ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

荒俣宏『99万年の叡智』を古本屋で買った。

2016-06-25 | 哲学/思想/社会学
初出 2012年09月


 古本屋めぐりをしていて、荒俣宏『99万年の叡智』なる本を入手した。副題は、「近代非理性的運動史を解く」。1985年、平河出版社刊。おお。85年。われらが年だ。そうだった。バブリング・エイティーズとは、なにもディスコとDCブランドショップの隆盛によってのみ回顧されるものではない。この手の「濃ゆーい」書物が大手書店の棚にぎっしりと犇めいていた時代でもあったのだ。あの頃の本屋は今より確かにオシャレであった(今日、そういった輝きはウェブ空間に移行し、その分だけ書店は色艶を失った。そもそも本屋の数が減ったし)。ただ、当時から書店に入り浸っていたぼくも、この『99万年の叡智』を目にした記憶はない。平河出版社という、やや特殊な版元から出ていたために、思想や哲学ではなく宗教関係のコーナーに置かれていたのではないか。さすがにぼくも、宗教書の棚までは仔細にチェックしないから。さもなくば、よほど出版部数が限られていたか。

 著者の荒俣さんについては、この場でぼくが贅言を費やす必要はあるまい。日本有数の蔵書家で幻想文学研究者で博物学者……と肩書きをいくつ連ねればその実体に迫れるだろう。「学魔」という異称を奉られることもある。途轍もない人には違いないのだが、ただしその小説ばかりはお世辞にも巧いとはいえず、小説ってものが学識や読書量だけで書けるものではないことの例証となっている。いやいや、そんな憎まれ口はどうでもよくて、1985年といえば荒俣さんは38歳。まだまだ少壮気鋭といっていい年齢だ。『99万年の叡智』巻頭の序言にいわく、「本書は近代におけるオカルティズム史に見通しをつける試みである。/これまでともすれば異端の名の下に現実と乖離する傾向にあったオカルティズムを、一気に近代史と関連づけ、しかもその動向を一貫性ある<党派的活動>として再検討する。すなわち、これを非理性的運動史と命名した所以である。」

 なんとも熱っぽく、気宇壮大で、ありていに申せば青くさい。自らを「貧書生」と卑下し、「理想の暮らしは楽隠居。」などと書き付けて憚らぬ後年の氏のエッセイに親しんでいたぼくなんて、若き日の荒俣さんがこれほどの鮮烈な志と情熱をもって執筆活動を行っておられたとは露知らず、この書き出しの一文だけで不明を恥じて、居住まいを正したことであった。むろん、ここで扱われるオカルティズムとは、「あいつ、最近ちょっと変なんだよな。なんかオカルトに嵌まっちゃったみたいでさあ。」といった用法で使われる「オカルト」とはまるでレベルが違う。荒俣さん自身の言葉を借りれば、「ここでいうオカルティズムとは、<古代の叡智>を指している。ルネサンス期イタリアで活動したフィチーノがエジプト=ギリシアの古代文献、とりわけ<ヘルメス文書>と総称される古代神秘哲学を復刻して以来、世に広まったヘルメス思想。オカルティズムとは、それら古代文書に秘められた<叡智>を探求する作業なのである。」というわけだ。

 日本の学校は哲学をろくに教えないけれど、それでもデカルト、カント、ヘーゲルなんて名前はたいていの人が教科書なんかで見た覚えがあろう。しかし、このルネサンス期の思想家たち、とりわけ「神秘家」とか時には「魔術学者」などと称される著作家やら博物学者たちのことはほとんど黙殺に等しい。専門家の数も多くはないし、入門書に使えそうな本もあまり出ていない(皆無ではないが)。その中でフィチーノは、いちおう正当な哲学史に名を留めており、『ソフィーの世界』にもその名がちらっと出てくるけれど、それでも大半の方がおそらく初耳だろう。むしろルネサンス(ルネェッサ~ンス!)といえばレオナルドとかミケランジェロとか、芸術家たちが大活躍した時代として知られる。しかし、じつは思想や観念の領域においても、それこそミケランジェロの天上画に匹敵する凄まじい達成が成し遂げられたのがこの時代だったのだ。それが先述の<ヘルメス文書>の復刻であり、そこから始まる、ゾロアスター、オルフェウス、ヘルメス・トリスメギストス、プラトン、ネオ・プラトニズムといった<古代の叡智>の一大再生プロジェクトだった。重厚かつ緻密なキリスト教の体系によって抑えつけられていたマグマが解き放たれ、当のキリスト教的思想と複雑に絡まり合って(けしてキリスト教的思想を駆逐したわけではない。キリスト教はもちろんそれほどやわではない)爆発じみた展開を見たのだ。ルネサンスのことを、「古代復興」と呼ぶのはそういう意味だ。

 荒俣宏は大学(アカデミズム)に籍を置く学者ではなく、その著作も学術書ではない。論述は往々にして危うきに遊び、どこまでも広がる風呂敷の大きさに、読んでいるこちらがどぎまぎさせられることも珍しくない。とはいえそれが膨大な知識によって下支えされているために、いかに奔放不羈に見えようと、本筋だけは外してないという安定感も確かにある。どういうことかと言うと、早い話、むちゃくちゃに面白いのである。この『99万年の叡智』は、荒俣さんが十年近くにわたってあちこちの媒体に発表してきた論考を集成して入念な加筆を施したものだが、ご自身が「筆者は……本書を成立させるために断片的な駄文を弄し続けてきたのではないか。……こうして一定の編集意図にもとづく書物を構成してみると、それらの断片はまるでジグソーパズルのように所を得て、結果的に奇妙な統一性を有するオカルティズムの鳥瞰図をつくりあげた。さながら無意識がすでにして本書の意図を自らに解き明かしていたかのように。」と記しておられるとおり、本邦には稀な「オカルティズム大全」となっている。

 オカルティズムは、近代合理主義の原則である「原因と結果とをつなぐ因果律」や「実証」、また「論理的思考」などとは趣きを異にする方法であり、直感・霊視・幻覚・妄想に重きを置く。象徴的、非大脳的な思考といってもいい。その意味では確かに「非理性的思考」ではあるけれど、しかし、それがそのまま「反理性的」というわけではない。また、自然科学的な見地からみれば「非科学的」というべきかもしれないが、人間の「こころ」をあつかう人文科学の立場からすると、それは紛れもなく「科学的」と呼べる。たとえば、神話というのは古代の叡智の結晶という点でオカルティズムの典型だけれど、洋の東西を問わず、およそ神話や伝説なるものが文学や精神分析学をはじめとする人文科学のアイデアの宝庫であることを知らない人はいないだろう。

 『99万年の叡智』は3部構成となっており、第1部の「叡智の起源と魔の源泉」では、章ごとの小テーマに沿って、近代に至るまでのオカルティズムの系譜と諸相とが概説される。その冒頭に「総説」として置かれた「近代非理性思想をながめる」という断章は、たんにオカルティズムに留まらず、正当なる哲学史や西洋思想、いや、アラブや東洋までをも含めたいわば「人類の観念史」の簡潔な見取り図となっている。「近代神秘学フロー」「19世紀フランス・オカルト復興期人脈表」「神智学運動史と人智学の諸活動」などの図表(フローチャート)を添えて綴られたその文章の密度の高さは相当なもので、これを読んでぼくは、いままで雑多に蓄えてきた様々な知識が有機的に結びつき、とても見晴らしがよくなるのを覚えた。

 たとえば、中ほど辺りにこんな一文がある。 「年代別に順序立てれば、イスラムにつづく巨大な<東からの波>となったのは中国思想である。16、7世紀に東アジアへ渡ったイエズス会士を通じてヨーロッパにもたらされた孔子哲学や易の思想は、<天命>と称する新しい支配原理を西欧にもたらし、もっぱら世襲をルールとしていた西洋型王制に対し<徳治政治>(徳のある聖人が国を治め、徳を失った際には<革命>が許容される)の理論を示した。ヴォルテールらがフランス革命の前夜に喧伝したのは、実にこの中国思想であった。今日でもフランスが支那学の王者であることは、16、7世紀にまでさかのぼる因縁によっている。次いで19世紀に影響力を発揮したのはインド・ペルシャ哲学で、この場合はドイツがその研究の中心となった。とりわけニーチェの超人哲学、ショーペンハウエルの厭世哲学が生みだされた陰には、ゾロアスター教の思想が介在した。ゾロアスター教の特質はいうまでもなく善悪二元論にあり、一方人間はそのはざまにあって善にも悪にも転じ得る不確定性をもつ。そしてその選択がもっぱら人間の意志によるところからニーチェ哲学が、また悪の支配する現世を徹底的に嫌悪するところからショーペンハウエル哲学が、それぞれ芽を発したと考えられる。……(後略)」

 むろん、あえて単純化しているところもあるわけだけど、これくらい大胆な祖述なんてものはまずもって大学(アカデミズム)に籍を置く学者先生には書けない。そして、ぼくみたいな市井の哲学好きには、実はこの手の文章こそがいちばん滋養になるのである。フランス革命の淵源が中国思想にあった、という概念を知っているのといないとでは、世界史の見方はまるで違ったものになろう。

 第2部の「霊的国防と霊的革命」は、タイトルからして、ありゃりゃ、それこそ「オカルト」じゃないですかといった感じで、「帝都大戦」の世界にも直結してくるわけだが、「オカルティズムを一気に近代史と関連づけ、しかもその動向を一貫性ある<党派的活動>として再検討する。」のがこの本の主眼である以上、とうぜん話はこちらの方面に及ぶわけである。この章は、陰謀史観や秘密結社を取り上げている点でみんなの大好きな「都市伝説」のネタ元というか、基礎文献となるべき論考が並んでいるのだが(フリーメーソン、イルミナティ、シオン議定書などについても詳しく書かれている)、そんなことよりぼくが個人的にもっとも気になったのは、「霊的国防」の現実形態としての「ファシズム」についての話であった。

 ファシズムとは、「復活した祭政一致主義」の投影であり、その要素は「民族としての大衆」「ヒエラルキア(階級的秩序)」「軍事力」の三つである、と荒俣さんは書いておられるのだが、これって、1985年(昭和60年)ではなくて、まさに今、2012年(平成24年)の今日ただいまのニッポンにおいてこそ正面きって取り沙汰されるべき大テーマじゃなかろうか……。なんてことを書いてたらまた話が時事ネタのほうへと向かっていくし、さすがに長くなりすぎたので今回はこれくらいにしておきますか。なお、第3部「非理性のテクノロジー」は、「概念的なオカルティズムが現実社会にあってどのように応用され、また操作技術に大成されたかを跡づける仕事」であり、これまた都市伝説のネタ元になりそうな情報が並んでいるけれど、さすがにこの部分だけは、出版から30年近くが過ぎて古びてしまっているようだ。

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