ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

NHKドラマ「火の魚」について。

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 「旧ダウンワード・パラダイス」(削除済み)からアクセスの多かった記事を引っ張ってくる企画の二本目。この記事を発表したのは放映直後で、脚本の渡辺あやさんは無名に近く、「火の魚」についての記事もほとんどネットに見られなかった。おかげでかなり長いあいだ、「火の魚」の検索ワードで上位1、2位という位置に挙げて頂き、ずいぶんとアクセスも頂戴した。ただ、ぼくのほうも結構いい加減で、この時にはまだ原作である室生犀星の「火の魚」も「蜜のあはれ」も読んではいない。あくまでもドラマに限った話である。その後、原作とドラマ版とを比べた記事も書いたので、そちらも引き続き再掲します。


その① ドラマ「火の魚」あらすじと感想。
初出 2010年03月15日

 30代で直木賞を取り、「文壇のプレスリー」などと称されて、60近くになるまで東京を根城に放蕩の限りを尽くしていた作家・村田省三が、胃に腫瘍(ただし良性)が見つかったのをきっかけに、酒、タバコ、オンナをすっぱりと断ち、故郷の島に引きこもる。玄米食に、日課の散歩も欠かさず、もはや健康マニアというべき有り様である。妻子はなく、係累も知己もいない。周囲との関わりは、食材など最低限の買い物くらいだが、夫婦ふたりでやってる小さな食料品店で、「こないだのナスは傷んでたから百円引け。」と押し通すほどの、ただならぬ偏屈、傲慢ぶりなのだ。それもこれもこの人物が、度しがたいナルシストであることの表れなんだけど。

 で、この男、とうぜん孤立し、島民からは「なんだか偉い作家らしいが、ポルノまがいの小説を書いている奴」と、白い目で見られている。演ずるは、無類の個性派にして紫綬褒章俳優、原田芳雄。ブレイク前の松田優作がこの人に私淑していたのは有名な逸話だ。その若き日の優作と共演した、ATGの『竜馬暗殺』はちょっとした伝説の映画である。鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』も忘れがたい。テレビでは、トレンディードラマの先駆けともいえるTBSの『夏に恋する女たち』で売れっ子ホスト、『大胆素敵 いつもあなたに恋してる』では大学教授の役をしていた。一見、役柄がまるで反対のようだが、なに、どちらもダンディーで男くさいナルシストであり、幾つになっても、ナルシストの役がことのほか似合う人なのだ。

 この老作家、作品に昔日の精彩はないが、たしかにポルノとしては需要があるようで、ネットやファックスが行き渡っているこのご時世に、手書きの原稿をわざわざ船に乗って取りに来てくれる奇特な出版社がある。古い馴染みの中年男性の担当者(岩松了)に代わって、或る日、若い女性の編集者・折見(尾野真千子)が原稿を受け取りにあらわれる。そこからドラマは動き出す。

 偏屈な年寄りと、若い(中年の場合もある)世代の交流のドラマってのは、ハリウッドなどにもたくさんあり、ひとつの定番とも言える。脚本家にすれば、どこに新味をつけるかが腕の見せ所になるが、今回は、この女性編集者の言葉遣いが滅法おもしろかった。古風というか馬鹿丁寧というか、「感謝の言葉もございません。」とか「滅相もない。ただの素人芸でございます。」という按配なのだ。べつに相手が大作家だからそういう喋り方をしているわけじゃなく、前任編集者との携帯電話でのやり取りもそんな感じなので、それがこの若い女性の個性なのだと分かる。高い知性と強固な自我を持ちながら、それゆえに、時代にどこか馴染めないでいる。そういう印象が伝わってくる。

 原作は室生犀星(1889 明治22 ~ 1962 昭和37)の短編「火の魚」で、講談社文芸文庫版『蜜のあわれ われはうたえどもやぶれかぶれ』、ないしは国書刊行会の『日本幻想文学集成 室生犀星』に収録されているらしいが、ぼくはそちらを読んでない。昭和初期くらいの作品を、設定は現代に移し、しかしこの女性の言い回しだけ原作のままに残したのかな、とも思ったが、原作の発表は1960年とのことだから、そういうわけでもないようだ。シナリオを書いた渡辺あやさんによるキャラクター造型なのだろう。

 村田は当初、この女性編集者をにべもなく追い払うが、彼女が船を待つ間に、島の子供にせがまれて砂浜に(海藻で)描いた龍の絵に興趣を覚え、呼び戻す。そこで彼女が学生の頃から人形劇をやっていたという話を聞き、「娯楽に乏しい島の子供らのため、ここで劇を上演してくれ。そうしたら担当にしてもいい」と条件を出す。むろん、この男が子供たちのことなど考えているはずもない。要は自分が見たいのである。折見はしぶしぶ応じるが、その影絵による一人芝居は見事なものだった。狭い講堂で行われた劇を、暗がりに紛れて覗いた村田は、少しずつ彼女に心を惹かれていく。憎みあい、ひがみあい、そねみあうのは彼にとっては一つのゲームで、慣れている。しかし、「傷つくのはむしろ、相手を好ましく思ったときだ。手はもう様々な加減を忘れてしまっている。自信などとうに無くし、怯えている。触れた瞬間にひどく後悔する。そして、一刻も早く、逃げ出すことを願うのだ。まずい。じつにまずいことになった。」

 その動揺のせいだろう、次に折見が原稿を取りに来たとき、作家は胸に溜まった屈託をぶっつける。下劣な欲情を掻き立てるだけのこんな売文を、本当にお前は素晴らしいと思っているのか? お前らはみんな、腹の底では俺を見下してるんだろう? 編集者は、威儀を正してこれに答える。「わたしは、先生の作品を、すべて拝読しております。せっかくの機会ですので申し上げますと、僭越ながら、先生の最高傑作は、42歳の時にお書きになられた『陰影』と存じます。とはいえ当時の作品は、どれも素晴らしいです。一見オーソドックスな官能小説でありながら、きわめて上質な文体。叙情性とアイロニー。まぎれもなく、先生にしかお書きになれない小説世界でした。でもそれがとつぜん劣化するのは、島に引き篭もられてからの作品群です。先生、わたしは、先生を見下してはおりませんが、失望はしております。いや、もう、腹が立って仕方がありません。あれほどの作家が何を怠けているのかと、真面目にやる気はあるのかと。」いやはや。昔のお侍であれば、お手討ち覚悟の諫言というやつだ。

 村田が連載していた「売文」というのは、机上のガラス鉢に入れて可愛がっている金魚を「赤いミニスカートの娘」に見立てたエロ小説らしい。『蜜の罠』というタイトルを持つその作品は、室生犀星のバイオグラフィーからすれば『蜜のあはれ』に当たるのだろうが、『蜜のあはれ』は確かにエロティックではあれ、本邦有数のシュールリアリズム文学と称され、名作の誉れも高いから、とても「ポルノまがい」などではない。これもまた、ドラマオリジナルの設定というべきなのだろう。この酷評を受け入れた作家は次の回で「金魚娘」を死なせてしまい、『蜜の罠』は唐突に終了する。しかし折見は動じるどころか、「けっこうなことです。先生は、あのような娘を書き続けられている場合ではございません。」と、かなり満足げである。

 そんな折見の様子を見て、「お前には怖いものはないのか」と憎まれ口をきく村田。しかし、「死ぬのは怖いです。」という彼女の答えに、彼のひねくれ心が頭をもたげてしまう。父親が魚拓を取るのが趣味で、昔それをよく手伝っていたという折見に対し、あの金魚の魚拓を取り、それを『蜜の罠』の装丁に使えと迫るのだ。魚拓を取れば金魚は死ぬ。ひるむ彼女に、村田はこうたたみかける。「おんなじ魚だろ? じゃ何かい? この世には死んでいい魚と死んじゃいけない魚があって、金魚は死んじゃいけない魚だと、おまえそう思ってんのか。それで人間誰しも、自分が金魚だと思いたい。鯛や鰯のように、死に値する存在じゃない。……え? だけどね、齢とりゃ分かるよ。人生なんてのァ、かつて自分が金魚だった、それを魚拓にされるまでの物語だってことをな。じつに意外で、ひどく残酷なんだよ。耐え切れるもんじゃないよそりゃ。」

 老いの悲しさというよりも、不良少年のまま老境を迎えたナルシストのわがままだけが伝わってくるシーンだが、折見は絞り出すように、「わたしが……金魚の魚拓を取れば……先生は……少しは気がお済みになりますか?」と言い、魚拓を取ることを肯んじる。「わかりました……今から言うものを、用意なさってください……」。全編のクライマックスとなるその魚拓の場面において、鉢から取り上げた金魚の姿を整えながら、こらえきれず折見はむせび泣く。ずっと無表情に近かった彼女が、ここで初めて感情をあらわにする。いっぽうの村田は、満面から、滝のような汗を噴き出させている。一匹の金魚の命と引き換えに、鮮やかな朱色の魚拓が『蜜の罠』の表紙を飾った。

 そのあと彼らは食堂に入るが、「何か旨いものを用意してくれ。」とだけ頼んだ二人の前に出てきたのは、皿に盛られた立派な鯛の刺身だった。箸をつけられない村田に対し、合掌ののち、黙々と食べつづける折見。咀嚼の音が画面に響く。しかしどちらも、最後までひとことも口はきかない。

 折見が帰り、何日ものあいだ悶々と後悔を続ける村田に、思わぬショックが追い討ちをかける。じつは折見は二年前に癌の手術をしており、それが再発して入院したというのだ。「死」と切実に対峙していたのは、むしろ彼女のほうだった。うろたえる村田は、例のいきつけの食料品店で、「病院に元気な金魚を送ってくれ。ぴんぴんした、殺しても死なんようなやつを、あいつに見せてやりたいんじゃ。」と、気持はまあ分からぬでもないが明らかに非常識な駄々をこね、そこのおかみさん(高田聖子)に諭されて、みずから折見を見舞う決意を固める。白いスーツに身を固め、十年ぶりに島を出て、飛行機に乗り、東京に着く。花屋で店員に2万円を渡し、一抱えもある薔薇の花束を用意させて病院におもむく。

 ラスト10分、病院での再会シーンはなかなかに美しかったけれど、すでにぼくのこの記事も、あらすじ紹介というよりネタバレの域に踏み込んでおり、これ以上はさすがに控えましょう。未見の方には申しわけないが、芸術祭大賞受賞作品ということだから、もう一度くらいは再放送するかもしれないし、この記事で興味を覚えたら、ぜひそのときにご覧ください。

 朝日新聞「試写室」での寸評はこうだ。「折見と村田は馴れ合わず、孤独な存在のまま、その孤独を理解し合い、心の奥底で互いをいとおしむ。《恋》や《愛》というありふれた言葉には置き換えづらい。死ぬまでの残された時間を見つめながら並走する、その緊張の中で、偶然生まれた宝石のような関係なのだろう。」きれいな批評だと思う。だけどこの二人の主人公たちは、ことにやっぱり村田のほうは、この文章から喚起されるイメージよりは、もうちょっと厄介かも知れない。エンディングのあのシーン、船上で、ひとしきり泣かせる述懐をしたあと、天を仰いで彼が大声で叫んだ言葉は、うっすらと目尻に浮かんだぼくの涙を、いっぺんに引っ込めてしまうものだった。老作家の「生き意地の汚さ」を集約した台詞。あそこでもし、たとえば彼がふところからウィスキーの壜を取り出し、それをぐびぐび呷ったなら、ぼくはほんとに泣かされちまってたとこだけど。あの台詞によって、このドラマはただの「お涙頂戴」ではなく、リアリティーを備えた「芸術作品」になった。渡辺あやさん、お名前は覚えておきましょう。

 コメント

火の魚、見ました。
余計な説明セリフがなく、淡々と進むストーリーですがとても良かったです。
無駄な説教や励ましもない。
二人の間柄も見る者に想像させたり。
たった一時間の中でこれだけの事が描けるんだと感心しました。
最近の朝ドラスタッフに、爪の垢を煎じて飲ませたいですね。
あなたのお陰で場面を思いだし、泣けました。

投稿 えみ | 2010/03/17



 コメントありがとうございます。この記事を書いたのちも、何かまだ言い足りない思いが残り、続きの記事を書きました。そちらのほうも併せてお読みいただけましたら、幸いに存じます(なんかちょっと、折見の口調が伝染ってしまって、言い回しが変ですが)。

投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2010/03/18





NHKドラマ「火の魚」・感想②。病院での再会シーン
初出 2010年03月17日

 小説でも映画でもドラマでも、第三者が詳しく内容の紹介をする際には、二つのサイドに気を使わねばならない。ひとつはもちろん、作者(製作スタッフ)に対して、礼を失することがないように。これはいわゆる著作権以前の話である。もうひとつは、まだその作品を見ていない人たちに対し、興味を削ぐことがないように。このエチケットに抵触する記述を、世間ではネタバレと呼ぶ。

 前回の記事でぼくは、NHKドラマ「火の魚」を取り上げ、そのストーリーを詳述しながら、ラスト10分、折見と村田が病院で再会するシーンには触れなかった。その手前で記述を打ち切った。ビデオテープから耳で聞いて起こしたものとはいえ、すでにシナリオの一部を引用させて頂いており、もう充分やりすぎているくらいだと思ったからだ。しかし、自分としてどうも釈然としない。どうしても、この優れたドラマを論じ切ってしまいたい。そういう気持が収まらない。それでこの記事を書いている。

 きのう書店の棚を物色していたら、福永武彦の『忘却の河』が新潮文庫から新装版として復刊されており、ご子息の池澤夏樹さんが解説を寄せておられた。その中に忘れがたいイメージがあった。果てしない廣野、はるかな地平の彼方まで、数知れぬ塔が立ち並んでいる。その天辺の一室に、人はそれぞれ一人っきりで住んでいる。隣の塔の住人とは話もできるし、笑いあったりもできるけど、しかし、抱擁して温もりを伝え合うことはできない。そのためには、いったん塔を降り、地上に出てきて接触しないといけないのだ。だけどなかなかその踏ん切りがつかなくて、人々はずっと、めいめいの塔のうえに篭もっている。

 このイメージがあまりにも鮮烈で、ぼくはしばらく呆然とした。このまえ論じた吉田修一さんの『パレード』なんかもそうだけど、村上春樹さんをはじめとする現代小説の大部分は、この光景のなかに収斂されてしまうのではないか。そうも思った。それはつまり、現代に生きるわれわれが、この光景のなかに収斂されてしまうということでもある。改めて「火の魚」の続きを論じたくなったのは、池澤さんのあの文章を読んだせいもあるだろう。折見と村田は、各々の塔の頂に身を置いたまま、お互いを愛しんでいるのである。そこにこのドラマの清潔さと儚さがある。

 病院に着いた村田は病室を訪ねるが、そこに折見はいなかった。廊下に戻って辺りに目をやる村田。1階の、おそらくは中庭に面した待合室をふと見下ろした村田は、見上げる折見と目が合う。折見は毛糸の帽子で頭を隠し、パジャマ姿。悲しげな顔で、すぐに顔をそむける折見。村田、急ぎ足で階段を降りるが、そこにもう彼女の姿はない。

 明るい日差しの庭の一角で、大きな薔薇の花束を抱えたまま、所在なげに腰を下ろしている村田。と、そこに、毛糸の帽子はそのままだが、きちんとスーツを着て、パンプスを履いた折見が現れる。ここからの折見の台詞は、前回紹介した朝日新聞の講評ではないが、すべてが宝石のように美しい。著作権が気にかかるけど、意を決して、書き写させて頂こうと思う。もちろん、関係者からの苦情があれば即座に削除いたします。

 折見「ごぶさたしております、先生。」

 村田、何も言えぬまま立ち上がる。

 折見「先生がそんな大きな花束を持って、かれこれ二時間も座っておられるせいで、病院中の女が色めきたっております。」

 村田、無言のまま、再び腰を下ろす。

 折見(歩み寄り、一礼して、村田の隣りに腰を下ろす)「無断で担当を降りましたこと、申しわけございませんでした。装丁ふくめ、単行本の出版までは、弊社伊藤のほうが、つつがなく進めて参ると存じます。よろしくお願いいたします。」

 村田「わかってる。」

 折見「よろしくお願いいたします。」

 村田「折見……悪かったな。」

 折見「なんのことでしょう?」

 村田、「俺の数々のわがままで、お前に多大なストレスを与えた。それで病気が再発したのだろう」という意味のことを言う。

 折見(ふっと笑って)「先生……わたしを侮られては困ります。むしろ逆でございます。……二年前に手術をしてから、わたしはこの世でいちばん孤独だと思っておりました。しかし先生は、わたし以上に寂しい方であられました。他人の不幸は蜜の味と申しますが、先生の無惨な孤独ぶりだけが、わたしの心の慰めでした。」

 字面だけだとけっこうキツい台詞のようだが、笑みを交えながら可愛く言うので、親愛の情に裏打ちされたものであることが分かる。村田は眉をしかめて黙っている。

 折見「じつは、先生のところに初めて伺ったとき、伊藤の急用と申しましたが、あれは嘘です。わたしが、編集長にむりやり頼んだのです。誰よりも、わたしのほうが先生のことを理解して差し上げられるという、妙な自信がありました。」

 村田、苦笑を浮かべる。

 折見「先生……? 先生は、死を、意識されたことはおありですか?」

 これは答の分かっている問いである。もちろん村田は、「ああ」と軽くうなずく。

 折見「そのとき、人間は、……果てしなく孤独です。でもその孤独こそが……先生とわたしを……強く繋げてくれる気がしていました。」

 村田「買ってきた。要るか?(花束を渡す)」

 折見「ありがたく頂戴いたします。(涙を流しながら)先生……わたし今、もてている気分でございます。」

 村田「あながち、気のせいでもないぞ。」

 折見「はい。」

 村田「行く。」

 折見「はい。」

 村田「何も言うな。……行け。」

 折見立ち去る。すでに日暮れである。階段を降り、玄関の前で振り返って、ふかぶかと礼をする。自動ドアの向こうに消えていく折見。

 病院でのシークエンスはこれで終わる。エンディングは、島に戻る船の上での村田の述懐だ。パナマ帽を胸に当て、遠くを見据えて、どこか黙祷にも似た姿勢にも見える。「折見……お前が持って生まれ、そしてお前なりに守り通すであろうその命の長さに、俺がなんの文句をつけられよう。心配するな。俺とて、後に続くのに、そんなに時間はかからんさ。……だがそれでも、もし叶うなら、今生、どこかでまた会おう。な?」 鹿爪らしくそう述べたあと、この男、おもむろに天を仰いで、何を言うかと思ったら、「煙草吸いてぇーっ。」と絶叫するのだ。カメラは海上を走る船から島の遠景へと映り、ちょっと「深夜食堂」のオープニングを思い起こさせる、うら寂しいけれど哀しさ一辺倒ではない音楽が流れて、ドラマは終わる。

 この最後の台詞が、この男のストイシズムというよりは、端的にナルシズムに由来するものであることは前回の記事で指摘した。つまり彼は、ついに自分の塔から出ることはなかった。しかしそれは折見のほうも同じである。そして、二人ともそのことをよく知悉してもいた。裏返せば、このふたりは、それぞれの塔に篭もったまま、その範囲において最大限に心を通じ合わせたのだといえる。ぼくだったら、病院での別れ際、「もう一本、最後に凄いのを書いてやるからな、お前、ぜったいにそれを読むんだぞ」みたいな台詞を村田に言わせたと思う。そうしなきゃ収まりがつかない。しかしそれは、脚本家・渡辺あやさんの世界ではないということだろう。この作品が、名作でありながらどこか異彩を放っており、凡百の「お涙頂戴」ものと一線を画すのは、まさにそこのところに違いない。


 コメント

そうなんです。
私がもし脚本家なら、間違いなく折見を励ますor慰めるorいい作品を書くから待ってろなどと言わせてしまうでしょう。
それがなく、でもお互い分かり合っていて、だから泣けるし心に深く残るんです。
行間を読まないタイプの人には、折見が酷い女に見えたり村田が色んなものを取り戻しかけている事に気付かないかもしれないから、ドラマの後に視聴者の感想V等を入れてやんわり解説するとより良いかもしれません。
確かに言葉にするとかなり辛辣ですね。(笑)
またこういった良作が見たいです。
レスありがとうございました。

投稿 えみ | 2010/03/22


 コメントありがとうございます。
 こういう良質のドラマを味わうためには、ふだんから映像媒体だけにどっぷり浸かっていてはだめで、あるていど、小説を読みなれていないといけないのかな、という気はしています。
 原作の「火の魚」とはまるで別物になっているようですが、これは紛れもなく「純文学」だから……。民放でよくやってるような劇画タッチのメロドラマでないのはもちろん、ハリウッド・スタイルのハートウォーミングものでもない。
 脚本の渡辺あやさんは1970年生まれとか。ぼくはこの業界のことをまったく知らないのですが、外野からの勝手な印象を言わせて頂くならば、ちかごろの脚本家には、男性よりも女性のほうに、「人間」や「人生」と真摯に向き合っている方が多いような気がします(まさにそれこそ折見のように)。


投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2010/03/23



昨日の再放送を見て泣き、こちらで村田と折見のやり取りを拝見し、また泣いてしまいました。

私は、病院でのシーンが一番好きです。

上品とは言え無い言葉や変に丁寧なセレブ風の言葉が溢れている中、折見の古風なセリフはとても新鮮でした。


投稿 みずいろ | 2010/09/21



 コメントありがとうございます。
 映像がなくとも、文字に起こした台詞を読むだけで心打たれるのは、もちろん、脚本を書いた渡辺あやさんのお力です……。
 ご本人やスタッフに無断で掲載させていただいて、忸怩たるものはあるのですが、さながら詩篇のように美しいものだと思えたので、つい書き留めたまま今日に至っています。さいわい、まだ苦情は入っておりません。
 端正で古風な折見のことばづかいがなかったら、この優れたドラマの魅力も、きっと半減していたことでしょう。
 ぼくももとより病院でのシーンが好きですが、村田の前で、敢然と彼の現状を諌めるところも好きですね。


投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2010/09/22



また、お邪魔しました。
こちらにたどり着き、昨日の余韻に浸ったままいきなりコメントしてしまい失礼いたしました。
おっしゃる通り、諌めるシーンも素敵でしたね。
2人のやり取りや表情、印象に残るところが沢山あります。
ドラマのストーリーとは関係無く、影絵の「幸福な王子」の王子の像が崩れ落ちる最後でも泣いてしまいましたし…。
論理的な思考や分析より感情で判断してしまう私は、正直な気持ちを申し上げますと、僭越ながら、折見の真似をしたくてウズウズしておりました(笑)。

まだ、折見と村田の世界から離れがたいのですが、他の記事もゆっくり読ませていただきますね。


投稿 みずいろ | 2010/09/22



 コメントありがとうございます。
 「火の魚」関連の記事は、3月15日、3月17日、そして3月26日の三回にわたって書きました。
 少しずつ、解釈が深まっていると思います。自分で言うのもなんですが(笑)。
 見終わったあとでも、心のどこかに留まっていて、自分のなかでゆっくりと成長していく、そんな感じのドラマでした。
 あと、同じく渡辺あやさん脚本の『その街のこども』についての感想も書いております。
 これもまた、ふかい余韻を残す良い作品でしたね……。

投稿 eminus | 2010/09/23



その③ 火の魚 あらすじと感想  ようやくわかった「タバコ吸いてぇーっ」の意味。
初出 2010年03月26日

 いやあ参った。すでに二度にわたってドラマ「火の魚」を取り上げながら、どうしても、村田省三(原田芳雄)のラストのせりふ「タバコ吸いてぇー!」の意味が絞りきれず、そのせいで、いくらかピントがぼけてしまっていた。いやまあ、全体として良い線は行ってると思うんですよ。作品の勘所を八割方は抑えているとは思うんだけど、画竜点睛を欠くっていうか、最後の詰めが甘くなっていた。この二週間ばかり、諸々の雑事に追われつつ、ずっと頭の隅で気にかかってたんだけど、本日ようやく、霧が晴れました。なにも難しく捻くり回すことはない。つまり村田は、折見との病院での邂逅を経て、あのときに、はっきりと、生きる力を取り戻したんですよね。あの台詞は、そのことの、元・無頼派作家・村田にふさわしい(さらにいえば、俳優・原田芳雄にふさわしい)、表われであったというわけで。

 どうもぼくは、折見という女性の造型のあまりの見事さに気を取られ、とかく村田のほうが疎かになっていた。それに、自分自身が本と音楽以外にほとんど何の道楽もない、修行僧のごとき生活を送っていることもあり、「タバコを吸う=生の方向に向かう」という発想が、なかなか受け容れられなかった。だけどいったん気づいてみれば、ほかの解釈はありえない。3月17日の記事に「えみ」さんが寄せて下さったコメントの中に「村田が色んなものを取り戻しかけている」というご指摘があり、それが大きなヒントになったんだけど、村田が取り戻しかけている「色んなもの」とは、他人との繋がりの大切さとか、そういった部分もあるだろうけど、何よりもまず「生きる力」に他ならぬことは、文脈からいっても、作品のテーマからいっても明らかではないか。

 「タバコ吸いてぇー!」の解釈と併せて、ぼくがいちばん気になってたのは、村田がこのあと島に戻って、昔みたいな熱のこもった小説を書くのかどうかだった。その答えもまた、ここに至って明瞭になったわけだ。村田がポルノまがいの駄作しか書けなくなったのは、才能が枯渇したからじゃなく、死を恐れるあまりに生から逃げて、「死んでいるかのように生きていた。」からだ(そのくせ「健康」にはむやみと拘っているから、ぼくも混乱させられたわけだけど)。折見が痛烈に批判したのは、まさしくその点であり、村田もまた、彼女を病院に見舞った頃には、そのことに気が付いていた。だからこそ病院での別れ際、

 村田「行く。」

 折見「はい。」

 村田「何も言うな。……行け。」

 のくだりが胸に沁みるのである。折見がここで(遺言のごとく)口にするはずの言葉といえば、「本日は私のためにわざわざ遠い所を……」などというぬるいものではなく、「私もじつは先生のことを……」なんて甘いものでも無論なく、「いまいちど『陰影』のような作品をお書きください。」以外にない。そのことが心に届いたから、村田は「何も言うな。」と制したのだろう(作家としては、いい作品を実際に書き上げてこその「生の燃焼」であり、この時点ではまだそのきっかけを得たに過ぎないから、「取り戻しかけている」という「えみ」さんの表現がより適確なんだけど)。

 ようやくぼくも、これで自分として納得のいくまで、この優れたドラマを味わえた気がする。その他、これまで論旨の都合で言及できなかったことをいくつか。折見が最初に演じた影絵芝居の「幸福な王子」は、「自らの生の断片を、自らの意志で削って分かち与える。」という点でまさしく作家のメタファー(暗喩)であり、彼の命を受けて人々にそれを届けるツバメは編集者のメタファーであろう。両者は《互いの孤独によってのみ結ばれ》、最後に二人揃って《灰のように燃え尽きる》のだから、脚本家・渡辺あやさんの凝らした仕掛けの周到さに舌を巻かざるを得ない。二作目が「一寸法師」といきなり子供っぽくなるのは、おそらくは島の人たちからのリクエストに応じた結果で、それが三作目の「浦島太郎」につながり、そこで折見が「鯛」や「ヒラメ」の魚拓(縮小コピー)を持ってきたことが、例の「火の魚」のシーンを導いていく。あくまでも自然で、無理のない流れだ。

 全編のクライマックスとなるその「火の魚」=「金魚の魚拓」のシーンの直後、食堂で(わざわざ頼んだものではないとはいえ)鯛の立派なお刺身が出され、箸すら付けられない村田を尻目に、折見が(丁重な合掌ののちに)黙々と食べ続けるのは、この時点での二人の「命」に向き合う覚悟の差を示しているわけで、ここでは折見が、年齢や社会的地位や立場の上下を超えて、人として、完全に村田を圧倒している。それは折見が帰ったあとに村田が一人で悔むくだりや、折見の病気を聞かされて少年のようにうろたえるくだりを経て、上京して折見に再会する辺りまで続くわけだけど、花束を渡し、別れ際には「何も言うな。……行け。」と元通りの威厳を取り戻しているのは、ここで「もういちど生きる。そして、昔のような小説を書く。」と、心を定めたからだろう。その思いが、ラストシーン、船上であの叫びとなって迸り出たのだった。


 コメント

説明不足でしたが、「村田が何かを取り戻しかけている」を「煙草吸いてぇ~!」にすぐ結びつけられたのは流石ですね。
実は私も最後の「煙草吸いてぇ~!」は解せなかったのです。
折見の(恐らくはもう長くはない)病気の事を村田が知り、彼女の覚悟とか彼女が無理をしてまでも(命を懸けたと言っても過言ではない。)村田が本気で小説を書く事を切望している事を知り、村田にも作家としての命の火が燃え始める。
それは最後の村田のセリフがなくても感じる部分だったので、敢えて言わなくても分かったのですが…。
作品自体が上品で、ラストのセリフだけがどうも作品全体の雰囲気に合わず、「これはアドリブなのかな」とさえ思いました。
でも、「煙草吸いてぇ~」が禁欲的に生きてきた村田の、作家としての、人間としての「生」を取り戻しかけている事を表現していると気付かされたのは、恥ずかしながら2chでの誰かの解釈を読んだからなのです。
普段小説をあまり読まない私でも、ドラマ等を見る時は他人よりは若干「深読み」が出来る方だと自負していたのですが、これにはやられました。
あと、村田が折見に刺身を食べさせるシーンも、村田が折見に意地悪をしているだけ(最初から折見だけに食べさせるつもりだった)だと思っていて、「村田には食べる度胸(覚悟)がなかった」とは思いませんでした。
あの場面で、あの二人の命への覚悟の対比を見せた訳ですよね。
魚拓の時の涙とは逆に、淡々と刺身を食べる折見も良かったです。
(刺身を食べながら泣くのは野暮な演出ですから。あそこに折見の覚悟が見える。)
何度も見る事で再発見が出来るドラマかもしれません。
再放送を願うばかりです。

投稿 えみ | 2010/03/30



 思えば3月15日に「火の魚」の感想を初めて書いたとき、このドラマに対するぼくの読みは、まだまだ浅いものでした。折見という女性の立ち居振る舞いの見事さに比べて、村田がひどく卑小に思え、若い日にどれほどの小説を書いたのか知らないけれど、本当に彼女の厚意に値するのか、はなはだ疑問に感じてましたね。それでも何だか気にかかり、17日にもう一本書き足したのですが、そこでもまだ、「二人の孤独な人間が、孤独さゆえに惹かれあう」という点に拘泥しすぎていたようです。「惹かれあい、心を通じ合わせた結果として、いかなる変化が起こったか。」について、ほとんど関心が向いていませんでした。
 その17日の記事に頂いたコメントの中に、「村田が色んなものを取り戻しかけている」とのご指摘があり、それでようやく、折見との交渉によって村田の心に生じた変化に思いが及びました。それから改めてビデオを見返してみると、あの病院の庭でのシーンで、明らかに村田が、劇的に変貌してました。「すべてだ。気の進まない人形劇をやらせ、年寄りの愚痴を聞かせ、金魚を殺させ、編集者として、俺という作家に関わらせたこと自体を悔んでるよ。俺は、お前の病気のことは本当によく知ってるんだ。……ストレスだなァ。ストレスがいちばん良くないんだよ。」のところでは、折見への罪悪感ゆえに、原田芳雄さん、声をおろおろさせてます。しかし折見が、「先生の孤独がわたしの慰めでした」と述べ、「わたしが、先生の担当にして貰うよう頼んだのです」と打ち明け、「孤独だけが、先生とわたしを繋げてくれる気がしました」と告げたあとでは、すっかり様変わりしています。以前のような尊大さではなく、しぜんな威厳に満ちている。そして、「買ってきた、要るか?」と花束を渡す。
 今回のコメントでのご指摘のとおり、折見はたぶん、これが最後の仕事だと思って、村田の担当に付いたんでしょうね。村田はここでそのことを悟り、折見のその覚悟に、小説を書くことで応えようと決めた。もちろん、彼女を再び納得させるだけの小説を。それが見て取れたとき、やっと村田が魅力あふれる男に見えて、ぼくの中でこのドラマが完結したのです。
 もしブログでこれを取り上げず、コメントを頂くことがなかったら、ここまで深く読み込むこともなく、「よく出来た良心的なドラマを観た。」というだけで、通り過ぎていたと思います。ブログをやっててよかったなあと、今回ばかりはつくづく痛感しましたね。ありがとうございました。


投稿 eminus(当ブログ管理人) | 2010/03/31



こちらこそありがとうございました。
eminusさんのお陰で色んな場面を頭の中で再生出来ました。

何年か前から、化粧の方法の一つに「引き算メイク」というのが取り入れられる様になりました。
昔のメイクはアイシャドーをバッチリ、マスカラもビシバシ!口紅も濃い色で。
それぞれが主張し過ぎてバランスが悪くなるので、これからは「引き算」しましょうと言うものでした。
例えば「目力(めぢから)」を強調したいなら目の周辺に濃い色を使い、逆に口紅はベージュ等の控え目な色を使って…といった具合なんですが…。
大衆小説(やドラマ)を書く時にはやっぱり最大公約数に合わせた方がより人気も出る訳で、より分かりやすくする為に余計な説明(セリフ)が増える訳です。
それはそれで仕方ない事ですが、純文学の雰囲気を出した「火の魚」は、引き算を極限まで使っていて見事でした。
その分、見る側に解釈をかなり任せる事になってしまうので、「つまらなかった」「盛り上がりに欠けていた」「良かったけど、賞を取る程の作品とは思えない」等という感想も出てくる。
(私にもまだまだ分かっていない部分があるのかもしれないけれど)内容を全部受け取った上でこれらの評価を受けるなら構わないけど、引き算された部分をそのまま解釈し、「つまらない作品だった」と思われるのはちょっと残念なので、再放送するならわざとらしくならない程度の解説をつけてくれると、より多くの人に楽しめる作品になると思います。
深読みした人達には「そうそう、そうなんだよ」と共感(?)され、深読みしなかった人達には「なるほど~!そういう事だったのか!」と感心されると思います。
後者の人達が再度「火の魚」を見たら、より楽しめるかもしれませんね。
渡辺あやさんの作品はこれしか見た事がないのですが、これよりも「その町のこども」の方が分かりやすく好評の様ですね。
こちらも再放送してくれないかな。
「ジョゼと虎と魚たち」は話題になったのを覚えていますが、特殊な映画というイメージでした。
機会があれば借りてみたいと思っています。

投稿 えみ | 2010/04/01


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