ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『竜とそばかすの姫』を考える。02 父の役目

2022-09-28 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
時をかける少女        (2006年)  脚本-奥寺佐渡子
サマーウォーズ        (2009年)  脚本-奥寺佐渡子
おおかみこどもの雨と雪    (2012年)  脚本-奥寺佐渡子・細田守
バケモノの子         (2015年)  脚本-細田守
未来のミライ         (2018年)  脚本-細田守
竜とそばかすの姫       (2021年)  脚本-細田守












 前回の記事では、
「そもそも『シンデレラ』と『美女と野獣』を両方やろうとしたのがおかしい。“地味な女子高生が、周りの友達や大人たちの助力を得て、仮想空間で歌姫として成功する(そして実生活でも自信を得て生まれ変わる)青春感動もの” に徹すべきだった。」
 と述べた。「幼い頃に母を亡くしたトラウマ」さえも、本当は要らないと思う。ワンクール13話のテレビアニメならばともかく、2時間足らずのエンタメとしては明らかに詰め込みすぎなのだ。
 もちろんそれだとまったく別の作品になってしまうわけだが、これがぼくとしての偽らざる感想である。しかしこれでは事実上の全否定であり、あまりに身も蓋もない。もうすこし本作に即して考えてみよう。
 よく耳にするのは、「細田監督は作画は凄いが脚本がまずい。奥寺佐渡子さんを呼び戻してほしい」という声だ。しかし、前回の記事にも書いたとおり、ぼくは細田氏の単独脚本のものもこれまでは十分楽しめたのである。けれども、今回の『竜とそばかすの姫』を観たら「ブレーンというか、助言者のような立場の人を置いたほうがいい」と切に思った。
 「細田氏が作家としてやりたいこと」と、「観客が求めていること」とを、双方ともに弁えて、両者のあいだに折り合いをつける立場の人が必要だろうと思ったわけである。「観客が求めていること」とは、下世話な意味だけではなく、社会通念であるとか、一般常識であるとか、そういったものも含めてのことだ。
 大詰めのシーン、すずが単身で虐待家庭に駆けつけるのは、「物語」の文法としては正しい。あれは彼女にとって母の死を乗り越えるための「喪の仕事」でもあるわけで、「喪の仕事」はあくまでも本人がひとりで為すべき儀礼であり、他の人は手助けはできても、その本質に関わることはできない。
(そのあたりの機微を全13話かけて懇切丁寧に描いた秀作が、マッドハウス制作のテレビアニメ『宇宙(そら)よりも遠い場所』である。)
 だから物語としては正しいというか、ああ描かざるを得ないのだが、いっぽう、公開直後からさんざネットで叩かれているとおり、ひとたびリアリズムの見地に立ってみると、あれくらい危険で、かつ不自然なシーンもない。
 すずの真情あふれる行動によって、恵くんは「苦難に立ち向かう勇気」を得たのかもしれないが、具体的にどう状況が好転したのかは描かれない。そのことも併せて、DVの当事者や関係者のなかには、「誤ったメッセージを発信している。」と腹を立てる人もいるだろう。
 一般の観客の多くも、腹は立てぬまでも、どうにも釈然としない気分が残る。ぼくだってそうだ。
 つまり「物語」と「リアリズム」とが齟齬をきたしているわけだ。そこで、ぼく自身すこし頭をひねってみたのだが、すずが単身、虐待おやじに立ち向かう件(くだり)は他に描きようがないとしても、そのあとの展開については、もうちょっと観客をすっきりさせる手立てがあったのではないか。
 つまり、こここそが、“熊徹”こと名優・役所広司演じる父親の出番ではないかと思った次第である。
 恵くんの父親はもちろん加害者ではあるが、彼をただ「悪」として排除したり、切り捨てるだけでは、真の解決にはならない。あの男にはあの男なりの苦悩があるはずで、そこにまで思いを致さなければ、「ベルの歌が全人類の胸に火を灯した」かに見える、あのクライマックスシーンの甲斐がない。
 恵くんだけでなく、あの加害父までもが変わらねば、真の解決は訪れないのだ。しかし、それはさすがに現実世界の17歳の女子高生の手に余る。ならば、それは彼女の父親の役回りだと思うわけである。
 すずが恵くんの閉ざされた心を開いて希望を芽生えさせたのならば、そのあとで、恵くんの父親の歪んだ心に寄り添ってやれる存在は、すずの父親しかいないではないか。
 むろん、これは容易いことではない。いかなる事情があれ、よその家庭にコミットするというのは大変なことである。ものすごく労力を奪われるだろうし、自らの生活が壊れるかもしれない。しかし、すずはそれだけの覚悟をもってあの場所へ駆けつけたわけであり、それを認めた父親もまた、できる限りは責任を負わねばならないだろう。「父娘の和解」なるものは、そこまでやって初めて成立するものではないか。
 もともと、すずの家庭と恵くんの家庭はけっこう境遇が似てもいるのである。だから、尺をもう少しこちらに回して、後日談のかたちでもいいから、「父親があの家族のために一肌脱いだ」旨のエピソードを添えておけば、物語としてもリアリズムとしても、ずっと収まりが良くなったんじゃないか。
 いきなりエンディングの話になったが、この『竜とそばかすの姫』、まさにアタマから尻尾まで、「なんでそう書くかなあ」「なんでこう書かんのかなあ」の連続で、ぼくなどは首を傾げっぱなしであった。
 繰り返しいうが、これまで細田守作品でそんな思いを抱いたことは殆どなく(『おおかみこどもの雨と雪』のラストであの長男が野生化して山に入った後、母親は周囲やら行政にどう説明したのだろう……と心配にはなったが、それで作品への好意が帳消しになることはなかった)、むしろ演出の巧さに唸らされてきたので、今作がどうしてこんなことになっちまったのか、ほんとうに戸惑っているのである。
 前回も書いたが、ぼくは「金曜ロードショー」の本放送のさいツイッターで「♯竜とそばかすの姫」のTLを横目で見ながら観た。それだけだとさすがに失礼なので、日曜日、録画したものをじっくり通して鑑賞した。こうやってブログで論評するときは、きちんとメモを取りながら、最低でもあと1~2回くらいは見るのが常なのだけども、どうしてもそんな気分になれない。
 だからここでは記憶を頼りに思いつくまま書き出していくが、まず、
① すずが歌えなくなった理由は、大好きな母親の記憶が「音楽≒歌」と結び付いているから。
② すずの母はかつてコーラス隊に所属しており、そのコーラス隊の面々は、すずが幼い頃から彼女をよく知っていた。
 この極めて重要な2点が、なぜか、えらく分かりづらいように描かれているのだ。
 いや、まだ①のほうは、母親との回想シーンで一緒に楽しくキーボードを弾いたりしているショットが挿入されるから推察できるけれども、②のほうは、全員で撮った写真がちらりと映されるくらいで、うっかりしていると見逃しかねない。
 すずはとうぜん、子供のころ母に連れられて合唱の練習などに立ち会ったこともあるはずだから、回想シーンの中に、そのときの情景を挿入すればいいだけのことなのである。なんなら、母の傍らで満面の笑みを湛えて歌う幼いすずのアップを添えてもいい。そうすれば現在の彼女と過去の彼女との対比が際立ち、印象がずっと鮮明になった。前作までの細田氏であれば、普通にそうしたはずだと思うのだが、ワタクシはなにか勘違いをしているのだろうか。
 もともと細田監督は、有名な本棚の描写などにも見られるように、ワンシーン、ワンショットによく膨大な情報を託すのだけれど、本作においては、情報の出し方がバランスを欠いているようだ。そのことがストーリーへの没入を阻む一因となっている。少なくともぼくにとってはそうだった。




 まだまだ書きたいことはあるけれど、今日はもう時間がない。続きは次回。



つづき

『竜とそばかすの姫』を考える。03 なぜ、すずは竜を?
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/ad365fc67c704b637492170213221712






参考サイト
細田守『バケモノの子』に登場する本を解析してみた








 



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。