ダウンワード・パラダイス

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20.11.07 akiさんとの対話「吉本隆明と親鸞さん。」

2020-11-07 | 哲学/思想/社会学


akiさんのコメント
20.11.06
「歎異抄第9章」




 こんばんは。akiでございます。


 仏教について真剣に問われたからには、私も覚悟を決めて述べるしかございますまい。浅学菲才ながらよろしくお願いします。<(_ _)>
 ただし、やたらと長文になってしまっても論点がぼけてしまいますし、精神的にも大きく疲労するでしょうから(笑)、一つずつ参りましょう。




 まずは、猫町さんが解釈された『歎異抄第9章』について。
 結論から申しますと、猫町さんの解釈は親鸞聖人の真意からは大きく外れます。思いっきり、剃刀で致命傷を負っておられますね。だからこそ、蓮如上人は「仏縁なき者に見せるな」とおっしゃったわけで、やはり蓮如上人は正しかったことになってしまいます。残念ながら。




 ではこの9章は、どのように解釈するのが親鸞聖人の真意に適うのか。こちらもテキストを提示して、その文面をお借りしようと思います。eminusさんのことですから、すでにご存じかもしれませんが。




『歎異抄をひらく』高森顕徹著 1万年堂出版
 243~251ページ


以下引用


「親鸞さまでさえ、喜ぶ心がないと仰っている。喜べなくて当然だ」と広言し、‘喜ぶのはおかしい‘という者さえいる始末。『歎異抄』の危ぶさのひとつである。
 親鸞聖人と唯円房の対話を記すこの章は、共鳴しやすいだけに曲解が多い。
「私たちが喜べないのは当たり前」と共感し、懺悔も歓喜もない自己の信仰を正当化するのに都合のいい、言い回しのところだからだ。
「この唯円、念仏を称えましても、天に踊り地に踊るような歓喜の心が起きません。早く浄土へ往きたい心もありません。これはどういうわけでありましょう」
 率直な披瀝に聖人の返答も、これまた虚心坦懐である。
「親鸞も同じ不審を懐いていた。そなたも同じ心であったのか」


 この聖人の告白は、弥陀に救い摂られた人の懺悔であって、懺悔も歓喜もなく、喜ばぬのを手柄のように思っている、偽装信仰者の不満とは全く違うのだ。
「永劫の迷いの絆を断ち切られ、広大な世界に救われても喜ばぬ、どこどこまでも助かる縁なき不実者じゃのう。そうであろう唯円房、こんな者が弥陀の独り子だとは、なんと頼もしい限りではないか」


 肉体の難病が救われても嬉しいのに、未来永劫、助かる縁なき者が、不可称・不可説・不可思議の功徳が満ち溢れ、かの弥勒菩薩と同格になり、諸仏に等しい身になるのである。天に踊り地に踊るほど喜んで当然なのだ。
 なのに喜ばぬのは、この世の欲望や執着に迷う煩悩のしわざ。煩悩に狂い、三年の恩を三日で忘れる猫よりも恩知らずの悪性に、懺悔のほかはないのである。
 同様な告白は、聖人の主著『教行信証』にも載っている。


 悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥ずべし、傷むべし(教行信証)
 情けない親鸞だなあ。愛欲の広海に沈み切り、名誉欲と利益欲に振り回されて、仏になれる身(定聚)になったことを少しも喜ばず、日々、浄土(真証の証)へ近づいていながらちょっとも愉しまない。なんと恥ずかしいことか、痛ましいことよ。


 あまりに自虐主義との批判もあるが、これが聖人の真情だったに違いない。


 懺悔の裏には、歓喜がある。
「しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり」(『歎異抄』第9章)
(とうの昔に弥陀は、そんな煩悩の巨魁が私だと、よくよくご存じで本願を建てて下さったのだ。感泣せずにおれないではないか)
も、そのひとつ。
「後序」にも、聖人の歓声が轟く。


 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ(歎異抄)
 弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ。こんな量りしれぬ悪業を持った親鸞を、助けんと奮い立って下された本願の、なんと有り難くかたじけないことなのか。


 このような歓喜があればこそ、しぶとい呆れる根性を知らされて、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
 の懺悔があるのである。
 仏法の入り口にも立たない者が、針の穴から天を覗いて、「喜べないのが当然」と開き直っているのとは、全然次元が異なるのだ。弥陀の救いに値わない者には、懺悔もなければ歓喜もない。当然だろう。
 また、急いで浄土へ往く気もなく、少し体調を崩すと「死ぬのではなかろうか」と、心細く思えてくるのも煩悩のしわざである。
 果てしない過去から流転してきた、苦悩の絶えぬこの世ではあるけれど、なぜか故郷の如く懐かしく、安楽な浄土を恋い慕わず、急ぐ心のないのが私たちの実態だ。
 暴風駛雨のような煩悩を見るにつけ、いよいよ弥陀の本願は、私一人を助けんがためであったと頼もしく、‘浄土往生間違いなし‘と、ますます明らかに知らされるのである。
「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候え」(『歎異抄』第9章後半)が、その告白だろう。
 喜ぶべきことを喜ばぬ、麻痺しきった自性が見えるほど、救われた不思議を喜ばずにおれぬのだ。それをこんな喩えで、聖人は解説される。


 罪障功徳の体となる
 氷と水のごとくにて
 氷多きに水多し
 障り多きに徳多し  (高僧和讃)
 弥陀に救い摂られると、助けようのない煩悩(罪障)の氷が、幸せよろこぶ菩提(功徳)の水となる。大きい氷ほど、解けた水が多いように、極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者である。


 九章で言えば、こうなろう。
「喜ぶべきことを喜ばぬ心(煩悩)」が「氷」であり、「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候えの喜び(菩提)」が「水」に当たろう。
 無尽の煩悩が照らし出され、無限の懺悔と歓喜に転じる不思議さを、
「煩悩即菩提」(煩悩が、そのまま菩提となる)
とか
「転悪成善」(悪が、そのまま善となる)
と簡明に説かれる。
 喜ばぬ心が見えるほど喜ばずにおれない、心も言葉も絶えた大信海に、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)なり」(教行信証)
 ただ聖人は、讃仰されるばかりである。




 以上、引用終わり


 ・・・最早私の拙い言葉を足す必要などないと思いますが、「喜ぶ心がない」との告白は、「信楽開発の時尅の極促」である「信一念」を通り、自力を捨てて他力に帰した人の、他力信心の強い光に照らされて徹見せられた「真実の自己」の姿に対する懺悔の言葉であって、猫町さんのおっしゃるような「不-〈信〉こそが人間の煩悩のせい」というようなものとは全く次元が違います。
 猫町さんは「極端にいえば、不-〈信〉と〈信〉の境界がなくなるということです」とも仰っていますが、これは「捨自帰他」の破壊であって、最早浄土真宗でも親鸞聖人の教えでもありません。甚だ失礼を承知で敢えて申し上げますが、これこそは『歎異抄』において歎ぜられるところの「邪義・異安心」です。
「弥陀を信じられない心」を親鸞聖人は「疑情」と言われましたが、この「疑情」は信一念において完全に消滅するものです。すなわち、他力信心の人にとって、弥陀の存在、弥陀の本願の存在、そして煩悩具足の自身の姿に対する疑いの心は一点の露塵ほども存在しません。『歎異抄第9章』の文に戻れば、唯円と親鸞聖人は「喜ぶ心がない」「早く浄土に往きたい心もない」と告白されてはいても、「弥陀を信じられない」とはどこにも仰ってはいないのです。教えを知らない人が見れば同じように思えるかもしれませんが、この両者は全く違う、と教えるのが親鸞聖人です。




>ぼく自身、この考えにはとても惹かれるのですが、


 「そのままでいいんだよ」と言われれば、誰でも安心できますよね。そのお気持ちは判る気がしますが、それはやはり、親鸞聖人が教えられた「そのまま」の弥陀の救いとは、天地雲泥の差があると思います。






☆☆☆☆☆☆☆






ぼくからのご返事
20.11.07
「吉本隆明と親鸞さん」






 前回コピペさせて貰った文章は、むろん別人28号なので多少の異議はありますけれども、ほぼ私ことeminusのものと見なしていただいてよいです。あれほど的確にまとめられぬからこそ引用させて頂いたわけで、そう考えると面映ゆいんですが、ともあれ文責はすべて引用者たるわたくしにあります。だからあの方が歎異抄を誤読しておられるとしたら、それは私が誤読しているわけですし、『最後の親鸞』という書物の主旨はあの方が要約しておられる通りだから、吉本隆明もまた歎異抄を誤読してたってことになります。


 それで、あの文章の肝(きも)は……ということはすなわち、「ぼく(eminus)がいちばん言いたかったことは」と換言しても構わないんですが……「《信》と《非―信》あるいは《不―信》とのあいだに横たわる懸隔」というところにあります。それは断崖絶壁にも比すべき懸隔ですね。深淵といってもいいかもしれない。


 『歎異抄をひらく』(1万年堂出版)については、これが初耳だったので、調べてみました。2008年の刊行ですね。12年経ってるわけですが、最大手の通販サイトでは「歎異抄」のカテゴリで「ベストセラー1位」となっています。吉本さんのより売れてるわけですね。あたりまえか(笑)。ほか、電子版も出ているし、アニメの原作にもなっているではないですか。親鸞聖人のCVは石坂浩二さん、唯円が増田俊樹さん、キャストには、細谷佳正、三木眞一郎さんら実力派の名も見えますね。


 著者の高森顕徹さんは、ウィキペディアによれば、ご自身の会派を立ち上げて、のちに浄土真宗本願寺派の僧籍を離脱した……とあります。あくまでもぼくの感想ですが、ともすれば通俗的な解釈に流されがちな親鸞さんの教えを、できるかぎり純化して世に伝える……ことに精力を傾けておられるようにお見受けしました。いずれにせよ、《信》と《非―信》あるいは《不―信》との対比でいえば、《信》の側におられることは間違いありません。


 吉本さんは、《非―信》の側にいるんです。ぼくももちろんそうです。でも、《信》の側に心惹かれてもいるわけです。というのも、それを或いはカントに倣って「超越」と呼んでもいいし、バタイユに倣って「聖なるもの」と呼んでもいいし、たんにあっさり「宗教」と呼んでもいいんだけれど、とにかく人間の精神の活動にまつわるさまざまなもの……哲学にせよ思想にせよ、文学にせよ芸術にせよ、さらには倫理にせよ法にせよ、もっというなら政治や経済に至るまで……それらすべてが根源のところで「そちら側」から来てるんだぜってことをひしひしと感じてるからですね。


 吉本さんはつまり、「親鸞さんは大衆のためにぎりぎりまで宗教を解体した。」といった内容のことを述べてるわけだから、それはもう、まっとうな信徒の方からは叱られて当然なんですけども、ぼくみたく、「けっして自ら断崖絶壁ないしは深淵を跳び超えて《信》のサイドへ行くことはできないけれど、どうしてもそちらの側に心を惹かれて、聖書を読んだりクルアーン(コーラン、というよりこちらのほうが正確らしいです)を読んだり法華経を読んだり神道の本を読んだり歎異抄を読んだりしている俗物」としては、自分と親鸞さんとを結びつけるうえで、吉本さんのことばがものすごくしっくり来るぞってところはあるわけです。


 何本か前の記事で名前を出した哲学者の三木清はほんとにアタマのいい人で、これほどの人材を意味なく獄死させたってだけでも戦中の官憲は言語道断なんですが、結果として遺稿になってしまった「親鸞」というエッセイで、的確なことをいろいろ言っております。「親鸞が仏教を人間味あふれるものにしたのは確かだが、だからといって親鸞を文芸的なり美的に捉えてわかったつもりになってはいけない。」とか、「親鸞の文章には到るところ懺悔がある。同時にそこには到るところ讃歌がある。懺悔と讃歌と、讃歌と懺悔と、つねに相応じている。」とか、「破戒と無戒とは違う。」とか、肯綮に当たることをきっちりと書き残していますね。


 ぼくだって、親鸞が比叡山で修行と勉学を積んだ偉い人だってことは承知してるんですよね。凡夫にまがう煩悩を言行録に留めてはいても、われわれの及びもつかぬ人格者だってことも承知してます。ぼくでさえわかってるんだから、吉本さんも重々わかってるでしょう。そのうえで、「親鸞さんは大衆のためにぎりぎりまで宗教を解体した。」といった内容のことを述べているわけです。そしてそれは、《非―信》あるいは《不―信》のサイドにいるぼくたちが、どのように《信》のサイドにかかわることができるのか。という巨大なテーマについての瑞々しいヒントを提示してくれてるように思うんですよ。



この記事の続き。
20.11.10 akiさんのコメントと、ぼくからのご返事。「親しみ。」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/f9d9ecd574d09d0c794dc2e5a97bb582