初出 2009年12月
ぼくたち非キリスト教徒にとって、聖書はけして読みやすい書物とは言えない。近代小説ではないから仕方ないとはいえ、話の流れが粗っぽく、なめらかに繋がっていかない。旧約のほうには、聞き慣れないヘブライの名前がたくさん出てきて、何がなんだか分からないし、新約は何しろ説教くさく、奇跡の御業もどうしたって釈然としない。われわれにとってキリスト教はイスラームより遥かに親しいだろうが、それはバッハの音楽であったり、ラファエロやレオナルドの絵画であったり、NHKやTBSの「世界遺産」で見るサン・ピエトロやミラノやシャルトルやランスやケルンの大聖堂などのイメージに負うところが大きいかと思う。平均的な日本人のなかで、そういった背景の介在なしに、いきなり聖書を読んでキリスト教が腑に落ちたという人は、果たしてどれほどいるだろう。
今年は『カラマーゾフの兄弟』の新訳が出て、けっこう好評なようだ。あれは東方正教会系のキリスト教だけど、ともかくあの作品を読んで、その奥深さに打たれるとする。で、そこからさらに足を進めて、ヨーロッパ(ロシアも含む)文学をきちんとやろうと思い立つ。そこまで来たら、どうしても聖書を読まねば話にならない。かつて私も、そんな調子で聖書を手に取ってはみたものの、やはり早々に投げ出したくなった。それでもまあ、何冊かのガイドブックを頼りに、折りに触れて目を通すよう努力はしてきた。構成と記述の煩雑ささえ乗り越えれば、新約よりも旧約のほうが個人的には読み物として面白い。新約のほうは、記述の矛盾を意識しつつ、テキストの成立過程を憶測しながら読むのがコツで、そうすると小説とは別種の面白さが生まれる。
大雑把にいえば、旧約はその字のとおり、ユダヤ民族と唯一神ヤハウェ(エホバは誤記。この単語は厳密には日本語で表記できない)との古い契約を主題としている。それらは大きく分けて律法(モーセ五書)、歴史書、文学書、預言書、外典から成るが、そこに描き出されるのは古代ユダヤ民族のただならぬ受難の歴史と、にも関わらず一貫して揺らぐことのない神への信仰である。自らの共同体が苦境に陥れば陥るほど、「信」が高まっていく逆説的なダイナミズムこそ、旧約聖書の真骨頂であろう。
いっぽう新約は、キリストの十字架上での死によって、神と人類とのあいだに結ばれた新しい契約のことである。これにより、唯一神ヤハウェはユダヤ民族だけの「主」から、人類全体へと及ぶ普遍(カトリック)なる存在になったというわけだ。ところで、キリストとは「救い主」を示す一般名詞であり、われわれがよく知っているあのナザレの青年ばかりを指すのではない。だから新約聖書は、必ずしもイエスの教えや行状だけを記したものではなく、古代ユダヤ民族が共有していた「救い主の教え」について記した書物だといえる。「イエス」と「キリスト」とは、むろん広範にわたって重なってはいるが、まったくイコールというわけではないのである。これは新約を読む時の大事なポイントだ。
じつは聖書には、イエスの誕生日についての記述はない。ウィキペディア(日本版)にもそう書いてある。以下、その件りを引用させて戴く。
『新約聖書にはイエスの誕生日を特定する記述は一切なく、この日については諸説がある。かつては降誕祭と別に、1月6日をキリストの公現祭として祝う日があった。12月25日の生誕祭は、遅くとも345年には西方教会で始まった。ミトラ教の冬至の祭を引用したものではないかと言われている。(……中略……)キリスト教圏では、クリスマスには主に家族と過ごし、クリスマスツリー(常緑樹。一般にはモミの木)の下にプレゼントを置く。プレゼントを贈り合い、互いの「愛」を確かめる日といえる。ただしこの習慣は、太陽神崇拝など、キリスト教以前の宗教に由来しており、聖書には由来しない。』
そう。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、つまり4福音書のどこにも、「イエスが12月24日の深夜から、翌朝の未明にかけてお生まれになった」なんて記述はまったくないのである。さらにいうと、季節がいつだったかすら分からない。それを特定できるような描写がなく、専門家たちのあいだでも意見が分かれているそうだ。
私たちはよく、雪の降りつのる厩(うまや)の中で、東方の三博士に祝福されて、聖母マリアの腕の中でまどろむ幼子イエスの絵などを見るが、あの情景は、少なくとも聖書の記載に由来するものではない。のちにキリスト教が体系化され、より精緻で豊饒なものになるに従って、あたかも有能な演出家の手になるごとく、膨らんでいったものである。
そもそも4福音書のうち、イエスの誕生に触れているのはマタイとルカの2書のみだ。いちばん古いマルコ書には、イエスはいきなり青年として登場する。逆にもっとも新しいヨハネ書は、人間としてのイエスの生誕については、まったく書き記そうとしていない。ヨハネ書におけるイエスの降誕は次のとおりだ。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」格調はとても高いけど、観念的で、これではとうてい生まれた月日や場所は分からない。
いっぽうマタイ、ルカ書のどちらを見ても、記述者が、イエスの誕生そのものよりも、むしろその前後の周囲の状況のほうを詳しく書こうとしていることにわれわれは気づく。天使による受胎告知もそうだし、東方の博士たち(3人とは限定されていない)の来訪もそうだし、ヘロデ王による幼児虐殺も然りだ。それらはすべて、イエスが神の子であること、そして、それに負けず劣らず重要なこととして、イエスがユダヤ民族の偉大なる王の末裔=新しき王=救い主(キリスト)であることを証し立てるために書かれている。つまり、旧約聖書とイエスとを繋ぎ合わせるために書かれているということだ。
新約の冒頭を飾るマタイ書は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」という一行に始まり、最後、「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンの移住まで14代、バビロンへ移されてからキリストまでが14代である。」に至るまで、じつに1ページのほとんどを費やして、人名の羅列で系譜を綴る。ユダヤの始祖アブラハムから、古代ユダヤのもっとも偉大なる王ダビデを経て、救い主イエスへと途切れなく続いているというわけだ。ところでこれは、イエスの父ヨセフの側の系図である。
しかしイエスは、誰もが知るとおり聖母マリアの処女懐胎によって生まれたとされる。ふつうに読めば、どうしたってこれは矛盾だろう。ここからは二つのことが読み取れると思う。マタイ書が、イエスをユダヤ民族の偉大なる王の末裔=新しき王=救い主(キリスト)とする信仰と、イエスを神の子とする信仰という、系統の異なる二通りの信仰を基盤として成立したこと。もう一つは、こういった齟齬を調整する必要を認めぬくらい、イエスの誕生にまつわる挿話は、いわば「二の次」であったということだ。
降誕についての記述とは逆に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4福音書のすべてにおいて、他の何よりも熱心に記述されているエピソードがある。もちろん、イエスの磔刑による死と、そののちの復活である。ローマ支配下のユダヤ人社会において、いわゆる預言者は彼のほかにも何人かいたと思われ、生前のイエスはその中でも傑出した存在だったには違いないにせよ、あくまでも預言者の一人なのではなかったか。つまりイエスは、復活によって「神の子」たることを真に証明したわけで、その短い生涯における事蹟や、幼児期のことや、処女懐胎などは、おそらくそこから逆算される形で系統づけられていったのではないかと思う。
イエスは刑死ののちの復活によって、「神の子」であり「救い主(キリスト)」であることを顕かにした。キリスト教徒ならざるわれわれにとって、この復活のエピソードはイエスの行なった他のあらゆる奇蹟にも増して謎に満ちているけれども、キリスト教が十字架そのものをシンボルとしていることからも知られるように、これこそがあの宗教における信仰の要であることは間違いがない。
だから最初期におけるキリスト教の中心祭儀はイースター(復活祭)だった。イースターといえば、私などには故チャールズ・シュルツ氏の「スヌーピー」で、ペパミント・パティーとマーシーのふたりが卵の殻に模様を描くギャグのシリーズで馴染み深いが、日本ではハロウィーンよりもまだ認知度が低いだろう。「春分の日以後の満月の次の最初の日曜」に行われるとのことで、ややこしいけど、まあ3月の下旬から4月上旬あたりか。それはまた、春の訪れを祝うユダヤ教の過越し祭の時期とも重なる。イエスが過越し祭のさなかに捕まって十字架にかけられたことは4福音書のすべてに明記されており、さらに復活はその三日後とされているからだ。
聖母マリアからイエスが生まれたことを祝う習慣は、そもそもこの復活祭から派生したものらしい。古い文書には、イエスの生誕は過越しの月の14日ないし15日に設定されているという。復活はすなわち新たな誕生でもあるから、寿ぎの対象として、両者をとくに区分する必要とてなかったのだろう。それに、季節が改まって生命が芽をふく春先は、いかにも生誕の祝いにふさわしい。それがなぜ、まるまるワンシーズンも繰り上げられて、12月25日となったのか。
もともとユダヤの民族信仰であったキリスト教が、ほぼ現在のヨーロッパ全域に広がったのは、もちろん、ローマ帝国がその迫害を諦め、受容して、ついには国教に定めたからである。それ以前のローマでは、ミトラ信仰(「ミトラ教」という言い方は適切ではない)がひろく受け入れられており、じつは12月25日とは、そのミトラ信仰の最高神たる「太陽神」の誕生日だった。こちらは春分ではなく、お察しのとおり、冬至のほうを基準としている。冬至を境に昼の時間が長くなり、陽光が徐々に力を増して、世界はゆっくり春へと向かう。この太陽神を救い主イエスと重ねることで、ローマは民衆のあいだにキリスト教を浸透させるよう図ったのである。
やがて版図の要所に教会が建てられ、ローマ教会がその頂点に立って法王庁となる。のちの「ゲルマンの大移動」による西ローマの瓦解(476年)はご承知のとおりだが、その際に、この法王庁までが潰えたわけではない。「蛮族」といわれたゲルマン諸族だが、むろん帝国のすべてを灰燼に帰してしまったわけでなく、文化的なものをも含めて、いろいろな制度を受け継いでいる。そうでなければ国家の体裁を整えることなどできない。中でも特に大きかったのが、キリスト教との融合だ。
すでにキリスト教の教義や習俗はさまざまな形で根付いていたが、法王庁とゲルマンとが分かちがたく結びついたのは、フランク王国のカールが、教皇レオⅢ世によって、再興ローマ帝国皇帝の冠を授けられた際だ。この頃には降誕祭もすっかり一般的になっていただろう。カールの戴冠は西暦800年の、まさにクリスマスの日のことだった。地上の権力と天上の権威との結合によって、大帝=教皇の覇権は揺るぎないものとなり、ここに現在の西ヨーロッパの礎が固まる。そしてそれからほぼ一千年ののち、産業革命を経た西欧は「帝国主義」を押し立てて世界に繰り出し、かくして今、アメリカはおろか我が日本においてまで、歳末商戦がかまびすしいという次第だ。
ぼくは今回、考証を楽しみたかったわけではない。われわれがふだん当たり前のように営んでいる行いであれ、ちょっと蓋を開けてみれば、色々と奥が深いと言いたかったのだ。欧米の精神文化の基底に横たわるユダヤ的なるものについて、まだまだ知らない事が多いということも指摘しておきたい。伝統の長さを誇りにしているのはなにも日本や中国だけではない。アメリカの強固な同盟国たるイスラエルの国旗には、「ダビデの星」が輝いている。
聖書について、ほんのちょっぴり語ってみました。
初出 2014年07月
近所の子どもが、「ありの~、ママと~、きりぎりすのパパが~」と歌っていた。自分で考えたんだとしたら、ま、なかなかオモロいね。(注・「アナ雪」が流行ってた頃の記事なのです。もとの文章にはこのあとしばらく前置きが続きますが、それは割愛しましょう)
旧約聖書の劈頭は、「初めに、神は天地を創造された。」と始まる。シンプルな、有無を言わせぬ出だしである。これに対し、新約聖書の「ヨハネによる福音書」のオープニングは「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」と妙に形而上的なのだ。ロゴス中心主義というか、いわばロゴス根源主義だな。似たようなことを言い換えながら変奏していく按配で、ぎくしゃくして、論理的にはおかしいのだが、ここまで「言葉」を重んじて、「神」と同格にまで持ち上げて頂けるなら、言葉フリークのぼくとしては高い評価を下さざるをえない。「ヨハネによる福音書」は、ぼくは聖書のなかではかなり好きである。
「テクストとしての聖書」を、成立過程に遡るかたちで、文献学的に読み解いていくのはずいぶんとスリリングな作業だと思う。新書や選書サイズでもけっこう充実した参考書が出ているが、しかし、そういった学問上の成果をいったんカッコに括って、できるだけアタマを空っぽにして、虚心坦懐に聖書の字句を読んでいくのも一興ではないか。「創世記」の文体は「ヨハネ福音書」のそれに比べてはるかに素朴な印象であるが、シンプルで素朴なゆえに一直線にぐいぐいと進んでいくかというとそうでもなくて、こちらもどうもごたごたしている。そのごたごたぶりが、またいかにも稚拙なのである。まず神は「光あれ。」と命じて光を生ぜしめ、昼と夜とを分かつのだが、その3日後に「天の大空に光る物があって、昼と夜とを分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。」などとおっしゃるのである。おいおい。昼と夜とは最初に分けたんとちゃうんかい。そやからその日が「第四の日」になったんとちゃうんかい。そのときに初めて昼と夜とが分かれたんなら、それまでは日付の観念もないわけで、どうしたって、その日が初日になるやろが。
といった具合でなんとも出鱈目と言うしかなく、記述者集団のなかに、全体を統括して一貫性を持たせる「監督」はいなかったのかと不思議になる。こういった齟齬をねちねちと突っついた研究ってものは歴史上果たしてあったんだろうか。たぶんなかっただろうなあ。キリスト教徒の人たちは、どのように自分を納得させているのかな。それとも、そんなこといちいち考えんか。まあ、こういった矛盾や混乱をありのママで、きりぎりすのパパで素直に受け容れ、あまつさえ神秘性さえ感じ取ってしまうのが「信仰」なり「信仰者」のありかたなんだろうとは思う。ようするに「神」はどんな星よりも太陽よりも偉大にして先行する存在者であって、けっして「太陽神」なんてものではないと言いたいのだろう。「光」さえも神の被造物であり、その管轄を、あとから製作した「天体」に委ねたというわけだ。だって、とりあえず「光」を作っておかないと、まったき闇の中で天地創造を執り行うことになって、それは絵柄としてもおかしい。それにしても、神は光を作るまではどのような状態で過ごしていたのか、時間と空間はどうなっていたのかという疑問が直ちに湧き上がるけれど、これは「ビッグバン以前」について思考するのとほとんど同じことだろう。キリスト教が、世界の起源を唯一神に帰するのはまだよいとして、なぜその神の起源を問わぬのだろう?という疑念は子供の頃からぼくの頭を去ったことがない。
一ページ目からそんなことを思い巡らせるから、なかなか先へ進まないのだが、旧約の唯一神が他民族のあまたの神々に比して際立っている点は、人間を造り、人類が地に満ちるや否や、間髪を入れず「あれをしろ」「これはするな」とバシバシ命令を下すところであろう。そして、「神は我のみを崇めよ。なにがあろうと他の神(邪神)に心を奪われるなかれ。」としつこいくらい強調するのだ。下手すると、「神(自分)への信仰をおろそかにすること」が、「殺人」よりも重い罪になりかねぬ勢いである。ここがまことに恐ろしい。この苛烈さは、少なくとも明文化された形では、ほかの神話には類のないものだ。というより、その苛烈さゆえに、もともとは一つの神話(物語)でしかなかったはずのこのテクストが、最強の「聖典」になってしまったのだともいえる。
それにつけても、聖書を読むと、ひとってものは物語を求めてやまない生き物だなあとつくづく思う。人間を動物から隔てる定義はいくつかあろうが、「人間とは、物語をつくり、それを消費するものである。」というのも十分に成立しそうだ。なまじ大脳が異常に発達してしまったために、「世界」とダイレクトに向き合うことができない。「あるがままの世界」というものが、さながら不可解な混沌のように感じられてしまい、それに自分なりの解釈を施さなければ耐えられぬのである。そして、その物語製作および消費のサイクルは今もなお終わることがない。のみならず、文明が複雑になればなるほど、必要とされる物語もまた複雑さを増していく。じつのところ、根底を貫く原理はあっけないほど単純だったりもするのだが、しかし見かけの上ではわれわれの現代社会は、きわめて多様で錯綜する大量の物語を抱え込んでしまっている。ように映る。聖書はそれら無数の物語の重要な源泉のひとつであり、やはり大変な古典だと思う。ただ、現実を侵食し、時として凌駕してしまうことがあるから物語ってものはとことんオソロシイのであり、そのオソロシサには常に気をつけていなくてはいけない。
空の空。空の空なる哉。/肉は悲し、なべての書は読まれたり。
初出 2009年10月
「空の空。空の空なる哉。すべて空なり。日の下に人の労して為すところの諸々の働きは、その身に何の益かあらん。世は去り世は来る。地は永久に保つなり。日は出で日は入り、またその出でし処に喘ぎゆくなり。風は南に行きまた廻りて北に向かい、巡りに巡りて行き、風またその巡る処にかえる。河はみな海に流れ入る。海は満つることなし。河はその出できたれる処にまた還りゆくなり。萬のものは労苦す。人これを言い尽くすこと能わず。目は見るに飽くことなく、耳は聞くに充つることなし。先に在りしものはまた後にあるべし。先に成りしことはまた後に成るべし。日の下には新しき者あらざるなり。見よこれは新しき者なりと指して言うべき物あるや。それは我らの前にありし世々すでに久しくありたる者なり。己前のものの事はこれを覚ゆることなし。以後のものの事もまた後に出づる者これを覚ゆることあらじ」(旧約聖書・文語訳版 伝道之書《コヘレトの言葉》より)
この「コヘレトの言葉」、結局は「神を畏れ、その戒めを守れ」で締め括られるんだけど、ずっと昔に読んだとき、信仰を説く書物のなかで、これほどのニヒリズムが語られるってどうなんだろうと思った。「さすが聖書は懐が深い」ではすまない。とはいえこれ、虚無思想には違いないけど、ボードレール流の「近代の倦怠」とはぜんぜん違う。だって、「目は見るに飽くことなく、耳は聞くに充つることなし。」ですよ? ボードレールなら、すなわち近代人の病んだ自意識ならば、「すでに目はすべてのものを見飽きたし、耳はすべてを聞き飽きてしまった。」というところだ。まったくの正反対、さいきんの用語で言えば真逆ってやつ。つまりここでは、人間の為しうる営為の無力さを強調することで、のちに来る「神の恩寵」を準備しているのであろう。だとすれば、これをしてニヒリズムと呼ぶことそのものが、ひょっとしたら不適切なのかもしれない。
「肉体は悲しく、ああ! 書物はすべて読んでしまった。」(シュテファン・マラルメ『海の微風』)
「肉は悲し、なべての書(ふみ)は読まれたり。」という簡潔な文語訳で記憶してたんだけど、改めて調べてみたところ、そういう訳はないようだ。開高健が好んで引用していた記憶があるんだけどなあ。名訳の誉れ高き鈴木信太郎ヴァージョンは、「肉体は悲し、ああ、われは全ての書を読みぬ。」とのことだし、西脇順三郎訳でもない。あるいは開高さん自身のアレンジだったのか……。というわけで今回は、岩波文庫『フランス名詩選』に載っている渋沢孝輔訳で参りましょう。
昨日は「コヘレトの言葉」に対してボードレール(1821 文政4~ 1867 慶応3)を引き合いに出したが、「近代の倦怠」をいうのなら、それをさらに先まで(ほぼ極限まで?)突き詰めたのがこのマラルメ(1842 天保13~ 1898 明治31)の言葉だろう。今さら言うのもなんだけど、マラルメは本当に難しい。ブランショの『来たるべき書物』(ちくま学芸文庫)を思い起こすまでもなく、文学の極北のひとつといっていいかと思う。それこそボードレールとか、ランボーやロートレアモンは翻訳でもけっこう興奮するんだけど、マラルメだけはほんとにだめで、まだしもヴァレリーのほうが取っ付きやすく思えるほどだ。
しかし今回の記事を書こうと久しぶりにこの『海の微風』を読み返したら、以前よりはすんなりイメージの流れが辿れた気がする。あまりにも有名なこの詩句のあと、二行目では「逃れよう! 彼方へと逃れよう!」と脱出願望をあからさまに謳い、そしてその逃避行の行く先は「鳥たちが未知の水泡(みなわ)と天空のあわいにあって酔い痴れている」海へと定まる。
「瞳に映る古い庭園」、すなわち過去の遺産は、もはや「海に浸っている」わたしの心を引き止められない。続く六行目の文頭で、「おお夜よ!」と、詩篇の空気をいきなり闇の色に塗り込め、それとの対比で「白さが護り固めている空虚な紙の上」を際立たせる。その紙の上を照らす「わがランプの荒涼たる明るさ」も、「子供に乳をやっている若い妻」、すなわち家族への情愛も、やはりわたしの心を引き止められない。「わたしは発つだろう! 帆柱帆桁を揺すっている蒸気船よ、異国の自然に向けて錨をあげよ!」
「わたし」の出発とは、たんにリアリスティックな意味で旅行に出るってだけじゃなく、「詩を書く」(それも、万感の書を読み尽くしたあとで)という行為そのものをも指し示しているんだと思う。だから「瞳に映る古い庭園」および「子供に乳をやっている若い妻」と、「白さが護り固めている空虚な紙の上の/わがランプの荒涼たる明るさ」とが同列に並置されているのは論理的にはおかしい。「書けない」ことの不毛さと、「書こうとする意志」とが一緒くたになっているからだ。
そしてこの自家撞着が、最終連の「《倦怠》は、残酷な希望に荒みながらも、/なお信じているのだ ハンカチを振る最後の別れを!/しかも、おそらくは、船は、嵐を招び、/疾風に傾いて難破へとむかうのか/マストもなく、マストもなく、肥沃な小島もなく、消え失せて……」という不吉な情景を呼び寄せる。「書けない」ことを承知のうえで「書こうとする意志」を貫くのだから、そういう顛末にもなるだろう。されど、このような破綻を予期しつつも、詩篇は「だが、おおわが心よ、聞け、水夫たちの歌を!」と、自らを鼓舞するような呼びかけで終わる。こう見ていくと、近代の自意識ってやつはほとほと重層的で屈折していて、とうてい一筋縄ではいかないことがよくわかる。「コヘレトの言葉」からマラルメのこの一句への変遷に、「西欧」の精神史が凝縮されている気さえする、といったら言いすぎだろうか?
ぼくたち非キリスト教徒にとって、聖書はけして読みやすい書物とは言えない。近代小説ではないから仕方ないとはいえ、話の流れが粗っぽく、なめらかに繋がっていかない。旧約のほうには、聞き慣れないヘブライの名前がたくさん出てきて、何がなんだか分からないし、新約は何しろ説教くさく、奇跡の御業もどうしたって釈然としない。われわれにとってキリスト教はイスラームより遥かに親しいだろうが、それはバッハの音楽であったり、ラファエロやレオナルドの絵画であったり、NHKやTBSの「世界遺産」で見るサン・ピエトロやミラノやシャルトルやランスやケルンの大聖堂などのイメージに負うところが大きいかと思う。平均的な日本人のなかで、そういった背景の介在なしに、いきなり聖書を読んでキリスト教が腑に落ちたという人は、果たしてどれほどいるだろう。
今年は『カラマーゾフの兄弟』の新訳が出て、けっこう好評なようだ。あれは東方正教会系のキリスト教だけど、ともかくあの作品を読んで、その奥深さに打たれるとする。で、そこからさらに足を進めて、ヨーロッパ(ロシアも含む)文学をきちんとやろうと思い立つ。そこまで来たら、どうしても聖書を読まねば話にならない。かつて私も、そんな調子で聖書を手に取ってはみたものの、やはり早々に投げ出したくなった。それでもまあ、何冊かのガイドブックを頼りに、折りに触れて目を通すよう努力はしてきた。構成と記述の煩雑ささえ乗り越えれば、新約よりも旧約のほうが個人的には読み物として面白い。新約のほうは、記述の矛盾を意識しつつ、テキストの成立過程を憶測しながら読むのがコツで、そうすると小説とは別種の面白さが生まれる。
大雑把にいえば、旧約はその字のとおり、ユダヤ民族と唯一神ヤハウェ(エホバは誤記。この単語は厳密には日本語で表記できない)との古い契約を主題としている。それらは大きく分けて律法(モーセ五書)、歴史書、文学書、預言書、外典から成るが、そこに描き出されるのは古代ユダヤ民族のただならぬ受難の歴史と、にも関わらず一貫して揺らぐことのない神への信仰である。自らの共同体が苦境に陥れば陥るほど、「信」が高まっていく逆説的なダイナミズムこそ、旧約聖書の真骨頂であろう。
いっぽう新約は、キリストの十字架上での死によって、神と人類とのあいだに結ばれた新しい契約のことである。これにより、唯一神ヤハウェはユダヤ民族だけの「主」から、人類全体へと及ぶ普遍(カトリック)なる存在になったというわけだ。ところで、キリストとは「救い主」を示す一般名詞であり、われわれがよく知っているあのナザレの青年ばかりを指すのではない。だから新約聖書は、必ずしもイエスの教えや行状だけを記したものではなく、古代ユダヤ民族が共有していた「救い主の教え」について記した書物だといえる。「イエス」と「キリスト」とは、むろん広範にわたって重なってはいるが、まったくイコールというわけではないのである。これは新約を読む時の大事なポイントだ。
じつは聖書には、イエスの誕生日についての記述はない。ウィキペディア(日本版)にもそう書いてある。以下、その件りを引用させて戴く。
『新約聖書にはイエスの誕生日を特定する記述は一切なく、この日については諸説がある。かつては降誕祭と別に、1月6日をキリストの公現祭として祝う日があった。12月25日の生誕祭は、遅くとも345年には西方教会で始まった。ミトラ教の冬至の祭を引用したものではないかと言われている。(……中略……)キリスト教圏では、クリスマスには主に家族と過ごし、クリスマスツリー(常緑樹。一般にはモミの木)の下にプレゼントを置く。プレゼントを贈り合い、互いの「愛」を確かめる日といえる。ただしこの習慣は、太陽神崇拝など、キリスト教以前の宗教に由来しており、聖書には由来しない。』
そう。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、つまり4福音書のどこにも、「イエスが12月24日の深夜から、翌朝の未明にかけてお生まれになった」なんて記述はまったくないのである。さらにいうと、季節がいつだったかすら分からない。それを特定できるような描写がなく、専門家たちのあいだでも意見が分かれているそうだ。
私たちはよく、雪の降りつのる厩(うまや)の中で、東方の三博士に祝福されて、聖母マリアの腕の中でまどろむ幼子イエスの絵などを見るが、あの情景は、少なくとも聖書の記載に由来するものではない。のちにキリスト教が体系化され、より精緻で豊饒なものになるに従って、あたかも有能な演出家の手になるごとく、膨らんでいったものである。
そもそも4福音書のうち、イエスの誕生に触れているのはマタイとルカの2書のみだ。いちばん古いマルコ書には、イエスはいきなり青年として登場する。逆にもっとも新しいヨハネ書は、人間としてのイエスの生誕については、まったく書き記そうとしていない。ヨハネ書におけるイエスの降誕は次のとおりだ。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」格調はとても高いけど、観念的で、これではとうてい生まれた月日や場所は分からない。
いっぽうマタイ、ルカ書のどちらを見ても、記述者が、イエスの誕生そのものよりも、むしろその前後の周囲の状況のほうを詳しく書こうとしていることにわれわれは気づく。天使による受胎告知もそうだし、東方の博士たち(3人とは限定されていない)の来訪もそうだし、ヘロデ王による幼児虐殺も然りだ。それらはすべて、イエスが神の子であること、そして、それに負けず劣らず重要なこととして、イエスがユダヤ民族の偉大なる王の末裔=新しき王=救い主(キリスト)であることを証し立てるために書かれている。つまり、旧約聖書とイエスとを繋ぎ合わせるために書かれているということだ。
新約の冒頭を飾るマタイ書は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」という一行に始まり、最後、「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンの移住まで14代、バビロンへ移されてからキリストまでが14代である。」に至るまで、じつに1ページのほとんどを費やして、人名の羅列で系譜を綴る。ユダヤの始祖アブラハムから、古代ユダヤのもっとも偉大なる王ダビデを経て、救い主イエスへと途切れなく続いているというわけだ。ところでこれは、イエスの父ヨセフの側の系図である。
しかしイエスは、誰もが知るとおり聖母マリアの処女懐胎によって生まれたとされる。ふつうに読めば、どうしたってこれは矛盾だろう。ここからは二つのことが読み取れると思う。マタイ書が、イエスをユダヤ民族の偉大なる王の末裔=新しき王=救い主(キリスト)とする信仰と、イエスを神の子とする信仰という、系統の異なる二通りの信仰を基盤として成立したこと。もう一つは、こういった齟齬を調整する必要を認めぬくらい、イエスの誕生にまつわる挿話は、いわば「二の次」であったということだ。
降誕についての記述とは逆に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4福音書のすべてにおいて、他の何よりも熱心に記述されているエピソードがある。もちろん、イエスの磔刑による死と、そののちの復活である。ローマ支配下のユダヤ人社会において、いわゆる預言者は彼のほかにも何人かいたと思われ、生前のイエスはその中でも傑出した存在だったには違いないにせよ、あくまでも預言者の一人なのではなかったか。つまりイエスは、復活によって「神の子」たることを真に証明したわけで、その短い生涯における事蹟や、幼児期のことや、処女懐胎などは、おそらくそこから逆算される形で系統づけられていったのではないかと思う。
イエスは刑死ののちの復活によって、「神の子」であり「救い主(キリスト)」であることを顕かにした。キリスト教徒ならざるわれわれにとって、この復活のエピソードはイエスの行なった他のあらゆる奇蹟にも増して謎に満ちているけれども、キリスト教が十字架そのものをシンボルとしていることからも知られるように、これこそがあの宗教における信仰の要であることは間違いがない。
だから最初期におけるキリスト教の中心祭儀はイースター(復活祭)だった。イースターといえば、私などには故チャールズ・シュルツ氏の「スヌーピー」で、ペパミント・パティーとマーシーのふたりが卵の殻に模様を描くギャグのシリーズで馴染み深いが、日本ではハロウィーンよりもまだ認知度が低いだろう。「春分の日以後の満月の次の最初の日曜」に行われるとのことで、ややこしいけど、まあ3月の下旬から4月上旬あたりか。それはまた、春の訪れを祝うユダヤ教の過越し祭の時期とも重なる。イエスが過越し祭のさなかに捕まって十字架にかけられたことは4福音書のすべてに明記されており、さらに復活はその三日後とされているからだ。
聖母マリアからイエスが生まれたことを祝う習慣は、そもそもこの復活祭から派生したものらしい。古い文書には、イエスの生誕は過越しの月の14日ないし15日に設定されているという。復活はすなわち新たな誕生でもあるから、寿ぎの対象として、両者をとくに区分する必要とてなかったのだろう。それに、季節が改まって生命が芽をふく春先は、いかにも生誕の祝いにふさわしい。それがなぜ、まるまるワンシーズンも繰り上げられて、12月25日となったのか。
もともとユダヤの民族信仰であったキリスト教が、ほぼ現在のヨーロッパ全域に広がったのは、もちろん、ローマ帝国がその迫害を諦め、受容して、ついには国教に定めたからである。それ以前のローマでは、ミトラ信仰(「ミトラ教」という言い方は適切ではない)がひろく受け入れられており、じつは12月25日とは、そのミトラ信仰の最高神たる「太陽神」の誕生日だった。こちらは春分ではなく、お察しのとおり、冬至のほうを基準としている。冬至を境に昼の時間が長くなり、陽光が徐々に力を増して、世界はゆっくり春へと向かう。この太陽神を救い主イエスと重ねることで、ローマは民衆のあいだにキリスト教を浸透させるよう図ったのである。
やがて版図の要所に教会が建てられ、ローマ教会がその頂点に立って法王庁となる。のちの「ゲルマンの大移動」による西ローマの瓦解(476年)はご承知のとおりだが、その際に、この法王庁までが潰えたわけではない。「蛮族」といわれたゲルマン諸族だが、むろん帝国のすべてを灰燼に帰してしまったわけでなく、文化的なものをも含めて、いろいろな制度を受け継いでいる。そうでなければ国家の体裁を整えることなどできない。中でも特に大きかったのが、キリスト教との融合だ。
すでにキリスト教の教義や習俗はさまざまな形で根付いていたが、法王庁とゲルマンとが分かちがたく結びついたのは、フランク王国のカールが、教皇レオⅢ世によって、再興ローマ帝国皇帝の冠を授けられた際だ。この頃には降誕祭もすっかり一般的になっていただろう。カールの戴冠は西暦800年の、まさにクリスマスの日のことだった。地上の権力と天上の権威との結合によって、大帝=教皇の覇権は揺るぎないものとなり、ここに現在の西ヨーロッパの礎が固まる。そしてそれからほぼ一千年ののち、産業革命を経た西欧は「帝国主義」を押し立てて世界に繰り出し、かくして今、アメリカはおろか我が日本においてまで、歳末商戦がかまびすしいという次第だ。
ぼくは今回、考証を楽しみたかったわけではない。われわれがふだん当たり前のように営んでいる行いであれ、ちょっと蓋を開けてみれば、色々と奥が深いと言いたかったのだ。欧米の精神文化の基底に横たわるユダヤ的なるものについて、まだまだ知らない事が多いということも指摘しておきたい。伝統の長さを誇りにしているのはなにも日本や中国だけではない。アメリカの強固な同盟国たるイスラエルの国旗には、「ダビデの星」が輝いている。
聖書について、ほんのちょっぴり語ってみました。
初出 2014年07月
近所の子どもが、「ありの~、ママと~、きりぎりすのパパが~」と歌っていた。自分で考えたんだとしたら、ま、なかなかオモロいね。(注・「アナ雪」が流行ってた頃の記事なのです。もとの文章にはこのあとしばらく前置きが続きますが、それは割愛しましょう)
旧約聖書の劈頭は、「初めに、神は天地を創造された。」と始まる。シンプルな、有無を言わせぬ出だしである。これに対し、新約聖書の「ヨハネによる福音書」のオープニングは「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」と妙に形而上的なのだ。ロゴス中心主義というか、いわばロゴス根源主義だな。似たようなことを言い換えながら変奏していく按配で、ぎくしゃくして、論理的にはおかしいのだが、ここまで「言葉」を重んじて、「神」と同格にまで持ち上げて頂けるなら、言葉フリークのぼくとしては高い評価を下さざるをえない。「ヨハネによる福音書」は、ぼくは聖書のなかではかなり好きである。
「テクストとしての聖書」を、成立過程に遡るかたちで、文献学的に読み解いていくのはずいぶんとスリリングな作業だと思う。新書や選書サイズでもけっこう充実した参考書が出ているが、しかし、そういった学問上の成果をいったんカッコに括って、できるだけアタマを空っぽにして、虚心坦懐に聖書の字句を読んでいくのも一興ではないか。「創世記」の文体は「ヨハネ福音書」のそれに比べてはるかに素朴な印象であるが、シンプルで素朴なゆえに一直線にぐいぐいと進んでいくかというとそうでもなくて、こちらもどうもごたごたしている。そのごたごたぶりが、またいかにも稚拙なのである。まず神は「光あれ。」と命じて光を生ぜしめ、昼と夜とを分かつのだが、その3日後に「天の大空に光る物があって、昼と夜とを分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。」などとおっしゃるのである。おいおい。昼と夜とは最初に分けたんとちゃうんかい。そやからその日が「第四の日」になったんとちゃうんかい。そのときに初めて昼と夜とが分かれたんなら、それまでは日付の観念もないわけで、どうしたって、その日が初日になるやろが。
といった具合でなんとも出鱈目と言うしかなく、記述者集団のなかに、全体を統括して一貫性を持たせる「監督」はいなかったのかと不思議になる。こういった齟齬をねちねちと突っついた研究ってものは歴史上果たしてあったんだろうか。たぶんなかっただろうなあ。キリスト教徒の人たちは、どのように自分を納得させているのかな。それとも、そんなこといちいち考えんか。まあ、こういった矛盾や混乱をありのママで、きりぎりすのパパで素直に受け容れ、あまつさえ神秘性さえ感じ取ってしまうのが「信仰」なり「信仰者」のありかたなんだろうとは思う。ようするに「神」はどんな星よりも太陽よりも偉大にして先行する存在者であって、けっして「太陽神」なんてものではないと言いたいのだろう。「光」さえも神の被造物であり、その管轄を、あとから製作した「天体」に委ねたというわけだ。だって、とりあえず「光」を作っておかないと、まったき闇の中で天地創造を執り行うことになって、それは絵柄としてもおかしい。それにしても、神は光を作るまではどのような状態で過ごしていたのか、時間と空間はどうなっていたのかという疑問が直ちに湧き上がるけれど、これは「ビッグバン以前」について思考するのとほとんど同じことだろう。キリスト教が、世界の起源を唯一神に帰するのはまだよいとして、なぜその神の起源を問わぬのだろう?という疑念は子供の頃からぼくの頭を去ったことがない。
一ページ目からそんなことを思い巡らせるから、なかなか先へ進まないのだが、旧約の唯一神が他民族のあまたの神々に比して際立っている点は、人間を造り、人類が地に満ちるや否や、間髪を入れず「あれをしろ」「これはするな」とバシバシ命令を下すところであろう。そして、「神は我のみを崇めよ。なにがあろうと他の神(邪神)に心を奪われるなかれ。」としつこいくらい強調するのだ。下手すると、「神(自分)への信仰をおろそかにすること」が、「殺人」よりも重い罪になりかねぬ勢いである。ここがまことに恐ろしい。この苛烈さは、少なくとも明文化された形では、ほかの神話には類のないものだ。というより、その苛烈さゆえに、もともとは一つの神話(物語)でしかなかったはずのこのテクストが、最強の「聖典」になってしまったのだともいえる。
それにつけても、聖書を読むと、ひとってものは物語を求めてやまない生き物だなあとつくづく思う。人間を動物から隔てる定義はいくつかあろうが、「人間とは、物語をつくり、それを消費するものである。」というのも十分に成立しそうだ。なまじ大脳が異常に発達してしまったために、「世界」とダイレクトに向き合うことができない。「あるがままの世界」というものが、さながら不可解な混沌のように感じられてしまい、それに自分なりの解釈を施さなければ耐えられぬのである。そして、その物語製作および消費のサイクルは今もなお終わることがない。のみならず、文明が複雑になればなるほど、必要とされる物語もまた複雑さを増していく。じつのところ、根底を貫く原理はあっけないほど単純だったりもするのだが、しかし見かけの上ではわれわれの現代社会は、きわめて多様で錯綜する大量の物語を抱え込んでしまっている。ように映る。聖書はそれら無数の物語の重要な源泉のひとつであり、やはり大変な古典だと思う。ただ、現実を侵食し、時として凌駕してしまうことがあるから物語ってものはとことんオソロシイのであり、そのオソロシサには常に気をつけていなくてはいけない。
空の空。空の空なる哉。/肉は悲し、なべての書は読まれたり。
初出 2009年10月
「空の空。空の空なる哉。すべて空なり。日の下に人の労して為すところの諸々の働きは、その身に何の益かあらん。世は去り世は来る。地は永久に保つなり。日は出で日は入り、またその出でし処に喘ぎゆくなり。風は南に行きまた廻りて北に向かい、巡りに巡りて行き、風またその巡る処にかえる。河はみな海に流れ入る。海は満つることなし。河はその出できたれる処にまた還りゆくなり。萬のものは労苦す。人これを言い尽くすこと能わず。目は見るに飽くことなく、耳は聞くに充つることなし。先に在りしものはまた後にあるべし。先に成りしことはまた後に成るべし。日の下には新しき者あらざるなり。見よこれは新しき者なりと指して言うべき物あるや。それは我らの前にありし世々すでに久しくありたる者なり。己前のものの事はこれを覚ゆることなし。以後のものの事もまた後に出づる者これを覚ゆることあらじ」(旧約聖書・文語訳版 伝道之書《コヘレトの言葉》より)
この「コヘレトの言葉」、結局は「神を畏れ、その戒めを守れ」で締め括られるんだけど、ずっと昔に読んだとき、信仰を説く書物のなかで、これほどのニヒリズムが語られるってどうなんだろうと思った。「さすが聖書は懐が深い」ではすまない。とはいえこれ、虚無思想には違いないけど、ボードレール流の「近代の倦怠」とはぜんぜん違う。だって、「目は見るに飽くことなく、耳は聞くに充つることなし。」ですよ? ボードレールなら、すなわち近代人の病んだ自意識ならば、「すでに目はすべてのものを見飽きたし、耳はすべてを聞き飽きてしまった。」というところだ。まったくの正反対、さいきんの用語で言えば真逆ってやつ。つまりここでは、人間の為しうる営為の無力さを強調することで、のちに来る「神の恩寵」を準備しているのであろう。だとすれば、これをしてニヒリズムと呼ぶことそのものが、ひょっとしたら不適切なのかもしれない。
「肉体は悲しく、ああ! 書物はすべて読んでしまった。」(シュテファン・マラルメ『海の微風』)
「肉は悲し、なべての書(ふみ)は読まれたり。」という簡潔な文語訳で記憶してたんだけど、改めて調べてみたところ、そういう訳はないようだ。開高健が好んで引用していた記憶があるんだけどなあ。名訳の誉れ高き鈴木信太郎ヴァージョンは、「肉体は悲し、ああ、われは全ての書を読みぬ。」とのことだし、西脇順三郎訳でもない。あるいは開高さん自身のアレンジだったのか……。というわけで今回は、岩波文庫『フランス名詩選』に載っている渋沢孝輔訳で参りましょう。
昨日は「コヘレトの言葉」に対してボードレール(1821 文政4~ 1867 慶応3)を引き合いに出したが、「近代の倦怠」をいうのなら、それをさらに先まで(ほぼ極限まで?)突き詰めたのがこのマラルメ(1842 天保13~ 1898 明治31)の言葉だろう。今さら言うのもなんだけど、マラルメは本当に難しい。ブランショの『来たるべき書物』(ちくま学芸文庫)を思い起こすまでもなく、文学の極北のひとつといっていいかと思う。それこそボードレールとか、ランボーやロートレアモンは翻訳でもけっこう興奮するんだけど、マラルメだけはほんとにだめで、まだしもヴァレリーのほうが取っ付きやすく思えるほどだ。
しかし今回の記事を書こうと久しぶりにこの『海の微風』を読み返したら、以前よりはすんなりイメージの流れが辿れた気がする。あまりにも有名なこの詩句のあと、二行目では「逃れよう! 彼方へと逃れよう!」と脱出願望をあからさまに謳い、そしてその逃避行の行く先は「鳥たちが未知の水泡(みなわ)と天空のあわいにあって酔い痴れている」海へと定まる。
「瞳に映る古い庭園」、すなわち過去の遺産は、もはや「海に浸っている」わたしの心を引き止められない。続く六行目の文頭で、「おお夜よ!」と、詩篇の空気をいきなり闇の色に塗り込め、それとの対比で「白さが護り固めている空虚な紙の上」を際立たせる。その紙の上を照らす「わがランプの荒涼たる明るさ」も、「子供に乳をやっている若い妻」、すなわち家族への情愛も、やはりわたしの心を引き止められない。「わたしは発つだろう! 帆柱帆桁を揺すっている蒸気船よ、異国の自然に向けて錨をあげよ!」
「わたし」の出発とは、たんにリアリスティックな意味で旅行に出るってだけじゃなく、「詩を書く」(それも、万感の書を読み尽くしたあとで)という行為そのものをも指し示しているんだと思う。だから「瞳に映る古い庭園」および「子供に乳をやっている若い妻」と、「白さが護り固めている空虚な紙の上の/わがランプの荒涼たる明るさ」とが同列に並置されているのは論理的にはおかしい。「書けない」ことの不毛さと、「書こうとする意志」とが一緒くたになっているからだ。
そしてこの自家撞着が、最終連の「《倦怠》は、残酷な希望に荒みながらも、/なお信じているのだ ハンカチを振る最後の別れを!/しかも、おそらくは、船は、嵐を招び、/疾風に傾いて難破へとむかうのか/マストもなく、マストもなく、肥沃な小島もなく、消え失せて……」という不吉な情景を呼び寄せる。「書けない」ことを承知のうえで「書こうとする意志」を貫くのだから、そういう顛末にもなるだろう。されど、このような破綻を予期しつつも、詩篇は「だが、おおわが心よ、聞け、水夫たちの歌を!」と、自らを鼓舞するような呼びかけで終わる。こう見ていくと、近代の自意識ってやつはほとほと重層的で屈折していて、とうてい一筋縄ではいかないことがよくわかる。「コヘレトの言葉」からマラルメのこの一句への変遷に、「西欧」の精神史が凝縮されている気さえする、といったら言いすぎだろうか?