ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

バナナフィッシュと、まどマギ。そして仏教のこと。(20.10.19 加筆)

2020-10-16 | 哲学/思想/社会学

 10月2日の記事「「謎解き・バナナフィッシュにうってつけの日」完結しました。」にakiさんから頂いたコメントへのご返事。


 akiさんから仏教の話をじっくりお伺いしたいなあとは以前から思ってるんですけどね。せっかくnoteにアカウントを作られたことだし、とりあえず雑談というか、エッセイ風の感じでもいいんで、よければひとつお願いします(笑)。
 前にもご返事のなかで述べましたが、サリンジャーは東洋思想にも浅からぬ関心をもってたんですよ。当時のカウンター・カルチャーの潮流の一環で、「造詣が深かった」といえるほどのレベルじゃなかったですけども。
 しかし、かつて河合隼雄氏と並んでユング思想を日本に紹介した秋山さと子さんが(秋山さんは実家がお寺です)、サリンジャーにずっと興味をもっていて、「サリンジャー・禅・ユング」という三題噺のようなエッセイを書いておられます。表層的な知識の多寡はともかく、サリンジャー文学と仏教とは、深層において相通じるところがあったのではないでしょうか。




 仏教には、ふつうに今ぼくたちが使う意味での「愛」の概念ってないでしょう。むしろ「愛」という語は否定的なニュアンスを帯びる。「仏の愛」とはいいませんもんね。そこは「慈悲」というところでしょう。
 ともあれ、仰るとおり「そもそもの定義は」ってところからして、「愛」を考えるのは難しい。ぼくがこれまで読んだなかでは、エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)の、




「愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。」




 というのがいちばん得心いったんですが、理念としては明瞭でも、いざ、じっさいの生活で実践するとなるとね……。
 これを暁美さんと鹿目さんのケースに当てはめてみると、暁美さんのほうは、少なくとも彼女の主観においては、鹿目さんの「生命と成長を積極的に気にかけ」ていたはず。だからこそ映画版「叛逆」のラストにおいてあのような挙に出たわけですが、それが「正しい」行いであったのかどうかは誰にもわからない。むしろ「正しさ」の基準そのものが問われているような感さえあります。
 そこは暁美さん本人もそうとう悩んでるんですよ。悩んでる様子もちゃんと描きこまれてます。そのうえで、覚悟を定めて、「これがまどかにとっての幸せだ。と私が信じる世界にまどかを連れていく」と決断を下したんですね。




 ぼくはほぼ1年まえ、19.10.04にアップした記事の中で、「映画『叛逆の物語』に「信仰」の濫觴を視た。」という意味のことを書いたんですが、
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/223df2005c394e08ba482f8206525d71
それこそがつまり、今回akiさんの仰った「常人離れした一途さ」ですね。あるいは、そう、「思い込み」。だからほむらの「愛」は、仏教でいうほうの「愛」に近いんでしょう。
 あえて名付ければ「執着」とか、さらには「妄執」にすらなってしまうのかもしれないけれど、この情熱こそが、じつは「信仰」の根源じゃないか。ただもう激烈に「対象」を求め、あげくはそれを聖化して崇めるまでに高まった感情。もとより教義も、聖典も、先導者もない。何ひとつ頼れるものはない。そういったものとは関わりなく、自分の欲動の赴くままに、全身全霊を挙げてその対象に没入する。そうすることで己を支える。そうすることでしか、己を保持することができない。
 それくらい切羽詰まった思いのたけ。それが信仰のはじまりではないか。むろん、それは傍から見れば幻想でしかないんですけど、本人はそんなの知ったこっちゃないわけです。













 まあ、まどかのばあいは、お話のなかでほんとに「神」になっちゃってるわけですけども(笑)。








 しかし「救い」ということでいうならば、ほむら自身はぜんぜん「救われたい」なんて思ってないですね。むしろ自分から救いを拒んでますから(笑)。
 ほんらい「信仰」とは救いを求めるものではないと思います。というか、そもそも一切見返りを求めるものではない。信じなければ自分を支えられないから信じる。崇めなければ自分を保てないから、崇める。
 そういう点でも、ほむらのまどかに対する感情は、もっとも素朴な……言い換えればもっとも純粋な……「信仰」じゃないかと感じます。






 テレビ放映された全12話を踏まえたうえでの『叛逆の物語』の物語構造は、こじつけでもなんでもなしに、「バナナフィッシュにうってつけの日」によく似てます。「啓示」を受けて「再生」を果たし、めでたしめでたしかと思いきや、一転して「負」の方向に転げ落ちる……。アイロニーですね。それはすなわち、サリンジャーも虚淵玄も「現代のクリエーター」だということでしょう。軽々しく「救い」を描くことはできないわけです。








 それにしても、「もしいずれあなたと戦うことになっても、私はあなたの幸せ(と私が信じるところのもの)を守り抜く。」という信念については、これはもう「倒錯」としか言いようがなくて……依存しながら自立しているというか……極めて屈折・錯綜しています。これはもう人間が絶対者に対して取りうる態度ではないので、「叛逆」を成し遂げた後のほむらが「悪魔」と名乗るのも必然ってことになるのでしょうね。




☆☆☆☆☆☆☆


2020/10/16
akiさんからのコメント。
「信仰とは」



 こんにちは。返信興味深く拝読させていただきました。その結果、一つ得心できたことがあります。
「信仰」という言葉の定義が、私とeminusさんでかなり食い違っている、ということです。おそらくここは『バナナフィッシュ~』の理解においても存在した食い違いだと思いますが、ようやく言語化できそうです。




> ほんらい「信仰」とは救いを求めるものではないと思います。というか、そもそも一切見返りを求めるものではない。信じなければ自分を支えられないから信じる。崇めなければ自分を保てないから、崇める。
 そういう点でも、ほむらのまどかに対する感情は、もっとも素朴な……言い換えればもっとも純粋な……「信仰」じゃないかと感じます。


 eminusさんはこのように仰っていますね。私の乏しい知識ですが、これは原始キリスト教で殉教者と言われる人々に共通した信念であるように思います。そのそもキリスト教では「神に救いを求める」ということが(本来は)ない。なぜなら、天地創造の神は全知全能であり、世界の運行はすべて神の意思によるものであって例外はなく、今現に自分が受けている運命もまた神の意思によって与えられたものであって、そこから救い出してくれ、と神にせがむことは神の意思に反することになるからです。
 ただしこの論法だと、「救ってくれ」と今現に自分が神にせがむ思いを持つこともまた「神の意思」ということになり、さらには自分がどんな悪行を行おうともすべて「神の意思」ということになって、「いやいやこんな思いを持つことは良くない」と考えること自体が神への反逆であるということになってしまいます。要するに、「全知全能の神」を定義することは、そのまま「宗教的信念を持とうと努力することの否定」と同義です。
 この矛盾を解決するには、eminusさんのおっしゃるように「一切の見返りを求めず、ただ神を崇拝する」態度を採るしかありません。eminusさんがこのキリスト教的な「信仰」をどの程度意識なさっているかは分かりませんが、私の眼にはほとんど重なっているように見えます。違ったらすみません。




 ここまで読まれれば次に私が何を言うかは大体ご想像がつくと思いますが、私が思う「信仰」は、上記のものとははっきりと違います。




 信仰とは、「救い」を求めるところから生じるものです。それ以外のものは、「崇拝」「愛」とは呼べても、「信仰」とは呼べるものではありません。というか、「救いを求める」ことを否定する時点で、宗教としては欺瞞以外の何物でもないと思います。
 救いの中身がなんであるかは、教えによって違うでしょう。ぶっちゃけ「もうかりまっせ」という極めて俗物的なものから、eminusさんが「崇めなければ自分を保てないから、崇める」と今回おっしゃった「自己の確立、あるいはそれによってもたらされる安心・安らぎ」というものまで、神によって様々です。まあさすがに、俗物的な信仰についてはここでは無視でいいでしょう。「信仰による安らぎ」というものがどこから来るのか、ということについて論じてみますと・・・。


 eminusさんのお考えを拝見する限り、「それは自分の中から来る」とお考えのようです。(いやこれは多分、ほぼすべての宗教でもそうでしょうね)
 それだけでなく、「安心に至る方法論もまた、自分の中にある」とお考えのようです。そのことは、


>もとより教義も、聖典も、先導者もない。何ひとつ頼れるものはない。そういったものとは関わりなく、自分の欲動の赴くままに、全身全霊を挙げてその対象に没入する。


 というお言葉からも読み取れます。
 そういう「信仰」なら、宗教は必要ありませんね。ただひたすら自分の心を見つめ、思いを純化していくことで到達できることになります。


 ただしそれだと、当たり前ですが「人間にわかる範囲のことしかわからない」ことになりますね。そして当然、人間にとって最も身近で、かつ最も不可解である「死」については、「そう思い込む」以外の解決策は存在しないことになります。
 そもそも、人には「自分が死んだらどうなるかわからない」のです。死後、自分の意識が何らかの形で残るのか、完全に消滅するのかさえわからない。これは人類が「死」を意識した瞬間から、現代に至るまで一切変わりませんし、恐らくどれほど科学が発達しても変わらないでしょう。100%確実な自身の未来でありながら、その答えが存在しない、というより、存在し得ない。それが人知の限界です。


 ならば、宗教とは、その「死」の問題に100%の答えを与えるものでなければなりません。その「答え」とは、私たちが様々なものを考える脳も焼いてなくなることを考えれば、「知識」ではダメです。私たち自身も認識していない、「私自身(魂と言い換えてもいいですが)」に与えられる「真の答え」でなければなりません。


 この「真の答え」こそが、私が思う「信仰」です。
 そしてそれは、人知によっては到達し得ないものである以上、人を超える存在によってもたらされるもの、あるいはその教えに純粋に従うことによって到達できるものです。私にとってそれは「阿弥陀仏」ですが、さて、他の宗教においてはどうでしょうか。
 ご参考までに、「阿弥陀仏」と言えば「南無阿弥陀仏」の六字の称名念仏をすぐに連想されると思いますが、この「南無」は「帰命」とも言い、「絶対帰依」のことであって「相手の教えに完全に従う」ことを意味します。すなわち、私が思う「信仰」は、多分に仏教(中でも浄土仏教)の影響を受けてます。(というレベルでは、全然「南無」になってないんですけど)




 今回は「信仰」という一点について書かせていただきました。まどマギについては論じられてませんが、それはまた次の機会にでも。(と言って論じられた試しがないんですがw)





☆☆☆☆☆☆☆

20.10.17
 ぼくからのご返事。
「仏教はむずかしい。」




 盛り上がってきましたね(笑)。
 話がいまひとつ噛み合わぬように思えるばあい、議論の核となるキーワード(キーコンセプト)について、お互いが微妙に違う意味内容を想定していることが多いんですが、そうはいってもとりあえず話を始めてみないと、その「微妙な違い」も浮き彫りになってこないわけで、やはり対話ってものは大切であります。
 このたび「信仰」というキーワード(キーコンセプト)をめぐって差異が生じてるわけですが、akiさんは、「信仰とは、救いを求めるところから生じるもの」とお考えであり、ぼくのほうは、「救われるか否かとは関わりなく、ただただ唯一無二の絶対者(だと自分が見なしているもの)を崇拝すること」だと考えているわけです。
 こうなってきますと、議論をより実りあるものとするためには、さらに「救い(救済)」というキーワード(キーコンセプト)をも微分しておいたほうがよさそうです。
 今回いただいた文章をぼくなりに咀嚼してみると、akiさんの仰る救いとは「すべての人間にとって最大の課題でありながら、どうしても不可知である死(死後)というものを保証して、今を生きる自分に安心立命をもたらすこと」というように読めました。もし誤解なり、不十分なところがあったらまた訂正なり補正をお願いします。
 それでぱっと思い浮かんだのが、日本中世のいわゆる念仏僧で……この方々は浄土宗系とはいってもまた独特な一派だとは思うんですが……「疾く死なばや。」なんて言っていますね。大阪弁でいえば「早よ死にたい。」ですけども、つまりまあ、戦乱やら飢饉やら疫病やら災害やら、われわれ現代人の感覚からすれば理不尽きわまる難儀に日々絶え間なく晒されて、そのような境地になってしまっている。
 念仏僧たちの言行は『一言芳談抄』(岩波文庫)などで読めます。この書はよく吉田兼好の『徒然草』と比較されるのですが、むろん徒然草よりずっと悲観的であり過激です。吉本隆明という文芸批評家……まあ思想家と呼ばれたりもしますが……この方が生前、講演のなかでこんなことを喋ってます。


「ところが、『一言芳談抄』の中心的思想における死の観念というのは、とてもとてもそういうもの(吉田兼好のようなもの)ではないわけです。そうじゃなくて、早く死んでしまえと言っているわけです。生きているのは全部ダメだと、前世というのは徹底的にダメなんだ。だから、死んでしまえと言っているわけです。それから、生きているうちに解脱するなら、生というのを厭わなくちゃ、つまり、嫌がらなくちゃいけないというふうに言っているわけです。疾く死なばやとか、急ぎ死なばやということ、急ぎ死ななくちゃというのが、だいたい『一言芳談抄』の中心的な、あるいは、根源的な思想であるわけです。
 この『一言芳談抄』の思想というのは、当時における無常観、仏教における無常観と、現実のわりなさといいましょうか、つまり、戦乱と疫病と生活苦ということで、とにかくやりきれないよということで、そういう一般的な風潮というものをひとつ結集したところに『一言芳談抄』の非常にラジカルな思想が成り立っているので、たいへんラジカルなもので、生きていることは無駄、徹底的にダメっていう思想なわけです。」






 しかし、まあ、これをほんとに思想と呼んでいいのかよくわからないんですが、そういう考えってものは、ふつうは不健康というか、たぶん「病的」と評してもいいと思うんですけど、だけど吉本さんは(ちなみに、ばななの親父さんですが)、逆説的というべきか、そこに精神世界の豊かな可能性を見い出して、高く評価するんですね。こんなことも述べてます。






「(念仏僧たちは)いかにして死に近づこうとして身もだえしながら、血縁にたいする親和を捨て、きずなを捨てるところからはじまって、あらゆる所有をぬぎすてながら、最後には現世の衣食住を離れて、山野に隠れていった。」
「(そのことは)人間のこころが欲求する願望は、金銭、名誉、地位など、生の世界にとどまるだけでなく、境界を超えて死の世界まで拡がりうることを示している。」






 つまり、「疾く死なばや。」なんて発言は、ふつうに聞いたら「ああ、絶望してるんだな。」と単純に見なしてしまいがちだけど、そういうことではないんだと。今のぼくたちが安易につかう意味での「ゼツボー」とは違って、じつはもっと豊かなものであるのだと、そういうふうに吉本さんは言ってるんだと思います。
 その豊かさを裏打ちするのが、すなわち「信仰」ですよね。阿弥陀仏への信仰があればこそ、「疾く死なばや。」が、たんなる終焉ではなしに、「境界を超えて死の世界まで拡が」る豊かさをもつ。そこが無信仰の者とは決定的にちがう。
 ただ、そのような「人間のこころが欲求する願望」を指して「救い」とまで呼べるかどうかは難しいところですが、しかし、人間が絶望の谷底に堕するのを押し留めるものなのだから、やはり「救い」の一種には相違ありますまい。
 このように考えていくと、「死」を織り込んでいるか否かは、たしかに「救い」について考えるうえで大きいですね。




 ただ、いつも思うんですが、例えばこのばあい、同じように「阿弥陀仏」とお呼びしても、鎌倉時代の念仏僧たちの観念している阿弥陀仏と、今日のわれわれが観念している阿弥陀仏とはやはり違っているでしょう。さらに言うなら、akiさんの観念してらっしゃる阿弥陀仏と、ぼくなんかの観念している「仏」というものもまた違っていると思うんですよ。
 ぼくなんかが把握している範囲では、「仏教」というのはあくまで「空(くう)」の思想なわけです。むろん「空」は「虚無」とは違うので、仏教はニヒリズムとは無縁であって、ぼくの感覚ではむしろ「五感では捉えられずとも至る所に充溢している」イメージですが、いずれにしても、なにかしら実体を伴った存在が中枢に在(いま)す情態ではない。だから、「帰依」という境地にはなかなか至らないわけです。
 もとより、「実体を伴った存在が中枢にいる。」ということではなく、もっと広大無辺で崇高な宇宙意思のようなもの……というか現象……を指して「仏」と仮初めにお呼びしているのかもしれないんですけど、正直なところよくわかりません。


 順序が逆になりましたが、コメントの前半で言っておられた、キリスト教における「神」への態度の件は「自由意志」の問題ですね。森羅万象すべてが神の意志ならば、信徒ひとりひとりの意志はどうなるのか。という問題です。
 これは4世紀半ばから5世紀前半にかけて活躍した神学者アウグスティヌスが初めて本格的に取り扱ったテーマですね。そのご大小さまざまの教父やら学者たちによってさんざんに論じられ、中世神学の根幹をなすと共に、のちにイスラーム圏経由で逆輸入されたギリシア哲学と融合して、「西洋哲学」を涵養する土壌ともなりました。
 厳密にいえば、現代においてもまだ決定的な解決をみたわけでなく、いわば人間が世界を認識して再構成する存在であるかぎり、ほぼ永久に付いて回る問題じゃないかと個人的には思ってますが。
 ともあれ、このように、キリスト教神学は西洋的な「理性」の発達にともなって「哲学」に収斂されていったので(完全に吸収されたわけではなく、神学は神学で独自に変容を遂げていきましたが)、別の文化圏に属するぼくなんかでも脈絡を辿りやすいんですよ。いっぽう、仏教は、いっけん身近なようでいて、じつはけっこう捉えづらいです。そもそもインド仏教と中国仏教と日本の仏教とでもかなり異なってますし。
 いわゆる3大宗教のうちで、いちばん理解が届きやすいのはイスラームですね。もっとも後発であるぶん明快です。当然ながらこれもまた、神秘主義的ないし哲学的に深入りすれば際限ないですが。
 ともあれ、仏教については理屈のうえでしかわからないので、よろしければさらにご教示いただきたく思います。


☆☆☆☆☆☆☆

20.10.17
akiさんからのコメント
「浄土真宗と他力の信心 」


 こんばんは。お返事です。


>「すべての人間にとって最大の課題でありながら、どうしても不可知である死(死後)というものを保証して、今を生きる自分に安心立命をもたらすこと」


 前回のコメントで私が申し上げた内容はその通りで結構です。ただ、「なるべく多くの宗教に共通する書き方」を心がけたために、私自身が信奉する教義とはかけ離れた内容になってしまったことを、ここでお詫びせねばなりません。
 eminusさんがご自分の信念をお話しくださっているのに、こちらが「他宗教に忖度」して、信念を包み隠すのはフェアではないと思いましたので。


 表題の通り、浄土仏教にも様々な宗派があるものの、私が信奉するのは親鸞聖人の浄土真宗です。そして、その教義の中にある信仰は「他力の信心」と言い、「一切の自力の計らいを捨て、他力(阿弥陀仏の力)に全てをうち任せた信心」のことを言います。
 そこで、上記のお言葉を親鸞聖人の教えに従った形に改変してみると、


「すべての人間にとって最大の課題でありながら、どうしても不可知である死後の問題が弥陀のお力によってハッキリと解決され、今を生きる自分に安心立命がもたらされたこと」


 それが他力の信心である、となりますかね。
 「死」は解決できません(生物である以上死を逃れることはできませんし、死ぬことを恐れる気持ちは煩悩ですから、それもなくなることはありません)が、「死後」(死んだらどうなるか)を解決することはできます。そして、弥陀の力によって死後の問題(仏教では「後生の一大事」と呼びますが)を解決されれば、生きとし生けるものにとっての根本問題がはっきりと解決されますから、その後の生は「生きてよし、死んでよし」の幸せに生まれ変わるわけです。


 親鸞聖人が「いま、弥陀に救われた喜び」を述べられた文言は多くありますが、最も端的に述べられたのは、『歎異抄』にある


「念仏者は無碍(むげ)の一道なり」
(弥陀に救われ、喜びの念仏を唱えている者は、何物も碍り(さわり)とならない絶対の幸せの身になるのだ)


 でしょうか。
 このように書くと、「なるほど、そのように考える信仰なのだな」と思われるだろうと思います。現代人にとって、神や仏の存在は「人間の妄想」が生み出したものであって、「それが実在する」と言われても信じられないでしょうし、それを力説する人を見れば「おかしな新興宗教のたわごと」としか思えないでしょう。
 ですが、他力の信心を得た人(念仏者)にとって、阿弥陀仏は実在します。実在する弥陀によらねば、死後の解決は絶対にできません。


 前回、「南無阿弥陀仏」の「南無」は「帰命」であり、「絶対帰依」のことである、と申しましたが、これはすべての仏教に通用する言い方です。
 親鸞聖人はこの「南無」について、


「南無の言は帰命なり。(中略)帰命は本願招喚の勅命なり」


 と言い、意味を逆転しています。
 ここにある「本願」とは、阿弥陀仏の「一切衆生を救う」という誓いのこと。すなわち、
「南無=帰命とは、阿弥陀仏の『我にまかせよ。必ず救う』というご命令である」
 と親鸞聖人は解釈しているわけです。


 弥陀を信じる心も、任せる心も、すべて「自力の計らい」です。それが廃らなければ、絶対他力になることはできない。逆に言えば、他力になった人には一切の自力はありません。だから唱える「南無阿弥陀仏」も、「阿弥陀仏、お助けください」ではなく、「よくぞ助けてくださいました。阿弥陀仏、ありがとうございます」というお礼の念仏になるわけです。




 ほんの一部ですが、これが親鸞聖人の教えた信仰であり、救いです。私はその教えを信奉している、ということですね。
 今回は誤解を恐れず書かせていただきました。でも多分、様々に疑問が出てくる内容だとは思いますので、私の能力と労力が及ぶ限りは答えさせていただこうと思います。よろしくお願いします。<(_ _)>



この記事の続き。
20.10.22 akiさんとの対話。ひきつづき、仏教のこと。
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/98c9953412bb5f280e78c72edda94627








コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。