたが、私こそ落第者です。
 まあそれを踏まえつつ、答えられることは答えることが私の義務かな、ということで、お返事です。<(_ _)>




>こころについて


 eminusさんの言われる「全体の中に還っていく」というのは、「自分は死ねば自分ではなくなる」という意味ならば、現代人には理解しやすいかもしれませんね。今の自分の「こころ」を作っているものも、この肉体と同じく誕生と共にこの世に形を成したものであり、日々変動しつつ、死が来ればこの肉体と共に消滅していく。そのように理解している人は多いだろうと思います。
 我々の心がこの肉体と不可分であることは、現代科学でも明らかになりつつありますし、その意味では西洋哲学にある物心二元論は明らかに間違いでしょう。仏教における「こころ」の捉え方は、物心二元論とは全く違うものだと思います。「唯識学」は私もかじった程度で、本格的に学んだことはなくはっきりしたことは言えませんが・・・。
 唯識においては、肉体ばかりでなくこの世界の存在も「こころ」と不可分のものと見ます。我々は肉体の制約を通して、この世界を「こころ」で見ますから、この肉体、そして「こころ」が無常である限り、その「こころ」で見る世界もまた無常であり、我々はこの世界の真の姿を見ることはできません。そして、死と共に我々が見ているこの世界も消滅します。
 ただし、「私自身」がそれによって消滅し、全くの無に還る、とは仏教では教えていませんね。前回申し上げた「阿頼耶識」という「本当の私」は残って輪廻転生する。そのとき、その人の行ってきた様々な業の力によって、善行を行ってきた人は好い世界へ、悪行を行ってきた人は悪い世界へ転生する。


 親鸞聖人は「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と、「地獄一定」の我が身を告白しています。明らかに「死ねば地獄へ落ちる自分」を吐露しているわけで、「死後も残る私」を想定しなければ意味がない言葉です。


 前回も書いたと思いますが(前々回だったかな?)、「死後も残る私」を認識する力は私たちにはありません。だからそこは理解しづらい。理解しづらいからとりあえずその部分は措いといて、わかる部分のみで親鸞聖人の教えを理解しようとするのでしょう。ただまあ、それは結局「自分の計らい」で仏教を見ていることになり、親鸞聖人の言う「自力の信心」であることには変わりはありませんが。




 ちなみにこれは仏教ではなく仏教に影響を受けた私自身の考えですが、「本当の私」というものが死と共に完全に消滅する(肉体と共にバラバラに分解する・・・など言い方は何でも構いませんが)のであれば、今現に考えている「この私」も実は存在しない、ということになると思います。真理とは永遠不変のものであり、「ある」ことが真理であるならば、「ある」ものが「ない」ものに変化することはあり得ないからです。




>吉本隆明さんの「責任」問題・・・?


 これは親鸞聖人の教えというより、吉本隆明さんの生き方についてどう思うか、とのご質問でよろしいでしょうか?
 その人が経験を重ねる中で、それまで命を賭してでも打ち込んだ信念を放棄して別の生き方を選択することはあり得ることですし、そのことを他人がとやかく言える問題でもないと思います。吉本隆明さんの場合、その「転向」に多少なりとも親鸞聖人の教えが影響を与えたとのことで、そのこと自体はよろしいのではないでしょうか。・・・・てなことをお聞きなわけではない? なんか的外れ感満載ですが、スミマセン。




>「大いなる存在に己を委ねたからとて、やすやすと安寧に陥り、怠惰を貪るのではなく、表向きは穏やかではあっても、内には常に適度の緊張感を保ち、身を慎んで日々を送るべし。」


 これは他力信心の人の心構えとしてはその通りでしょうね。ただし、親鸞聖人が勧められた「真剣な聞法」は、信前の人(すなわち自力信心の人)に対してのものです。また、他力信心の人にとっては、自らそういった心構えを起こすまでもなく、他力信心に引っぱられて常に懴悔と歓喜が起こります。またお礼の念仏も、自ら称えるまでもなく称えさせられる。絶対他力の易行道とはそういうものです。






☆☆☆☆☆☆☆






20.11.05 ぼくからのご返事。
「私という現象。あと少し吉本隆明のこと。」








 米大統領選の帰趨も定まらぬこのタイミングで返事がくるとは思いませんでした(笑)。


 でも「まったり」と無常って、意外と相性よくないですか。「あわてないあわてない。ひと休みひと休み」と昔アニメの一休さんがよく言ってました。


 「思弁的実在論」と「オブジェクト指向存在論」ってのが今の哲学のひとつのトレンドらしいんですよ。で、たぶんこの話はそっちにも関わってくると思うんですよね。つまり、かなり高度であり尖端的でもあると。
 とても大事な話なんで、できるだけ精密にやりたい……のは山々なんだけど、正直、いまは手に余りますね……中国のこと、軍事のことと併せて、しばらく宙づりに……将棋では「指し掛け」っていうんですけど、指し掛けでお願いしたいところです。


 ただ、これは「信仰」とも「唯識論」とも「哲学」とも「科学」とも別に、ぼく個人の意見として述べるんですが、「私」というのは、ほかの森羅万象と同じく「現象」であると考えています。
 「台風」を思い浮かべて頂くとわかりやすい。あれは年に数回来襲して甚大な被害をもたらすもので、そういう意味では紛れもなく実在しており、だからこそ識別のための固有名さえ与えられますが、「台風」という何物かがそこに「在る」わけではない。ありようは、気圧の差によって空気が激しく対流し、そこに力が生まれてるだけなんですね。
 いっぽう、目の前の「パソコン」や「机」や「壁」なんてものは、そんな「空気の動き」に比べればいかにも「実体」に視えますけども、これもまた、仮初めにそういう姿を取っているだけで、いずれ寿命が尽きれば雲散霧消するわけです。
 しかし、だからといってそれらのものがこの宇宙から消え去ってしまったわけではない。ご存じのとおり、「原子」に還元されただけなので。厳密には、「消滅した。」のではなく「変容した。」とでもいうべきでしょう(量子うんぬんの話はややっこしくなるんで置いときます)。
 「私」についてもまったく同じだと思っています。ただ難しいのは、これが「こころ」をもっていること。
 「身体」のほうは、たかだか酸素と炭素と水素と窒素とカルシウムとリンと、あと何がしかの微量元素の寄せ集めなんで、これが「分解する。」というイメージは描きやすい。だけど、「こころ」ってものはそう簡単には片付かない。そう簡単には片付かないように、人類はおそらく発祥以来この方ずっと思考の型を積み上げてきたわけですね。
 がりがりの唯物論者なら、「こころ」なんてのは所詮は「志向性」が高度に複雑化したもので、つまりは原生動物がエサのほうへにじり寄っていくのと変わりがない……その延長線上にあるだけだ……というところでしょうが、ぼくはさすがにそこまでは割り切れない。なにかしら違いがあるはずだ……と考えてます。というのは、人類ってのは「自然」に働きかけて、ごく短期間で回復不能なくらいの変貌をもたらす力をもっているので。そこは他の生物と大きく異なるんじゃないかと思ってるわけです。
 「身体」が消滅ならぬ分解という変容を遂げて、元素となって散らばると共に、「こころ」もまた霧散するでしょう。なにしろ、からだとこころとは不可分なので。そのあとはもう「この私」というアイデンティティーは保ちえないとぼくは考えます。ここはakiさんとは相容れぬところでしょうね。とはいえ、それで「こころ」というものがこの宇宙から消滅してしまうのかといえば、それはそうではない。もはや「この私」ではないけれど、何らかの形っていうか、まあエネルギーとしては留まるのではないか、それでまた、時が満ちれば離合集散ののちまた別の「こころ」となって生を受けるのではないか。あたかも、また洋上のどこかで台風が発生するように。
 そのようなイメージをもっているわけです。






 80年代以降の吉本隆明の身の処し方は、たんに吉本さんひとりのことではなく、戦後日本のテーマでもあるし、さらにいうなら近代日本のテーマでもあるし、思いきって言うなら日本思想史のテーマですらあります。
 吉本さんは敗戦のあと自分なりの姿勢でマルクスとずっと向き合ってきて、その立場から戦後の日本に批判的なスタンスを取ってきました。確たる一神教の伝統をもたない日本の少なからぬ数の知識人たちにとって(浄土真宗はわりあいに一神教的なところがあるとぼくは感じますが)、マルクス主義は、大正~戦後の一時期においてほぼ「唯一神」に近い信奉の対象であったわけです。
 さすがに今はごく少数派になっているでしょうが、80年代にはまだ、「ニホンの豊かさは自国の貧困層や海外の発展途上国の労働者からの収奪によるものだ。こんなものに浮かれるなどとは言語道断なり。」というようなことをいう左翼のひともいたわけです。そんななかで吉本さんは、前に書いた通り目いっぱい「バブル」を享受し、「うむ。これでいいのだ。」といわんばかりに謳歌しました。
 いうならば、それまでの信念を打ち捨てて、「自然(じねん)」に身を任せたわけですね。そのような際に拠り所にしたのが親鸞であったと。ここはぼくとしてもどこまで言葉にしてよいか迷うんですけども、それはつまり親鸞さんに甘えたんじゃないかと思うんですよ。それで、これは吉本さんだけのことじゃなく、ぼくみたいな凡夫にとってみても、親鸞さんの教えはそんな「甘え」を許すように聞こえます。そういうことでいいのかなあ、とつねづね疑問に思ってたからお訊きしたんですよね……。
 akiさんのおっしゃるような、「他力信心に引っぱられて常に懴悔と歓喜が起こ」るような境地に至らない立場としては、どうしても、甘えた感じになります。とりあえずは、そういうことでもいいんでしょうか。




この記事の続き。
20.11.05 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事02「かなり真面目に仏教の話。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/bd0ac5122e0378512cb9aa4380c4c4a3?fm=entry_awc


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