その②からのつづき。
戦後の学生運動といえば60年安保が有名で、あと68年も「伝説の年」みたいに語られたりもするけれど、じつは、いわゆる全学連が結成されたのは戦後まもない1948(昭和23)年であり、運動そのものはほぼ敗戦直後からずっとあったわけである。学生運動の歴史に事実上の終止符をうったのは連合赤軍事件だろうと思うが、そこに至る道のりは複雑すぎてちょっとここには書ききれない。ただ、少なくとも70年代の前半までは、およそ学生ってものが今からは想像もつかないくらい「政治的」かつ「思想的」であったことだけは踏まえておいていただきたい。「後退青年研究所」の背景は1954年ごろで、これは学生運動にとって「中だるみ」の時期だった。作中の言い回しによれば「反動的な安定期」である。何しろ自衛隊が発足した年だ。
「中だるみ」というのは後になって再び盛り上がったから回顧的にそう言えるわけで、その時代を生きる当事者にとっては要するに低迷期であり、もっとはっきりいえば敗退を余儀なくされたってことである。このあたりの様子は柴田翔の『されど われらが日々』(文春文庫)に詳しい。「後退青年研究所」は、闘争に敗北し、挫折し、《体制》からも《組織》からも切り離されて、思想的/政治的に(さらには肉体的にも)傷を負った学生たちをインタビューの対象として募集している。その陰鬱なる告白を聞き取り、調査データをまとめて本国アメリカに送るためだ。それがこの「研究所」の業務であった。そこでバイトをしている「ぼく」もまた、やはり内部に暗い鬱屈を抱え込んでいる。
後退青年研究所の正式な名称はGIOという。こう書くとGHQ(連合国最高司令官総司令部)みたいでもっともらしいが何のことはない、ありようは「ゴルソン・インタヴュー・オフィス」の略で、ゴルソン氏の名前を冠しただけの中学英語的ネーミングである。このことからも分かるとおり、当の「研究所」の基盤ははなはだ脆弱なのだ。そもそもその目的にしてからが、おおまかにいえば冷戦構造の中での「極東における反共宣伝の基礎固め」の一環なのだろうと推測はできるが、それがどこまで有効なのかは疑わしいし、ゴルソン氏自身、べつにそれほど政治的な人にも見えないのである。
正直なところ、「二十八、九のアメリカ人青年」ゴルソン氏は知識層には違いないにせよ傑出したエリートとはとてもいえない。赤貧白人(プア・ホワイト)の息子であり、奨学金をもらって大学を出た。朝鮮戦争のおかげでようやく景気がよくなった極東の敗戦国にやってきて、こんな仕事をしてるわけだが、それが果たして将来の有望なポストに結びつくのだろうか。温厚篤実で善良で、好もしい雇い主には違いないけれど、しかしそもそもふつうの精神構造をもった男が日本まで来てこんな研究をするだろうか。かくして「ぼく」はゴルソン氏を「深淵の主として見るよりも、この現実世界の深淵に吸い寄せられた最初の失墜者として感じ始める」。
この「深淵」について少し注釈しておこう。じつはこの短編は、次のような文章で始まっていたのだ。
暗黒の深淵がこの現実世界のそこかしこにひらいて沈黙をたたえており、現実世界は、そのところどころの深淵にむかって漏斗状に傾斜しているので、この傾斜に敏感なものたちは、知らず知らずのうちにか、あるいは意識してこの傾斜をすべりおち、深淵の暗黒の沈黙のなかへ入り込んでゆく、そして現実世界における地獄を体験するわけである。/ぼくはこの暗黒の深淵のひとつのそばに、いわば地獄の関守のような形で立ちあっていたことがある。……(後略)
ワタクシは高2の夏に高校の図書室で大江健三郎と出会い、「死者の奢り」「飼育」「芽むしり仔撃ち」などを立て続けに読んで圧倒的な感銘を受けたが、この「後退青年研究所」からは、やや滑稽な印象を受けた記憶がある。のっけから「深淵」だの「地獄」だのと言われてしまうとさすがにキツい。これは大江さんの先行世代、一般に「戦後派」と呼ばれる野間宏、埴谷雄高といった人たちの影響である。今こんな文章を書いたらパロディーにしかならぬだろうが、時代背景を鑑みるなら当時25歳の大江青年はたぶん本気で書いたのだと思う。しかしやっぱりこのように大げさで生硬なコトバを小説に用いることは好ましくない。この短編に関していえば、ドラマ性に乏しいぶんだけ表現のほうが過剰になったきらいがあり、これが大江文学における過渡期の作品であることを示していよう。
さて。ともあれゴルソン氏は、深淵の主というより深淵に吸い寄せられた最初の失墜者みたいな青年であった。だからこそ「ぼく」は彼に好意を寄せ、「傷ついている青年の傷口に指をいれて脂肪と肉のあいだをひっかきまわすような」、こんな仕事を手伝っているのである。
やがて「ぼく」はゴルソン氏のなにげない動作のはしばしに同性愛的傾向すら見い出す。リビドー(エロチックな欲動)が異性に向かわないぶん同性に向かって軽く発動してしまうというのは大江文学の特質のひとつで、大江的世界における人間関係の粘っこさを増すことに寄与しているが、それはさすがに「傾向」に留まっていてクィア小説にまではならない。しかし、作中の半ばに見られる次のくだりはぜひ書き出しておきたい。
ぼく自身にしてからが、現に面とむかって話しあっている相手の、ガラスほど無神経な感じに澄んでいる眼やぷよぷよしたゼリーに粉をふりかけたような顔と手の甲の皮膚、高く細い鼻、それに突然まったく予想に反した音を立てる脣などを見つめていると、その相手の人間の心情に深く入りこんでゆき、その相手の顔に人間的な統一感をとりもどさせるためになら、簡単にいえばぼくとその相手とに人間的つながりを発見するためになら、同性愛の関係に入りこんでもいいとさえ、発作的に考えることがあったものだ。
さらに記述はこう続く。
ぼくは二十歳になったばかりだったし、人間的なつながりを殆どこの現実世界のあらゆるものに求めていた。それに若い青年にとって性的関係とはそれが正常なものであれ倒錯したものであれ、奇怪な無秩序を感じさせる他存在に盲目的な没入をおこなうことで、それに意味づけをし秩序をあたえ、自分の躰の一部のように親しいものにかえる行為なのだ。……(後略)
サルトル臭が顕著ではあるがそれでもこれは卓越した文章には相違なく、戦後15年を経て、日本文学というか日本語の散文の歴史にこういう表現があらわれたことは画期といっていいだろう。いまの私どもの生活につらなる「現代小説」は、やはり大江健三郎から始まったのだと改めて思う。
その④につづく。
戦後の学生運動といえば60年安保が有名で、あと68年も「伝説の年」みたいに語られたりもするけれど、じつは、いわゆる全学連が結成されたのは戦後まもない1948(昭和23)年であり、運動そのものはほぼ敗戦直後からずっとあったわけである。学生運動の歴史に事実上の終止符をうったのは連合赤軍事件だろうと思うが、そこに至る道のりは複雑すぎてちょっとここには書ききれない。ただ、少なくとも70年代の前半までは、およそ学生ってものが今からは想像もつかないくらい「政治的」かつ「思想的」であったことだけは踏まえておいていただきたい。「後退青年研究所」の背景は1954年ごろで、これは学生運動にとって「中だるみ」の時期だった。作中の言い回しによれば「反動的な安定期」である。何しろ自衛隊が発足した年だ。
「中だるみ」というのは後になって再び盛り上がったから回顧的にそう言えるわけで、その時代を生きる当事者にとっては要するに低迷期であり、もっとはっきりいえば敗退を余儀なくされたってことである。このあたりの様子は柴田翔の『されど われらが日々』(文春文庫)に詳しい。「後退青年研究所」は、闘争に敗北し、挫折し、《体制》からも《組織》からも切り離されて、思想的/政治的に(さらには肉体的にも)傷を負った学生たちをインタビューの対象として募集している。その陰鬱なる告白を聞き取り、調査データをまとめて本国アメリカに送るためだ。それがこの「研究所」の業務であった。そこでバイトをしている「ぼく」もまた、やはり内部に暗い鬱屈を抱え込んでいる。
後退青年研究所の正式な名称はGIOという。こう書くとGHQ(連合国最高司令官総司令部)みたいでもっともらしいが何のことはない、ありようは「ゴルソン・インタヴュー・オフィス」の略で、ゴルソン氏の名前を冠しただけの中学英語的ネーミングである。このことからも分かるとおり、当の「研究所」の基盤ははなはだ脆弱なのだ。そもそもその目的にしてからが、おおまかにいえば冷戦構造の中での「極東における反共宣伝の基礎固め」の一環なのだろうと推測はできるが、それがどこまで有効なのかは疑わしいし、ゴルソン氏自身、べつにそれほど政治的な人にも見えないのである。
正直なところ、「二十八、九のアメリカ人青年」ゴルソン氏は知識層には違いないにせよ傑出したエリートとはとてもいえない。赤貧白人(プア・ホワイト)の息子であり、奨学金をもらって大学を出た。朝鮮戦争のおかげでようやく景気がよくなった極東の敗戦国にやってきて、こんな仕事をしてるわけだが、それが果たして将来の有望なポストに結びつくのだろうか。温厚篤実で善良で、好もしい雇い主には違いないけれど、しかしそもそもふつうの精神構造をもった男が日本まで来てこんな研究をするだろうか。かくして「ぼく」はゴルソン氏を「深淵の主として見るよりも、この現実世界の深淵に吸い寄せられた最初の失墜者として感じ始める」。
この「深淵」について少し注釈しておこう。じつはこの短編は、次のような文章で始まっていたのだ。
暗黒の深淵がこの現実世界のそこかしこにひらいて沈黙をたたえており、現実世界は、そのところどころの深淵にむかって漏斗状に傾斜しているので、この傾斜に敏感なものたちは、知らず知らずのうちにか、あるいは意識してこの傾斜をすべりおち、深淵の暗黒の沈黙のなかへ入り込んでゆく、そして現実世界における地獄を体験するわけである。/ぼくはこの暗黒の深淵のひとつのそばに、いわば地獄の関守のような形で立ちあっていたことがある。……(後略)
ワタクシは高2の夏に高校の図書室で大江健三郎と出会い、「死者の奢り」「飼育」「芽むしり仔撃ち」などを立て続けに読んで圧倒的な感銘を受けたが、この「後退青年研究所」からは、やや滑稽な印象を受けた記憶がある。のっけから「深淵」だの「地獄」だのと言われてしまうとさすがにキツい。これは大江さんの先行世代、一般に「戦後派」と呼ばれる野間宏、埴谷雄高といった人たちの影響である。今こんな文章を書いたらパロディーにしかならぬだろうが、時代背景を鑑みるなら当時25歳の大江青年はたぶん本気で書いたのだと思う。しかしやっぱりこのように大げさで生硬なコトバを小説に用いることは好ましくない。この短編に関していえば、ドラマ性に乏しいぶんだけ表現のほうが過剰になったきらいがあり、これが大江文学における過渡期の作品であることを示していよう。
さて。ともあれゴルソン氏は、深淵の主というより深淵に吸い寄せられた最初の失墜者みたいな青年であった。だからこそ「ぼく」は彼に好意を寄せ、「傷ついている青年の傷口に指をいれて脂肪と肉のあいだをひっかきまわすような」、こんな仕事を手伝っているのである。
やがて「ぼく」はゴルソン氏のなにげない動作のはしばしに同性愛的傾向すら見い出す。リビドー(エロチックな欲動)が異性に向かわないぶん同性に向かって軽く発動してしまうというのは大江文学の特質のひとつで、大江的世界における人間関係の粘っこさを増すことに寄与しているが、それはさすがに「傾向」に留まっていてクィア小説にまではならない。しかし、作中の半ばに見られる次のくだりはぜひ書き出しておきたい。
ぼく自身にしてからが、現に面とむかって話しあっている相手の、ガラスほど無神経な感じに澄んでいる眼やぷよぷよしたゼリーに粉をふりかけたような顔と手の甲の皮膚、高く細い鼻、それに突然まったく予想に反した音を立てる脣などを見つめていると、その相手の人間の心情に深く入りこんでゆき、その相手の顔に人間的な統一感をとりもどさせるためになら、簡単にいえばぼくとその相手とに人間的つながりを発見するためになら、同性愛の関係に入りこんでもいいとさえ、発作的に考えることがあったものだ。
さらに記述はこう続く。
ぼくは二十歳になったばかりだったし、人間的なつながりを殆どこの現実世界のあらゆるものに求めていた。それに若い青年にとって性的関係とはそれが正常なものであれ倒錯したものであれ、奇怪な無秩序を感じさせる他存在に盲目的な没入をおこなうことで、それに意味づけをし秩序をあたえ、自分の躰の一部のように親しいものにかえる行為なのだ。……(後略)
サルトル臭が顕著ではあるがそれでもこれは卓越した文章には相違なく、戦後15年を経て、日本文学というか日本語の散文の歴史にこういう表現があらわれたことは画期といっていいだろう。いまの私どもの生活につらなる「現代小説」は、やはり大江健三郎から始まったのだと改めて思う。
その④につづく。