ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。⑦ 「近代ニッポン」の象徴としての菜穂子。

2019-04-29 | ジブリ



 口語調のくだけた書き方に飽きてきたので、ふつうの文体に戻すことにする。元号を跨ぐのもアレなんで、できれば今回でひとまず決着をつけたい。
 質問サイトを見ていたら、「なぜ本庄はいつもあんなにキレ気味なんですか?」みたいなQがあって笑ってしまった。二郎の親友・本庄(CV・西島秀俊)にも実在のモデルがいる。本庄季郎(きろう)という人だ。ただ、たしかに二郎の同僚ではあったがそれほど仲が良いわけでもなく、欧州への視察にも同行していないらしい。それで、本作ではフルネームではなく「本庄」という表記に留まっている。モデルはいてもあくまで架空のキャラなのだ。
 本庄は二郎とは別のチームにいる。彼がつくっているのはたぶん爆撃機だろう。
 本庄がつねにイラついているのは、欧米列強に比べて日本の技術が大きく遅れており、それが戦局の帰趨を、ひいては日本の命運を左右することが痛いほどわかってるからである。満洲事変が始まったのちも「どこと戦争するつもりなんだろう……。」などとすっとぼけたことを言っている二郎よりもずっとシビアに情況を理解し、危機感をもっているわけだ。
 明治維新いこう、日本はずっと孤立無援だったのである。それまで文化の範を仰いできた中国(清)はイギリスにこてんぱんにやられていたし、隣の韓国もまるで当てにならない。イギリス、フランスも倒幕の際には手を貸してくれたが、もちろんそれも自国の利益のためであり、腹蔵なく日本の発展を支援してくれるほどお人よしではない。アメリカもしかり。ロシアとは緊張関係どころか干戈(かんか)を交えた仲である。
 友好国たるドイツでさえも、一皮剥けば露骨な敵愾心に満ちていることは、欧州視察のくだりでわかりやすく描写されていた。カプローニの故国イタリアとは利害対立はないが、たんにそれは、はっきりいってイタリアが弱いからってだけなのだ。
 どこにも頼れる相手がない。
 そんななか、限られた技術供与をもとに、あとはほとんど工夫とアイデアだけで列強に伍しうるだけの飛行機を作っていかねばならぬのだから、そりゃ苛々するのもしょうがない。
 本庄の苛立ち、焦燥、切迫感は、明治いこうの、すなわち近代日本の苛立ちそのものだ。
 「俺たちには時間がない。」というセリフを、本庄は何度か口にする。そう。近代日本にはとにかく時間がなかったのだ。黒船の来航によってとつぜん泰平の眠りを覚まされ、準備期間もなしに国と国との熾烈な生存競争の中に引きずり込まれたわけだから。
 少しでも気を抜けば植民地化され、寄ってたかって好き放題に食い荒らされる。それが「後進国」に対する欧米のやり方なのである。
 そうならぬよう、近代国家としての体制を整えねばならない。政治・経済・科学技術・社会・商業・交通・教育……その中にはもとより軍事も含まれる。というか、軍事の優先順位は今では想像もつかぬほど高かった。なんといってもスローガンは「富国強兵」である。「強兵」のために「富国」があるわけで、「民の幸福」のためではないのだ。
 太平洋戦争の4年間とは、明治以降のその強迫観念が限界を超え、狂気じみたヒステリーの域にまで高じた時期といっていい。


 本庄とはまったく違うシチュエーションで、二郎もまた「僕たちには時間がないんだ。」と口にする。菜穂子が山を下りてきて、黒川夫妻(CV・西村雅彦/大竹しのぶ)の厚意でめでたく結ばれ、さらには邸の離れにふたりで住まわせてもらっている時期のことである。
 とはいえ、この時はまだ、太平洋戦争(アメリカとの戦争)は始まっていない。二郎と菜穂子とが軽井沢で再会したのは1933(昭和8)年。満洲事変の2年後、五一五事件の翌年、ドイツでナチスが政権を樹立し、日本が国際連盟を脱退した年だ。





 太平洋戦争が起こる(を起こす)まで、まだ8年の間がある。この8年間はけっこう大きい。
 このあたり、映画の中にそういった社会状況をはっきりと可視化する描写がないので、時代背景がわかりにくい。ぼくくらいの齢のものでも後から整理しなければわからないんだから、若い人たちは「なんか昭和の初めごろの暗ーい時代」みたいな感じで、ごっちゃになってるんじゃないか。
 二郎は再会して間もなく(菜穂子の巧みな誘導もあって)彼女との結婚を決める。そのあと菜穂子は喀血して、療養のために八ヶ岳高原の病院に籠もるのだが、ついに思いが高じてそこを抜け出し、自ら二郎に会いに行く。
 そしてそのまま、黒川夫妻に媒酌人となってもらって結婚、さらには離れを借りての同居にまで至る。
 話の都合で、黒川夫妻、むちゃくちゃ親切な人たちになっている。
 あの「お輿入れ」のシーンは美しい。夢幻的ですらある。さりとて、儚くもある。「この婚姻は寿ぐべきものだが、しかし、長続きはすまい……。」という予兆に満ちている。
 ちなみにあの折の口上、
大竹「申す。七珍万宝投げ捨てて、身ひとつにて山を下(くだ)りし見目麗しき乙女なり。いかに?」
西村「申す。雨露しのぐ屋根もなく、鈍感愚物の男(おのこ)なり。それでもよければお入り下さい」
二人「いざ夫婦の契り、とこしなえ」
 というのは、どこかの地方の習俗といったものではなく、完全なる宮崎監督のオリジナルである。ただ「あまたの金銀財宝」をあらわす「七珍万宝」という熟語は、前回ふれた『方丈記』の中に出てくる。
 夫妻の厚意で二郎と菜穂子とが結ばれ、邸の離れを借りて暮らし始めるこの辺りまでが、1934(昭和9)年の出来事だ。再会してから一年くらいしか経っていない。たいそうペースが早いのである。
 このかんずっと、設計者としての二郎は「九試単座戦闘機」の開発に勤しんでいる。これがのちの「零戦」の原型となる。
 ふたりが一緒に暮らす時間は一年にも満たない。二郎が「僕たちには時間がないんだ。」と口にするのは、医学を学ぶ妹の加代が菜穂子と会い、菜穂子の病が見かけ以上に重篤であることを指摘して、「お兄様は薄情」と詰(なじ)った時だ。
 これがその翌年、1935(昭和10)年のことである。
 「僕たちには時間がないんだ。」とは、「菜穂子が命を削ってここに留まっているのはわかっている。菜穂子にも僕にももう覚悟はできている。承知の上でこうしているんだ」という意味だ。これでは、さすがの加代もそれ以上はもう何も言えない。
 心情としては、できれば二郎は一分一秒も惜しんで菜穂子の傍に居たいはずである。しかし、いっぽうで彼は日本の命運を担う戦闘機をつくってもいるのだ。
 毎晩帰宅は遅く、帰ってからも、片手で菜穂子の手を握りしめながら、片手で計算尺を扱う日々。
 しつこくいうが、そうやって二人が共に暮らした時期は、どう見積もっても一年にも満たない。
 加代の最初の来訪からほどなく、自らの体調が臨界に達したのを悟った菜穂子は三通の手紙を残してひっそりと退居してしまう。おそらくは高原の病院に戻ったのだろうが、そのあとはもう作中には現れず、二郎がそこを訪れたり、彼女の最期を看取ったりする描写もない。
 いや、そういった描写が皆無というより、いきなり話がぽーんと飛んでしまうのである。
 夢のシーン。カプローニ伯爵(CV・野村萬斎)がいる。これまで彼の登場場面は明るくカラフルで官能的だったが、今回だけはひたすら暗い。遠景の街は焦土と化し、あちこちに飛行機の残骸が散らばる。ほぼ「地獄」のイメージである。「君の10年はどうだった?」と尋ねる彼に、「終わりのほうはズタズタでした。」と二郎は答える。
 これはもちろん敗戦直後だ。だとすれば確かに、菜穂子が去ってからきっかり10年が経過している。
 つまり、『風立ちぬ』というアニメは、日本にとって、そしてまた零戦の設計者としての二郎にとっても、「もっとも肝要」なはずの10年間が、ざっくりと割愛された作品なのだ。
 この作品がぼくたちにひどく面妖な感じをもたらすのは、ひとえにそのせいだろう。
 カプローニは二郎に、「そうだろう。国を滅ぼしたんだからな。」という。なぜそんな言い方をしたのだろう。いかに優秀とはいえ、所詮は一介の技術者ではないか。「国を滅ぼした」は大仰すぎるではないか。
 あれはすなわち、「最愛の妻を死なせたんだからな。」という含意であったのだろう。だからこそ、次のシーンで彼方から菜穂子が歩いてきて、「(あなたは)生きて。」と二郎に告げるのだ。
 


 つまり「佳人薄命」を地でいく菜穂子は、近代の幕開け以降、「ずっと時間がなかった」日本の姿と重なり合っている。もっというなら、近代日本の美しく擬人化された姿ではないかとさえ思う。少なくともぼくにはそのように視えたし、そう解釈しなければ、『風立ちぬ』という作品が理解できない。
 それがあそこでいったん死んだ。滅びた。しかし、遺された者たちは生きていく。生きて戦後のニッポンをつくる。そういう寓意なのだろう。
 でもそのことがわかるのは、ぼくが日本という共同体のなかで暮らしているせいだろうなあとも思う。感傷のナミダに濡れた瞳で近代日本を眺めているわけだ。
 ただ、いっぽうでもちろん軍国ニッポンには、「猛々しい益荒男(ますらお)」の面もあったわけであり、とりわけ「近隣諸国」の住人は、そちらの印象のほうが遥かに強いはずである(もっというなら、アジア諸国のみならず、捕虜の中から多くの死者を出した欧州の国の中にも「軍国ニッポン」への恨みを残す人たちは多い)。
 だから、ぼく個人は『風立ちぬ』というアニメが好きだが、その感覚を「他の共同体」のひとたちと共有できるかどうかは正直なところ心許ない。
 ちなみに、『風立ちぬ』は、カプローニつながりということだろうか、イタリアのベネチア映画祭に出品され、好評は博したものの受賞は逸した。ほかに海外で賞をいくつか取ってはいるが、さほど目ぼしいものはない。ドイツでのベルリン国際映画賞(金獅子賞)、アメリカでのアカデミー賞をはじめ、輝かしい経歴を誇る2001年の『千と千尋の神隠し』に比べるとずいぶん見劣りがする。ファンタジーに対して、やはり歴史を扱った作品はそれだけ難しいということなんだろう。


◎この2年後に書いた記事……

2021年の8月に改めて観る『風立ちぬ』
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/2432f538fce2a76fe0d4d5798447c2ed