ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第3回・大江健三郎「後退青年研究所」その①

2014-10-02 | 戦後短篇小説再発見
 講談社文芸文庫の『戦後短篇小説再発見』(全18巻)に収録された作品をアタマから順に論評していこうというこの企画、このペースではおれが死ぬまでに完結しない気もするが、とりあえず、当面は第一巻「青春の光と影」に入っている12篇を論じきることを目標にしよう。というわけで、河岸を変えての第1回目はぼくがもっとも尊敬している大江さん。ノーベル賞を取ろうが取るまいが、高2の夏(80年代バブル前夜)に学校の図書館で「死者の奢り」を読んで打ちのめされたとき以来、ぼくにとって大江健三郎は唯一無比の作家である。大江を読んだ時に初めて、「ああ、これが現代小説か」と思った。それはつまり、思春期の自分が抱える生理的なもやもやとか思想以前の青臭い観念とかいったものがリアルにそこに表現されていると感じられたということだ。大江はぼくの父よりさらに二歳年長であり、「死者の奢り」が書かれたのはぼくの産まれる十年近く前であったにも関わらずだ。

 時代を超えたその普遍性・現代性は、ぼくが学校の図書館の片隅にあって一人で勝手に盛り上がっていた時からさらに30年(!)の歳月を経て、今に至るも失われていない。この8月に岩波文庫から『大江健三郎自選短篇』が出て、さいわい好評を博しているようだ。ぼく自身は自分が齢を喰うにつれて「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」以降の円熟期の作品を好むように変わっていったのだけれども、あらためて読み返してみると作家が20代の頃に書かれた初期短篇もやっぱり凄い。バブル崩壊、湾岸戦争、阪神・淡路大震災、オウム事件、イラク戦争、リーマンショック、そして東日本大震災ののちフクシマの災禍(これは今なお進行中だが)を経験して、この国全体の地盤沈下(貧困化およびそれに伴う右傾化)が著しい昨今、初期の大江作品は、かつてのぼくよりもむしろ今を生きる若者にとってこそ、よりいっそう痛切なものに感じられるはずだ。

 ことに1958(昭和33)年、記念すべき長編第一作として発表された「芽むしり仔撃ち」は、「体制」に抗う「個」の闘いを描いた寓話として圧倒的なものである。私どもの生きた「戦後」という時代=社会が行くところまで行き着いて、「反動」の方向にひた走っている《現在》において、もっともリアルで生々しい作品をひとつ挙げろと言われれば、それは村上春樹でも龍でもなく、ほかのどんな作家でもなく、また「進撃の巨人」のようなマンガでも「エヴァンゲリヲン」のようなアニメでもなく、60年近く前に書かれたこの「芽むしり仔撃ち」になるだろう。テーマはもちろん、その文章のみずみずしさ、構成の緊密さは娯楽小説の参考にもなるので、小説を書こうと目論んでいる若いひとは何よりもまずこの一作から出発してほしいと切に思う。新潮文庫で長らく版を重ねているが、このたび改版が出たようだ。

 また前置きが長くなった。大江健三郎については旧ダウンワード・パラダイスでもずいぶん書いたがいくら書いてもこれで十分という気がしない。続きはまたの機会に譲って、「後退青年研究所」の話をしよう。

 これは1960年に発表された作品だが、初期から後期まで、50年近くに及ぶ短篇の代表作を集めたベスト版たる岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』には収められていない。たしかにそれ以前の「死者の奢り」や「飼育」や「人間の羊」に比べると、ドラマ性および緊密度において明らかに落ちる。それらの作品は細部のみっちりした描写においてリアリスティックなんだけど、全体として概観すると寓話になっている(たとえば、「死者の奢り」で描かれる死体処理のバイトは、作者の創作であって現実のものではない)。いっぽう「後退青年研究所」は、「語り手が実際に体験した事実の報告」という体裁を取っており、そこで語り手が体験するバイトは死体処理ほど荒唐無稽ではなくて、いかにもありそうなものである。

 つまり「後退青年研究所」は寓話ではなく「写実小説」に近いせいで「死者の奢り」「飼育」「人間の羊」などの完成度に達していないということだが、この辺りを掘り下げていけば、初期の大江が直面していた問題の一端がうかがえるかもしれない。とはいいながら、「後退青年研究所」は、「写実小説」に近い分だけ風俗史料として興味ぶかいし、「小説」としてはけっこう面白かったりもするのである。

 全体の構造は「死者の奢り」と共通している。語り手の「僕」がちょっと変わったアルバイトをする。そこに「女子大生」が勤めているのも同じだし、「僕」とその「女子大生」がぜったいに恋愛関係にならないところも同じである。村上春樹の描く「僕」なら一週間以内にベッドインしていることだろう。これは冗談だけで言うのではなくて、女にもてない大江的「僕」から、「やれやれ」などと呟いてるうちになぜか「女の子」たちが向こうから寄ってくるハルキ的「僕」への変遷は、今にして思えばひょっとすると戦後文学最大の転換だったかも知れんのだ。それは文体における革新であり、時代を生きる気分そのものの革新であり、「万延元年のフットボール」から「1973年のピンボール」への革新であったわけである。大江健三郎や高橋和巳が担っていた60年代70年代の空気(アトモスフィア)を、村上春樹がいったん絶って80年代を切り開いたのだ。そのことは功よりも罪のほうが大きかったとぼくは思うがただその革新性だけは疑いようもない。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のレビュー(酷評)で評判を呼んだドリーさんのような若い人たちにも、文学史的な常識として、その点だけは承知しておいて頂きたく思う。

 その②につづく。

10 コメント

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お久しぶりです。もう外野でいるつもりですが。 (TOY)
2014-10-12 04:07:36
お久しぶりです。引っ越し後は文体と記事が一段引き締まって読み応えが増しましたがかまどがまさんのとの対話がないと少し寂しいですね…。基地問題で手一杯なのかなと思っていましたが世に倦む日日さんにコメントされていましたので…(いい歳した男がツイッターまでヲチたら気持ち悪いですので…)。旅マンさんのコメントは興味深く読みましたがあの方の主張もわかますがお気を悪くしたのでしょうか…。私はOCNの方であらかたコメントしつくしましたので外野にいるつもりですが、ちょっと寂しいなと思いかまどがまさんが拝見しておりましたらと思いコメント致しました。多崎~はドリーさんのレヴュー(OCNのドリーさんなのか少し気になりますが…)がなくてもタイトルがキツいと思いますが読後に思ったより大した物が残らなかったものの1Q84よりは海辺のカフカの方が引き込まれました(前者はブック②までしかですがパシヴァとレシヴァの部分は全く理解出来ませんでしたが)。村上春樹は知名度の割にAmazonでは大概酷評ですが、10代の頃読んだ物も含めると心に残った物は風の詩を聴け>アフター>海辺の~になります。後どこまでリベラルかと言いましたが政治的な事ではなく意外と強欲なのではという意味でした。昔のエッセイでデパートでノルウェイ~ののぼりを見る度に恥ずかしいと言っていたのにあの売り方ですから。宮崎駿みたいに売れると商業と切り離せなくなるのは芸術家の業なんですかね。PCはOS等の事もありまだ買っておりませんが。もしかしたらまたコメントするかもしれませんがと念の為の伏線を入れておきます(笑)。
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言ったそばから度々申し訳ありません。の誤字訂正と若干追加です。 (TOY)
2014-10-12 05:36:21
あの書き方だとあの3冊しか読んでないみたいですが、村上春樹で読んだ物はゼロ年代はあの2冊と、東京奇譚集、10代含めると世界の終わりとハードボイルドワンダーランド、ダンスダンスダンス、アンダーグラウンド取材の部分は途中で挫折と本人の解説、夜の雲猿、蛍納屋を焼く、他にも短編とエッセイを幾つかになります、ノルウェイはラストシーンと断片だけ覚えているのでしっかり読んだか謎です。私はアンチでもファンでもありませんが…。島田雅彦も村上春樹を批判していましたが、島田雅彦の短編を読んだ時村上春樹の短編の劣化版というか、中学生の作かと思いました。後村上龍は怨みに思ってる部分もありますが嫌いな作家ではありません。90年代の物も結構読みました。映画も4作観ましたがトパーズとキョウコは結構良かったです。キョウコはeminusさんでも楽しめると思いますよ。度々誠に失礼致しました。
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お久しぶりです。 (eminus)
2014-10-12 06:24:10
 こんにちは。いやこの記事のために「死者の奢り」やら「芽むしり仔撃ち」やら、大江さんの初期作品を読み返してたらね、猛然と自分の小説を書きたくなって、それで放ったらかしになっとるんですわ。それであれでしょ、いざ書いてみるとぜんぜん下手でしょ、おれの小説。まったく敵わない。手も足も出ねえ。羽生善治と平手で指すようなもんですよ。優れた作家ってのはほんともう、二十代の前半でできあがっちゃってるんだよなあ。ということを思って、すっかり後退中年になっておるわけです。だから続きはもうちょっと後になるかと。
 かまどがまさんは、これ続き物の記事なんで、いずれ完結した時にまとめて、とか思ってらっしゃるのかもしれないですね。よくわからないけど。あと、amazonのドリーさんは一昨年だったかにうちにコメントをくれたドリーさんだと思いますよ。あの切り口はさすがポスト・バブル育ちという感じでとても斬新だと思いますが、もしプロの批評家になられるつもりなら、どうしたって文学史の素養ってものも必要になってくるでしょうね。大きなお世話でしょうけどね。
 春樹さんだと、ぼくは最初の2本すなわち『風の歌』と『ピンボール』で決まりなんですよ。あの2作が近代日本の文学史上で突出していて、あとはふつうの作家になってしまった。ふつうの近代小説になった。その「ふつうの近代小説」のなかでは、『海辺のカフカ』がいちばん整っているのではないかと思ってます。むろん、あくまで私見ですけども。
 村上龍のことは以前にも書いたと思うので割愛しますが、島田雅彦という作家についてはぼくもよく分からないですね。むしろ批評のほうが上手いように思える。「眼高手低」という言葉がありますが、いくら批評がうまく書けても良い小説が書けるとはかぎらない。小説ってのはほんとうに難しいですね。
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連投迷ったのですが…。 (TOY)
2014-10-12 10:17:44
小説の学理的な事も批評の学理的な事も近代についても勉強した事も考えた事も少しもないのでよくわかりませんがeminusさんの批評眼はかなりの物だと思いますのでそれを応用した小説を書くという事は出来ないのでしょうか。辺見庸さんのもの食う人々は文章も内容もとても面白かったし感動しましたが、自動起床装置はテーマは深いと思いましたが正直これ位の技巧で芥川賞取れちゃうのと思いましたので。セルアウトではないではないですが、ひとまずデビューする為に批評眼的に狙った小説を書くとか…。近代については全くわかりませんが海辺のカフカを読んだ時は確かにこれは海外でも売れた訳だな人を惹きつける訳だなという事はわかりました。後今の時代音楽が特にそうだと思いますがプロとアマチュアの境界線が曖昧になっているので論壇に拘らずという手も沢山あると思います。同人誌は漫画も小説も一冊も買った事ありませんがパソコンがあればそのような世界もかなり広くなっていると思いますので。後は一々持ち合いにだすのも気がひけますがカフカが今位に売れたのは死後だった訳でしかも親友に焼いてくれと言って亡くなった訳ですから。逆に存命中に日の目を見る事を除外視して自分の中で大切だと思う物だけを徹底的に突き詰めてなんらかの形で残す、後に一部でもカルト的な人気を集める、カフカは売れて嬉しかったかわかりませんし死後の世界もわかりませんが作家としては不幸な結末とも言えないと思います…。
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誤字に関して。 (TOY)
2014-10-12 11:51:44
ではないではないと誤字してしまいましたが、訂正文を再投稿するのもなんだか気が引けたのでかといって放っておくのも間抜けなので一応誤字すみませんとお伝えしておきます。今日はこれから用事があるのでまたご返信を頂いていたら確認するのは夕方近くになると思いますが失礼致しました。
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生きてるうちに。 (eminus)
2014-10-12 13:29:11
 こっちのコメント欄は、いったん投稿されるともう管理人(わたくし)が編集できないんですね。文字数の制限もありますが、そこがたいへん使いづらい。ぼくも自分のコメントを後で読み返して訂正したくなることがあるんだけれどもそれができない。OCNはあれで意外と良心的だったのかも知れませぬ。
 カフカ(海辺のカフカ少年ではなく本物のカフカ)は別格すぎて私ごときがあの人に自分をなぞらえたら雷(いかずち)に打たれて真っ黒焦げになることでしょう。日本でいうと梶井基次郎なんかも死後に「発見」されて評価された口ですね。お二人とも今のわたしより若くして逝去しておられます。
 ぼくはあの人たちみたいな天才ではないし、「文學界」「群像」「新潮」「すばる」という四大文芸誌に素朴なあこがれを抱き続けてるんで、生きてるうちにどうしてもそこに自分の作品を載せたいんですよ。そんでできればもちろん芥川賞も欲しい。去年だったか、クラス会に出たら「ええ齢こいていつまでそんな夢みたいなことほざいとるんじゃアホぼけカス」と酒癖の悪い元級友からむちゃくちゃに言われたですけどね。
 小説ってのは書こうとすればいくらでも難解に書けるし、難解であっても優れたものならフランスのヌーヴォーロマンみたいに必ずや一定の理解者やファンが付くものですが、このごろ思うに、やはり物書きってのは芸術家というより芸人に近くて、あまり高踏的であってはいけないんじゃないかと。批評理論や現代思想に精通していても良い小説が書けるわけではぜんぜんなくて、ぼくなんかかえってそこのところで陥穽に嵌りこんでいる感じがする。アタマでっかちってことですね。まあ、それほど精通してるわけでもないんですけどね。
 たとえばキートンやチャップリン、マルクス兄弟からモンティーパイソンに至るあらゆる喜劇を見まくっていて、東西の名人上手の落語を聴きつくしてるようなお笑いマニアがいたとして、さあ、その人がいきなり人前にひっぱりだされて聴衆を爆笑の渦に巻き込めるかといったらそれはアヤしい。なんにも知らないただの剽軽にいちゃんのほうがけっこう笑いを取ったりする。小説ってのはそういうとこがありますな。いかに純文学とはいえ、やはり読者あってのものだから。
 もちろん、たんに迎合的なものを書くってことではないんですよ。自分の「書きたいもの」と、読み手(社会)の側が「欲している(読みたがっている)もの」、それに加えてプロである文芸誌の編集者が「求めているもの」、それら三者の「欲望」の交錯する地点に向けて自らの小説のことばを紡いでいきたいということですね。なんかめんどくさい言い方になっちまいましたが。
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Unknown (かまどがま)
2014-10-15 10:39:38
ご無沙汰して申し訳ございません。つまらないこちらの都合なのですが、以前はお気に入りの上位にあったので、日々の巡回の始まりに立ち寄れたのですが、新たなものは下にあるので、ツィッターで時間を忘れ慌てて終了するという流れになってしまっています・・・言い訳にもなりません。
大江健三郎はある程度は読んでいたのですが、今の自分の子供より若いころだったので、今回話題にされている物は特にああ読んだなぁ・・位の記憶しか無くしかも同じ時期に夢中になった安倍公房とごっちゃになっている部分も有りうかつにコメントできないのです。ただ、読み返してみたいと興味は掻き立てられます。10代20代の読書は自分とは別の世界をのぞき見る仮の体験的な部分があったように思いますが、人生も終わりが見えてくる時期になると、今までやってきた事にいちいち責任を迫られているような、刺さり方がきついと云えばそうなのですが、刺激的でも有ります。
今現在は知念うしのものと格闘中で、内地からの移住者にも厳しい問いかけが発せられているのですが、内地の人の沖縄の歴史の無自覚さはかなりあるとしても、ここで生活してみて始めて感じる理不尽さに声を上げる資格と責任は確実にあると思うし、そのあたりで葛藤しています。知事選を前にして、選挙で勝っても中央政府は辺野古問題は決まった事として進める可能性も強く見え、それに対し沖縄では自治の分離や独立などがかなり口にされているのですが、アイデンティティの問題になると、かなり排外性が強くなる部分もありそれは絶対に違うんじゃないか、閉塞することにしかならなような危機感もあります。
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大江と沖縄 (eminus)
2014-10-16 06:08:00
 ご無沙汰については、ぼくはまったく構わないんですけど、TOYさんが「ちょっと寂しい」と言ってらしたんでまたちょくちょくコメントを頂ければ幸いです。「お気に入り」に登録してあるサイトは、左クリックでグリップしてつつつーっと動かしたら上下できますよ……。いや別にいいんですけどね(笑)。
 ノンフィクションの分野における大江さんの仕事として、『ヒロシマ・ノート』と並んで『沖縄ノート』(いずれも岩波新書)がありますよね。裁判にもなった有名な著作で、とうぜんながら(苦笑)ネットの上ではよく叩かれてるんですが、大江健三郎という作家はほんとうに初期の頃から「戦後日本」の抱える問題を自覚的に背負い込んできた人なんですよね。あの姿勢は三島由紀夫はもとより安部公房ともずいぶん違う。
 沖縄の作家の芥川賞は1967年、『カクテル・パーティー』の大城立裕が最初ですが、大江健三郎はその前からずっと沖縄に関心をもっていた。いわゆる「内地」の作家であれほど沖縄問題にコミットした人はほかにないでしょう。そのあとで池澤夏樹が出てきましたが。
 ただ、その大江さんにしても、フィクション(小説)のかたちで沖縄を描くことはしていない。それは「小説」というエクリチュールが自らの身体(的感覚)を核として綴られるものである以上、あくまでも部外者である自分は沖縄の痛みを自分のモノとして十全に把握することができないからですね。それが小説という媒体の限界でもあり誠実さでもある。
 もちろんぼくも、沖縄について語るときにはほぼ「傍観者」みたいな無責任な立ち位置から語るよりほかにないんですけども、大小さまざまなレベルの「政治」をはじめ、「戦争」「アメリカ」「基地」「民族」「土俗」「近代」等々といった数知れぬ主題が幾重にも絡まり合ったトポス(場所)だなあとは思っています。知念ウシについては、『シランフーナー(知らんふり)の暴力』(未來社)の著者であるということ以外に何も知らないのですが、かまどがまさんにはかまどがまさんの個人史なりポジションってぇものがあって、それゆえにとうぜんご自身の感性や思想ってものもおありになるわけで、いまお持ちになってる「危機感」とか「違和感」みたいなものはとても大事だと思いますね。
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大江の誠意 (かまどがま)
2014-10-16 09:28:18
今朝は下から巡回する事を思いつきましたが(笑 グリップして上にできると云う事を思いつきませんでした、そうします感謝です。

『沖縄ノート』は加害者と云う立場の痛みと責任から書いていると云う事が強く感じられましたね、だからそう考えたくない人から叩かれる。
eminusさんの「それは「小説」というエクリチュールが自らの身体(的感覚)を核として綴られるものである以上、あくまでも部外者である自分は沖縄の痛みを自分のモノとして十全に把握することができないからですね。それが小説という媒体の限界でもあり誠実さでもある」と云うコメントは大江の誠意と共にご自身の小説に対する誠意も感じました。
知念うしの告発も関わり方に関しての厳格に拘る立場の違いの「誠意」なのだと思います。
私の中で言葉にできずにモヤモヤしていたのもこの事なのだと思い至りました。感謝です。
とりあえず『沖縄ノート』読み返してみます。
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実存。 (eminus)
2014-10-16 21:23:21
 そうですねえ……。
 どんな人も自分だけの肉体をもってこの世を生きており、自分だけの個人史なりポジションってぇものがあって、そこからとうぜん、固有の感性なり思想みたいなものが生じてくるわけですね。そういうもろもろの事象のわだかまりとして≪私≫なるものが世界の中に有る。おそらくそれは、6、70年代ふうの言い方をすれば「実存」ということにもなるかと思うんですけども、そのような≪私≫を基盤において書くのが「純文学」だという定義もできるかもしれません。
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