ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

『一言芳談』のこと。

2016-06-25 | 雑読日記(古典からSFまで)
初出 2010年09月。のちに一部を加筆修正。

 『一言芳談』といえば、読んだことはなくとも、たいていの人は名前だけは聞いたことがあるんじゃないか。よく国語の教科書でみる小林秀雄の「無常という事」(昭17)で取り上げられているからだ(最近の教科書はかなりポップになってるらしいけど、小林秀雄の人気は衰えてないようだ)。取り上げられてるっていうよりも、この短いエッセイそのものが、『一言芳談』抄の中の、以下の簡潔な一文から生まれたものだといったほうがいいけれど。


 或云、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。その心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、この世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々。


「ある人が言った。比叡の神社で、偽って巫女のいでたちをした若い女房が、十禅師の御前において、夜がとっぷりと更け、人も寝静まってから、たぁーんたぁーんと鼓を打って、澄みわたった声音で、どうでもいいことでございますよねえ、そうでしょう、ねえねえ? と謡っていた。その気持を人から詰問されて答えたことには、生死無常のありさまを思えば、この世のことはどうでもよい、ただ後の世のことをお助け下さいと申し上げたのです、とのことであった。」


 あえて現代語訳すれば、こんな感じになるだろうか。ちなみに十禅師とは、「コトバンク」によれば、

[1] 〘名〙 昔、宮中の内道場に奉仕した一〇人の僧。知徳兼備の僧をえらんで任命した。内供奉(ないぐぶ)との兼職で、あわせて内供奉十禅師といわれた。
※続日本紀‐宝亀三年(772)三月丁亥「当時称為二十禅師一。其後有レ闕。択二清行者一補レ之」
[2] 日吉山王(ひえさんのう)七社権現の一つ。国常立尊(くにとこたちのみこと)を権現と見ていう称。瓊々杵尊(ににぎのみこと)から数えて第一〇の神に当たり、地蔵菩薩の垂迹(すいじゃく)とする。僧形あるいは童形の神とされた。現在は樹下神社と称し、祭神は鴨玉依姫和魂。
※梁塵秘抄(1179頃)二「神の家の小公達は、八幡の若宮、熊野の若王子子守御前、比叡には山王十禅師」


 ……となるが、ここでは[2]の意味である。現在の滋賀県大津市、日吉大社摂社樹下宮のことだ。ぼくはまだ行ったことはない。

 しかし考えてみると、このシチュエーションはかなり異様だ。女房とは、今みたいにそこいらの奥さんのことではなく、宮中に仕える女性をさす。そんな女性が、なんで夜中にそんな所でそのような真似をしてたんだろう? しかし小林秀雄はそこを追究するわけじゃなく、タイトルどおり、「無常」というテーマだけに的を絞る。今もなお信奉者の絶えない大批評家には違いないけれど、小林さんの文章はどれもみな、気障な文飾が論理の筋目を見えにくくしていて、昔からぼくは好きになれない。厳密にいえばあれは批評(分析)の文体ではなく、小説(レトリック)の文体だ。

 ともあれ、ここで小林秀雄が言いたいのは、「歴史とは、過去から未来に向けて単調に伸びた無味乾燥な年表のようなものじゃなく、われわれがそれを《思い出す》ことによって、いつだって生き生きと眼前に現れ出る現象の集積である。」ということらしい。それこそが「常なるもの」であり、これに相対するのが、「何を考えているのやら、何を言い出すのやら、しでかすのやら、自分のことにせよ他人事にせよ、わかったためしがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。」という「生きている人間」であり、これが「人間の置かれる一種の動物的状態」、すなわち「常ならぬもの」=「無常」であるというわけだ。このような小林一流の(プラトニズム的な?)考え方を、のちに坂口安吾は「教祖の文学」で痛烈に批判した。

 「現代人は、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである。」というのが、この名高いエッセイのラストの決め台詞である。つまり小林は、「なま女房」のことばを、「この世のことなど何ひとつ信用がおけないから、わたしは後の世に望みを託します(それこそが常なるものですから)。」という決然たる意志表示だと解釈しているわけだ。

 しかし、中路正恒さんの「玉依姫という思想」
 を読むと、この小林秀雄の読解自体が、いかにも「現代人」のものだなあと痛感させられる。本来は、もっと神秘的というか、呪術的ともいうべき深遠な含みがあったというのだ。

 あれあれ。『一言芳談』のことを書こうとして、えらく道草を食ってしまった。ここからが本題である。この印象的な短文が含まれている『一言芳談』とは、ちくま学芸文庫版の紹介によると、こうである。「ただよく念仏すべし。石に水をかくるやうなれども、申さば益あるなり……。十三世紀末から十四世紀半ばにかけて成立した仮名法語集。法然上人、明遍僧都、明禅法印など三十四人の念仏行者、遁世者が、ひたすら往生を求めて語りかける。浄土門の信仰が平易なことばで綴られた文言集。」

 つまり、鎌倉から室町にかけての、「他力」を旨とする念仏者たちの箴言やら寸話を集めた法話集といえばいいのか。この本が有名なのは、小林秀雄の功績のほかに、『徒然草』の吉田兼好が心を寄せていたとされるからだ。小林自身が、例の「なま女房」のエピソードをさして、「この文を徒然草のうちに置いても少しも遜色はない。」と言っている(裏返せば、『一言芳談』の中の他の文章は、『徒然草』に比べると数段落ちるといっているわけだが)。

 このあたりのことは、上田三四二の『徒然草を読む』(講談社学術文庫)の「六 補遺」に詳しい。上田さんによれば、兼好は『一言芳談』に対して絶妙な批評的距離を置いている(まあ、すべてに対して絶妙な批評的距離を置くのが吉田兼好というエッセイストの魅力なんだけど)。第九十八段のなかで兼好は、「尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談とかや名づけたる草子を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども」と述べて五つの項目を挙げ、残りは、「この外もありし事ども、覚えず。」と切り捨てている。

 「ああそうか。この五つ以外は忘れちゃったのか。」と通り過ぎるのは高校生の読みであって、ここで兼好が、『一言芳談』のエッセンスとして、自分はこの五項目を採る、あとは認めない、とやんわりと表明しているのを見抜かなければいけない。そして、それら五つの項目とは、「仏の道を願うとは、とりたてて特別のことではなく、暇のある身となって、世間のことを気にかけない。」という心構えと、あとは「自分にまつわるすべてのものを捨てること、持たぬこと、執着せぬこと。」との覚悟に尽きる。

 すべてをうち捨てたうえで、なお不足をかこつことなく、憂いもなしに徒然に生きる。これぞすなわち隠遁者のライフスタイルにほかならず、兼好はふかく共感した。しかしそれ以外の部分となると、概して『一言芳談』はあまりに現世を厭い、生を疎んじすぎている。そりゃあ濁世を逃れて極楽浄土に救いを求めるのが浄土思想の根幹だとはいえ、とことんそこに偏したら、やっぱりそれは、思想としては奇怪な様相を呈することになろう。

 「法然は言うに及ばず、(……)重源の事蹟ひとつをとってみても、彼が東大寺の勧進と別所経営のために発揮した情熱と才幹は、この《捨聖》のけっして《死聖》に終わるものでなかった事情を明らかにしている。」と但し書きを付けたうえで、上田三四二はいう。「『一言芳談』の生が死を待って寝そべっているとすれば、『徒然草』の生は、死ちかきがゆえに覚醒せよと言う。両者の見つけたところが同じ隠遁の境涯だったとしても、その意識のあり方は大変ちがったものだといわねばならない。」……つまり、兼好はここに言行を留める念仏僧たちよりも遥かにしたたかなのだというわけである。

 『徒然草』の岩波文庫版は、昭和3年に出ていらい改訂されて版を重ね続けているが、『一言芳談』のほうは、小林秀雄が読んだであろう岩波文庫版も、そのずっと後、平成10年に出版された小西甚一校注のちくま学芸文庫版も、長らく品切れのままとなっている。おそらく、その理由のひとつはここのところにあるんだろう。そういえばぼくも昔、書店の店頭でぱらぱらと見て、かなり迷ったが結局買いはしなかった。これも同じ理由からである。だけど今は、ちょっと後悔しています。


追記)そのご、古書にて岩波文庫版を入手。思いのほかの名著であった。



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