ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。③ 菜穂子とお絹/辰雄と二郎

2019-04-21 | ジブリ




 まあ、「運命の再会」といやあ聞こえはいいけど、あれは通俗ロマンにありがちな「ご都合主義」ですよね。そこで初めて出会って恋に落ちたんだったらわかるけど、震災の日に縁を結んだ相手とそこで再び巡り合うってのは……。菜穂子のほうは、療養をかねて長期滞在してたとしても、現実にはまずありえない偶然でしょう。
 実在の作家・堀辰雄は、たしかにこの年、1933(昭和8)年に最初の妻(お名前は綾子さん)と出会っています。だけど、べつに再会したわけではないし、そもそも堀辰雄という人は、ご自身も結核を患っていて、しょっちゅう軽井沢に泊まってたんですよね。
 もちろんお話なんだから、そこは構わないんだけど、菜穂子があんなに二郎を慕い続けていたのなら、どうしてそれまで彼女の方から一回も接触を試みなかったのかなあという疑問は残る。二郎が東大の学生ってことはわかってたわけだし、父親に頼めば、三菱に勤めてるのは簡単に調べがつくでしょう。時代が時代だし、深窓の令嬢だからそこまでの勇気はなかった、ということかもしれないが、「自分の口からきちんとお礼を言いたい」という口実ならば、会うことくらいはできたはずですよね。
 6年前に劇場でみたときは、そういったことが気になって、このあたり、なかなかストーリーに乗っていけなかったなあ。
 あと、高台で絵を描いている菜穂子が、眼下の小道を歩いてくる二郎をみたときの反応もよくわからなかった。ふつうはもっと驚くんじゃないか? なのに、ちょっと微笑を浮かべるだけで……。まるで、そこに来るのを予期してたみたいに見えました。あるいは、すでにホテルのなかで見かけていて、二郎の滞在を知ってたのかな?
 そのあとすぐに突風が吹いて、二郎が彼女のパラソルを捕まえる「アクションシーン」に移るんで、そこのところもどうも曖昧なままなんですね。
 とはいえ、出会いのときに菜穂子が二郎の帽子を捕まえるくだりが、主客を入れ替え、よりスケールアップして反復される趣向は見事なものでした。あれは屈指の名シーンですね。『風の谷のナウシカ』が出世作となった宮崎駿さんですが、世界のすべてのアニメ作家のうちで、風の表現においてこの人を凌ぐ才能はいないでしょう。
 とにかく、菜穂子はこの時点ではっきり二郎のことを認識してるけど、二郎はぜんぜんわかっていない。
 13歳の少女がいきなり23歳の女性に成長して現れたんだから、そりゃ二郎ならずともわからないのがふつうかもしれない。けど、あとで二郎が菜穂子に告げたとおり、「初めて会った時からずっと好きだった」んなら、気づいてもおかしくないはずだ。
 だからたぶん、「ずっと好きだった」は事実じゃないですね。嘘というわけではないにせよ、感情の高まりによって、過去の自分の記憶がそのように改変されたんだと思う。そういうことって確かにある。
 ヴァレリーの詩句を原文ですらっと口ずさむような少女だし、あれだけの体験を共有したんだから、印象に焼き付いてたのは間違いないわけで。
 いずれにしても、ここまではぜんぶ「偶然」でした。しかし、その翌日、森の奥の泉であらためて「再会」を果たした時は、あれはもう偶然ではなかった。森の入り口に、あきらかに不自然なかたちでイーゼルとパラソルが置かれてたからね。あれは菜穂子が二郎を呼び込んだというか、誘ったわけでしょ。
 あそこで二郎が口ずさんでた「だぁれが風を見たでしょう……」という詩は、西條八十の訳詩「風」(詳しくはコメント欄を参照のこと)。まあ庵野さんの朗読はひどかったけど。
 そのあと、菜穂子が二郎に、お絹がお嫁に行ったこと、2人目の子供を出産したことを告げますね。ぼくの考えだけど、あそこでやっと、それまで未分化だった「菜穂子」と「お絹さん」とが分離して、ストーリーの上でも、二郎の情感の上でも、菜穂子がヒロインとして自立したんですよ。
 『もののけ姫』いこうの宮崎作品は、作劇上の理屈からいえば破綻してるんだけど、逆にそのぶん、なんだろう、ユング的とでもいうのかなあ、「物語」としてはより根源的っていうか、すごく深いものになってるんですね。
 二郎をめぐる菜穂子とお絹さんとの関係性を考えても、強くそう思います。
 ここんとこ、もう少し詳しくやりましょうか。つまりアニメの二郎は、設計技師・堀越二郎と作家・堀辰雄との融合体ですよね。友人の本庄もそんなようなこと言ってたけど、当時の技師の奥さんには、教養なんて必要なくて、家庭をしっかり支えてくれる相手がいいわけだ。たぶん本庄が所帯を持ったのも、お絹さんみたいなタイプだと思う。
 料理を作って、家事もこなして、子供も産んで子育てもして……というタイプね。ヴァレリーなんて知らなくていい。そんなことより、健康で、ちゃんと夫をサポートして、家庭を守ってくれる奥さんのほうがいいわけ。
 二郎だって、飛行機の設計に夢中で、ほかのことにかまけてる余裕はないんだから、ほんとはお絹さんタイプがいいんですよ。それなのに、菜穂子のほうを選んじゃう、菜穂子と恋に落ちちゃうというのは、そこは「堀越二郎」ではなく、「堀辰雄」の感性なんだよね。
 じっさい、技師・堀越二郎氏は敗戦後もずっと三菱重工業に勤めて、最後は参事~顧問にまで出世される。まあ科学立国・経済大国としての戦後ニッポンを築いた世代の代表の一人といっていい。亡くなったのは1982(昭和57)年。ほぼバブル前夜ですよ。
 対して作家・堀辰雄は、1944(昭和19)年、つまり敗戦の前年には大喀血して絶対安静にまで陥り、戦後はもう、さしたる作品を発表することもなく、1953(昭和28)年に48歳で亡くなってしまう。
 「実学」と「ブンガク」との相違ってのをロコツに見せつけられる感じで、ちょっと索然としますが。
 これは、前にも述べたラストシーンでの菜穂子のせりふ「生きて。/来て。」にも関わってくることだけど、アニメの「堀越二郎」だって、仮にもし敗戦の衝撃に耐えて生き延びたとしても、天寿を全うすることはなく、たぶん40代の半ばくらいで世を去ったように思うんですよね。もちろん、ここはあくまでワタシの想像ですけども。