ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

第3回・大江健三郎「後退青年研究所」その④

2014-10-16 | 戦後短篇小説再発見

 その③からのつづき。

 「後退青年研究所」の主眼は、ゴルソンという固有名をもった28、9歳のアメリカの知識人青年と、20歳になったばかりのニッポンの大学生(東大生)「ぼく」との関わりにあると見るのが妥当だろう。それはいかにも希薄な関わりであって、その希薄さが、言い換えれば「ぼく」とゴルソンとのあいだの距離が、この短編を書いた当時の大江健三郎と「アメリカ」との距離を示しているとさえいえるかもしれない。この作品を発表した五年後の1965年に30歳の大江はハーバード大学のセミナーに参加するかたちで訪米し、帰国ののち、ねじくれた性的イメージを駆使して日米(米日)関係をメタフォリカルに描いた『走れ、走りつづけよ』を発表する。この短編は新潮文庫『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』に収められている。これはオーデンの詩の一節からの引用なんだけど、それにしてもすごいタイトルだねしかし。

 訪米体験から紡がれた思索は、またエッセイ集『鯨の死滅する日』(講談社文芸文庫)に所収のアメリカ論などにも結実するわけだが、齢をとって経験を深めていくにつれ、「飼育」や「人間の羊」の頃にはもっぱら暴力的な主体(加害者)として描かれていたアメリカ像が、相変わらずブキミで抑圧的な他者には違いないけれど、いくらかは熟(こな)れた感じになってくる。その過渡期に書かれた短編として、「後退青年研究所」は位置づけられる。……もしぼくが「大江作品におけるアメリカ像」といったテーマでレポートをつくるのであればそのように論旨を運ぶことだろう。つまり「後退青年研究所」は必ずしも、政治闘争に敗れて傷つき、「後退青年」となった当時の若者たちの群像を正面きって描いた小説じゃないのである。それをやってるのは前にも述べた柴田翔の芥川賞受賞作『されど われらが日々』(文春文庫)だ。

 とはいえむろん、「後退青年研究所」に後退青年たちの姿がまったく描かれていないはずはなく、この短編を締めくくるのはひとりの元活動家のエピソードである。そこに至る過程をかいつまんで述べると、「後退青年」としてインタビューに応じて謝礼をもらうのは学生にとっては割りのいいバイトで、最初のうちはそこそこ需要があったのだが、一人につき一回のみという制約もあり、数ヶ月も経つと来訪者は目だって減り始めた。とうぜん調査結果は貧弱になり、ゴルソン氏は米本国から叱責を受ける。いま調査を打ち切ってしまうと、学者としての信用を失くし、本国に戻っても良いポストに就けない。「ぼく」のほうも、これほど好条件のアルバイトをみすみす失うのは惜しい。深刻に悩むゴルソン氏から相談を受け、「ぼく」は彼に内緒でひそかに計画を立てる。

 それは、じっさいには無傷の学生を後退青年に仕立て、演技のうえでニセの告白をさせるというアイデアだった。「それは思いついてみればなぜ今までそれについて考えなかったかわからなく思われるほどの良いプランであると思われた。」

 こうすれば、インタビューの候補者に事欠かぬ上に、ただでさえ傷ついた青年の傷口をさらに開いて塩を揉みこむような罪悪感からも免れうるのである。「ぼくは教室のあいだを駆けまわり、また研究室やサークル部室にも顔をだして、ぼくの狙いを説明してまわった。任意の学生、それでも二三年前の学生運動についてくわしく知っている学生、そしていかにも挫折を体験したという印象を躰のまわりに立ちめぐらせている学生がよかった。」

 その計画というか詐略は思った以上にうまくいく。「アメリカ人ごときが日本のほんとうに《傷ついた青年》の傷に指をつっこんでひっかきまわすことができると思っているなら、とんだ料簡ちがいだよ、おれたちの気まぐれな告白遊びが、あいつらの学問の根本をかたちづくるとはね」といったノリでみんな愉快がり、むしろ悦んでこの作戦に加わるのである。ところで、高校時代に初めてこれを読んだ時に覚えた違和感のゆえんをもうひとつここで思い出した。後退青年研究所がこれほど反感を買っていたのなら、そこで働く「ぼく」もまたけっこう白眼視されていたはずで、キャンパスに帰ってきたらもっと軋轢を生じるんじゃないかなあと思ったのである。いま読み返してもやっぱりそこはおかしいと思う。リアリズムがいささか破綻を来たしている。「死者の奢り」における死体処理のバイトほど荒唐無稽ではないにせよ、「後退青年研究所」もまた若き大江さんの想像の産物だったに違いない。

 ともあれ作戦は大成功で、「ぼく」は選別した十人の候補者を一日ひとりずつ順番にインタビュー室へ送り込み、研究所はかつてない活気を呈する。ゴルソン氏は質量ともに充実した調査結果を得て上機嫌である。ところが七番目の学生の時にハプニングが起こる。仕事仲間の「女子学生」が(彼女は通訳兼タイピストなので、ゴルソン氏に同席し、学生たちの告白を聞かざるをえない)、「あんな恥知らずの日本人青年を見たくない」といって研究所を辞めてしまうのだ。ゴルソン自身は、その学生こそが日本で見つけた典型的な後退青年だと言い、彼の告白に基づく調査結果をGIOの最大の収穫として、本国での賞賛を確信し、研究所の閉鎖を決める。

 しかしこの一件はそれだけでは終わらなかった。閉鎖記念の打ち上げパーティーから一週間後、「ぼく」は、「日本で最大の部数をほこる新聞紙上」に、名前こそ「A」という仮名で伏せられてはいたものの、当の学生の写真とその告白の内容が洗いざらい紹介されているのを見るのである。このあたり、人権およびプライバシーにうるさい今日の感覚ではちょっと考えられないが、A君の顔写真および政治体験という重大な個人情報が思いっきり漏出しちゃったわけだ。むろん、取材に応じて得々とその情報を公表したのはゴルソン氏であり、それが偽の告白であることを知っていながらも、「ぼく」はそんなゴルソン氏の姿勢にショックを受ける。

 記事の内容はこうだ。「Aは日本共産党の東大細胞のメムバーであったが、仲間からスパイの嫌疑をかけられ、監禁されて拷問をうけ小指を第二関節から切りとられた。そして恋人から逃げられ、細胞を除名されたあと、自分からこころざして本富士署の某警官に情報提供をした。しかし、学生運動の外に出てしまったAの情報は有効でなかったためにスパイにも不合格で、現在Aは孤独な学生生活をおくっている。かれは自分を挫折に追いこんだ唯一の原因として、かつての仲間を憎んでいるが、スパイ嫌疑のもとになったのは裏切った仲間の密告によるものであったらしい。……」

 なんとも痛々しい、というか文字どおり痛い話であって、まさに政治活動の暗黒面というべきだろう。「深淵」だの「地獄」だのといった単語を濫用するのはよろしくないと前回書いたが、たしかにちょっと地獄の深淵かも知れんねこれは。そして何日かのち、授業を終えて正門を出た「ぼく」は待ち伏せしていたAにとつぜん話しかけられ、ひどく動揺しながらも、「いかにデタラメの告白とはいえ、あれを新聞に載せるのはひどい。一緒にゴルソンに抗議にいこう」といった意味のことをいう。しかしAの返答は驚くべきものだった。

 すでに自分は抗議に行った。でたらめの告白だから取り消してくれとも言った。しかし、仮にお遊びであれウソであれ、テープがちゃんと残っており、証人もいる以上、取り消すことなどできないとゴルソンは答えた。Aはそのように「ぼく」に告げ、そして「ぼく」の目の前に左手をぬっと突き出す。「ぼく」は、「その小指が第二関節から切りとられているのを見た。」

 つまりAの告白は、全部が全部ではないにしても、大筋において事実だったということだ。こうなってはもう「詰み」だろう。Aは「ああ、なぜおれはあんなに熱心にしゃべったか、わからないよ。」と言い、「ぼく」もまた、「おれにもなぜあいつが、そんなに熱心にしゃべったかはわからない」と考える。そして、こうやって解説を書いてるぼくもまた、Aがなぜそんなに熱心にしゃべったのかわからない。自暴自棄になってたとしてもちょっとなあ……。やはりこの短編、小説としては面白いけれど、随所でいろいろとムリをしているように思う。

 いっぽうゴルソン氏のことである。貴重な調査データを得た彼は、それまで転任先に想定していた南朝鮮(韓国)でも台湾でもなしに、ヨーロッパへの栄転が決まり、意気揚々と出発する。問題のテープだけはAに返すよう「ぼく」に託しはしたものの、結局、新聞に撤回なり訂正の記事を出すことはなかった。Aのその後についてはまったく触れられてないけれど、おそらく姿を消したのではないか。「ミスター・ゴルソンの淡灰色に澄んだ眼、細く高い鼻梁、桃色のぷよぷよした皮膚、それらがたちまち傲慢な統一をおびてぼくのまえにあらわれた、それは途方にくれ恐慌におちいっている猿のような青年の顔を冷酷につきはなしている。」……それが、「ぼく」の脳裏にうかんだゴルソンの最後のイメージだった。ようするにこの人も、けしてニホンの青年に同情的な良き青年ってわけじゃなく、結局はひとりの「戦勝国の男」だったってことだ。

 この短編が「群像」に発表されたのが1960年の3月。その2ヶ月後に例の60年安保闘争が激化するのだが、それも最後は学生側の敗北に終わる。あたかもそれを予見するかのようにこの陰鬱な一篇は書かれた。第一巻「青春の光と影」に収録された12篇のなかでこれはもっとも政治色が濃い。そして例えばこの作品の延長線上に、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、三田誠広『僕って何』、立松和平『光匂い満ちてよ』といった全学連小説、全共闘小説が書き継がれていく。そういった政治性を断ち切るかたちで70年代後半に村上龍の『限りなく透明に近いブルー』があらわれ、ついで村上春樹が『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』で青春小説から政治色をきれいさっぱり拭い去るわけである。


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