ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

20.11.05 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事02「かなり真面目に仏教の話。」

2020-11-05 | 哲学/思想/社会学


akiさんからのコメント
20.11.05
「アメリカは騒然としてますねえ」






こんにちは。今回は早いお返事(笑)




>米大統領選


 あっちはあっちで凄いことになってますねえ。法廷闘争まで持ち込まれたら解決に一体いつまでかかるのか。
 不正投票の証拠をトランプ側がどこまで抑えているかにもよるでしょうが、今ネットで流布している不正情報が本当のことだとすれば、それも民主党側が支配する裁判所なら公平な裁定が下されるはずもありませんから、これは揉めるでしょうねえ・・・。
 なんか民主主義の本家とも目されるアメリカで民主主義の危機が起こっているとしたら、なんとも暗澹とした気持ちになります。




>「私」というのは、ほかの森羅万象と同じく「現象」であると考えています。


 ああ、はい。eminusさんはおそらくそのようにお考えなのだろうな、と思ってましたが、今回のご返事でよりはっきりしました。
 恐らく現代日本人はそう考える人が多いでしょうし、それがわかりやすい見方であることも確かでしょうが、これは私と言うより仏教、そしてほとんどすべての宗教とは相容れない考え方でしょう。まあだから現代日本人は無宗教と言われるわけですが。


 「台風」にしろ「こころ」にしろ、あるいは「森羅万象」にしろ、そういう実体というものは確かに存在しません。「台風」で言えば、それは要するに気圧の変化による現象に過ぎず、そもそも「気圧」「現象」「変化」といったものも人間の概念であって実体ではありません。そうやって細かく見ていけば、「原子」「素粒子」まで行っても結局実体はなく、すべて「概念」でしかない。それを仏教では「一切皆空」と教えるわけです。
 では、その「概念」を与えている「私」とは一体なんなのでしょうか。
 もしその「私」もまた「現象に過ぎない」ということであれば、「概念を与えている私」もまた「概念に過ぎない」ことになり、「私の存在」自体が無に帰します。要するに、「死後の私はない」と言っている人は、「私など最初から存在しない」と言っていることと同義です。
 これは大いなる論理矛盾である、と私には思えます。
 人間の心は現象である、という言い方は正しい。確かにその通りですし、現象なら人間にもわかるのです。しかし、「現象でしかない」ということは、そう言う人自身が存在しないということであって、「現象でしかない」と言うことそのものが無意味であり存在しないことと同義なのです。


 まあ以上が「私の死後は存在する」と私が思う論理的な根拠ですね。重ねて言いますが、これはあくまで私自身の考えであって仏教ではないです。




>親鸞さんの教えはそんな「甘え」を許すように聞こえます。


 ああなるほど。そういう意味でしたか。何となくですが理解できたように思います。
 ただまあ、これは親鸞聖人に責任を求めるのはお門違いだろうと思いますね。具体的に吉本隆明さんが親鸞聖人の教えのどこに甘えたのかがわからないのではっきりしたことは言えませんが、いずれにしろ親鸞聖人の教えを正しく受け取った結果というよりは、吉本さんの我流で理解した結果のことであって、吉本さんに全責任を帰すべき話だと私は思います。
 親鸞聖人が教えたのはあくまで「捨自帰他」です。自力を捨て、他力に帰せよ、という教えは、一切の我流を排除します。その教えに「甘える」ということは、すなわち「誤解する」ということとイコールです。
 具体的に、親鸞聖人の教えのどの部分をどのように解釈したかがわかれば、もう少し具体的に答えられそうな気もしますが・・・いかがでしょう?






☆☆☆☆☆☆☆





ぼくからのご返事
20.11.05
「かなり真面目に仏教の話。」


 ちょっと今回は対立を鮮明にせねばならぬかもしれません。いや大統領選の話じゃなくて(笑)、米大統領選のことは、たいへんな話なんで、また別に記事を立てますが(あくまで予定)、akiさんとぼくとの「仏教観」に小さからぬ齟齬を感じるのです。
 ぼくの理解では、仏教でいう「一切皆空」とは、「すべてが概念だ。」といってるんじゃなく、「すべては縁起だ。」って意味です。「概念」と「縁起」とはぜんぜん違う。それで、「では縁起とは何ぞや。」ってことで、これまでに膨大な論が重ねられてきたし、今日もなお論議が続いてるはずです。
 でも、議論の細部はさておいて、「縁起」とは「関係性」の謂である、とざっくりまとめてしまっても、けして誤りではないでしょう。
 ぼくの使った「現象」というキーワード(キーコンセプト)がもし誤解を招いたのなら補正しなければなりませんが、「現象」とは「空漠として実体なきもの」って含みではなく、「流転極まりなき関係性のただなかにあるもの」、すなわち「縁起」のなかにあるもの、という含みでした。
 そういうことでは、ぼくの考え方はむしろ仏教的だと思っています。akiさんのおっしゃる「≪永遠不滅の実体としての私≫が≪死後≫もなお厳然として存続する。」という考え方は、むしろユダヤ教―キリスト教―イスラーム的な思想に近いとぼくには思えます。
 ただ、真宗の教えの説く「極楽浄土」という考えは、そちらに似ているところがありますね。だから「仏教のなかでも浄土真宗には一神教に近いものを感じる」と前回述べました。
 そして、お葬式をきちんと執り行い、お骨をお墓に安置し、折々には法事を営む「現代日本人」は、信仰の強弱は別として、やはり心情としてはそちらの発想に身を委ねてるんじゃないでしょうか。だから、今だって日本人の多くは、ぼくみたいに「私とは現象である。」なんて感じてないと思いますよ。
 「現代人の宗教意識」みたいなアンケートで、「私とは現象であると思いますか。」なんて質問があったら、ほとんどの人が「はあ?」と答えるんじゃないでしょうか(笑)。
 とはいえ、「私とは現象である。」って発想は、現代科学のそれに近接してるとは思いますね。科学の知見がようやく仏教に追い付いてきたわけで、凄いことだと思ってますけども。
 「縁起」の中に在る「私」、それをぼくは我流の用語で「結ぼれ(結び目)としての私」と呼んでおりますが、「結ぼれとしての私」がご飯を食べたり、水を飲んだりして生命を維持し、住居で暮らしたり服を着て外に出たりして社会活動を行い、本を読んだり物事を考察したりして認識を深め、総じて「人」としての生涯をまっとうすることは、「すべては流転する関係性のなかにある」こと、すなわち「現象」でしかないのだけれど、だからといってそれらのことが「無」であるとか、「無意味」であるってことはないです。それは「今ここ」において、とても白熱した切実な意味を持っています。ただし永続性はない。しかし、永続性がないってことと、「だから今ここにも存在してない。」ってこととは違うでしょう。
 「縁起」はさておき、「概念」ということでいうならば、akiさんのおっしゃる「私の概念の中に世界(宇宙)がある。」という考えは、たしかに唯識の思想にありますね。ぼくが思うに、これは西洋哲学の根幹を貫く「認識論」と「存在論」との相克っていうか葛藤っていうか絡み合いっていうか、要するにまあそっち系のアレで、精密にやるなら相当に厄介な話です。近年これに手を付けたのが前回述べた「思弁的実在論」の一派で、これもまた、21世紀も20年過ぎて、ようやく哲学が仏教の知見に追い付いてきたってことだと思ってますが、いま「思弁的実在論」はほぼ4つの派閥に分かれてて、仔細にみればどれも面白いんだけどブログでやるにはまだまだ準備が足りません。




 吉本隆明と親鸞とのかかわりは、まさに日本思想史上のテーマだとぼくは本気で考えています。
 どう書こうかと迷ったのですが、これについては、大手通販サイトの『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)に附されたレビューに素晴らしいものがありましてね……。筆者は「猫町」さんというハンドルネームの方です。長さといい内容といい、レビューっていうよりほぼエッセイですね。この手のレビューに著作権が発生するかどうかはわかりませんが、こういうのって、事情次第である日とつぜん消えてしまったりもするし、これは本当に残しておきたい文章なんで、苦情が出たら後でまた対処させて頂くこととして、ここに全文を書き写させて頂きます。
 吉本さんと親鸞さんとのかかわりについて、〈信〉と非-〈信〉あるいは不-〈信〉との問題をも含め、ここに書かれていることが、ほぼぼく自身の考えだと見なしていただいて構いません。






☆☆☆☆☆☆☆






レビューアー  猫町
『歎異抄』のなかの親鸞
2017年10月14日に日本でレビュー済み






 宗教を信じるということはどういうことなのか。
 信仰とは、あるいはもっと端的に〈信〉とはどういうことなのか。


 評者のような非-信者には、上の問いはつねに気になることであり、とはいえその答え、というか〈信〉がどのようなものであるのかは自身ではついに想像しえぬものです。


 では信者は、その問いに答えられるのでしょうか。
 〈信〉にすでに身を置いているもの、つまり〈信〉の自明性のなかで生きているものは、その〈信〉をすでに客観化、対象化できません、というか非-信者が理解できるようにはおそらく言語化できません。
 もしできるのであれば、上の問い、つまり〈信〉であるとはどういうことなのか、非-信者にもわかるはずですが、そんなことは不可能です。もしそんなことが可能であれば、信者と非-信者とのあいだで、〈信〉とは何かについてすくなくとも言葉の上で共有できることになりますが、やはりそんなことは不可能です。


 この比較がいいかどうかわかりませんが、それは、たとえば狂気あるいはマインドコントロールにおちいったひとが、自身の生きている世界ないし世界観を語っても、普通に日常を送っている人間には(ほとんど)通じないというのにも似ています。


 聖書のことばはそのまま神のことばであると信じ(これは一般に聖書逐語霊感説と呼ばれるものです)、その聖書に「血を食べて(飲んで)はいけない」(旧約レヴィ記その他)などとあるところから、どのようなばあいでも、たとえ医学的にそれが必要な措置で、しかもそれで命が助かるばあいであっても、輸血をいっさい拒否するキリスト教の一宗派の人たちがいます。以前、戸口訪問で来た同信者の方にこのことをたずねたところ、言下に「私は輸血を拒否します」と答えたのを覚えています。
 あるいはまた、高名な自然科学者ながらキリスト教の篤信家でもあるような人もいます。このばあい、そのひとのなかで自然科学的な世界像とキリスト教的な世界像(たとえばキリスト教の教えの根幹にある「イエスの復活」や「永遠の命(霊魂の不滅)」)がどのように関係しているのか、そのひとがどのように説明しようと(あるいはしまいと)、やはり非-信者はその〈信〉のありようというのはついに理解できません。想像もできません。


 ただ、だからといって、評者は、どちらもその〈信〉を迷妄だとして、しりぞけようという気持ちはまったくありません。


 とにかく信者自身、〈信〉、たとえば神を信じるということがどういうことか、おそらくすでに語るすべをもたない、すくなくとも非-信者に理解できることばでは語れない、というかそこで神をどのように語ろうとも、非-信者にはそのことばはまったく別次元、別世界の話のようにしか聞こえず、理解不能であることに変わりありません。


 『歎異抄』のなかの親鸞はしかし、驚くべきことに、非-〈信〉あるいは不-〈信〉がそのまま〈信〉となるような契機を語っています。あえていえば、念仏をとおしての絶対他力のかたちをとる阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願)への〈信〉とはそのような〈信〉であると語っているようにみえるところがあります。


 『歎異抄』のなかでつぎのようなエピソードが語られています:


 ひたすら念仏をとなえることで、弥陀の本願により、浄土に往生できるといわれても、ほんとうに信じることができず、念仏をとなえても喜びの気持ちがわいてこない、と親鸞に訴えるものがいたとき、親鸞は、それは信心がたりないからだというどころか(凡庸な宗教家だったらそういうでしょう、そしてもっと奉仕をしろ、もっとお布施をしろといったりするでしょう)、その信じられないこと、つまり不-〈信〉こそが人間の煩悩のせいであり、その煩悩があればこそ人間を浄土にゆかせようと阿弥陀仏は結願されたのだから、むしろそのことでますます往生できると考えるべきだ、と言います。


 ここにあるのは、念仏をとなえても喜びの気持ちがわいてこないという人間のつくろわないあるがままの生理が、そのまま宗教的な救いの根拠となるという、あとで述べるキリスト教ではおそらく考えられないような、親鸞の途方もない教説です。親鸞はこれを指して「自然法爾(じねんほうに」と呼んだのでしょうか。
 もちろん、ひとが「煩悩」ということばあるいは概念を口に出すことにおいて、すでにある意味、仏教の〈信〉の世界に一歩入っているというべきなのでしょうが、このばあいしかし、「煩悩」を、〈信〉の一歩手前にあって、あるいは不-〈信〉、さらに非-〈信〉にあっても、人間だれしも思いあたる人間の生理そのもの、すなわち愚かなことをしたり悪いことをしたりする、人間のあるがままのどうしようもない生理そのものと受けとめてもいいのではないかと思われます。


 非-信者である評者のような人間には、ここに不-〈信〉あるいは〈信〉もどきが、そのまま〈信〉に着地する契機があるようにみえ、そこから〈信〉の世界がほんの少しうっすらと遠くにかいまみえるような気がします。


 と同時に、親鸞の教えのこのゆるさ、つまり不-〈信〉や〈信〉もどきが、そのまま〈信〉に着地する契機があるようにみえるところからは、不-〈信〉の人も、〈信〉もどきの人も、そしてもちろん〈信〉の人も、みんなすべてを親鸞の教えのなかに平等に吸いあげ、弥陀の慈悲のなかに摂取してしまう契機もみえてきます。
 (「悪人正機説」もこれにかかわってくるのでしょう)


 それにしても、不-〈信〉がそのまま〈信〉のありかたにかかわる、というのはしかし、同時に〈信〉の絶対的なありようそのものが逆に解体されることでもあります。極端にいえば、不-〈信〉と〈信〉の境界がなくなるということです。


 これは、もうほんとうに途方もない話です。
 宗教を解体すると同時に構成する、宗教を構成すると同時に解体してしまう、そんなとてつもない宗教、これをしも宗教と呼んでいいなら、そんな宗教です。


 親鸞はいっぽうで、念仏をとおして、そうした不-〈信〉と〈信〉の対立が解体される地平の向こう側に、つまり不-〈信〉と〈信〉の彼岸に、なにか(救い、浄土)が見えてくると主張するわけではありません。救いや浄土が実体としてあるかどうか、そんなものはもとより人間が知りえぬことだし、人間の思慮・はからいに属するものではない、すくなくともおれは知らぬ、と言うのみです。
 
 そのうえで、専修念仏をみずからの教えとしているはずの親鸞は、『歎異抄』でつぎのように言っています。念仏が自己目的化してしまうとき、念仏が「自力」に転化してしまう危険を親鸞は考えていたのでしょう、念仏さえ相対化してしまいます。さらに最後は自分の信者たちをもつきはなしてしまいます。


 「念仏はほんとうに浄土に生まれる種であるのだろうか、また地獄に堕ちるような業であるのだろうか、そういうことはあずかり知らぬことです[念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべらん、そうじて存知せざるなり]」
 「このうえは、念仏をえらびとって信じるのも、また棄ててしまうのも、ひとりひとりがめいめいに考えればいいことです[このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々のおんはからひなり]」と。
 「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずさふらふ」と。


 「面々のおんはからひ」、すなわち〈信〉じるも〈信〉じないもめいめいがそれぞれに考えればいいこと――ここには、教団教派にとどまらず、みずから立てようとする宗教そのものを解体してしまいそうな契機さえあります(これを指して吉本は「最後の親鸞」と呼んでいます)。
 のちに真宗教団(本願寺教団)中興の祖である蓮如が、この書を、封印するかのような措置をとったのもむべなるかな、というところです。


 (なお、ここまで評者は、「親鸞は…」と書いてきましたが、あくまでそれは『歎異抄』のなかの(ある一面の)親鸞というべきものです)


 親鸞が説いている絶対他力は、よくいわれるように、キリスト教のカルヴィニズムの、救いは人間の「はからい」つまり「自力」でどうにかなるものではなく神の恩寵しだいという救霊予定説に似ていることは似ていますが、弥陀の本願はしかし、そこに選別はなく、衆生いっさいを救うものであるはずです。また、親鸞自身が、念仏によってほんとうに浄土へ生まれるのかどうかはわからないが、どういう修行もできぬ凡俗の身である以上もとより地獄堕ちが必定であるなら、弥陀の本願を信じ念仏に賭ける(親鸞はもちろん「賭ける」ということばを使っていませんが)ことを選ぶ、と言っているのは、キリスト教の神の存在への〈信〉をめぐるパスカルの〈賭け〉にいくらか似るところがあります。


 キリスト教の聖書であれ仏教の仏典であれ、宗教の聖典というものは、非-信者にとって(そしておそらく信者にとってさえも)けっして理解しやすいものではありません。


 新約聖書にある、たとえば「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」、「あなたの頬を打つ者があれば、もう一方の頬もさしだせ」というイエスのことばも、そのまま受けとれば、人間の生理に逆らう実行不可能な教えにしかみえませんし、ほんとうにそれを守って実践しているひとがいるとも思えません、もしいたとしても、そんな人はかえって人間らしく見えず、むしろ気味悪く思うばかりです。
 (もちろん、上のイエスのことばは、神の愛こそが「頬を打つ者があれば、もう一方の頬もさしだす」そういう愛のありかたをするものであること、そういう神の人への無際限の愛のありかたにならって人は人への無際限の愛(隣人愛)でもって生きよ、と解釈されたりするのでしょうけど。また、多くの宗教の教えというのは、こうして人間の生理とは逆立する、人間に実行不可能なことを高く掲げることで、人間の倫理を高く引き上げていこうとしているのかもしれません。あるいはべつの見方をすると、宗教というのは、まずは人間の常識的なものの見方を根本から揺さぶり、それを完全に打ち砕く衝撃的なことばでもって、人間をひれ伏せさせ、人間を圧倒的な無力の状態におく――そういうことをするのでしょうね。『歎異抄』のなかの親鸞のことばもある意味そういうところがあります。まあついでにいえば、(一部の)自己啓発セミナーとか新人社員研修とかでも、おそらくこの種の手法がつかわれているのではないかと思えます)。


 吉本隆明は、人間の生理と倫理が逆立しあうことのあるこのような宗教というものにつよい関心をもってきた批評家であり、ふつうに読んでもよくわからない宗教書の本質について深い洞察をめぐらしてきた思想家です。
 本書も、『歎異抄』が、宗教を生みだすと同時に解体してしまうような、おそるべき宗教書であること、あるいは端的に『歎異抄』のなかの親鸞のすごさ、法外さというものをほんとうによくわからせてくれます。


 なお、『歎異抄』は、唯円が親鸞の話したことばを記録した書ということになっていて、親鸞が直接自分の手で書いたものではないため、『歎異抄』のなかの親鸞の教説に、親鸞自身のものではないものも混じっていることが研究者によって指摘されています。
 親鸞自身が書いたものでない以上、ありうることです。
 しかし、唯円がつくりあげた親鸞の一面があるにせよないにせよ、評者にはまあそのようなことはどうでもよく、やはり『歎異抄』のなかの親鸞は、比類なき、他に隔絶した超⁃宗教家であることに変わりはありません。




☆☆☆☆☆☆☆






 引用は以上です。
 「かつてマルクス主義を教導しながら、高度成長でニホンが豊かになるや、一転して80年代バブルを享受し謳歌した吉本さんの倫理性」というぼくの拘りに即して敷衍するならば、「揺るぎない信念なんてものを解体して、禁欲からも解放され、旨いものを食い、いい服を着て、しぜんな欲望のままに生を送ることを全面的に肯定する」思想家として吉本さんは親鸞さんを解釈したということになります。そしてもちろんそれはたんなる自堕落ってことではなくて、じつはそのこと自体が救いになりうるっていうか、そのことの中にしか救いはないんだぞってことですね。そしてぼく自身、この考えにはとても惹かれるのですが、ほんとにそれでいいのかなあ、とお訊きしたかったわけです。


この記事の続き。



20.11.07 akiさんとの対話「吉本隆明と親鸞さん。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/e559595f3be9f171d589dcb601374076










20.11.05 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事「私という現象。あと少し吉本隆明のこと。」

2020-11-05 | 哲学/思想/社会学
「20.10.22 akiさんとの対話。ひきつづき、仏教のこと。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/98c9953412bb5f280e78c72edda94627
 からの続き。





20.11.04
akiさんからのコメント
「お返事になってますかね?」


 こんばんは。akiでございます。
>1週間やそこら、いや別にもっと空いてもぜんぜん構いませんので。
 とのご温言に「そうか」と思ってまったりしているうちに、いつの間にか十日以上が経ってしまいましたw
 いや、このまったりっぷりはとてものことに無常観に裏打ちされた仏法を語る資格などはありませんね。eminusさんはご自身を「野狐禅」とご謙遜でしたが、私こそ落第者です。
 まあそれを踏まえつつ、答えられることは答えることが私の義務かな、ということで、お返事です。<(_ _)>




>こころについて


 eminusさんの言われる「全体の中に還っていく」というのは、「自分は死ねば自分ではなくなる」という意味ならば、現代人には理解しやすいかもしれませんね。今の自分の「こころ」を作っているものも、この肉体と同じく誕生と共にこの世に形を成したものであり、日々変動しつつ、死が来ればこの肉体と共に消滅していく。そのように理解している人は多いだろうと思います。
 我々の心がこの肉体と不可分であることは、現代科学でも明らかになりつつありますし、その意味では西洋哲学にある物心二元論は明らかに間違いでしょう。仏教における「こころ」の捉え方は、物心二元論とは全く違うものだと思います。「唯識学」は私もかじった程度で、本格的に学んだことはなくはっきりしたことは言えませんが・・・。
 唯識においては、肉体ばかりでなくこの世界の存在も「こころ」と不可分のものと見ます。我々は肉体の制約を通して、この世界を「こころ」で見ますから、この肉体、そして「こころ」が無常である限り、その「こころ」で見る世界もまた無常であり、我々はこの世界の真の姿を見ることはできません。そして、死と共に我々が見ているこの世界も消滅します。
 ただし、「私自身」がそれによって消滅し、全くの無に還る、とは仏教では教えていませんね。前回申し上げた「阿頼耶識」という「本当の私」は残って輪廻転生する。そのとき、その人の行ってきた様々な業の力によって、善行を行ってきた人は好い世界へ、悪行を行ってきた人は悪い世界へ転生する。


 親鸞聖人は「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と、「地獄一定」の我が身を告白しています。明らかに「死ねば地獄へ落ちる自分」を吐露しているわけで、「死後も残る私」を想定しなければ意味がない言葉です。


 前回も書いたと思いますが(前々回だったかな?)、「死後も残る私」を認識する力は私たちにはありません。だからそこは理解しづらい。理解しづらいからとりあえずその部分は措いといて、わかる部分のみで親鸞聖人の教えを理解しようとするのでしょう。ただまあ、それは結局「自分の計らい」で仏教を見ていることになり、親鸞聖人の言う「自力の信心」であることには変わりはありませんが。




 ちなみにこれは仏教ではなく仏教に影響を受けた私自身の考えですが、「本当の私」というものが死と共に完全に消滅する(肉体と共にバラバラに分解する・・・など言い方は何でも構いませんが)のであれば、今現に考えている「この私」も実は存在しない、ということになると思います。真理とは永遠不変のものであり、「ある」ことが真理であるならば、「ある」ものが「ない」ものに変化することはあり得ないからです。




>吉本隆明さんの「責任」問題・・・?


 これは親鸞聖人の教えというより、吉本隆明さんの生き方についてどう思うか、とのご質問でよろしいでしょうか?
 その人が経験を重ねる中で、それまで命を賭してでも打ち込んだ信念を放棄して別の生き方を選択することはあり得ることですし、そのことを他人がとやかく言える問題でもないと思います。吉本隆明さんの場合、その「転向」に多少なりとも親鸞聖人の教えが影響を与えたとのことで、そのこと自体はよろしいのではないでしょうか。・・・・てなことをお聞きなわけではない? なんか的外れ感満載ですが、スミマセン。




>「大いなる存在に己を委ねたからとて、やすやすと安寧に陥り、怠惰を貪るのではなく、表向きは穏やかではあっても、内には常に適度の緊張感を保ち、身を慎んで日々を送るべし。」


 これは他力信心の人の心構えとしてはその通りでしょうね。ただし、親鸞聖人が勧められた「真剣な聞法」は、信前の人(すなわち自力信心の人)に対してのものです。また、他力信心の人にとっては、自らそういった心構えを起こすまでもなく、他力信心に引っぱられて常に懴悔と歓喜が起こります。またお礼の念仏も、自ら称えるまでもなく称えさせられる。絶対他力の易行道とはそういうものです。






☆☆☆☆☆☆☆






20.11.05 ぼくからのご返事。
「私という現象。あと少し吉本隆明のこと。」








 米大統領選の帰趨も定まらぬこのタイミングで返事がくるとは思いませんでした(笑)。


 でも「まったり」と無常って、意外と相性よくないですか。「あわてないあわてない。ひと休みひと休み」と昔アニメの一休さんがよく言ってました。


 「思弁的実在論」と「オブジェクト指向存在論」ってのが今の哲学のひとつのトレンドらしいんですよ。で、たぶんこの話はそっちにも関わってくると思うんですよね。つまり、かなり高度であり尖端的でもあると。
 とても大事な話なんで、できるだけ精密にやりたい……のは山々なんだけど、正直、いまは手に余りますね……中国のこと、軍事のことと併せて、しばらく宙づりに……将棋では「指し掛け」っていうんですけど、指し掛けでお願いしたいところです。


 ただ、これは「信仰」とも「唯識論」とも「哲学」とも「科学」とも別に、ぼく個人の意見として述べるんですが、「私」というのは、ほかの森羅万象と同じく「現象」であると考えています。
 「台風」を思い浮かべて頂くとわかりやすい。あれは年に数回来襲して甚大な被害をもたらすもので、そういう意味では紛れもなく実在しており、だからこそ識別のための固有名さえ与えられますが、「台風」という何物かがそこに「在る」わけではない。ありようは、気圧の差によって空気が激しく対流し、そこに力が生まれてるだけなんですね。
 いっぽう、目の前の「パソコン」や「机」や「壁」なんてものは、そんな「空気の動き」に比べればいかにも「実体」に視えますけども、これもまた、仮初めにそういう姿を取っているだけで、いずれ寿命が尽きれば雲散霧消するわけです。
 しかし、だからといってそれらのものがこの宇宙から消え去ってしまったわけではない。ご存じのとおり、「原子」に還元されただけなので。厳密には、「消滅した。」のではなく「変容した。」とでもいうべきでしょう(量子うんぬんの話はややっこしくなるんで置いときます)。
 「私」についてもまったく同じだと思っています。ただ難しいのは、これが「こころ」をもっていること。
 「身体」のほうは、たかだか酸素と炭素と水素と窒素とカルシウムとリンと、あと何がしかの微量元素の寄せ集めなんで、これが「分解する。」というイメージは描きやすい。だけど、「こころ」ってものはそう簡単には片付かない。そう簡単には片付かないように、人類はおそらく発祥以来この方ずっと思考の型を積み上げてきたわけですね。
 がりがりの唯物論者なら、「こころ」なんてのは所詮は「志向性」が高度に複雑化したもので、つまりは原生動物がエサのほうへにじり寄っていくのと変わりがない……その延長線上にあるだけだ……というところでしょうが、ぼくはさすがにそこまでは割り切れない。なにかしら違いがあるはずだ……と考えてます。というのは、人類ってのは「自然」に働きかけて、ごく短期間で回復不能なくらいの変貌をもたらす力をもっているので。そこは他の生物と大きく異なるんじゃないかと思ってるわけです。
 「身体」が消滅ならぬ分解という変容を遂げて、元素となって散らばると共に、「こころ」もまた霧散するでしょう。なにしろ、からだとこころとは不可分なので。そのあとはもう「この私」というアイデンティティーは保ちえないとぼくは考えます。ここはakiさんとは相容れぬところでしょうね。とはいえ、それで「こころ」というものがこの宇宙から消滅してしまうのかといえば、それはそうではない。もはや「この私」ではないけれど、何らかの形っていうか、まあエネルギーとしては留まるのではないか、それでまた、時が満ちれば離合集散ののちまた別の「こころ」となって生を受けるのではないか。あたかも、また洋上のどこかで台風が発生するように。
 そのようなイメージをもっているわけです。






 80年代以降の吉本隆明の身の処し方は、たんに吉本さんひとりのことではなく、戦後日本のテーマでもあるし、さらにいうなら近代日本のテーマでもあるし、思いきって言うなら日本思想史のテーマですらあります。
 吉本さんは敗戦のあと自分なりの姿勢でマルクスとずっと向き合ってきて、その立場から戦後の日本に批判的なスタンスを取ってきました。確たる一神教の伝統をもたない日本の少なからぬ数の知識人たちにとって(浄土真宗はわりあいに一神教的なところがあるとぼくは感じますが)、マルクス主義は、大正~戦後の一時期においてほぼ「唯一神」に近い信奉の対象であったわけです。
 さすがに今はごく少数派になっているでしょうが、80年代にはまだ、「ニホンの豊かさは自国の貧困層や海外の発展途上国の労働者からの収奪によるものだ。こんなものに浮かれるなどとは言語道断なり。」というようなことをいう左翼のひともいたわけです。そんななかで吉本さんは、前に書いた通り目いっぱい「バブル」を享受し、「うむ。これでいいのだ。」といわんばかりに謳歌しました。
 いうならば、それまでの信念を打ち捨てて、「自然(じねん)」に身を任せたわけですね。そのような際に拠り所にしたのが親鸞であったと。ここはぼくとしてもどこまで言葉にしてよいか迷うんですけども、それはつまり親鸞さんに甘えたんじゃないかと思うんですよ。それで、これは吉本さんだけのことじゃなく、ぼくみたいな凡夫にとってみても、親鸞さんの教えはそんな「甘え」を許すように聞こえます。そういうことでいいのかなあ、とつねづね疑問に思ってたからお訊きしたんですよね……。
 akiさんのおっしゃるような、「他力信心に引っぱられて常に懴悔と歓喜が起こ」るような境地に至らない立場としては、どうしても、甘えた感じになります。とりあえずは、そういうことでもいいんでしょうか。




この記事の続き。
20.11.05 akiさんからのコメントと、ぼくからのご返事02「かなり真面目に仏教の話。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/bd0ac5122e0378512cb9aa4380c4c4a3?fm=entry_awc