ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

雑読日記。19.03.04 『民主主義』ほか

2019-03-04 | 戦後民主主義/新自由主義
 

 去年(2018)の10月に角川ソフィア文庫から出た『民主主義』を読んでるんだけど、レベルの高さに驚かされますね。「文部省著作教科書として、昭和23年10月および昭和24年8月に上下巻で刊行されたものを一冊にまとめた」本。税別920円。
 内田樹さんの解説によれば(委曲を尽くしたみごとな解説ですが)、これまでに復刻版が1995年に径(こみち)書房から、短縮版が2016年に幻冬舎から出たらしい。でもほんとなら今だって「副読本」として全国の高校で用いられるべきなんじゃないか。受験うんぬんとはとりあえず別件でね。なんつーか、いずれ社会人としてこの国で生活するうえでの一般教養として。
 ここに書かれてることが過半数のひとにきちんと浸透していたならば、いまネット上の一部(と思いたいけど)で行われてるような殺伐たる論争(というか罵り合い)はほぼ解消されてますね。それくらい普遍性があって、射程が広く、内容ゆたかな本です。
 「戦後民主主義は今もなお未完のプロジェクトである。」といった人がいるけど、これ読んでると、その言い方にも一理あるなと思えてくる。
 著者名はあくまで「文部省」(いまの文部科学省)だから、具体的にどんな人が、どんなチームが寄稿したのかはわからない。でも敗戦からわずか3、4年なんだから、その人たちも当時は役人としてあの戦争に協力してたわけだよね。これほど聡明で、物事をわきまえた人たちが官僚の中に揃ってたのに、戦争に対しては、ついに無力でしかなかったんだなあと。
 そんなことを考えてもみたりね。
 戦前っていうか、なんか昭和の初め頃って「暗黒時代」みたいに思ってる人が多いかもしれないけども、じつはそれほどでもないのな。そりゃ今日の感覚からすりゃ貧しかったし、抑圧も強かったし、要人へのテロも起こってたけど、それなりに豊かで、技術水準もそこそこ高くて、のんびりしたとこもあったんだよね。それは谷崎潤一郎の『細雪』(新潮/中公文庫)なんかを読んでもわかる。
 いよいよ切迫してくるのはやっぱアメリカと戦争を始めてからですよ。いわゆる太平洋戦争。だから1941(昭和16)からの4年間ね。このへんは確かに暗黒というのがふさわしい。食うもんがない。アタマの上から爆弾が降ってくる。ほかにもいっぱいあるけど、この2つ挙げりゃあ充分でしょ。
 この時期は言論の自由なんてのもなくて、作家も評論家も沈黙を強いられたり、むしろ進んで軍国ニッポンに加担したりもしたけれど、その手前の時期、つまり大正から昭和の劈頭(へきとう)まではそうでもなくて、いまでいう「リベラル」な傾向も少しはあった。
 一般ピープルはともかく、いわゆる「知識人」のレベルはたいそう高かったしね。いっぱい本を読んでてさ。
 サブカルっつったら寄席か映画くらいしかないもんで、気を紛らわす娯楽があんまし無くて、そのぶん本をどっさり読むんだな。
 だから『民主主義』を著した文部官僚の方々も、べつに敗戦から3年で猛勉強して「民主主義」を学んだわけじゃなく、その前に、学生の頃からちゃんとインテリとしての自己形成をしてたわけですよ。だからこそこういうものも書ける。
 1980(昭和55)年、岩波文庫から『小林秀雄初期文芸論集』ってのが出てね。タイトルどおり、この近代日本の生んだ最大の批評家の初期の論考をコンパクトにまとめてあるんで、今でも重宝してるんだけど、昭和5年から10年くらいまでのあいだに書かれた文章なんか読むと、むちゃくちゃ水準高いのな。
 「純文学」について、ぼく自身もふくめてプロアマ問わずネットの上で色んな人が色んな事を言ってるけど、たいていの議論はここで小林秀雄が書いてることに先取りされちゃってんですよ。しかもずっと緻密に、かつ華麗にね。
 好著『日本の同時代小説』(岩波新書)の斎藤美奈子さんなんて、小林秀雄と読み比べると、ほんとサブカル。つくづくサブカルの人だなあと思う。それでこういうものを書いちゃって、それが天下の岩波から出ちゃうというね。
 でも、ぼくは斎藤さんを貶める気は毛頭なくて、皮肉でもなんでもなしに、いまを代表する「文芸評論家」だと思ってる。『日本の同時代小説』にしても、当座のブックガイドとしては十分に面白いし、便利だしね。
 ようするに、いまはサブカルの人が文芸評論をやる時代なんだって話。
 もっというなら、ますます純文学とサブカルとの境がなくなってきたっつーか、下手すりゃ純文学がサブカルの一部に包摂されかねない時代だぞってことかもしれませんね。
 えーと、そうだなあ。これはむしろ「純文学って何?」のカテゴリーでやる話なんだろうけど、ひとつ言っとくと、「私」という問題がある。
 純文学は自分の身辺まわりの話ばっかやってて社会性がないから詰まらんぞ、いかんぞ、みたいな議論を斎藤さんはやるわけさ。でもこれは、まさに小林秀雄が批評家としてデビューした時分、だからそれこそ昭和の初期なんだけど、「プロレタリア文学論争」みたいな形でさんざやり尽くされた議論でもあったりする。
 プロレタリア文学ってのは「最底辺の労働者」の窮迫ぶりや、「資本家」の冷血ぶりをルポ風に、ドキュメンタリー的な手法でねちっこく描くもんで、「社会性がない」どころか、むしろ「社会性しかない」って言いたいようなジャンル。もちろんそれはそれで大きな意義をもつんだけれど、すると今度は、「じゃあ“ 私 ”はどこ行ったの? どうなるの?」って反動がくるのが人の世の習いってやつでね。
 なんといっても「文学」だからね。計量化できない「私」という切実かつ不可解なる存在のことを、コトバの力でできうるかぎり細やかに、濃密に、深く掘り下げたいって動機がそもそも近代文学の出発点にはあった。
 そうやって「近代」すなわち「明治」は「江戸」と袂(たもと)を分かって自立してったわけね。ニッポンの近代文学ってのはその苦闘の歴史でもある。そのあたりのキビしさってものが、斎藤さん、どこまで身に染みてわかってんのかなあと、ぼくなんかちょっと疑念を覚えるんですよね。 




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