ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

Burial その02

2020-10-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽




 BurialのつくるサウンドはEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)ってジャンルに属するんだけど、これがフロアで掛かったとして、みんなが夢中になって踊れるとも思えない。チルアウト・タイム専用ってことか? しかしそれよりもやっぱり、ひとり深夜に自室で聴く(それもヘッドホンで)のがふさわしいだろう。ひとことで言えば内省的。いや思索的とすらいっていい。
 EDMのコンピレーションならyoutubeでいっぱい聴ける。聴けばもちろん楽しいのだが、じぶんがそれを好きかっていうとちょっと違う。概していえばケーハクだったり、攻撃的だったりする(あくまでも個人の感想です)。だからジャンル分けってのは必ずしも当てにはならない。つまらない純文学もあれば、人間の深奥を問い直すような凄いSFもある。そういうことだ(ここハルキ調)。
 まだyoutubeがこんなに充実してなくて、ヒットチャート外の洋楽はCDで聴くしかなかったころ、どうも自分の好みはトリップホップと呼ばれる系統らしい……と目星をつけて、少しずつ買い揃えていったんだけど、「これ、絵になぞらえたら抽象表現主義だよな。」と感じていた。
 抽象表現主義絵画(アブストラクト・エクスプレッショニズム)ってのも、興味ない人には「どれも一緒じゃん。」と映るかも知れないが、むしろ具象より如実に描き手の個性があらわになるんじゃないかと思う。まるでロールシャッハ・テストみたいに。
 その伝でいけば、ぼくのばあい、大竹伸朗がだんぜん好きで、こちらもやっぱり「大竹伸朗は広義の抽象表現主義にカテゴライズされるが、ぼくはべつだん抽象表現主義が好きってわけでもなくて、ただ大竹伸朗(のつくる作品)が好きなのだ。」って話になる。Burialの件と同じだ。
 例として、ジャクソン・ポロックの有名な絵と、大竹伸朗の絵とを掲載させていただこう。ぼくの言ってることが文字どおり一目瞭然だと思う。わざとそういう作品を選んだってところもあるが、大竹さんのほうがずっと静謐である。




ジャクソン・ポロック



大竹伸朗



大竹伸朗


 「絵画」が「現実の模写」から離れてタブロー(表象)として「自立」していくプロセスについては以前に当ブログでも軽くふれたが、抽象表現主義の絵画をそういった「現代絵画」の代表とみるならば、「音楽」のジャンルでこれに類比されるのは「無調性」だろう。
 Googleで「無調性」と検索をかけて3番目にきた「現代美術用語辞典ver.2.0 – Artscape」から引用させていただく。





無調(Atonality)

調性および機能和声に依拠しない音組織と、その作曲様式全般を指す。音楽史上では12音技法やトータル・セリエリズムの前段階として位置づけられている。リスト、ヴァーグナー、ドビュッシーなどによって、19世紀後半から調性という一種の規範がゆらぎ始めた。こうした流れを決定付けたのはシェーンベルクである。しかし、彼が意味するところの無調は単に調性を回避するための機械的な操作ではなく、不協和音をより自由に用いるための方策だった。つまり、彼はあらゆる音や和音を合目的性から解放したのである。これが調性および機能和声からの逸脱となり、結果として無調の音楽が生まれることになった。その最初期の楽曲が《弦楽四重奏曲第2番 嬰ヘ短調 Op.10》(1907-8)だ。シェーンベルクと親交のあったカンディンスキーは、ほぼ同時期に無調の革新性を自身の透視遠近法の放棄と重ね、抽象画へと進んだ。この両者の転換の歴史的符合は、当時の思潮を知るうえで非常に興味深い例である。シェーンベルクら新ウィーン楽派による「調性の超克」とでもいうべき動機とはまったく異なる次元の音楽も、無調の域に入れてもいいだろう。西洋音楽とは異なった日本音楽独自の音階を使った音楽(eminus注。ここではとうぜん武満徹などが想定されているだろう)や、電子音楽も広義の無調音楽である。のちに無調は12音技法、そしてトータル・セリエリズムへと到達し、第二次世界大戦後のアカデミックな音楽の主流となった。今日の現代音楽における創作の現場では、もはや無調が当然のこととされ、調性の有無が議論されることはほとんどない。だが、ある種のミニマル・ミュージックや新ロマン主義のように、調性を感じさせる音楽が今なお生きていることも確かだ。
著者: 高橋智子




 ここでカンディンスキーの名が挙げられているのは、ぼくの言ってることを裏打ちしてくれるだろう。
 さて、ロックってものは基本的にドミソの音楽なんで、主旋律だけならリコーダーっていうか、小学生の縦笛でも吹ける。そこにギター・リフやベースやドラムが絡んでようやく「商品」になる。
 電気を通さないロックをわざわざ「アンプラグド」と称するように、ロックってものはエレクトリカルが原則で、それはどういうことかっていうと、「音が歪む」のが発祥以来の前提となってるってことだ。そうすることで従来の和声を無効化・もしくは破壊する。
 「前衛がどうの」なんて難しいことは考えず、「カッコよさ」を追い求めるうちに、クラシックとは別のルートをたどって「現代音楽」に達したわけだ。上に引かせて頂いた一文は、「電子音楽も広義の無調音楽である。」と、ちゃんとそこを抑えている。そして現在ではさらに、パソコンの進化に伴い、「音を加工する」のが常識となった。
 加工されたサウンドはリアリズムを超えてより深い表現になりうる。これは10.08.の記事「アニメとリアリズム(雑談的試論)」にも繋がる話だ。
 マーク・フィッシャーの論旨をぼくなりに咀嚼するならば、つまり彼は、「Burialの音は、優れた文学や映画がそうであるように、今の社会の憂鬱や病理や暴力などといったものを卓抜な皮膚感覚で捉えて鮮やかに表現している。」という意味のことを言っているはずだ。音楽は、たんに聴き流したり、踊って楽しんだりするだけじゃなく、ひとつの自立した表現になりうる。







Burial

2020-10-26 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽




 Burialの名はマーク・フィッシャーのブログで知った。
 ウィキペディア(日本版)には、「ブリアル(ベリアル Burial /ˈbɛɹɪəl/)は、イギリスのロンドン出身のミュージシャン、ウィリアム・ビヴァン (William Bevan) のソロプロジェクト。」とある。
 このプロジェクト名、日本語にすれば「埋葬」だ。おいおい……という感じだが、しかし今年(2020)の62回グラミー賞を席巻したビリー・アイリッシュのブレイク曲が“bury a friend”なんだから、今やこれくらいべつにアングラってほどでもないか。
 2006に出たファーストアルバム『Burial』について、「これこそまさに僕が何年も夢見ていたアルバムだ。」とマーク・フィッシャーは書いている。ぼくがその文章を読んだのはごく最近のことで(そもそもマーク・フィッシャーのことを知ったのがごく最近なのだ)、すぐにyoutubeで聴いてみて、彼からほぼ14年遅れで、ぼくも同じ感想をもった。
 2000あたりだったか、輸入CDをよく買っていた時期があり、そのころ好きだったのがトリッキー、マッシヴ・アタックなどのいわゆるブリストル・サウンド(トリップ・ホップとも称される。厳密にいえば微妙に違うんだけどね)で、ことにポーティスヘッドの2ndはよく聴いた。ひどく荒っぽくいうと、ホラー映画のサウンドトラックを知的に再構成したような音だ。1stのアルバム・ジャケットなんていかにもそんなイメージである。(ただしぼくはホラー映画じたいは大嫌い……というかコワくてぜったい観られないのだが)。
 ほかにナイン・インチ・ネイルズも好きだった。「ダウンワード・パラダイス」はじつは「ダウンワード・スパイラル」のもじりなのだ。しかし今このアルバムを聴き返すと、まるで歌謡曲みたいに聴こえちまうからえらいもんだ。音楽業界も進んだし、ぼくの耳も多少なりとも進んでるらしい。
 ドラムン・ベースも作業用BGMとしてよく聴いた。とはいえ、「このアーティストの音さえあればほかは要らない。」とまで思ったことはない。どれも少しずつ物足りなかった。
 Burialはほぼパーフェクトに近い。Burialのもつ暗鬱と官能、脱力感と疾走感との絶妙の兼ね合い、ブルージーとノイジー、メタリックなビート、どれもが「僕が何年も夢見ていた」ものだ。


 マーク・フィッシャーは、「これこそまさに僕が何年も夢見ていたアルバムだ。」のあとをこう続ける。試訳してみよう。


「(……前略……)Burialは音の偶発的な物質性を抑圧するのではなく、むしろ前景化して、クラックル(eminus注。パチパチいうノイズ音)からオーディオ・スペクトルを創り出している。かつてトリッキーやポール(eminus注。ベルリンを拠点に活動するダブ・テクノの大御所Stefan Betkeのソロプロジェクト名)のcracklology(eminus注。造語。パチパチ音の美学。みたいな意味)は、ダブの唯物論的な魔術をさらに発展させて、録音の継ぎ目を裏返しにして聴かせ、それがぼくたちを歓喜させた。ペンマン(eminus注。イアン・ペンマン。癖の強い文体で知られるイギリスの音楽批評家)が「録音の抑圧や歪みではなく、ノイズ音自体が、われわれが感知できぬなりに存在している何かの正しい表現であるかのように」と評してるとおりに。しかしBurialのサウンドは、トリッキーのブリストルの水耕栽培のような熱気や、ポールのベルリンのじめじめした洞窟じゃない。プレスリリースは、「近未来の水没した南ロンドンの街を連想させる。」と言っている。「パチパチというクラック音は、燃えている海賊ラジオからの音なのか、あるいは窓の外の水没した街の土砂降りの音だろうか。」と。


 引用をもうすこし続けよう。


「近未来か……なるほど。だけど、この不毛な春に湿った霧雨の降る南ロンドンの通りを歩きながらBurilを聴いてると、この音こそがまさしくロンドンの今なんだって気づく。過去だけでなく失われた未来に取り憑かれた街を暗示しているのだ。つまり、近未来じゃなく、手の届かない未来の痛みの疼きに悩まされている街を暗示してるんだ。」







 ちなみにこの「失われた未来」というフレーズは、マーク・フィッシャーの日本における紹介者の一人でもある木澤佐登志さんが気に入っていて、連載エッセイのタイトルにも採用している。




 マーク・フィッシャーの文章はこのあとも続いて、だんだんと凄いっていうか、深いところに入っていくんだけど、どうもgooブログにはそぐわないので、フィッシャーについてはまた気が向いたらnoteにでも書くことにして、次回はもう少しBurialの話をやりましょう。