ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「令和」考。

2019-04-03 | 歴史・文化
 元号というのは時の帝(みかど)が「時間を司る」力をもっていることの証として名づけるもんですよね。しかも、いずれは諡(おくりな)になることが習わしになってもいる。だとすれば、たかだか宰相が自らの名の一文字をそこに冠するなんてことはありえない。だから「安久」だの「安永」なんぞと予想を立ててる時点でおかしいわけ。そもそも「安永」はすでに江戸期に使われてるし。
 だから「安」が入らなかったことに対しては安倍さん嫌いの人たちはもちろん、その逆サイドというか、伝統を真に重んじる側の人たちも胸を撫で下ろしてると思うんだけど、ひとつ笑い話があって、「安倍」の「ア」がちゃんと入ってるじゃないかっていうんだよね。たしかに「令」の字の下の部分はカタカナの「ア」だ。まあ、「マ」と書いてもいいらしいけど。
 これはたんなる笑い話だけど、冗談にせよこういう話が出てくるのは、「文字」というものにそれだけ念が籠ってるからだとは思う。「言霊」とはまた別の次元でね。「文字」、とくに「漢字」という表意文字の放つオーラっていうか。
 ひらかなは漢字をやわらかく崩したもの、いっぽうカタカナは、漢字の一部(部首)を独立させたもの。ちなみに「あ」はそれこそ「安」の崩し字であり、「ア」は「阿」のへん(左側)からきてます。
 「漢字」ってのは読んで字のごとく「漢(から)の国」の字で、いまの中国から渡ってきた。もちろん文字だけじゃなく、法制から衣服まで、政治や文化にまつわるさまざまなものを輸入して、それを和の風土になじませることで古(いにしえ)の日本は国としての骨格を整えたわけですよね。それは歴史的な事実であり、この国の伝統であって、なんら恥じることはない。古来より元号を漢籍から取ってきたのは、敬意のあらわれだったのでしょう。
 このたびは、初めて和書からの出典とのことで、万葉集の巻五「太宰師大伴卿の宅の宴の梅花の歌三十二首」の序文より「初春令月、気淑風和、初春令月、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」。
 岩波文庫の『万葉集』は、2013(平成25)年に詳細な註を施した5分冊の新版が出たけれど、ぼくの手元にあるのは初版が1927(昭和2)年、改版でさえ1954(昭和29)年という古い版。当該箇所(217ページ)は、仮名まじりの読み下しでこうなってます。
「初春の令(よ)き月、気淑(よ)く風和(なご)み、梅は鏡の前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)の後の香を薫らす。」
 さいきんの註では、「鏡の前の粉」は「鏡前(きょうぜん)の粉」となってるようですね。そのほうが漢文らしくすっきりしていて良い。「粉」は「白粉(おしろい)」でしょう。女性が鏡のまえで美しく装うおしろいのように、梅が真白な花を咲かせ、蘭は身を飾った香のように匂いたっている、という感じかな。珮(はい)は今でいうアクセサリーだけど、そこに「香」が焚き込められてるんでしょうか。
 万葉集はまさしく「万葉仮名」という一種の「当て字」で綴られているわけですが、この「序」はきちんとした漢文なんですよね。このあたりがいかにも当時の「日本」なんだけど。
 しかも、じつはこれにはネタ元があった。
 この「ネタ元」の件は、4月1日の午後6時にはもうウィキペディアの「令和」の項に上がってたんで、具眼の士が早々にネットで指摘されたんでしょうね。
 当時の文化人(貴族)がみんな読んでた『文選(もんぜん)』。漢籍です。中国は南北朝時代、だから5世紀から6世紀ごろだけど、南朝・梁の昭明太子という名君によって編まれた詩と散文のアンソロジー、名文集ですね。現代でも、文学史をきちんとやろうって人間にとっては必須文献なんだけど、なかなか文庫にならなくて、昨年(2018)からやっと岩波文庫で6分冊の刊行がはじまりました。ちょっと因縁を感じます。
 貴族ってのは教養がなくては社交ができない。社交ができなきゃ政治もできない。宮廷社会で生きていけない。だからこの『文選(もんぜん)』は必携も必携、ほとんどバイブルみたいなもんだった。
 この『文選』に、後漢の張衡(ちょうこう 78年~139年)……ウィキによれば、政治家(官僚)で天文学者で数学者で地理学者で発明家で製図家で文学者で詩人という一種ルネサンス的な才人ですが……の『帰田賦』(きでんのふ)なる詩が入ってて、そこに「仲春令月、時和氣淸、原隰鬱茂、百草滋榮」という詩句がみえる。
 「仲春の令月 時は和し気は清む 原隰(げんしつ/げんしゅう)し鬱茂(うつも)し 百草 滋栄す。」
 さすがに生の漢文となると晦渋ですが、後半は、「あまたの草花がうっそうと豊かに生い茂っている」情景でしょう。問題は前半のほうで、見てのとおり、「令月」も「和む」もちゃんと出ている。
 しかしまあ、古い和書なんて漢籍に感化されてるのが当然で、くどいようだけど、そもそも「漢字」が「漢(から)の字」なんだもの。オリジナリティーを出そうとして、かえって大陸文化の影響を示すことになったってとこかな。でもそれは、前にも述べたけど、ぜんぜん恥ずべきことではないんだ。むしろ隠したり、糊塗したりしようとするほうが恥ずかしい。
 さらにはまた、『帰田賦』が執筆された背景までも掘り下げて、もっと深読み・裏読みをする向きもネット上にはおられるようですが、ぼくとしては今回はそこまで話を広げるつもりはないので、興味がおありの方は当たってみてください。キーワードは「安帝」です。
 さて。それはそれとして、「令」って字は「命令」の「令」じゃないかって難癖が出てます。それはたしかにそうなんで、画像検索すると、けっこう上位にこの図がくる。







 「上からの命」で庶民が集められ、膝を屈して「お達し」を頂戴しているイメージでしょうか。「清らか」とか「気品あふれる」といったニュアンスも、主君の命令だからこそなんですね。下々(しもじも)があれこれ邪念を差し挟んではいけないわけだ。そう考えるとなんだか情けないけども、しかし白川静先生の本などを読むと、漢字ってのはたいてい、成り立ちをたどると感じ悪いのが(シャレじゃないよ不可抗力だよ)多いんだよね。陰惨だったり、抑圧的だったりね。それは古代社会ってのが今のわれわれには想像もつかないくらいキビしかったってことじゃないかと思います。それもあって、ぼく個人は、「語源にはあまり拘らなくていいんじゃないかなあ」という気がしてますね。
 ただ、「令」の字のもつ含みはもちろん昔から重々意識されていて、元号に使われるのは今回が初めてなんだけど、かつて一度だけ、候補にあがったことがあるらしい。
 愛知学院大学教授・後藤致人さんの文章から引用させていただきます。

「室町幕府15代将軍の足利義昭は、室町幕府の復興を祈念して「元亀」という元号を天皇に奏請している。しかし、織田信長はこの元号を嫌い、1573年に義昭を畿内から追放し、事実上室町幕府を滅ぼすと、改元を促した。そして、信長の旗印「天下布武」にちなんだのか、「天正」とした。
 幕末の元号にも、メッセージ性の強いものがある。ペリー来航以降、「明治」までの元号は、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応だ。どれが最もメッセージ性の強い元号か、分かるだろうか。「嘉永」は、「嘉(よろこ)ばしく、永遠に」というニュアンスで、「安政」も「安定した政治」と解される。「万延」も「万のように永遠に」など、「平和で安定した政治」という意味合いのものばかりである。
 ところが、「元治」は違う。「元」も「治」も元号ではよく使われる漢字だが、これを組み合わせると、「元(はじま)りの政治」となり、新政府を宣言するメッセージが現れる。この元号は、実は第2候補であった。本当はもっとメッセージ性の強い元号になるはずだったのだ。
 それは「令徳」である。この元号の衝撃度は、かなり大きい。「レ点」を付けて読めば、「徳川に命令する」となり、これからは朝廷が幕府よりも上位の世の中となる、ということを露骨に世間に宣言している。」

 ……というわけで、「明治」のふたつ前(「慶応」はわずか3年だけ)に、「令徳」が朝廷側から候補として出され、徳川幕府によって却下された、という経緯があったんですね。
 ほんとうに「漢字」ってものは「意味」や「歴史」はもちろん「情念」やら何やらまでが籠ってしまうんで厄介だなあ。しかしまあ、上にも言ったとおりぼく個人は、あくまでも自分の語感に即してだけど、「令和」はそんなに悪くない気がしてます。
 たぶん「令」がどうこう言われるもんで政府筋がリークしたんだと思うけど、ほかの候補が「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか)」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」の5案だっていうじゃないですか。どれも古臭い。それこそ江戸か、もしくは室町、下手すりゃ奈良時代かよってもんまである。「令」はそのてんモダンですよね。ちょっと冷ややかだけども。





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