講談社文芸文庫の『戦後短篇小説再発見』(全18巻)に収録された作品をアタマから順に論評していこうというこの企画、このペースではおれが死ぬまでに完結しない気もするが、とりあえず、当面は第一巻「青春の光と影」に入っている12篇を論じきることを目標にしよう。というわけで、河岸を変えての第1回目はぼくがもっとも尊敬している大江さん。ノーベル賞を取ろうが取るまいが、高2の夏(80年代バブル前夜)に学校の図書館で「死者の奢り」を読んで打ちのめされたとき以来、ぼくにとって大江健三郎は唯一無比の作家である。大江を読んだ時に初めて、「ああ、これが現代小説か」と思った。それはつまり、思春期の自分が抱える生理的なもやもやとか思想以前の青臭い観念とかいったものがリアルにそこに表現されていると感じられたということだ。大江はぼくの父よりさらに二歳年長であり、「死者の奢り」が書かれたのはぼくの産まれる十年近く前であったにも関わらずだ。
時代を超えたその普遍性・現代性は、ぼくが学校の図書館の片隅にあって一人で勝手に盛り上がっていた時からさらに30年(!)の歳月を経て、今に至るも失われていない。この8月に岩波文庫から『大江健三郎自選短篇』が出て、さいわい好評を博しているようだ。ぼく自身は自分が齢を喰うにつれて「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」以降の円熟期の作品を好むように変わっていったのだけれども、あらためて読み返してみると作家が20代の頃に書かれた初期短篇もやっぱり凄い。バブル崩壊、湾岸戦争、阪神・淡路大震災、オウム事件、イラク戦争、リーマンショック、そして東日本大震災ののちフクシマの災禍(これは今なお進行中だが)を経験して、この国全体の地盤沈下(貧困化およびそれに伴う右傾化)が著しい昨今、初期の大江作品は、かつてのぼくよりもむしろ今を生きる若者にとってこそ、よりいっそう痛切なものに感じられるはずだ。
ことに1958(昭和33)年、記念すべき長編第一作として発表された「芽むしり仔撃ち」は、「体制」に抗う「個」の闘いを描いた寓話として圧倒的なものである。私どもの生きた「戦後」という時代=社会が行くところまで行き着いて、「反動」の方向にひた走っている《現在》において、もっともリアルで生々しい作品をひとつ挙げろと言われれば、それは村上春樹でも龍でもなく、ほかのどんな作家でもなく、また「進撃の巨人」のようなマンガでも「エヴァンゲリヲン」のようなアニメでもなく、60年近く前に書かれたこの「芽むしり仔撃ち」になるだろう。テーマはもちろん、その文章のみずみずしさ、構成の緊密さは娯楽小説の参考にもなるので、小説を書こうと目論んでいる若いひとは何よりもまずこの一作から出発してほしいと切に思う。新潮文庫で長らく版を重ねているが、このたび改版が出たようだ。
また前置きが長くなった。大江健三郎については旧ダウンワード・パラダイスでもずいぶん書いたがいくら書いてもこれで十分という気がしない。続きはまたの機会に譲って、「後退青年研究所」の話をしよう。
これは1960年に発表された作品だが、初期から後期まで、50年近くに及ぶ短篇の代表作を集めたベスト版たる岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』には収められていない。たしかにそれ以前の「死者の奢り」や「飼育」や「人間の羊」に比べると、ドラマ性および緊密度において明らかに落ちる。それらの作品は細部のみっちりした描写においてリアリスティックなんだけど、全体として概観すると寓話になっている(たとえば、「死者の奢り」で描かれる死体処理のバイトは、作者の創作であって現実のものではない)。いっぽう「後退青年研究所」は、「語り手が実際に体験した事実の報告」という体裁を取っており、そこで語り手が体験するバイトは死体処理ほど荒唐無稽ではなくて、いかにもありそうなものである。
つまり「後退青年研究所」は寓話ではなく「写実小説」に近いせいで「死者の奢り」「飼育」「人間の羊」などの完成度に達していないということだが、この辺りを掘り下げていけば、初期の大江が直面していた問題の一端がうかがえるかもしれない。とはいいながら、「後退青年研究所」は、「写実小説」に近い分だけ風俗史料として興味ぶかいし、「小説」としてはけっこう面白かったりもするのである。
全体の構造は「死者の奢り」と共通している。語り手の「僕」がちょっと変わったアルバイトをする。そこに「女子大生」が勤めているのも同じだし、「僕」とその「女子大生」がぜったいに恋愛関係にならないところも同じである。村上春樹の描く「僕」なら一週間以内にベッドインしていることだろう。これは冗談だけで言うのではなくて、女にもてない大江的「僕」から、「やれやれ」などと呟いてるうちになぜか「女の子」たちが向こうから寄ってくるハルキ的「僕」への変遷は、今にして思えばひょっとすると戦後文学最大の転換だったかも知れんのだ。それは文体における革新であり、時代を生きる気分そのものの革新であり、「万延元年のフットボール」から「1973年のピンボール」への革新であったわけである。大江健三郎や高橋和巳が担っていた60年代70年代の空気(アトモスフィア)を、村上春樹がいったん絶って80年代を切り開いたのだ。そのことは功よりも罪のほうが大きかったとぼくは思うがただその革新性だけは疑いようもない。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のレビュー(酷評)で評判を呼んだドリーさんのような若い人たちにも、文学史的な常識として、その点だけは承知しておいて頂きたく思う。
その②につづく。
どんな人も自分だけの肉体をもってこの世を生きており、自分だけの個人史なりポジションってぇものがあって、そこからとうぜん、固有の感性なり思想みたいなものが生じてくるわけですね。そういうもろもろの事象のわだかまりとして≪私≫なるものが世界の中に有る。おそらくそれは、6、70年代ふうの言い方をすれば「実存」ということにもなるかと思うんですけども、そのような≪私≫を基盤において書くのが「純文学」だという定義もできるかもしれません。
『沖縄ノート』は加害者と云う立場の痛みと責任から書いていると云う事が強く感じられましたね、だからそう考えたくない人から叩かれる。
eminusさんの「それは「小説」というエクリチュールが自らの身体(的感覚)を核として綴られるものである以上、あくまでも部外者である自分は沖縄の痛みを自分のモノとして十全に把握することができないからですね。それが小説という媒体の限界でもあり誠実さでもある」と云うコメントは大江の誠意と共にご自身の小説に対する誠意も感じました。
知念うしの告発も関わり方に関しての厳格に拘る立場の違いの「誠意」なのだと思います。
私の中で言葉にできずにモヤモヤしていたのもこの事なのだと思い至りました。感謝です。
とりあえず『沖縄ノート』読み返してみます。
ノンフィクションの分野における大江さんの仕事として、『ヒロシマ・ノート』と並んで『沖縄ノート』(いずれも岩波新書)がありますよね。裁判にもなった有名な著作で、とうぜんながら(苦笑)ネットの上ではよく叩かれてるんですが、大江健三郎という作家はほんとうに初期の頃から「戦後日本」の抱える問題を自覚的に背負い込んできた人なんですよね。あの姿勢は三島由紀夫はもとより安部公房ともずいぶん違う。
沖縄の作家の芥川賞は1967年、『カクテル・パーティー』の大城立裕が最初ですが、大江健三郎はその前からずっと沖縄に関心をもっていた。いわゆる「内地」の作家であれほど沖縄問題にコミットした人はほかにないでしょう。そのあとで池澤夏樹が出てきましたが。
ただ、その大江さんにしても、フィクション(小説)のかたちで沖縄を描くことはしていない。それは「小説」というエクリチュールが自らの身体(的感覚)を核として綴られるものである以上、あくまでも部外者である自分は沖縄の痛みを自分のモノとして十全に把握することができないからですね。それが小説という媒体の限界でもあり誠実さでもある。
もちろんぼくも、沖縄について語るときにはほぼ「傍観者」みたいな無責任な立ち位置から語るよりほかにないんですけども、大小さまざまなレベルの「政治」をはじめ、「戦争」「アメリカ」「基地」「民族」「土俗」「近代」等々といった数知れぬ主題が幾重にも絡まり合ったトポス(場所)だなあとは思っています。知念ウシについては、『シランフーナー(知らんふり)の暴力』(未來社)の著者であるということ以外に何も知らないのですが、かまどがまさんにはかまどがまさんの個人史なりポジションってぇものがあって、それゆえにとうぜんご自身の感性や思想ってものもおありになるわけで、いまお持ちになってる「危機感」とか「違和感」みたいなものはとても大事だと思いますね。
大江健三郎はある程度は読んでいたのですが、今の自分の子供より若いころだったので、今回話題にされている物は特にああ読んだなぁ・・位の記憶しか無くしかも同じ時期に夢中になった安倍公房とごっちゃになっている部分も有りうかつにコメントできないのです。ただ、読み返してみたいと興味は掻き立てられます。10代20代の読書は自分とは別の世界をのぞき見る仮の体験的な部分があったように思いますが、人生も終わりが見えてくる時期になると、今までやってきた事にいちいち責任を迫られているような、刺さり方がきついと云えばそうなのですが、刺激的でも有ります。
今現在は知念うしのものと格闘中で、内地からの移住者にも厳しい問いかけが発せられているのですが、内地の人の沖縄の歴史の無自覚さはかなりあるとしても、ここで生活してみて始めて感じる理不尽さに声を上げる資格と責任は確実にあると思うし、そのあたりで葛藤しています。知事選を前にして、選挙で勝っても中央政府は辺野古問題は決まった事として進める可能性も強く見え、それに対し沖縄では自治の分離や独立などがかなり口にされているのですが、アイデンティティの問題になると、かなり排外性が強くなる部分もありそれは絶対に違うんじゃないか、閉塞することにしかならなような危機感もあります。
カフカ(海辺のカフカ少年ではなく本物のカフカ)は別格すぎて私ごときがあの人に自分をなぞらえたら雷(いかずち)に打たれて真っ黒焦げになることでしょう。日本でいうと梶井基次郎なんかも死後に「発見」されて評価された口ですね。お二人とも今のわたしより若くして逝去しておられます。
ぼくはあの人たちみたいな天才ではないし、「文學界」「群像」「新潮」「すばる」という四大文芸誌に素朴なあこがれを抱き続けてるんで、生きてるうちにどうしてもそこに自分の作品を載せたいんですよ。そんでできればもちろん芥川賞も欲しい。去年だったか、クラス会に出たら「ええ齢こいていつまでそんな夢みたいなことほざいとるんじゃアホぼけカス」と酒癖の悪い元級友からむちゃくちゃに言われたですけどね。
小説ってのは書こうとすればいくらでも難解に書けるし、難解であっても優れたものならフランスのヌーヴォーロマンみたいに必ずや一定の理解者やファンが付くものですが、このごろ思うに、やはり物書きってのは芸術家というより芸人に近くて、あまり高踏的であってはいけないんじゃないかと。批評理論や現代思想に精通していても良い小説が書けるわけではぜんぜんなくて、ぼくなんかかえってそこのところで陥穽に嵌りこんでいる感じがする。アタマでっかちってことですね。まあ、それほど精通してるわけでもないんですけどね。
たとえばキートンやチャップリン、マルクス兄弟からモンティーパイソンに至るあらゆる喜劇を見まくっていて、東西の名人上手の落語を聴きつくしてるようなお笑いマニアがいたとして、さあ、その人がいきなり人前にひっぱりだされて聴衆を爆笑の渦に巻き込めるかといったらそれはアヤしい。なんにも知らないただの剽軽にいちゃんのほうがけっこう笑いを取ったりする。小説ってのはそういうとこがありますな。いかに純文学とはいえ、やはり読者あってのものだから。
もちろん、たんに迎合的なものを書くってことではないんですよ。自分の「書きたいもの」と、読み手(社会)の側が「欲している(読みたがっている)もの」、それに加えてプロである文芸誌の編集者が「求めているもの」、それら三者の「欲望」の交錯する地点に向けて自らの小説のことばを紡いでいきたいということですね。なんかめんどくさい言い方になっちまいましたが。
かまどがまさんは、これ続き物の記事なんで、いずれ完結した時にまとめて、とか思ってらっしゃるのかもしれないですね。よくわからないけど。あと、amazonのドリーさんは一昨年だったかにうちにコメントをくれたドリーさんだと思いますよ。あの切り口はさすがポスト・バブル育ちという感じでとても斬新だと思いますが、もしプロの批評家になられるつもりなら、どうしたって文学史の素養ってものも必要になってくるでしょうね。大きなお世話でしょうけどね。
春樹さんだと、ぼくは最初の2本すなわち『風の歌』と『ピンボール』で決まりなんですよ。あの2作が近代日本の文学史上で突出していて、あとはふつうの作家になってしまった。ふつうの近代小説になった。その「ふつうの近代小説」のなかでは、『海辺のカフカ』がいちばん整っているのではないかと思ってます。むろん、あくまで私見ですけども。
村上龍のことは以前にも書いたと思うので割愛しますが、島田雅彦という作家についてはぼくもよく分からないですね。むしろ批評のほうが上手いように思える。「眼高手低」という言葉がありますが、いくら批評がうまく書けても良い小説が書けるとはかぎらない。小説ってのはほんとうに難しいですね。